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微妙な治癒力を持っている令嬢の恋愛事情

作者: ノンナ

スティアーニ子爵令嬢のシェミナはその日、夜会の為にと身支度をしていた。


「お嬢様、本当にこちらのドレスでよろしいのですか?」


支度を手伝うシェミナ付きの若いメイドであるタリアは、先ほどから何度も確認を繰り返している。

それもそのはず、シェミナが選んだのはまだ幼さの残る彼女が着るにはかなり勇気のいるデザインだったからだ。


ホルターネックの為、肩口から背中まで大胆に露出しており、おまけに体のラインにぴったりと添うマーメイドラインのドレス。

シェミナの美しい白肌、豊かな胸、それに引き締まったウエストが惜しげもなくさらされることにタリアは戦慄した。


明らかに、未婚の、それも婚約者のいる令嬢が着て良いものではない。


しかしシェミナは事もなさげに、


「今夜は仮面舞踏会だから平気よ」


と言い、これまたクジャクの羽があしらわれたド派手な装飾の仮面を取り出し、それを顔に当てて鏡を覗き込んでいる。


「これならスティアーニ子爵令嬢とはわからないでしょう?」

「それは、そうですけど」


顔の半分以上が覆われるタイプの為、確かに誰かまではわからないだろうが、だからといって諸手を挙げて賛成はできない。

とはいえ、使用人が主人に反論などできるわけもなく、タリアは渋々、着替えを手伝ったものの、


「せめて会場の中に入るまではこちらを」


と、ストールをしっかりと巻きつけて、素肌が見えないように工夫した。


本当は仮面舞踏会などという怪しげな集まりに参加すること自体、反対したいタリアだった。しかしシェミナがこんな行動に出た経緯も十分に理解しているだけにそれを口に出すことはできない。



前述のとおり、シェミナには婚約者がいる。

タリアがスティアーニ家で勤め始めるよりずっと前、シェミナが子供のときに決められた婚約であり、相手は格上のラトリ侯爵家の次男で近衛騎士のアーヴェルであった。


残念ながら、タリアの知る彼はお世辞にも良い婚約者とは言えなかった。


近衛騎士になるには家柄や武芸はもちろん、見目の良さも必要となる。彼らは未婚、既婚問わず女性たちの憧れであり、そこに配属になったアーヴェルも例外ではなく、数多くの女性との浮名を流している。


社交シーズンは毎日のようにどこかの家で夜会が開かれているのだが、彼はどの集まりにもシェミナではない別の女性を伴って参加しているらしい。

さすがに王家主催の公式なものではシェミナのエスコートをするが、入場を済ませると義務は果たしたと言わんばかりに離れていってしまうようだ。王宮の集まりには他家のメイドも手伝いに駆り出されることがあり、彼女たちは面白おかしくそれを語っている。


最初は信じられなかったタリアではあったが、婚約者同士の交流のためと定められた月に一度の茶の席ですらすっぽかすようになったアーヴェルに、この噂は真実なのだろうと思うようになった。


そしてそんなアーヴェルに業を煮やしたシェミナは、自分も浮気をする決意をし、その結果が仮面舞踏会への出席であった。

素顔を隠しての集まりなど、一夜の恋を求める男女が享楽にふけるイベントでしかない。

シェミナにもそれは分かっていたのだが、自分を放置して遊びにふけるアーヴェルに嫌気がさしたのだ。




身支度を整えたシェミナがタリアと供にして馬車に乗り込もうとしていると、そこにラトリ侯爵家の騎士が馬蹄を響かせて駆け込んできた。


「スティアーニ子爵令嬢!至急、侯爵邸にお越しいただきたく参上しました」


騎士の口上にシェミナは思わず顔をしかめてしまう。


自分は、今から浮気をしに仮面舞踏会へ出かけようとしているのに、それを婚約者の家の騎士に止められてしまった。しかしこの着飾った姿を見れば彼にだってこれから夜会に出かけるところだとわかるはずだ。


シェミナは特別に美しい作り笑いを浮かべて騎士に向かって言った。


「わたくし、今から夜会に行かねばならないのですけれど、それを押してもお邪魔しなければならないご用なのでしょうか?」


「アーヴェル様が発熱されました」


その言葉に舌打ちしなかった自分は偉い、とシェミナは思った。







子爵令嬢のシェミナと侯爵令息のアーヴェルの間に婚約が成立したのには、アーヴェルの虚弱体質がかかわっていた。


ふたりの婚約が結ばれる前のこと。

シェミナの母であるスティアーニ子爵夫人は、王宮で開かれた女性だけを集めた茶会に出席していた。その中でシェミナの治癒魔法の話が話題に上がったのだ。


治癒魔法というものは大変に貴重な力で勝手に使用してよいものではない。すべては正式な記録に残され、いつ、誰が、どこで、誰に、どれほどの規模の治癒を施したのか、事細かに記される。


しかしシェミナのそれはとても弱い力で、例えば、指先にできたとても小さなささくれを治すことしかできない程度のものだった。

わざわざ医師の診察を受けて高価な薬を入手してまでささくれを治そうとするようなひとはいない。要するにシェミナの力は自然治癒と大差なく、いちいち記録に残すようなレベルではなかった。


このどうでもいいような治癒力に何故か、ラトリ侯爵夫人が興味を示したのだ。


茶会ではどの席に座っても良いことにはなっているが、暗黙の了解で高位貴族は良い席に、下位貴族はそうではない席に座ることになっている。その慣例に従ってスティアーニ子爵夫人は噴水に近い、ともすれば衣服が濡れてしまいそうなベンチに腰掛けて、知り合いの夫人たちと話をしていた。


するとそこにラトリ侯爵夫人がやってきたのだ。


「ごきげんよう、スティアーニ子爵夫人」

「まぁ!ラトリ侯爵夫人」

「失礼ですが、お嬢様が治癒魔法を持っていらっしゃるとお聞きしまして」

「シェミナですか?えぇ、まぁ、確かに。ですが、あれは大したことのない力ですから」


普通なら謙遜でそう言うのだろうが、本当にシェミナの持っている力は微弱であり、これは事実だ。変に期待された結果、侯爵家をたばかった、などと難癖をつけられても困ると考えた夫人は重ねて言った。


