ビールいかがっスか?
列車が到着するごとに、改札口から人があふれだす。数えてはいないが五本目くらいか。納見奏は改札の外、利用客の動線を避けたスペースで人を待っていた。
我先にと駆けて行った一団の背中が小さくなっていく。あたりはにわかに騒がしい。彼らのお目当てはプロ野球のナイトゲーム、首位攻防の天王山だ。
ポケットの中でスマホが震えた。メールを開くと、遅れるから先に行ってくれとのこと。ならもっと早くに頼むよ、と思いながら、納見は歩きだした。
ゲート前は人でごった返していた。列に加わり、ゆっくり前に進んでいく。先頭までくると、手荷物検査でカバンを開いた。形だけの確認が済み、どうぞと促されゲートを抜けた。
売店でビールと枝豆、やきとりを買った。通路からスタンドに出ると、応援団の演奏が膨れ上がって耳に届いた。試合はすでに始まっていた。
急勾配の階段を上る。チケットは完売していたが、平日の試合開始直後は空席が目立つ。納見は足元の座席番号を頼りに進んだ。
通路側、連番。よく確保できたものだと納見は感心した。座席に腰を下ろし、隣の席につまみとカバンを置いた。
グラウンドに目をやると、ランナーが二塁に出ていた。バックネット裏の上方に、アウトカウントを示す赤いランプが一つ灯っている。一回表、一死二塁。初回から試合が動こうとしていた。
バックスクリーンを挟んで向こう側、レフトスタンドが揺れていた。大勢の観客が立ち上がり、ラジオ体操のように腕を前から上にあげた。チャンステーマが流れるのだ。その様子を眺めながら、納見はビールを喉に流し込んだ。
トランペットが鳴り響いた。レフト側の観客が雄叫びをあげる。ひとしきり叫んだあと、彼らはコーラスを歌い始めた。凄まじい大音量が、この試合の重みを表していた。
納見は枝豆をつまんだ。どちらのファンでもないから高みの見物だ。月に一度の定時上がり。球場で飲む生ビールを楽しみにしていた。
遅れてやって来る友人は、この球場を本拠地とするチームのファンだ。だから今のうちにのんびりしておきたい。ビールに口をつけようとしたその時、球場全体から大きな歓声が上がった。
バッターが打ったのだ。納見はミートの瞬間を見逃した。選手の動きを目で追う。二塁ランナーは全力疾走。センターが前進する。その前方で、低く鋭い打球がバウンドした。絶叫と悲鳴がスタンドを震わせたが、ランナーが三塁に止まるとすぐに収まった。
マウンドに内野手が集まった。普段なら演奏をやめそうなレフトの応援団も今日は違った。プレーは止まったまま、大合唱は続いている。試合が始まって十五分ほどで、球場はとんでもない雰囲気に包まれていた。
納見はやきとりを口に運んだ。前歯で噛んで串を引くと、口の中で身が外れた。それを飲み込んでから、紙コップをぐいと傾けた。とりモモの肉汁と濃厚なタレの後味をビールで洗い流した。
ブブブ……
スマホが枝豆の横で震えた。メールが来ている。見ると、「つまみは何にした?」とあった。友人からだった。あいつのことだ、待たせたからと買い込んでくるのだろう。納見は「枝豆とやきとり」と打ち、スタンプを添えて送信した。
友人の名前は野口といった。彼とはもう五年以上の付き合いになる。知り合ったのはこの野球場だ。どこのファンでもないという納見を、常連の野口はすんなり受け入れた。
後で思い知るが、これは結構珍しいことだった。熱心な常連ほどこだわりが強い。それは憎しみとなって、『にわか』の客や敵ファンに向けられる。行き過ぎたチーム愛がぶつかり合うのがスタジアムだ。ここで生まれる人間ドラマは時に絆を育み、時に警察を呼ぶ。
グラウンドに目を向けた。内野手がマウンドを離れ、定位置へと散っていった。プレーが再開する。この間、チャンステーマは途切れることなく続いた。正確なリズムに乗った旋律は、飲食店のBGMのように空間に馴染んだ。
一死一、三塁。四番打者が右打席に入った。左対右の対決。その初球だった。投手のモーションと同時に一塁ランナーがスタートを切った。わあっと歓声が上がる中、バッテリーはこれを無視した。外角低めにわずかに外れる。これで一塁が空いた。
これはどうなんだ、と納見は思った。次打者は左。左投手にとって、右の四番より抑えやすいはずだ。一塁が空いて、ボールが先行している。申告敬遠もあるんじゃないか。するとウグイス嬢の場内アナウンスが聞こえてきた。
「ただいま、申告敬遠がありましたので——」
スタンドがざわついた。ほっとする声、がっかりする声が混じり合う。だがブーイングや指笛は聞こえなかった。いつもなら雑音を撒き散らす彼らも、今は歌い続けている。それだけ必死なのだ。だが納見は、そんな彼らをずっと理解できないでいた。
あの日、野球場にふらりと足を運んだのはただの偶然だった。いつになく仕事が早く片付いた。普段は雑務を押し付けてくる上司も、同僚も、その日は何も言ってこなかった。当時はめったになかった定時上がりに胸が弾んだ。
意気揚々と退社したが、これといってすることはなかった。真っ直ぐ帰る気にもなれず、そのまま駅を通り過ぎた。
