How many ヤな顔
不機嫌そうな顔が並んでいた。不機嫌を通り越して、怒りの表情を浮かべている者もいる。悲しみに曇る顔、苦痛に歪む顔……次はどの顔で嘆くのかい? 訊くわけにはいかないが、そんな質問が納見の頭に浮かんだ。
お通夜のようとはよくいったものだが、お通夜で飲むビールのほうがよほどカラリとして旨いはずだ。スコアボードを見上げる。左上隅には、見慣れない『9』という数字が刻まれていた。
猛攻は四十分間に及んだ。その間、レフトスタンドを埋め尽くす黒い集団は歌い続けた。美咲は魔曲がどうのといっていたが、高校野球じゃあるまいし、プロにそんなものは通用しない。急遽登板した二番手の肩が出来上がっていなかったということだ。
「んもう、最悪! やってらんない!」そういって美咲は頭を抱えた。髪をつかんだ手が、力を失って滑り落ちる。ほどけた指の間から白い頰がのぞいた。
悲嘆にくれる美咲を横目に、納見はどこかほっとしていた。残念だとは思っている。しかし白熱した展開が続くうちはゆっくりくつろげない。どちらに転ぶにせよ、試合が決まってからが大人の時間だ。例えるなら、お花見の二次会はしっとりとしたバーか居酒屋。そんな二段構えが外野席の魅力でもあった。もっとも桜の散るのが早すぎではあったが……。
「よーし。逆転すっぞ!」
聞き慣れた声がした。そちらに目を向ける。野口が手を叩きながら、威勢よく周囲に呼びかけていた。
「これから! これから!」といいながら野口は、通路側に座る美咲の膝をまたいで席につこうとした。
「これからじゃねえ!!」美咲が叫んだ。「来るな! 一生向こうで歌ってろ!」
美咲は立ち上がって野口を押し返した。
「ちょ……待てよ。これからなんだって」
野口は持っていたビニール袋を美咲に渡そうとした。中身は見えないが、彼女の好きなチョコやアイスが詰まっているのだろう。機嫌をとろうとするあたり、まずいことになったと気づいてはいたらしい。
納見は二人を放っておいて、マウンド上の投手に視線を移した。対戦相手の先発は佐木。高卒一年目のルーキーは、すでにリーグ単独トップの12勝を挙げていた。
去年の夏の高校野球、佐木は南国の新星、糸満国際を優勝に導き脚光を浴びた。卒業後の進路に注目が集まったが、プロ入りを表明したことで入団交渉が殺到した。プロ最初のシーズン、話題の新戦力は160キロを超えるストレートを武器に、タイトルを総なめにする勢いでここまできている。
つまりは投手戦以外勝ち目はなかったということだ。だからこちらもエースを先発させた。だが結果は初回9失点の大誤算。今日敗れてゲーム差が開けば、逆転は難しくなる。どうやら今年も優勝はお預けとなりそうだ。
「野口さーん」
若い女の声がした。この甘えるような声を何度となく聞いてきた。固定客を目ざとく見つけるのが彼女たちの仕事術だ。声のしたほうを見ると、セナが満面の笑顔でスタンドを駆け上がってきた。
「もー、遅かったじゃないですかー」そういいながら、セナは紙コップにノズルの先を突っ込んだ。
「セナちゃんそれ……」美咲がいった。「あたしがもらうから」
セナは言葉を切った。そして場の空気を測るように、視線だけを動かした。
「何かあったんですか?」
「こいつに飲ませるビールはない」
野口は何もいわなかった。背中を丸めてしょんぼり座っている。
セナはそれ以上は訊かず、こちらを見てきた。「納見さんは、飲みますか?」
「ああ、もらうよ」そういって千円札を出した。
ふと視界の端で、赤いものがひらりと動いた。真っ赤なシャツを着た男が、スタンド中腹の通路で観客に何か訴えかけている。応援団員による応援のお願いのようだ。
いやいや——もういいじゃないですか。今日はおしまい、そして今シーズンもこれまで。せっかくの空気を引き締めないでくれ。冷めて固くなりかけたピザを、納見は折り曲げて口に入れた。
注がれたばかりのビールを喉に流し込む。苦みが体の奥へと落ちていく。若きエースのピッチングを堪能しながら、存分に飲もう。遠く視線を向けると、佐木が大きく振りかぶっていた。ちょうど一球目を投げるところだった。