「記録に残す必要もないほどの力だと正式な認定を受けておりますので、他人様のお力になれるようなことはなにも」


そう言った子爵夫人にラトリ侯爵夫人は言った。


「そうおっしゃらずに、わたくしの話を聞いて頂けませんか?」


ラトリ侯爵家の次男、アーヴェルは生まれつき体が弱く、体調を崩す度に高価な代金を支払って治癒を施しているのだが、あまり効果がないというのだ。


「高名な治癒師の方にお願いしたこともありましたが、そのときはさらに体調を悪くしてしまい、それ以降はお呼びしておりませんの」


「恐れながら、それほどに優れた方でもどうにもならないのでしたら、シェミナにできることはなにもないかと」


「我が子が苦しんでいるのに仕方がないと貴女は諦められるのですか?」


そう言ったラトリ夫人は貴族ではない母親の顔をしており、それにスティアーニ夫人はつい、ほだされてしまった。


「わかりました、まずは主人に話をしてみますわ」



そしてスティアーニ夫人は、その夜、夫である子爵に話をしたのだが、彼の判断は『否』だった。


「でも侯爵夫人は苦しんでいらっしゃいますわ」


「シェミナの力はお前もよく知っているだろう?どうせなにもできない。そうなったら我が家は侯爵様をたばかった罪を背負うことになる」


「そこは夫人がとりなしてくださいます」


「女同士はそれでもいいだろう。だが、ラトリ侯爵の立場を考えたら、我が家は罰を受けなければならない。あちらにもつらい想いはさせたくなかろう?」


そう言われてしまったら夫人にはなにも言い返すことはできず、渋々、断りの手紙を書いて侯爵家へと届けさせたのだった。


しかしそれから数日後、なんとラトリ侯爵夫妻が直々にスティアーニ子爵邸を訪れたのだった。


「お嬢様のことは妻から聞きました、我々は藁にも縋る思いでこうして参っているのです。どうか後生ですから、お願いできないでしょうか」


侯爵から頭を下げられてはさすがの子爵も断ることができず、結局、シェミナを連れてラトリ侯爵家を訪問することになってしまった。



対面したアーヴェルはベッドの上で苦しそうな息を吐いており、同じ子を持つ親としては直視できないほど可哀想な有様だった。


「シェミナさん、この子に治癒魔法をかけてもらえるかしら?」


シェミナは侯爵夫人の顔を見上げ、


「わたしにはきっと治せませんが、それでもよろしいでしょうか?」


と言った。


その時のシェミナはまだ八歳だったが、自分にできることとできないことはもうきちんと理解していた。目の前で苦しんでいる少年には気の毒だが、一目見て、自分の手に負えるものではないとわかったのだ。


「もちろんだ。少しでも、ほんの一瞬でもいいから、この苦しみから解放させてやりたいだけなんだ」


夫人の代わりに侯爵がそう答え、シェミナは、わかりました、と言い、アーヴェルのベッドの横に立つとその手を取った。


「治癒を施します」


シェミナが治癒を初めてすぐにアーヴェルの呼吸は荒々しいものから静かなものへと変わっていった。険しかった表情はだんだんにやわらぎ、シェミナが手を放す頃、彼はうっすらと目を開けた。


「父上、母上。どうかなさったのですか?」

「あぁ、アーヴェル!」


ラトリ夫人は飛びつくように我が子を抱きしめ、その後ろでは侯爵が目頭を押さえていた。


この奇跡になによりも驚いていたのはスティアーニ子爵家の三人だった。シェミナの治癒力は全くなんの役にも立たないと自他共に認めていただけに、重篤な状態だったアーヴェルに効果があったことにひどく驚いた。


「シェミナ、力が強くなったのかい?」


子爵が慌てて確認するもシェミナは首を左右に振った。


「いいえ。昨日、ばあやのささくれを治そうとしましたが、やはり深く割れた傷は治せませんでした」


「アーヴェルには効いた、その事実だけあればいい」


侯爵は目に涙を浮かべて喜んでいるが、子爵にしてみたらそれでは済まされないことだ。

治癒行為はすべてを公的な記録に残す為、役人立ち合いのもと、行使しなければならない、と法律でも定められている。役人不在の今、この治癒は明らかな法律違反だ。


「どうぞ、今すぐ、役人をお呼びください。事後報告になってしまいますので、まずは事情を説明してご理解いただかねば」


子爵の訴えに侯爵は彼と共にアーヴェルの部屋を出ていった。



それから三時間ほどして役人が到着したのだが、そのときにはまたアーヴェルの熱が上がっていた為、今度はきちんと役人の前で治癒を施したシェミナだった。


その様子を見ていた役人は首をかしげながら、ただの思い付きだ、と前置きしてから、


「ひょっとしたらご子息は微弱な治癒力しか受け付けられない体質なのかもしれません」


と言った。


「例えるならロートでしょうか。先端の細い管程度しか治癒力を受け取ることができず、ロートから溢れた力は浸透せずにこぼれていくだけ。医師の処方する薬も過ぎたるものは毒だと言いますから、アーヴェル様も同じ状態なのかもしれませんね」


「シェミナの弱すぎる力がアーヴェル様には適切であった、と?」


「数時間しか効果がもたなかったことを考えてもその可能性は高いと思います。もっとも、全ては想像でしかなく、確かめる術はありません」


そう言って役人は公的な記録書とは別の冊子を取り出し、シェミナの治癒行為を書き込んだ。


「これは特殊なケースですから記録を残す必要はないでしょうが、後世の為に資料として残して頂ければと思います。

少しずつ治癒を施せば、いつかは効果が得られるやもしれません。こちらの冊子を置いていきますので、できる限りでかまいませんからどうか記録をお願いします」


彼はそう言って侯爵に手渡すと、会釈をして部屋を出て行った。


シェミナの治癒を受けたアーヴェル。今は、穏やかな呼吸で眠っているが、役人の推測が本当ならまた数時間後には苦しみ出すかもしれない。

そう考えた侯爵は子爵に再度、頭を下げた。


「申し訳ありませんが、本日はこちらで宿泊していただけないでしょうか」

「乗り掛かった舟です、最後までお付き合いいたしましょう」


スティアーニ子爵はラトリ侯爵の申し出に笑顔で答えたのだった。






アーヴェルに適した唯一の治癒魔法を持つシェミナを侯爵が手放すわけもなく、ふたりの間に婚約話が持ち上がるのは自然なことだった。


子爵令嬢のシェミナが侯爵家に嫁ぐのは無理がありすぎる、と子爵夫人は反対をしたが、


「そう思うなら最初から手を差し伸べるべきではなかった。これがシェミナの運命だったのだと思うことにしよう」


と夫は妻を慰めたのだった。








それから十年という月日が流れた今、アーヴェルはすっかり健康になり、シェミナの治癒は必要としなくなった。


丈夫な体を得たアーヴェルは武芸に励み、近衛騎士という職につくことができた。


侯爵家の次男でありながら、婚約者は下位貴族の子爵令嬢というアーヴェルを狙う令嬢は多かった。彼自身もようやくデビュタントの年齢となったようなシェミナの相手をすることは不本意だったようで、彼に言い寄ってくる女性たちを拒むことはしなかった。


シェミナもこの婚約が、アーヴェルの虚弱体質を自身の治癒力で補うために結ばれたものだということはよく分かっていた。だからアーヴェルが体調を崩すことがなくなったのだから解消を申し渡されても文句を言うつもりはなかった。

しかし惨めに捨てられる女にはなりたくはなかったので、仮面舞踏会で素性を隠して相手を探し、アーヴェルとの婚約が白紙になっても困らないようにしておきかったのだ。



今、まさに男漁りの集まりに出席しようとしていた矢先、婚約を解消する予定の相手からの呼び出しがきてしまったのだった。






行き先をラトリ侯爵邸に変えたシェミナの乗った馬車が到着すると、ラトリ家の執事のひとりが出迎えた。


「シェミナ様、ようこそ」


馬車から出てきたシェミナの姿に執事は一瞬、言葉を詰まらせた後で、お越しくださいました、と付け加えた。


それはそうだろう、アーヴェルという婚約者がいるにも関わらず、大胆に背中の開いたドレスを着ているのだから。


シェミナはその不躾な視線を無視して言った。


「アーヴェル様はお部屋でしょうか?」

「はい。こちらです、ご案内します」


ここ数年、アーヴェルが体調を崩すことはなく、彼の私室に案内されたことはなかった。しかし部屋の場所は変わっていないようで執事はシェミナの知る道筋を歩いていく。

やがて目的の部屋にたどり着くと、そこにはメイドが待ち構えていた。


「午後からだんたんと熱が上がってきたのですが、アーヴェル様はシェミナ様に知らせる必要はない、とおっしゃられて」


それはそうだろう、この婚約を誰よりも解消したいのはアーヴェルなのだ。

近衛騎士には身分の高い令息が多い。彼らの婚約者は錚々たる顔ぶれで、子爵令嬢という下位貴族と婚約しているのはアーヴェルくらいしかいない。夜会に出てもシェミナから逃げるように立ち去るのはそれが理由だろう。

