序
全ての人物名、固有名詞は現実のものと一切関係ありません。
また、ある映画へのオマージュのつもりですが、もはや原型をとどめておりません。
「魔嵐」という現象について正確なことは未だ分かっていない。
南の大国、ソルティアでは「印の宴」とも呼ばれているそれは、一種の災害であり、当時の民はそれを諦めをもって受け入れていた、というのは確かである。
ただ、その実際の現象ともなると、文献によって描写が全く違う。ある文献では、それは大量の魔物が湧き、それによってまるで嵐のように村や町が破壊されることを言う。またある文献では、個人の額に印が刻まれ、その個人を殺す為に竜が襲うことを言う。またある文献では、集団の自殺こそがそれだと言う。
近年の学説では、それらの文献は全て正しく、それぞれが「魔嵐」の現象の一部を書き伝えているだけではないのか、というのが定説となっている。
というのも、千年以上前、北の大国であるエイグルにおいて、王族の一人の額に印が刻まれ、国の総力をあげて「魔嵐」に立ち向かい、そうして敗北した経緯の書かれた資料が発見された為だ。その資料とは、「魔嵐」に立ち向かい、そうして生き残った部隊長の日記である。個人的な日記ではあったが、その部隊長の子孫である商人が、蔵の整理をしている途中に見つけ、そうして大学に届けられて公の資料となった。
それによると、「魔嵐」はまずある個人の額に印が刻まれることから始まるという。そうして、十日の猶予の後、どこからか湧き出した無数の魔物がその印の刻まれた者を襲うのだという。何処に逃げようと、隠れようと。
もちろん、襲ってくる魔物を倒すことはできる。一人で無理だが、例えば騎士団に守ってもらえば魔物の襲来を、少なくともある程度耐えることは可能だろう。
だが、印の刻まれた個人を殺せないとなると、湧き出した魔物はどんどんと強力なものになっていくのだという。下級の魔物から上級の魔物へ。そしてその流れは印の主が死なない限り止らず、最終的には魔物の最上級である竜が襲ってくることになるというのだ。
その部隊長は、竜によって国の精鋭一個師団が壊滅するのを見たのだという。そして、ついに印の刻まれた王族が殺されたとも。
この資料を基に、エイグル国立大学のトリツク教授はこのような仮説と立てた。
すなわち、「魔嵐」とは印の刻まれたものが十日の猶予の後に無数の魔物に殺される、逃れようのないものであり、その印の主が村や町にいたならば、その村や町が壊滅する。一人でいるならば、一人の死で済む。あるいは、印の主が自らを死を選ぶこともあるだろう。どちらにしろ死ぬならば、魔物の襲来などない方がいい。家族や恋人に印が刻まれたのならば、悲観して一緒に死ぬ者もでるかもしれない。
つまり、これまでの資料は全て正しい事実の一面を映し出していたのだと。
では、何故、これまでの資料はどれも「魔嵐」の正しい全体像を言い伝えていないのか。
トリツク教授は、それを罪悪感、あるいは忌まわしさによるものではないかと推論している。
家族、村、町、あるいは国は、結局のところ印の刻まれた者を見捨てるしかない。日記の例のように王族に印が刻まれたのでもなければ、国の総力を挙げて守ろうなどとしないだろう。いや、国の総力を挙げてすら守れなかったのだ。もはや、どうしようもない。
ならば、せめて被害を少なくする為、一人で死んでもらう外ない。おそらく印の主は追い出され、あるいは死を選ばされ、もしくは――殺されたのかもしれない。
その罪悪感、後ろめたさから、ほとんどの資料は断片的なもの、あるいは曖昧なものになったのではないか。これが教授の推論である。
読者諸君も知っているように、既に「魔嵐」という現象は存在していない。およそ五百年前からぷっつりとその現象は起こらなくなった。資料が乏しいことと併せて、「魔嵐」自体が御伽噺だとする学者まで出てきている。それも無理のないところだろう。五百年前に何があり「魔嵐」は消えたのか、結局のところ「魔嵐」とは何だったのか、一切明らかになっていないのだから。
「魔嵐」の消失には諸説がある。
まず、悪名高い大魔道士、フタグンが原理を解明し、その力を自らのものにしてしまったがゆえに消えてしまったのではないかという説。これは、知識の為に悪魔に魂を売ったとさえ噂されるフタグンが活動していた時期と「魔嵐」が消失したと思われる時期が重なっていること、彼が残した研究資料から、「魔嵐」に興味を抱いていたのが分かる為だ。
あるいは、エイグルの聖騎士が「魔嵐」を駆逐したという説。これはいくつかの「魔嵐」を語る資料に聖騎士との関連が噂されている為だ。
馬鹿馬鹿しい説であるが、さすらいの冒険者が「魔嵐」と戦って勝ったという説、傭兵が印の主を救ったという説、あるいは巨大な魔獣が「魔嵐」を食らったという説すらある。どれも小さな村に伝わる伝承やとある家系の口伝がその根拠となっている。
東の小国、輪の当時最強の剣士、剣聖アリュウが「魔嵐」を斬り伏せたという説もある。これはアリュウの回想録に、「魔嵐、刀により斬り殺せるとは、驚きの一言」という一節がある為だ。
そうして、お決まりの、名前も分からない若者が「魔嵐」を倒したという説。これは、世界各地にある英雄譚、勇者の御伽噺を元にした説だ。
しかしながら、どの説も信憑性は薄いとしか言えないだろう。
「魔嵐」はエイグルの精鋭一個師団が抗い、そうして敗れた現象である。これに戦う為には多大な戦力が必要になる。多くの兵士が動く為には金が動く。「魔嵐」というとてつもない災厄に立ち向かうに際して逃亡兵も出るだろう。
つまり、人の手によって「魔嵐」が消し去られたとするなら、何がしかの理由により情報が隠蔽されたとしても、大量の金の動き、人の動き、そうして逃亡兵から伝わる雑多な情報が、五百年後の今も伝わっていてしかるべきだ。
しかしながら、今をもって、五百年前に「魔嵐」に絡んでそのような大きな何かが起こったという資料は見つかっていない。
以上のことにより、「魔嵐」が五百年前に消失にしたのに、人の手は関係ないのではないかというのが定説となっている。
理不尽に人の命を奪っていた現象は、理不尽に消えたのである。
――ルガル・ル著 「消失した伝説の行方」より抜粋