小さな箱の中が世界の全てだったら
第1章:目覚め
男が最初に意識を持った時、それはぼんやりとした感覚から始まった。目を開けても、暗闇しか見えない。ただ、体にかかる重力と、柔らかな感触があるだけだった。生まれてすぐの赤ん坊として、彼の脳はまだ外界を認識することができなかった。彼の体が「存在している」ことを感じることはあっても、それが何を意味するのかを理解することはなかった。
彼の周囲には、壁というものしかないことがわかる。壁の冷たさや、閉塞感を感じながらも、彼にはそれが「何か特別なもの」であるとはわからなかった。自我も言葉もなく、ただ反射的に泣いたり、手足を動かしたりすることで、感覚的に周囲に反応していた。
時間が過ぎ、成長が進むにつれて、彼は少しずつ意識が芽生え始める。初めは周囲の音や光、体の動きが何を意味するのかを理解することができなかったが、日々の感覚の中で、それらが繰り返し訪れることを学び始める。食事の時、喉の渇きを感じ、また壁から何かが現れることで、それが「必要なもの」であることを無意識に知るようになった。
第2章:感覚の発展
数ヶ月後、彼の体は少しずつ成長し、視覚や聴覚が発達していく。最初はただ漠然とした色の変化しか見えなかったが、やがて目の前の壁や微細な変化に反応できるようになる。食べ物や水が現れる仕組みを学び、彼はそれらを自然に求めるようになった。
立方体の空間内で、彼の体が成長する中で、次第に手足を使って壁を触ったり、体を動かすことができるようになる。しかし、それらの動きが何を意味するのか、まだ言葉や概念で理解することはできなかった。彼の行動は本能的で、感覚に基づいた反応に過ぎない。
やがて、彼は壁から現れる食物に気づき、それを求めるようになる。食事を取ることで体力がつき、空腹や渇きが満たされることが、彼にとって生きるための「ルーチン」となっていった。
第3章:意識の芽生え
1年が過ぎ、男の成長は着実に進んでいった。彼の脳はより複雑な思考を始め、意識が次第に明確になっていく。しかし、まだ言葉は話せなかったし、他者とのコミュニケーションも不可能だった。彼の周囲には常に静寂が広がり、すべては彼一人の感覚と身体の反応だけで成り立っていた。
ある日、彼は突然、壁に触れたときに微かな振動を感じた。それは、今まで感じたことのない反応だった。好奇心から彼はその場所を何度も触ってみた。すると、そこから食べ物が現れることを理解した。この「壁から食物が現れる」ということを、彼は無意識にでも学んだ。
彼の意識が少しずつ発達していくにつれて、次第に「ここが自分の世界である」という感覚が芽生えてきた。しかし、同時に「他の何か」が存在する可能性も感じるようになる。外に出ることができないと感じる一方で、何かがこの空間を制御しているような感覚を持ち始めた。
第4章:自己認識と孤独
3年目に差し掛かるころ、男は自分の周囲をじっくり観察するようになり、感覚的に壁の存在や生活のルーチンが「日常」だと認識するようになる。まだ言葉を持たない彼にとって、思考は絵や感覚のような形で形成され、自己認識の手がかりとなった。
「なぜここにいるのか」「他の世界はどうなっているのか」――こうした考えが、言葉としては表現できなかったが、彼の内面的な問いとして浮かび上がってきた。しかし、その問いに答える者はおらず、立方体の中での孤独な日々が続く。
それでも彼は食事を取ること、眠ること、そして壁に触れることで必要なものを得ることを繰り返すうちに、次第に「自分がここで生きている」という感覚が強くなっていった。この空間の中で彼は、自分が他の存在とは隔絶されていることを知りつつも、ただ生きるために必要なことを日々繰り返していった。
第5章:言葉の芽生え
数年が経ち、男の脳はさらに発達し、ようやく単純な言葉を理解することができるようになる。彼は自分の名前や、食事を求める言葉を心の中で「感じる」ようになるが、それを実際に口に出すことはできない。
「食べ物」「水」「眠る」――これらの単語の意味を、彼は自然に理解するようになった。もちろん、他者とのコミュニケーションは無理だが、彼の心の中には言葉としては表現されない「思い」が形成されていた。それは、感覚的に理解された言葉であり、彼が成長する過程で欠かせなかったものだった。
そして、ある日、壁に触れているとき、彼はそれを「感じる」だけではなく、心の中で「ここが私の世界」と感じるようになった。彼はもはや自分が無力であることに恐れを感じることはなく、立方体の中で生きることを自然なこととして受け入れるようになった。
第6章:成長と変化
50年という時間が経過したとき、男は完全に成長し、老い始めていた。彼の体は次第に衰え、動きが鈍くなっていった。しかし、精神的には安定し、何十年も続いた孤独の中で、彼は生きる意味を見出していた。
立方体の中で過ごした時間は、彼にとって無駄ではなかった。外の世界がどうであれ、彼はこの空間の中で一つの「人生」を全うした。それは他の人々のような人生ではなかったが、彼なりの生き方が確立されていた。
彼は壁を見つめながら考え続けた。