せっかく健康を維持してきたのに、ここでまたシェミナの世話になれば、婚約は解消できなくなってしまう。だから彼は呼んでほしくなかったのだ。


「侯爵様は?」

「旦那様と奥様は王宮の集まりに出かけております」


王宮で集まりを開催できるのは王家、もしくは公爵家しかいない。それほどに高位な方が主催しているのでは、成人したアーヴェルの発熱ごときで彼らを呼び戻すことはできない。




「治癒を施しますね」


シェミナは室内に入るとベッドの側に立ってアーヴェルの手を握り、ほんの少しの治癒を、シェミナにとっては全力の治癒を施した。しばらくすると彼の呼吸は穏やかなものへと変わり、効果がもたらされたことは明白だった。

シェミナは彼の手を布団の中に戻すと黙って部屋を出たところで、外で待っていた執事に言った。


「部屋をお借りできますか?たぶんまた熱が上がってくると思うので、再度、治癒をかけます。それまで休憩させていただきたいのですが」


「かしこまりました、こちらへどうぞ」


ほんのわずかな力だとしてもシェミナにとっては全力の治癒だ。体は疲れるし、倦怠感も出る。体を休めなければ次の治癒はかけられない。


それから二時間ほどしてまた熱が上がってきたと知らせが入り、シェミナはその度に治癒をかけた。何度もぶり返していた熱も日が昇る頃には落ち着き、侯爵家のかかりつけ医の、もう大丈夫だ、という太鼓判を見届けてからシェミナは子爵邸へと帰宅した。






「ただいま戻りました」


疲れた顔で朝帰りをした娘を出迎えた子爵夫人はなんとも言えない顔をしている。


「お疲れ様でした。アーヴェル様はご無事ね?」

「医師の診察を確認してから帰ってきましたので、大丈夫だと思います」

「ここ数年は体調を崩されることもなかったのに、なにかあったのかしら?」


夫人の問いにシェミナが答えられるわけがない。婚約は結んでいるものの、交流らしい交流はほとんどないのだ。アーヴェルの普段など知るはずもない。


「わたくしにはわかりません。すみませんが、今日一日、休ませていただきます」

「えぇ、いいわ。それと、もう少し大人しいドレスを着るように」

「わかりました」


シェミナはバツが悪そうな顔をしてそそくさと自室に戻った。本当は夫人に見つからないようにこっそり帰宅して着替えるつもりでいたのだ。

侯爵家に『仕事』に行ってきたシェミナを労おうと夫人は出迎えてくれたのだろうが、そのせいで浮気用のドレスの存在がばれてしまった。


タリアの手を借りてドレスを脱ぎ、軽く入浴をすませると、さっさとベッドに飛び込んだ。


不寝番で治癒をかけるなど何年ぶりのことだろうか。さすがに眠い。色々と考えたいことはあったが、睡魔に勝てるわけもなくシェミナは深い眠りに落ちていった。










目を覚ましたアーヴェルはいくらか気分が良くなっていて、自身が回復に向かっているのだとわかった。

体調を崩したあとで目を覚ますとベッドのそばには必ずシェミナがいて、また彼女の世話になってしまったのだ、と自己嫌悪に陥っていたのだが、今日はその姿はなく、自分の力で解決ができたのだと安心した。


ノックもなくそっとドアを開けて室内に入ってきたのはアーヴェルの従者で、彼は主人の覚醒に安堵のため息をもらした。


「お加減はいかがですか?」


従者の問いにアーヴェルは答える。


「熱はまだ少しあるがマシだな」

「それはようございました」


慣れた手つきで水に浸してあったタオルを絞り、アーヴェルに渡した。


「入浴はまだ控えるようにと医師から言われておりますので、こちらで我慢してください」


衣服を脱ぎ、タオルで体を拭くアーヴェルの横で従者は着替えを用意している。


「シェミナは呼んでないんだよな?」

「いいえ、来ていただきました」


その返事にアーヴェルは非難の声を上げる。


「勝手なことをするな、俺は呼ぶなと言ったはずだ」


「夕刻を迎えても熱は上がる一方で、アーヴェル様はついに意識を失われました。お叱りを受けるとは承知しておりましたが、シェミナ様におすがりしたことは間違っていないと自負しております」


「シェミナは来たのか?」


「もちろん来てくださいました、侯爵家との契約がございますからね。

ですが、随分と過激なドレスをお召でした、背中があいていて。ストールを羽織っておられましたが、たぶん肩口も見せるタイプのドレスでしょうね」


「そんなドレス、彼女には似合わない」


口をへの字に曲げたアーヴェルに従者はため息をついた。


「昨夜は伯爵家で仮面舞踏会が催されると聞きました。シェミナ様はたぶんそれに行かれるおつもりだったのでは?」


「仮面舞踏会なんてシェミナの身が危険なだけだ、子爵が参加を許可したというのか?」


「婚約者にないがしろにされている娘に常識を説けますかね?」


「ないがしろになどしていない、俺は彼女たちにシェミナのことを頼んでいるだけだ」



そう、アーヴェルと浮名を流した女性たちは皆、彼からシェミナのことを『頼まれて』いる。


アーヴェルは侯爵家の令息でシェミナは子爵家の令嬢だ。この格差をよく思わない人たちが多いことは彼も分かっていた。自分が傍にいる間は手出しをさせない自信もあったが、今年、社交界デビューをしたシェミナは女性だけが参加する集まりにもいかなければならなくなる。

そうなったときアーヴェルの代わりにシェミナを守ってやってほしいと『お願い』して回っていたのだ。


彼女らの見返りはダンスだったり、贈り物だったり、カフェへの外出だったりした。


もちろんアーヴェルの『お願い』を聞かされた女性たちは憤慨し、余計にシェミナへの嫉妬心を募らせたり、アーヴェルのやり方に呆れたりした。

この『お願い』作戦は実を結ぶことはなく、むしろシェミナに『婚約者にないがしろにされている令嬢』というレッテルを貼り付けただけだった。

その結果、シェミナが浮気を決意したのだからアーヴェルのやったことは全く意味のないどころかむしろマイナスでしかなかったのだが、幼少期をベッドの上で過ごし、親しい間柄の男友達もできなかった彼は恋愛事情に極端に疎く、その辺りがいまいち理解できていない。


従者としては主人にいろいろと言い足りないこともあったのだが、病み上がりの患者に負担をかけてはならない。


残念ながら、シェミナの治癒はアーヴェルを完璧な状態にできない。いや、アーヴェルのほうが完璧な状態にまで治癒力を受け取れない、というのが正解かもしれない。


ある程度まで回復するとそれ以上はどれだけ治癒を施してもアーヴェルは改善せず、最後は自然治癒に任せるしかなくなる。

あとは医療の範疇です、という判断が出るレベルまではシェミナの、そして子爵家の責任として治癒をする。彼女が医師の診察を聞き届けた上で帰宅したのはそれが理由でもあった。



