沈黙の街
あらすじ
ある夜、部屋の天井から不気味な水音が響き始め、やがて無数の赤ん坊の泣き声と手が千尋を襲います。
数週間後、何事もなかったかのように綺麗になったその部屋は、天井に微かなシミを残したまま、再び「即入居可」として不動産屋のサイトに掲載されるのでした。
第一章 沈黙の街、菊水
その部屋は、どこにでもある平凡なワンルームだった。
玄関を開けると短い廊下があり、脇に狭いユニットバス。奥に進めば六畳ほどの洋室と、ベランダに続く引き違いのサッシがある。築十年ほどのマンションの二階、真ん中の部屋。
佐藤千尋がこの「菊水」という街に越してきてから、まだ三週間も経っていなかった。
22歳。表参道の路地裏にある美容室でアシスタントとして働き始めて三年目になる。毎日、朝から晩までカットの練習とスタイリストのサポートに追われ、帰宅する頃には足が棒のようになっていた。家賃の安さと、地下鉄の駅から徒歩三分という利便性だけで選んだ部屋だった。周辺の家賃相場と比べても特別安いわけではなく、ごく適正な価格設定だと思えた。
だが、暮らし始めてしばらくすると、ほんの少しだけ違和感を覚えるようになった。
「……静かすぎるんだよね」
ある日の休日、部屋の掃除をしながら千尋は呟いた。
地下鉄の駅周辺にはそれなりに人が歩いているし、コンビニだってある。けして過疎化した地方都市というわけではない。それなのに、マンションの周辺に足を踏み入れやすくなると、途端に街から「生活の匂い」が消えるのだ。
家族連れを見かけた記憶がない。近くに小学校があるはずなのだが、登下校する子供たちのランドセルの色を見たことも、無邪気な歓声を聞いたこともなかった。行き交うのは、どこか影のある単身者ばかり。
そして何より、このマンション自体が不気味なほど静かだった。
千尋の部屋の左右、そして真下の階にも入居者がいるはずだった。引っ越し当日に挨拶回りをしようとしたが、どの部屋のチャイムを鳴らしても返事はなかった。夜になれば窓に明かりが灯るため、人が住んでいるのは間違いない。しかし、足音も、テレビの音も、壁を隔てて聞こえてくるはずの微かな生活音が一切しないのだ。
(まあ、騒音トラブルがないだけマシか……)
千尋はそう自分に言い聞かせ、ベランダのカーテンを開けた。
しかし、室内が劇的に明るくなることはない。マンションのすぐ脇に立っている大きな、種類もわからない雑木が、うっそうと葉を茂らせて太陽の光を頑なに遮っているからだ。昼間であっても、部屋の中にはどこか湿り気を帯びた薄暗闇が澱んでいた。
「菊水、か……」
スマートフォンの画面を見つめながら、千尋はぼんやりと思う。
どうして「菊水」なんて風雅な名前がついているのか、考えたこともなかった。仮に検索したとしても、市の公式ホームページには「明治から昭和初期にかけて整備された街であるが、菊水の名の由来については諸説あり定かではない」としか記載されていないことを、彼女は知らない。
この街が、かつてどのような場所だったのか。
色街として栄え、華やかな着物を纏った女たちが格子戸の向こうで客を待ち、そしてその裏で、人知れず多くの命が生まれ、そして消えていった場所であったこと。昭和の半ばまで、このマンションが建つすぐ隣の土地に、人目を忍ぶような小さな産婦人科医院が存在していたこと。
何も知らない千尋は、ただ重い溜め息をつき、散らかった髪の毛を粘着ローラーで転がし始めた。
不吉な兆候は、その日の夜から始まり出した。
第二章 滴る音
『トゥプン……。トゥプン……。トゥプン……』
夜の十二時を過ぎた頃だった。翌日の出勤に備えてベッドに入り、うとうとと微睡みかけていた千尋は、耳元で響いた音に目を開けた。
「……え?」
洗面台の蛇口を締め忘れただろうか。そう思って体を起こすが、音はユニットバスから聞こえているわけではなかった。
『トゥプン……。トゥプン……』
それは、部屋の「真ん中」から聞こえていた。
まるで、天井の真ん中に目に見えない大きな水たまりがあり、そこから重たい水滴が床に向かって落ちているかのような、深く重厚な水音。
千尋はベッドから起き上がり、部屋の蛍光灯を点けた。パッと明るくなった室内に、水滴など一滴も落ちていない。フローリングの床は乾ききっている。
「気のせい……よね」
そう呟いた瞬間だった。
コトン。
棚の上に置いてあった、愛用のヘアワックスのケースが落ちた。
揺れなどない。地震でもない。風も吹いていない。ただ、何かに押し出されたかのように、すっと滑り落ちてフローリングの上を転がったのだ。
「ひっ……!」
千尋は短い悲鳴を上げて身をすくめた。
背筋を冷たい汗が吹き抜ける。心臓が痛いほど脈打ち始める。
気のせいじゃない。何かがおかしい。
それからだった。部屋の中のあちこちで、不可解な現象が頻発するようになった。
