南国妖怪と少年
移動が面倒だからやらないけど、俺は今でも多分、予習なしの一発勝負で「妖怪検定」は余裕でクリアできるんじゃないだろうか。
それほど妖怪に傾倒していたのが小学二年くらいで、恐らくその前の世代でも怪獣博士呼ばわりされる小学生が大勢いたように、妖怪博士呼ばわりされていた時期もある。
水木作品に登場する、日本の妖怪が鳥山石燕の創作をベースにしていることも知っていたし、水木プロが所在し、実写の妖怪映画シリーズを作った大映のスタジオがある調布に住んでいたのだから、自然な流れだった。
そして同じ時期、みんなはジャッキーやブルース・リーからなんだろうが、「Mr.BOO!」を入口に、香港映画にも傾倒していく。
特定のものへの傾倒は、クラス内の立ち位置をある程度固める。
二次元アニメ表現は仕掛けが分かってしまってからは冷め、人形アニメ(ストップモーションアニメ、クレイアニメも含む)に異様に惹かれた。
ともかく、一目置かれる存在ではいられたようだ。
とはいえ、その流れが決定的に断ち切られる。
親の事情で社宅を引っ越すことになり、より父親の職場に近い渋谷区に転校となってしまったのだ。
適応には苦労したが、兄弟別々の部屋が与えられ、調布の社宅では既に手狭になっていたこともある。
誕生会の様なもので、新しい友人を招待することもできるような、面積的な余裕が、新しい社宅にはあった。
映画好きの友人もできて、映画館も足を延ばせばふんだんにあり、校則で映画館の出入りは禁止されていたが、そんなものは無視、傾倒は映画全体へと広がった。
漫画の興味も幅広くなり、妖怪に限らず、藤子不二雄作品、とりわけ書店で気になった「魔太郎がくる!」を読み耽り、学校に持って行き、それがクラス内でブームとなってしまった。
それが「妖怪に詳しい」はずの俺のイメージに対して、誤解を与えてしまったようだ。
妖怪は怖くなかったが、読者を怖がらせるのを目的に書かれた恐怖漫画は、書店でも棚を避けて歩くほど苦手で、黒い背表紙を目にするのも怖かった。
小学四年のことである。
俺は誕生日の度に、中村屋のカレー缶詰を食べさせてもらうのを楽しみにしていたが、その年は違った。
暖かく受け入れてくれた友人を、数人招いて誕生会を行ったのである。
招待した友人(最も「分かってる奴」)に、「少林寺(決定版)」のミニ写真集付きノベライズを頂戴した。
主役のリー・リンチェイ(当然後のジェット・リー)は、当時完全にアイドルであり、この本も少女向けレーベルであるところの、コバルト文庫から出ていた一冊で、ありがたく頂戴し、今も大切に持っている。
ちなみに、この友人は現在、横浜・上大岡にて名店の誉れ高い、「広東名菜 福鼓樓(このお店には『ジャッキーの椅子』がある!)」のオーナーシェフとして後年再会し、お礼をさせて頂いた。
以上宣伝。
話を戻そう、彼が超ストライクを放ってくれたが故に、以降、現在に至る余命があると言っても過言ではないのだが、結局水木作品、とりわけ妖怪ものが好き、妖怪が好き、というキャラは結局確立できなかった(らしい)。
故に、俺にとって妖怪は全く怖いものではなかったのだが、世間的には「妖怪=怖いもの」とのイメージが浸透しているらしく、仲良くしてくれた女子には、楳図かずお先生の「おろち」を二冊、頂戴してしまったのである。
絵の美麗さが、恐ろしいながらも拒否感を生まず、馴染もうとしていた土地の学童館で既に俺は、そこの蔵書として置かれていた豪華版の「蝶の墓/おそれ」、小学館のサンデーコミックス「漂流教室」を読んでおり、「猫目小僧」は、調布での幼稚園児の時代に、東京12チャンネルでの放映から視聴していたものの、恐怖で毎回最後まで見られない始末であった。
だが、作品の強烈なインパクトは尾を引き、妖怪好きの遠因ともなっている。
また、渋谷に引っ越してきて、サンデーコミックス版「猫目小僧」と「まことちゃん」をコンプリートしていた友人ができたのもあり、楳図先生へのハードルは下がっていた所で、以降激烈に楳図信者となっていく。
先日、小学校卒業後40年を機に開かれた同窓会では、「おろち」の彼女の出席を期待して、「わたしは真悟」のTシャツを着て行ったが、単に「怖いものが好き」と俺を誤解した彼女のセレクトであり、別に内容はランダムに選んでのものだったらしく、予想通り出席した彼女は「真悟」のことは知らず、恩返しは不発感が強かった。
まあ、全六巻なのにランダムにそこから二冊という時点で、贈る相手が喜びそうなものをチョイスしたなら、慧眼にもほどがあるが、妖怪とはズレながらも、内容は後の俺の人生をこれまた決定づけた。
うち、エピソードの「戦闘」の収録巻が含まれていたことが衝撃的であり、カニバリズムには「漂流教室」で耐性はついていたものの、リアリティに圧倒された(翌年、「食人族」のCMだけで恐怖に号泣し、後々長らく悩まされるとも知らずに)。
そしてもう一人、俺が適応に苦しんでいる時に、大変助けになってくれた友人も、包装から察して、それが本であることが窺えたが、開けてどんより。
「ショッキング劇場」と銘打つだけのことはある、ひばりコミックスの「蔵六の奇病」であった。
表紙のグログロなヴィジュアルショックに打たれ、その日の気分は帳消しになり、無論贈ってくれたのは嬉しいが、本屋で棚をも避けてきた、嫌悪の本丸が俺の好みと誤解されていたのである。
日野日出志先生の名前をはっきり認識するのもこの時で、調布に住んでいた頃から黒い背表紙の棚に近づかないようにしていた成果が、ここで遂に崩れた。
結局、四十年以上かけて現在はトラウマを克服するに至るが、未だに日野先生の本は所持する気になれず、自宅は現在も一室を漫画に占拠されている部屋があるというのに、一冊もない。
その作品意図や、作品に込められたメッセージ、作家性など、現在では十分に理解しているつもりだが、これは妖怪と全く関係ないし、絵柄がグロ過ぎた。
その友人には申し訳ないが、本に触るのも当時は嫌で、数か月部屋に放置していたが、意を決し、新聞紙にくるんで庭に埋めた。
以降、漫画どころではない強烈な宿命が、翌年夏に俺を狙って降ってきて、それから七年間は一種の虜囚となる。
学校も、人間関係も、自身の趣味も、全て放擲する、魂の闘い、絶え間ない精神的大地震が始まったのだが、それはいつか小説にする、と断言しながら十年ほど経過してしまった。
要するに、俺はただの「妖怪好き」というキャラは、調布に置いてきたようなもんだったのであった。
多分、今も妖怪としてそこにいる。