「まずはお体を治しましょう、話はそのあとで」


従者はそう言ってアーヴェルのベッドを整えると、軽食をお持ちします、と言いおいて、部屋を出て行った。










その夜もシェミナは一夜の恋を求めて夜会に出席していた。

しかし、仮面舞踏会ではなく、そうなるとドレスは大人しいデザインにするしかなかった。(たとえ仮面舞踏会だったとしても子爵夫人に見咎められた以上は、大人しいドレスを着るしかなかったのだが。)



「シェミナも来てたのね」


と声を掛けてきたのはシェミナの友人であるマーモート伯爵令嬢のイルゼだった。


彼女は扇を広げて口元を隠すと、小声で言った。


「最近は『婚約者様』を見かけなくなったわよ」


イルゼはアーヴェルの不貞とも取れるような行為を許容していないひとのひとりだった。シェミナの友人として、彼の態度を正しく非難してくれているのだ。


「体調を崩したのよ」


シェミナも同じように扇で口元を隠してそう言い、目配せをして女性専用の休憩室へと誘った。

まだ夜会が始まったばかりの時間帯ということもあり、休憩室にはほとんど人がおらず、ふたりは奥まったテーブルに陣取って内緒話をすることにした。


「体調を崩したってことは治癒をしてあげたの?」

「仕方ないわ、侯爵家との契約を違えることはできないもの」

「あちらは十分に契約違反を犯してるのに?」

「家格が違うでしょ」


ため息交じりのシェミナの発言にイルゼは口をへの字に曲げるしかなかった。悔しいがアーヴェルはラトリ侯爵家の人間で、伯爵令嬢のイルゼも彼らに物申すだけの力はない。


「でも、元気になったらまた別の女を連れ歩くに決まってる。なんの為にシェミナが治癒をしてあげてるのか分からなくなるわ」


ため息交じりのイルゼの言葉にシェミナも小さくうなずいた。彼に、シェミナではない別の女性の手を取らせるために癒したわけではないのに。

しかしそれももうどうでもいい。あちらが愛人付きの婚姻をするというのなら、シェミナもそうするだけだ。


「わたしも別の男性の手を取ることにしたからいいの」

「え?」


シェミナの爆弾発言にイルゼは絶句する。


「わたしの愛はアーヴェル様にはあげないわ」

「でも、どうやって知り合うの?」


なんとか絞り出したイルゼの問いにシェミナはきまりの悪そうな顔で言った。


「出会いなんて、どこにでもあるわ」


出会いがどこにもないから貴族子女達は皆、こうして毎晩、夜会に繰り出しているのだ。そのうえ、割り切った関係の相手を探すなど、社交界にデビューしたばかりのシェミナには難しい。


イルゼはたっぷり時間をかけてシェミナを眺めた後で、


「諦めたほうがいいと思うわ」


と言った。






イルゼのダメ出しを食らい、意地になったシェミナは、


「きっと成功させて見せる!」


と言い放ち、ひとりで会場を回ることにした。


しかし結果は散々たるもので、ひとりでバルコニーに出てみたら、


「お嬢様、そのようなところにいてはいけません」


と、使用人に声を掛けられ、会場に連れ戻されてしまった。



気を取り直して、夕闇に沈む回廊を歩いていたら、


「迷子になったのね」


と親切なご婦人に休憩室まで案内されてしまい、まだ部屋に残っていたイルゼに遠慮なく笑われてしまった。


それでもめげずに、ちょうどいい男性はいないかとあてもなく会場を歩いていたら、


「あら、アーヴェル様の婚約者じゃない」


と見知らぬ令嬢に声をかけられ、いつものように延々と嫌味を聞かされた挙句、


「さっさと婚約破棄しなさいよ!」


と怒鳴られた。








「行きずりの恋って難しいものなのね」


シェミナはため息をつきながら、噴水の近くにあるベンチに座った。月明りしかなくとも会場からほど近いこの場では秘密の恋など始まりそうもない。



パシン!


そのとき、誰かが頬を叩く音が響き、シェミナは思わず首をすくめた。シェミナの目の前で女性が男性の頬を打ったのだ。


「もう二度と会わないわ!」


女性はそう吐き捨てると、肩を怒らせて会場に背を向けて歩いていった。あとに残された男性はその後ろ姿を黙って見つめている。

迷った末、シェミナは噴水にハンカチを浸して軽く絞ると、男性に差し出した。


「こちらをどうぞ」


あとから考えてもどうしてこんなことをしたのか不思議だった。女性に頬を打たれるなど、ろくでもない男に決まってるのに。

でもなんだか残された彼の背中が寂しそうに見えて、シェミナはつい、声を掛けてしまったのだ。



「あぁ、お嬢さん。ご親切にどうも」


男性は素直にシェミナのハンカチを受け取ると礼を言った。よく見ると彼が身につけているのは近衛騎士の制服で、彼がその職に就いているひとだと分かった。

頬に平手打ちのあとがあったとしても彼の顔は美しく、近衛騎士にふさわしい容姿をしていた。


「近衛騎士ともあろうお方が女性と問題を起こすなんて」


シェミナの非難の声に彼は眉をあげた。


「この制服が近衛のものだとよくわかりましたね?近しい方が隊にいるのかな?」


余計なことを言ったとシェミナは目をそらした。彼が着ているのは調査や潜入といった秘密裏に事を進めなければならないとき、衛兵に誰何されることを避ける為に用意されている制服で、アーヴェルが女性と遊ぶときに好んで着ているものでもあった。


返事をしないシェミナをどう思ったのか、彼はエスコートの手を差し出した。


「貴女のような方がここにいてはいけません、会場に戻りましょう」

「いいえ、ご心配なく」

「ですが」


言い淀む男性にシェミナはきっぱりと言った。


「頬を打たれた男性と会場に戻ったら醜聞になりますもの」

「ははは、それもそうですね」


憤慨して立ち去るかと思ったのに意外にも彼は笑った。美しい顔に似合わない子供のような笑顔にシェミナはすっかり毒気を抜かれてしまった。



「わたくし、もう帰りますわ」

「では馬車までお送りします、そのくらいはいいでしょう?」

「そうね。いいわ、お願いします」


シェミナは彼の手に自らの手を乗せると馬車止めに向かって歩き出した。







その翌日、屋敷に押し掛けてきたイルゼからシェミナは彼の正体を知った。


「あなた、ラノルト・ハイマーの恋人になったの?」

「それは誰?」

「昨日、あなたが帰りにエスコートしてもらった方よ」


彼とは会場の出入口から馬車止めまで一緒に歩いただけだ。たったそれだけで噂になるのか。


「お互いに名乗らなかったから知らなかったわ。どんな方?」


シェミナの呑気な様子にイルゼは呆れた。


「ハイマー伯爵家の三男で近衛騎士の中でも五本の指に入るほどの遊び人。付き合った女性は星の数ほどいるって噂よ」


なんと、そこまで有名な人物だったとは!