棚に飾っていた小さな観葉植物の鉢が、千尋の目の前でぽろりと落ちる。 締め切ったはずの窓辺で、遮光カーテンの裾が、まるで誰かが下から吹き上げているかのように不自然にゆらりと揺れる。
そして、あの音だ。
はじめは規則正しかった水音が、次第に変質していった。
『トッウトッ……。トッウトッ……。トッウトッ……』
不規則な、焦りを含んだような滴下音。
それは水というよりも、もっと粘り気のある……重たい液体が、天井のクロスを浸透し、ポタリ、ポタリと落ちてくるような音だった。
(なにかがある。この部屋、絶対に何かいる)
千尋は恐怖で正気を保つのが難しくなっていた。そういえば、引っ越してきてから気づいたのだが、このマンションはゴミ集積場に出されるゴミの量に対して、住民の姿を見かけなさすぎる。そして、掲示板には頻繁に「退去のお知らせ」や「清掃作業のご案内」が貼り出されていた。
みんな、逃げ出しているのだ。この部屋から、このマンションから。
ある夜、千尋は恐怖のあまり部屋の電気をすべて消すことができず、豆電球だけを点けてベッドの中で丸くなっていた。耳を塞いでも、あの不気味な音が頭の中に直接響いてくる。
『トッウトッ……。トゥプン……。トッウトッ……』
その時、遠くから、澄んだ音が聞こえてきた。
『カン……カン……』
木と木がぶつかり合う音。拍子木の音だ。
夜回りだろうか? いや、こんな深夜に?
拍子木の音に混じって、かすかに、本当にかすかに風鈴の涼やかな音が『チリン……』と鳴った。
真冬でも真夏でもない、ただ湿気だけが不気味に満ちたこの部屋で、なぜ風鈴の音がするのか。
千尋は布団をかぶり、固く目を閉じた。呼吸を殺し、朝が来るのをひたすら祈った。
しかし、災厄はそれだけでは終わらなかった。
風鈴の音のすぐ後、耳を刺すような高音が、部屋の隅から聞こえてきたのだ。
『……あー……うー……』
『ぎゃあ……あっ……ぎゃあああああ……!』
赤ちゃんの泣き声だった。
生まれたばかりの、まだ目も満足に開いていないであろう赤ん坊が、火がついたように泣叫ぶ声。
それも一人ではない。二人、三人……十人……。
無数の赤ん坊の泣き声が、重なり合い、こだまし、六畳のワンルームを満たしていく。壁から、天井から、床下から、まるで部屋全体が巨大な子宮であるかのように、赤ん坊の悲鳴が押し寄せてくる。
「いや……嫌あぁぁぁっ!!」
千尋は耳を強く塞ぎ、喉が引き千切れるほどの悲鳴を上げた。
第三章 堕ちるもの
翌日、千尋は店を休んだ。体調不良と偽ったが、鏡に映った自分の顔は、とてもまともに出勤できる状態ではなかった。目の下には酷いクマが刻まれ、肌は土気色に変色している。
逃げ出さなければならない。今すぐにでも、荷物をまとめてこの部屋を出て行くべきだ。
しかし、違約金や次の部屋の初期費用を考えると、美容師アシスタントの少ない手取りでは、今すぐ引っ越すことなど不可能だった。実家に頼ろうにも、親とは上京を巡って折り合いが悪く、頼ることはできない。
手詰まりだった。
千尋は震える手でスマートフォンを操作し、「マンション 怪異 水音」「部屋 赤ちゃんの泣き声」と検索しようとした。
だが、検索ボタンを押そうとした瞬間。
『トッ……』
画面の上に、天井から一滴の「何か」が落ちてきた。
水ではなかった。
それは、黒ずんだ、腐臭を放つ赤褐色の血の塊だった。
スマートフォンが手から滑り落ち、床に転がる。
「ひっ……あ、あああ……っ!」
千尋が見上げると、そこには衝撃的な光景が広がっていた。
普段は何の特徴もない、白い壁紙が貼られただけの天井。その中央が、まるで湿った紙のようにぶよぶよと波打ち、黒く変色していたのだ。
そこから、滴り落ちている。
黒い血が。不気味な粘液が。
『トッウトッ……。トッウトッ……』
床に落ちた血のしずくは、フローリングに吸い込まれることなく、じわじわと広がり、小さな溜まりを作っていく。
そして、その血の溜まりの中から、何かが蠢き(うごめき)ながら浮かび上がってきた。
それは、人間の指だった。
小さく、小さく、細い、生まれたばかりの赤ん坊の、皮膚がドロドロに溶けた指。
それが一本、二本、三本……血の池から生えてきて、空気を掴むように虚空を掻きむしる。
「あぐ……あ……」
千尋は喉を鳴らすことしかできなかった。腰が抜け、壁に背中を打ち付ける。
逃げられない。足が動かない。
『カン……カン……』
まただ。遠くから拍子木の音が聞こえる。
それは夜回りなどではない。昔、廓の門を閉める合図の音。女たちを閉じ込め、逃がさないための合図。
『チリン……』
風鈴の音が鳴る。
格子戸の向こうで、着物を着た顔のない女たちが、いっせいに千尋を見下ろしているような気配が部屋中に充満する。
(遊郭……?)