あるのは時間だけだった。仕事に疲れ、友人関係も希薄になり、新しい出会いもなかった。現実を思い知らされた。あくせく働く日々の先には何もなかった。
しばらく歩くと、遠くからどよめきが聞こえてきた。なんとなくそちらに向かって歩いていくと、暗くなりかけた空の一角を真っ白な光が染め上げていた。
気づけばチケットを握りしめ、足を踏み入れていた。ナイター照明に輝く緑色の人工芝が眩しかった。ビールの味が格別だった。周りの客を真似て、二杯目は売り子から買ってみた。野球のルールなら問題ない。何もなかった自分に、やることができた瞬間だった。
それ以来納見は、たびたび球場に足を運ぶようになった。試合がある日は早めに残業を切り上げ、喧騒の中で晩酌を楽しんだ。時には周囲に合わせ、点が入れば笑顔を作り、失点すれば残念がったりもした。だがどれだけ顔見知りが増え、仲間になり、友人と呼べるような間柄になっても、彼らのように心からチームの勝利を願う気持ちにはなれなかった。
打者が一塁に歩いた。これですべての塁が埋まった。プレーの再開を待っていると、後ろから肩を叩かれた。振り向くと、若い女性が立っていた。野口の妹、美咲だった。
「お兄ちゃんは向こうの立ち見」彼女はそういって、空いている椅子に視線をやった。「座っていい?」
もちろん、といって納見は荷物をどけようとした。
「奥、行って」
納見は押しのけられるようにして、通路側の席を明け渡した。
「お兄、また裏切りかよ」美咲がいった。
「あの中にいるんだろ。すごいよな」
レフトスタンドは、チームカラーの黒一色に染まっていた。歌声はまだ一度も途切れていない。自分には無理だと納見は思った。
「はあ? 歌いたいだけじゃん」
美咲は大きな目を真っ直ぐに向けてきた。すっきりした小鼻はわずかに膨らんでいる。
「あたしはね」と彼女は続けた。「怒ってるんじゃないの。だけど去年の一番大事な試合もそうだったよね」
「優勝を決められた試合だったね」
「勝てばまだわからなかったのに、なんで歌いに行くかな。文句いいに行ったら、『大丈夫だ。魂はライトスタンドに置いてきたから問題ない』って。それで負けてたら世話ないし」
話を続けたまま、美咲はビニール袋を差し出してきた。ピザ、たこ焼き、焼きそばが入っていた。野口が妹に持たせた陣中見舞だ。
「あー思い出したらイライラする」美咲は小さく頭を振った。栗色の髪が揺れる。「胴上げされてる時も、ずっと向こうのファンと肩組んでた。ありえないでしょ」
納見はどう答えていいかわからず黙り込んだ。苦手な話だった。自分の生活とは関係ない勝ち負けに、どうしてここまで熱くなれるのか。だがそれを口に出せば、すべてが終わってしまうような気がしていた。
「ビールいかがですか?」
突然正面から声をかけられ、顔を上げた。なじみの売り子が立っていた。全身蛍光色のユニフォームは、スカートがどきりとするほど短い。帽子には白い造花があしらわれていた。
「あっ、セナちゃん」美咲が先に反応した。
「美咲さーん」セナは甘えた声を出した。「今日は絶対勝ちましょうね。じゃあ、お二つ注いじゃっていいですか?」
そういいながら、セナは紙コップを二つ取り出していた。返事を待たずに彼女はノズルを握った。コップがビールで満たされていく。
「いきなり大ピンチですね」
セナは声を落とし、不安そうな表情を作った。ぱっちりとした二重まぶたの上で眉を寄せたが、眉間にしわはできない。これが若さか。
「セナちゃん、今年で卒業だよね」美咲がいった。
「そうなんですよー。最後に優勝見たいです。納見さん、ちゃんと応援してくださいよ」
セナがこちらを見ていった。美咲も首を回し、視線を向けてきた。猫のような目が、ひときわ見開かれている。
「そうよ。応援しなさいよ」
そういって、美咲が指を差してきた。それを見たセナも、悪戯っぽくノズルを突きつけてきた。ホールドアップ——いう通りにしないと撃つぞ、という仕草だ。
「してるよ。してる」納見は小さく両手を上げた。
「してない!」美咲が苛立ちを含んだ声でいった。「あんたねえ、お地蔵さんじゃないんだから。じっとしてないで今日くらいがんばりなさいよ」
自分がいくらがんばったところで、試合には何の影響もないはずだと納見は思った。だがこれも口にするべきではない。ここにいる人たちを全否定することになる。
「わかったわかった。何とかやってみるよ」
納見がいうと、セナは笑いながらビールを手渡してきた。『地蔵』がツボに入ったように見えた。
無茶な要求を飲まされたが、不思議と悪い気はしなかった。納見は財布を出した。セナは二杯目の泡を仕上げながら「二千円です」といった。美咲の手にもビールが渡った。
「またお願いしますね」去り際にセナは小さくお辞儀をした。
階段を下って行く背中を見送って、納見と美咲は乾杯した。その時だった。どっと割れるような歓声が上がった。聞いたことのない大音量だった。
見上げると、夜空に舞い上がった白球が、照明を浴びて静かに浮かんでいた。