「どうしよう、醜聞になるかしら」


不安な顔をするシェミナにイルゼが言った。


「それは大丈夫。だって貴女の婚約者様も大概じゃない」


イルゼはそう言ってウィンクをしてみせたが、シェミナはそれを素直に受け取れるほどにはまだ割り切れていなかった。








「ラノルト様の新しいお相手はスティアーニ子爵令嬢ですって」

「スティアーニってアーヴェル様と婚約されてるご令嬢じゃなかったか?」

「それじゃぁ責められないわね。だってあの方も、ねぇ?」


社交界の声は概ねこんな感じで、今後がどうなるのかを面白おかしく見守っている、という状態だった。





この噂は当然、アーヴェルの耳にも届いた。


「ラノルト・ハイマー、どういうつもりだ!」


近衛専用の食堂でラノルトが現れるのを待ち構えていたアーヴェルは彼を見つけると開口一番、そう言った。

気色ばんで詰め寄るアーヴェルとは対照的に、ラノルトは涼しい顔で給仕係に食事を持ってくるよう頼むと、ゆったりとした動作でテーブルに座り、怒りにゆがむその顔を眺めた。


「その言葉、そっくりそのままお返ししよう」

「何?」

「君はスティアーニ子爵令嬢をどうするつもりだったんだ?」

「どうって、もちろん妻に迎えるつもりで」

「あぁ、なるほど。お飾りの妻として迎えるつもりだったのか」

「なんだと?!」


再び大声を上げたアーヴェルにラノルトはこれ以上ないほどの冷たい視線を向けて言った。


「彼女に割り切った関係を求めるのは間違っている、愛がないのなら手放すべきだ」

「俺が彼女を愛していないと?」

「周囲はそう評している、彼女も含めてな」


ラノルトはついっと顔をあげると、ふたりの言い争いに近づけないでいた係に合図をして皿を並べさせ、テーブルの前に立つアーヴェルを完全に無視して食事を始めた。

アーヴェルはまだ言い足りなかったが、同僚にたしなめられてその場を離れるしかなかった。騎士同士の私的な争いは厳禁とされている、これ以上続けたら上官の注意を受けてしまう。

婚約者を奪われた上に降格など、恥の上塗りだ。


「なんだってあんなやつと」


シェミナの顔が思い浮かび、人知れずこぶしを握り締めたアーヴェルだった。













そんな噂が社交界を賑わしている頃、ラノルトからシェミナ宛に一通の手紙が届いた。


『宜しければご一緒にいかがですか?』


遊び人の誘いなど断るつもりでいたシェミナがあっさりと心変わりをしたのは、同封されていたのが今、一番人気の劇場のチケットだったからだ。

半年先まで完売しており、高位貴族ですら入手が難しいと噂されるこのチケットを彼はどうやって手に入れたのか。


シェミナは少し考えてからすぐにやめた。彼は遊び人だ、どうせまともな方法じゃない。


しかしこのチケットに罪はない。彼と行けば噂になるだろうが、それよりもこの劇を見に行ったことのほうが自慢できる。


「とびきりのおしゃれをして出かけるから、支度を」


シェミナ付きのメイドであるタリアはそう命じられて、なんとも微妙な顔で了承の返事をしたのだった。







「お手をどうぞ」

「ありがとう」


ラノルトの差し出した手につかまってシェミナは馬車から降りた。


劇場の前はたくさんの馬車でひしめき合っているが、ラノルトの用意したハイマー伯爵家の紋の付いた馬車は何故か優先的に対応してもらえた。


「行きましょう」


ラノルトは慣れた様子で進んでいき、彼がもう何度もこの劇場に足を運んでることがわかる。

シェミナの表情から考えを読んだのかラノルトが苦笑する。


「この劇場には叔母が多額の出資をしているんだ。そのおかげでたまにこうしてチケットを回してもらえる」

「なるほど」


意外にまともな入手先であったことにシェミナは心の中で謝罪をした。


「残念ですが、今夜はボックス席の確保はできませんでした」

「かまいませんわ、来られただけで満足ですもの」


シェミナの言葉にラノルトは、そうですか、と言って笑い、席が確保できなかった理由を教えてくれた。


「今夜はやんごとなきお方がお見えになられますので、上の階は立ち入り禁止になってましてね」


それを聞いたシェミナは急に居心地が悪くなる。

近衛というのは本来、やんごとなき方々の護衛をする為の専門部隊だ。その方がここに来るということはアーヴェルもここに来ているかもしれない。

一応、彼とはまだ婚約者の間柄だ。その彼の目の前で違う男性と劇場に来るなどさすがに常識がないことだと思ったのだ。


するとラノルトがなんでもない顔で言った。


「アーヴェルには今夜、スティアーニ子爵令嬢をお誘いしたことは伝えてありますから、気にしなくていいですよ」

「そう、ですか」


シェミナが誰と過ごそうが、彼には関係ないということか。アーヴェルに申し訳ない気持ちを抱いていたのが馬鹿みたいだと思った。


「わたくしは今夜、初めてこの演目を見ますの。内容をご存じでもおっしゃらないでくださいね」


シェミナは晴れ晴れとした笑顔でラノルトに言ったのだった。









アーヴェルは、苛立ちもそのままに仏頂面でボックス席から会場を見下ろしていた。


今夜は王女がお忍びで観劇に来ている為、二階より上の個室はすべて王家が押さえている。それぞれの部屋には騎士が配置されており、ネズミ一匹入り込める隙はない。


近衛のアーヴェルは王女の部屋に配置されており、上の階から開演を待つ人々の中で妙な動きをする輩はいないかと観察していたのだが、その中に、シェミナとラノルトの姿を見つけたのだ。ラノルトから今日のことは事前に聞かされていたが、まさかシェミナが彼の誘いに応じるとは思っていなかった。

時折、シェミナがこぼす笑顔がアーヴェルではない男に向けられていると思うと心底、面白くない。


その怒れる背中に王女の呆れた声が飛んだ。


「あなたが彼女を大切にしなかった結果ではなくて?ラノルトは恋多き男だけれど、交際中の女性にはきちんと向き合う誠実なひとよ。彼の真実の相手があの娘だというなら、わたくしは応援してもいいと思ってるわ」


王女の言葉にアーヴェルは思わず振り向いてその顔を凝視したが、結局、目を伏せることしかできなかった。

王女の言う通りなのだ、シェミナを大切にしようと先回りした結果、婚約者をないがしろにしている男になってしまった。


シェミナのことで話がある、と言われたら、出かけて行って相手の女性と話をした。それは大したことのない内容だったり、シェミナのシェの字も出ないこともあったが、それでも大切な婚約者の名前を出されたアーヴェルに行かないという選択肢はなかった。

呼び出された場所が夜会会場だったら、一曲くらいは踊って帰らないと主催者に申し訳ない。その頃のシェミナはまだデビュー前で連れてくることはできなかった。そこで、ダンスの相手を探す手間が省けてちょうどよかったと思いながら、自分を呼び出した女性と踊ったのだった。