千尋の頭の中に、唐突にその言葉が浮かんだ。
なぜそんな言葉が浮かんだのかわからない。だが、この街「菊水」の地下深く眠っていた記憶が、怪異となって溢れ出しているのだと、本能が理解した。
ここは、買い叩かれた女たちが捨てられた場所だ。 そして、そのお腹の中に宿り、光を見ることなく殺された命たちが、投げ捨てられた場所だ。
隣にあった産婦人科医院。昭和の時代、人目に触れない路地裏で、どれほどの幼い命が「処置」され、この土に埋められたのか。
その怨嗟の溜まり場の上に、このマンションは建っている。
築十年。なぜ退去が多いのか。なぜ住人と会わないのか。
住人たちは去ったのではない。「呑み込まれた」のだ。この街の黒い歴史に。この部屋の天井の闇に。
『ぎゃああああああああっ!!』
部屋の壁という壁から、天井から、床から、無数の赤ん坊の手が突き出してきた。
黒く爛れた手が、千尋に向かって一斉に伸びてくる。
カーテンが激しく狂ったように揺れ、棚の上の小物が一斉に床に叩きつけられた。バリン、バリンとガラスが割れる音が響く。
「嫌! 来ないで! 助けて! 誰か助けてっ!!」
千尋は爪が剥がれるほど強く床を掻きながら、廊下に向かって這い進もうとした。
玄関のドアノブが見える。あそこまで行けば、外に出られる。
しかし。
ドスン!
天井から、何かが大量に落ちてきた。
それは、髪の長い、着物を崩した女の胴体だった。首から上がない。首の切断面からは、黒い血が滝のように溢れ出し、千尋の足元を濡らしていく。
女の胴体が、ずるりと這い上がり、千尋の足首を掴んだ。
氷よりも冷たい、死人の手。
「いやあぁぁぁぁぁっ!!」
足首を脱糞しそうなほどの力で掴まれ、部屋の奥へと引きずり戻される。
『トゥプン……。トゥプン……』
天井の黒い穴が、巨大な口のように開いていた。
そこからは、絶望的なほど深い闇と、無数の赤ん坊の顔が見えた。目がなく、口だけが大きく開いた赤ん坊たちの顔が、千尋を見下ろして嘲笑っている。
『お母さん……?』
『おいでよ……』
『かえして……かえして……』
声にならない声が、頭の中に直接なだれ込んでくる。
千尋は腕を伸ばし、柱を掴もうとしたが、爪が虚しく滑った。
ズル……ズルズル……。
女の胴体に引きずられ、千尋の身体は持ち上げられていく。
足から、腰から、そして胸までが、天井のぶよぶよとした黒い穴の中に吸い込まれていく。
「嫌……やめて……私は関係ない……私は何も知らない……っ!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、千尋は叫んだ。
だが、闇は容赦しなかった。
知らなかったからといって、許されるわけがないのだ。この街に足を踏み入れ、この土の上に住まうと決めた時点で、彼女もまた、この街の過去と引き換えに命を支払う存在になったのだから。
『チリン……』
最後に、風鈴の音が優しく鳴った。
『カン……』
拍子木が打ち鳴らされ、門が閉じる。
「あっ――」
千尋の頭までが、天井の黒い穴に完全に呑み込まれた。
バタン。
静寂が戻った。
部屋の中には、落ちた観葉植物の鉢も、割れたガラスも、黒い血の溜まりも、一切残っていなかった。
ただ、昼間だというのに日当たりの悪い、薄暗い六畳のワンルームがあるだけだ。
窓の外では、うっそうと生い茂る雑木の葉が、風もないのにサワサワと揺れている。
『トッ……』
乾いたフローリングの上に、一滴だけ、透明な水滴が落ちた。
数週間後。
不動産屋のホームページには、菊水地区にある築十年のマンションの部屋が、一枚の画像と共に掲載されていた。
『2階中央部屋 ワンルーム 即入居可 家賃:相場通り』
部屋の写真には、特に特徴も無く、悪い所も無い、凡庸な室内が写っている。
ただ、写真の中央――天井の真ん中にだけ、光の加減か、かすかなシミのようなものが丸く浮かび上がっていたが、それに気づく者は誰もいなかった。