そんなことを繰り返していれば、婚約者ではない女性とならダンスをする男と評されても仕方がなかった。



だとしても、見たことのない可愛らしいドレスを身に着けて、ラノルトと楽し気に会話をしているシェミナにアーヴェルは苛立ちを感じた。









その翌日、アーヴェルからシェミナに、侯爵家へ来るように、と書かれた手紙が届いた。


ラノルトとの関係をなじられるのかもしれない。しかし彼にハンカチを渡して、アーヴェル同意のもと、劇場に出かけただけだ。責められるほどのことはなにもしてない。

鬱々とした気分を抱えて呼び出しの手紙のことを考えながら庭園でお茶を飲んでいると、子爵夫人がその席にやってきた。


「ひどい顔」


シェミナを見るなり夫人はそう言って、彼女もテーブルについた。


「なにかあったの?」

「いえ、別に。アーヴェル様からお手紙が届いて」

「侯爵家へ来いとでも書かれていた?」


見事な推測にシェミナはなにも言えない。


「アーヴェル様が他の女性と親しくされているからと言って、あなたもそうしていいことにはならないでしょう?」

「それは、そうですけど」


やられたらやり返すなど、子供じみたやり方だということはシェミナにもわかっている。しかし踏みつけられたままでいるのは我慢ならなかったのだ。シェミナには浮気なんてできやしない、と高を括っているアーヴェルの鼻の穴を明かしてやりたかった。


「まぁ、確かに、彼は女性との距離を間違えているけれどね」


しょんぼりしてしまったシェミナを励ますように夫人は言った。



アーヴェルがどの女性とも決定的な関係には至っていないことは夫人には分かっていた。

彼がおかしな行動を取り始めた頃、夫人以上に心配をした子爵が秘密裏に調査をしたのだ。子爵は、シェミナに幸せになれない結婚生活を送らせる気はなく、婚約を白紙にすることも辞さない覚悟だった。

彼が不貞を働いていないことは明らかになったが、行動の理由はよく分からないままに終わった。

しかし不貞がないのでは婚約に異議を申し立てるのは難しい。


今でこそ愛のない政略結婚をする者は少ないが、それでも侯爵を含む高位貴族ではそれが当然だと考える者も少なくない。アーヴェルが他の女性に目を向けたとしても、黙ってみて見ぬふりをするのが夫人の勤めとされている。


次男のアーヴェルは侯爵の持つ伯爵位を継承することになっている為、彼も彼と結婚するシェミナも正確には高位貴族ではないのだが、アーヴェルの生家が侯爵家であることに変わりなく、周囲はふたりを高位貴族として扱うことだろう。

そうなるとシェミナは高位貴族の一員として愛のない結婚を受け入れなければならず、そのうえ、アーヴェルが不貞を犯していないのであれば尚のこと、黙って婚約を続けることしかできなかった。








シェミナは暗いグレーを基調とし、控えめな飾りがついているだけのシンプルなドレスを着てアーヴェルの待つ侯爵家へ向かった。


母に言われるまでもなく婚約者以外の男性と出かけたことは常識に反した行動だったと思ったのだ。少しでもお小言を減らしたくて、反省をしていることを示したくて地味なドレスを選んだのだが、そんなシェミナを見たアーヴェルは遠慮なく嫌な顔をした。


ラノルトと出かけたときは着飾っていたくせに、自分と会うときは飾り気のないシンプルで地味な色のドレスを着ており、シェミナは自分と会うのは嫌なのだと考えてしまったからだ。


「ごきげんよう、アーヴェル様」

「久しぶりだな」


それっきりふたりの間には沈黙が流れ、挨拶以降の会話が続かない。


視線をそらして居心地が悪そうにしているシェミナにアーヴェルは言う。


「新しく美術館ができることは知っているか?」


長い沈黙のあとで思った以上に普通の話題を持ち出したアーヴェルに不審なものを感じつつもシェミナは答えた。


「はい。王女殿下のご発案だとか」

「今から行こう」

「ですが、開館はまだ先だと聞いています」

「俺と行けば入れる」


間もなくオープンとなる美術館は王家所有である。彼らの身を守るのは近衛騎士の役目であり、その騎士が警備上の確認があるとでも言えばいつでも中に入れるのだ。

しかしこれは近衛の中でも特に高位な貴族にだけ許された特権であり、要するにアーヴェルは伯爵家のラノルトには無理だが、侯爵家の自分には可能だ、と言いたかったのだ。

しかし近衛の事情など知らないシェミナがそれを評価するわけもなく、そうですか、と言っただけだったことに、アーヴェルはまた苛立ちを募らせた。


さらに怖い顔になったアーヴェルにシェミナは視線を泳がせる。

そんなに嫌いならシェミナを誘わなければいいのに。彼が親しくしている女性たちの誰かとなら彼だってここまで機嫌は悪くならない。


そう思うシェミナだった。








通用口から廊下を進み、閲覧スペースに一歩入ると、そこは精巧に計算されて作りこまれた空間だった。

展示物の時代に合わせた飾り付けがされており、今までに見たことのない新しいタイプの美術館に仕上がっている。


「すごいわ」


シェミナは目につくままに展示物を見て回り、キラキラと目を輝かせる彼女の様子にその隣で目を細めるアーヴェルであった。







思いがけず楽しい時間を過ごせたシェミナは心地よい疲れを感じつつ、アーヴェルと共に彼が予約しておいてくれたカフェへと向かったのだが、偶然にも店内には若い女性とお茶を楽しむラノルトがいた。


「ほら、やっぱりあいつは浮気者だ」


勝ち誇ったように言うアーヴェルにシェミナは呆れてため息をついた。


「あの方は彼の妹さんですよ」

「なに?何故、君がそんなことを知ってるんだ」

「お会いしたことがあるんです」


そう言ってシェミナはふたりの座るテーブルに近づいて挨拶をした。


「こんにちは、リリーエ様。この前はありがとうございました」



ラノルトと劇場に出かけた日、彼が開演の時間を間違えて記憶していた為、かなり早く集合してしまったのだ。

時間をつぶす為、彼は劇場近くの自分の屋敷にシェミナを招待することにした。彼の妹、リリーエと対面したシェミナは、年が近いこともあり、親しくなったのだった。




「まぁ、シェミナ様、こんにちは」

「アーヴェルじゃないか。スティアーニ子爵令嬢と外出とは珍しい」


ラノルトの嫌味にアーヴェルは苦い顔をしているが、ふたりの令嬢は話に夢中で気づいていない。


「素晴らしい劇だったでしょう?」

「えぇ、本当に。また見に行きたいわ」

「でしたら、叔母様に頼んでみますわ。今度はわたくしたち、ふたりで行きましょう」

「そうできたらとても嬉しい」


リリーエと楽し気に話をしているシェミナをどうにか引き離し、押さえておいた個室に落ち着いたが、ふたりきりでは話すことがない。


「王妃殿下が茶会を予定していることは知っているか?」

「はい、噂で聞きました。アーヴェル様は警護の任に就かれるのですよね?」

「あぁ」


やっと絞り出した話題は仕事絡みの内容で、まるで業務連絡。

それも当然のことかもしれない。ここ最近、アーヴェルとシェミナは共に時間を過ごすということがほとんどなかった為、共通の話題がない。


「この前、劇場にやんごとなき方が見えられたと聞きましたが、アーヴェル様も警護に立たれていたのですか?」


シェミナの問いにアーヴェルはまたも苦い顔になった。

婚約者が浮気する様子を上階からずっと見ていなければならなかったのだ。不愉快なことこの上なかった記憶が蘇り、苛立ちを押さえて言った。


「あぁ」

「では劇を見ておられたのですね」


シェミナは急に嬉しそうな顔になって演劇の内容について語りだした。


「ふたりが泣く泣く別れを選ぶシーンにどう思われましたか?」


そんなことを聞かれても困る。彼女とラノルトに気を取られていたアーヴェルが演目をきちんと見ているわけもなく、感想を求められても答えられない。

しかしふたりを盗み見していたと告白するのは憚られて、適当なことを言ってごまかした。


「俺は仕事であの場にいたんだ、劇を見ている暇などない」


それは口にした本人が意図した以上に冷たい響きを持っていて、シェミナの表情は固まった。


「観劇は苦手なんだ、母上のお供でよく行かされたから」


慌てて取り繕ってみても、もうシェミナに笑顔は戻らなかった。


「アーヴェル様はお仕事をされていたというのに、配慮のない発言を申し訳ございません」


気まずい空気の中、店の者から、ディナー客の到着する時間となりますので、と言われ、そのまま追い出されてしまった。



ふたりの乗った馬車が子爵家に着くとすぐ、シェミナはアーヴェルに挨拶をして、自分で馬車を降りて屋敷に入っていってしまった。

出迎えにきた子爵夫人が、その後ろ姿を呆れたように眺めてから、馬車の中に取り残された形のアーヴェルに苦笑した。


「娘をお送りくださいましてありがとうございました」

「いえ、婚約者として当然のことです」


そう言ったアーヴェルに夫人は困ったような顔をした。


「ですが、この婚約は考え直したほうがいいのかもしれませんわ」

「え?!」


思わず声をあげたアーヴェルを夫人は静かに見つめている。


「アーヴェル様はもう健康でいらっしゃいますから、わざわざシェミナと婚姻などなさらずとも、必要なときにお声かけ頂く程度で十分かと思います」


夫人はそう言って微笑むと、ごきげんよう、と挨拶をし、自分も屋敷の中へと入っていった。



「奥様もおひとが悪い」


屋敷の中に入るとドアを開けて待っていた家令が苦言を呈した。


「あら。娘をないがしろにするような男に嫁がせたくないと思うのは親として当然のことでは?」

「彼は少し、いえ、かなり不器用な男というだけです」

「あなたも主人と同じことを言うのね。交流がなくとも男性同士は固い絆で結ばれているのかしら」


夫人はそれが冗談であると示すようにクスクスと笑って、自室へと向かった。




夫人がアーヴェルにああ言ったのにはきちんとした理由があった。


彼はもう二十三歳で騎士職でなければ、妻帯していてもおかしくない年齢だ。それなのに、彼は未だにシェミナとの婚姻の時期を口にすることはなく、そのうえ、男女の仲にはなっていなくとも、多くの女性たちとの交流を持っている。


この婚約を白紙にするのならそれでもかまわないのだが、当然、シェミナは次を探さなければならない。

女性は二十歳までには結婚しているのが普通で、婚約期間を一年儲けなければならないことを考えたら、シェミナが十九歳を迎えるまでが相手を見つけるギリギリのタイミングとなる。


こうした現状を切々と夫に訴えても彼は家令と同じように、心配ない、というばかりで、アーヴェルに苦言を呈するでもなく、侯爵家に苦情を申し立てるでもない。


夫人としても、今はまだ、婚約を白紙にするつもりはなかったが、今後のアーヴェル次第ではそれもあり得ることをにおわせておきたかった。


「これで変わらなければ見限るしかないわね」


夫人は自室の窓からアーヴェルの乗る馬車をため息をついて見送ったのだった。









それから一週間ほどしたある日、シェミナはリリーエの誘いを受けて、騎士たちの訓練所を見に行くことになった。

長くアーヴェルの婚約者をしているシェミナではあったが、ここに来るのは初めてで、観客席にたくさんの令嬢たちが座っていることに驚いた。


「大勢が来ているのね」


思わず漏らしたシェミナの感想にリリーエは笑った。


「それはそうですよ。皆、相手探しに来ているのです。騎士職はお給金もいいですし、万一のことがあってもきちんと寡婦年金が支払われますから、結婚相手として人気なんです」


そのとき、黄色い声があがった。打ち合いをしていた騎士ふたりの間で勝負がついたようで、令嬢たちはその雄姿に声をあげたのだ。


「それに、彼らはとても素敵だもの」


そう言ったリリーエは少し頬を染めていて、彼女のお目当ての男性がこの中にいる誰かであることがわかった。



なんとか空いている席を見つけてリリーエと並んで座ると、ちょうどアーヴェルが出てきたところだった。


「見て、アーヴェル様がいらしたわ!」

「今日も素敵ねぇ」


すぐ近くに彼の婚約者がいるというのに、令嬢たちはうっとりとため息をついている。

アーヴェルが婚約していることは誰もが知っていることだったが、その婚約者をないがしろにしていることもまた周知の事実。シェミナが今ここで彼の婚約者であることを大声で公言したところで、きっと彼女たちの態度は変わらないだろう。


アーヴェルの稽古の相手はラノルトだった。彼らは互いに向き合って一礼した次の瞬間には激しい打ち合いが始まった。

永遠に終わらないと思われたそれも最後にはラノルトの持つ模擬剣をアーヴェルが叩き落として勝負が決まり、その瞬間、令嬢たちは歓声を上げた。


「アーヴェル様、お見事です!」

「素敵でしたわ!」


令嬢たちは皆、彼に称賛と意味深な視線を送っており、シェミナは改めてアーヴェルの人気を見せつけられていた。

幾度となく彼との婚約を破棄するよう彼とお付き合いのある女性たちに言われ続けてきたシェミナであったが、これでは仕方がないと思った。彼の妻という立場を欲する令嬢は多く、大した取り柄もなく、おまけに子爵という釣り合わない立場のシェミナがそれを占有していることが許せないのだろう。


つい先日、シェミナは子爵夫人から、この婚約を考え直してもかまわない、と言われたのだ。


「でもこれは侯爵様から頂いたご縁です」

「そうね、でもアーヴェル様の体調に不安があったからこそのご縁であって、健康な彼にはもう治癒は必要がないのではなくて?」


アーヴェルにはもうシェミナが必要ないのだという事実を突きつけられ、思わずうつむいた娘を夫人はそっと抱きしめた。


「どんな選択をしたとしてもわたしはシェミナを応援するわ」


だからよく考えてみて、と言って夫人は優しく微笑んだ。





令嬢たちの歓声に手を上げて応えているアーヴェルの姿に、シェミナは今こそ決断のときだと思った。


「シェミナ様?」


急に立ち上がり、最前列に向かって歩き出したシェミナの後をリリーエは慌てて追った。



彼の前には大勢の令嬢たちが押し寄せていたが、シェミナの存在に気づいたアーヴェルは驚いた顔をした。


「シェミナ!」


アーヴェルが声を上げたことで令嬢たちは一斉に彼女を見て、それが彼の婚約者であることに気づくと不満そうな顔をしながらも道をあけた。


「あの」


シェミナが婚約の白紙についてどう切り出そうか迷っていると、それより早くアーヴェルが言った。



「来てくれたのか、嬉しいよ」



てっきり、何をしに来た、と棘のある言葉を投げかけられると思っていたシェミナはその言葉に驚いてしまう。


「リリーエ様にお誘いを頂きましたので」

「そうか。ハイマー伯爵令嬢、ありがとう」

「いえ」


リリーエはにっこりと微笑み、ちらりとラノルトのほうを見た。




実は、シェミナをここに連れてくるようにリリーエに頼んだのはラノルトだった。


恋多き男だけあってラノルトはアーヴェルが『お願い』をした女性たちとも親しくしており、その内容を聞いていた。愚かだとは思ったが、婚約者の為を思ってしたことならばそれを笑っては騎士道に反すると考えたのだ。

そして偶然、知り合ったシェミナになんとなく妹のリリーエを重ねてしまい、そうなるともう彼は放っておけなくなってしまった。


「お兄様は人が良すぎます」


ラノルトとシェミナの噂を聞いたとき、今度こそ兄に心から愛せる女性が現れたのだと喜んでいたリリーエは計画を打ち明けられて、思わずそうこぼした。


「彼女は同僚の大切な婚約者だ、俺が奪うわけにはいかない」

「大切?とてもそうは思えません」

「当人同士にしかわからないこともある」


口をとがらす妹をラノルトがたしなめると、


「それは殿方同士の間違いでは?女性にはさっぱりわかりませんわ」


と反論されたが。




妹の協力を取り付けたラノルトは、次にアーヴェルと話をつける為、彼が登城したら自分のところに来てほしいと伝言が伝わるように手配した。

城の中にある騎士たちの集まる詰め所で剣の手入れをしていると背後に誰かが立ち、それがアーヴェルだと分かったのは彼が少しばかりの殺気を放っていたからだろうか。


「呼び出してすまないね」

「これから勤務に入るんだ、手短にしろ」


不機嫌さを隠そうともしない彼にラノルトは言った。


「今度、妹が君の婚約者を訓練所に連れてくる。そこで稽古の相手をしてやるから、せいぜい良いところ見せつけるんだな」

「何故、そんな真似を?」

「お前の為じゃないぞ、スティアーニ子爵令嬢がこれ以上、危ないことをしないようにだ」


その言葉にアーヴェルも苦い顔をした。

従者からぎょっとするようなドレスを身に着けていたと聞いているし、そのあとの夜会では、人気のないところにいたから休憩所に案内しておいた、と王女を通してとある貴族夫人から言われている。


きっと彼女は一夜の恋を求めているのだ。それを知ったとき、アーヴェルは相当にショックを受けた。


しかし、


「シェミナは来ないよ」


アーヴェルは力なくそう言った。


「何故、分かる」


「以前、誘ったことがあるんだが、荒事は嫌いだと言って来てくれなかった。君の妹君が誘ってくれたとしても結果は同じだろう」


「それはいつの話だ?」


「どうだろう。俺が騎士になりたての頃だから、五年以上、いやもっと前の話かな」


「そのころのシェミナ令嬢はまだ子供だったんじゃないか?」


「まぁ、そうかもしれない」


出会った頃からアーヴェルにとってのシェミナは大切な女性であり、将来の妻であった。彼女を子供だと思ったことは一度もないが、年齢だけで言えばそうなる。


「だから君はポンコツだというんだ」


「なんだと?」


「幼い少女を訓練所に誘っても怖がるのはあたりまえだ。令嬢が年頃になって初めて男性が魅力的に映る場所になるんだよ」


「そういうものなのか?」


「そういうものだよ!」


よくわかってない顔をするアーヴェルにラノルトは怒鳴りつけると、


「彼女の訪問日が決まったら連絡する。それまでしっかり腕を磨いておけ」


と続け、一方的に話を打ち切った。






来てくれないと思っていたシェミナの訪問に、ラノルトのおせっかいに感謝して良いと思えるほどアーヴェルは喜んだ。

近衛を務められるだけの整った容姿をした彼の屈託のない笑顔に、令嬢たちはまたも黄色い声を上げるも彼の興味はシェミナにしかない。


「この稽古が終わったら今日はあがりだ、どこかで食事をして帰ろう」


アーヴェルはそう言ってシェミナから離れ、ラノルトの待つ中央へと戻っていった。




「シェミナ様、席に戻りましょう?」


リリーエがそう声をかけると近くの席を陣取っていた令嬢たちがそこを空けてくれた。


「こちらをお使いください」

「よろしいのですか?」


彼女たちは顔を見合わせて苦笑いをし、


「だって、婚約者様には勝てそうもありませんから」


と言って観覧席から去っていった。


頬を赤らめるシェミナにリリーエは微笑んで、座りましょう、と促した。





打ちのめされて膝をついても、歯を食いしばって立ち上がるアーヴェルに、シェミナは初めて彼の人間らしい姿を見たような気がしていた。


アーヴェルはシェミナより六歳も年上で、彼女の治癒を受けた彼は順調に回復していき、あっという間に少年から青年へと変貌していった。

六歳も年上ならば大抵のことはシェミナよりうまくできるに決まっている。シェミナにとってのアーヴェルはいつだって完璧な見目麗しい貴族令息で、どこか遠い存在に感じていた。

だから彼がこんなふうに必死になってなにかに取り組む姿を見たのは今日が初めてだった。


ふと稽古場の隅にいる稽古を終えた騎士に目がいった。彼は待っていた婚約者であろう令嬢からタオルを受け取っていた。

それに自分の姿が重なって見え、思わず目をそらした。


汗だくのアーヴェルにシェミナがタオルを差し出す。彼は笑顔で、ありがとう、と言って、それを受け取り、退屈させたかな?、などと言い、それにシェミナは、いいえ、と穏やかな笑みを返すのだ。


急に彼がシェミナと同じ人間になったりするから、思考があらぬ方向へ飛んでしまった。


顔を赤らめて明後日の方向を見ているシェミナの横顔をアーヴェルはじっと見つめていた。








それからふたりはラノルトやリリーエのお膳立てを受けたり、受けなかったりしながら、デートを重ねていった。

今では共通の話題も増え、稽古後のタオルを恥ずかしげもなく渡せるようにまでなった。仲睦まじい様子に嫌がらせをしても無駄だと悟った令嬢たちはアーヴェルから手を引いた。

彼が『お願い』をした令嬢や婦人たちは、浮名を流す彼と過ごしたという事実を必要としていただけで、誠実になったアーヴェルには興味がなかった。







ある晴れた日の午後、ふたりの結婚式が執り行われた。

シェミナの手元にあるブーケは、先月、公爵家に降嫁した王女が結婚式で使用したものだ。造花ではあるが宝石も散りばめられており豪華な造りをしている。


「色々ポンコツなアーヴェルでは苦労すると思うけど、心根は悪くない男だから」


王女はそう言ってシェミナとアーヴェルの結婚を祝ってくれた。





「病める時も 健やかなる時もシェミナ・スティアーニを妻として愛し、慈しむ事を誓いますか?」


「誓います」


神父の言葉にアーヴェルは迷いなく答え、続く新婦への問いにシェミナも小さくうなずいて答えた。


「誓います」


「それでは誓いの口づけを」


シェミナと向かい合ったアーヴェルは彼女を覆うベールを上げ、その顔を見つめた。


緊張から硬い表情をしているシェミナに、アーヴェルは年上の余裕を見せつけて少し微笑んだ。


「シェミナ、俺を見て」


「アーヴェル様」


「きっと幸せにする」


彼はそう言って身をかがめ、シェミナに口づけをした。


「新しい夫婦の誕生をお祝いください」


神父の宣言で列席者は揃って拍手をし、ふたりの門出を祝福したのだった。

お読みいただきありがとうございました。

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