第11回 よりよい食環境のために
エッセイもどき第11回です。
今回は食事そのものというよりは、食事にまつわるエトセトラの話をします。渚ではありません。(このネタが通じるのかはわからない)
外食する時、周りの席に座っている人のことが気になってしまいます。
良い意味で気になる分には問題ないと思います。何を注文したのだろうとか、何の話をしているのだろうとか。そういう興味本位・好奇心的な意味であれば私は構いません。
ただ、悪い意味で気になってしまう時があります。
食事マナーが悪い、隣の人の態度が悪い、なにやら喧嘩をしている。
それらの情報が視覚や聴覚を通して入ってくるとどうしても気にしてしまいます。そしてそこから発せられる負のオーラや自分の中の怒りといったものに振り回されてしまうのです。
これは決して自分だけのことではないとは思いますし、自分と同じ境遇の人がいたとしてそれを批判するわけではないのですが、気にし過ぎなのだと思っています。
ただ、それを気にしないようにする方法がわからなくて困っているのです。
これは何も食事をする店内に限った話ではありません。
電車の中で足を組んで通行を邪魔している人、歩道で大きく広がったり中央で立ち止まったりして通路を塞いでいる人、電車のホームや停留所で人をけなすような発言をしている人。
本当は、これらを見なければ、聞かなければいいのです。
でもそれが出来ないから困っているのです。
電車で座っているなら目を閉じていればいいでしょう。耳はイヤホンで塞ぎます。
でもそれがいつでもどこでも実行できるわけではありません。
視覚と聴覚を物理的に塞ぐということは人間の生活能力を下げることです。
ではせめて気にしないようになればいいのです。
そう。その音声が耳に入ったとして、その行動が目に映ったとして、そこに負の感情さえ覚えなければ私は苦しまなくて済むはずです。
だけど、それが難しい。
この数年で訓練を始めたのですが、中々そう簡単には実践できないでいます。
そしてそれは外食に行った時やテイクアウトした時も同じですね。特に価格帯が安い店になればなるほど気にしてしまうような他人と遭遇する確率が高い。
他人にこうして厳しい目を向けているということは、同時に自分にも同様の目を向けていることで、それは自分の生きづらさにも繋がっているのかもしれないと思うと、できるだけ無くしていきたいものなのですが。
(例:あの店で店員さんに注文する時のあの態度はもしかして失礼だっただろうかと後で振り返って落ち込んで勝手に悲しむ)
とはいえこればっかりは練習あるのみかと思っています。
あとは練習していく中で「こういう視点も持つといいかも」という自分なりのコツを積み足していくことも重要かもしれません。
例えばとにかくメニューを読み込んで気を逸らすとか、料理が届いたらひたすら食べることに集中するとか。あるいはこのエッセイもどきで何を書こうか脳内で構成を練るというのもいいかもしれません。色々試してみると今後も策が増えそうです。
食事は自分にとっては美味しいもの五感で摂取するという人生の楽しみのひとつであり、人間が生きていくための栄養を摂取するための現実的な必要事項であり、料理の味や周囲の環境などから様々な感情を得るためのものでもあります。
せっかく多種多様なプラスの成分を得ることが出来る機会なので、できるだけマイナスに感じることは減らしていきたい。この問題を乗り越えれば私の人生はまた一つ前に進んで、よりよいものに近付くはず。
そう信じて鍛錬に励んでいきたいと思います。
さて、ではこの文章を書き終えたらまた新たに1件外食に行ってこようと思います。
今改めて振り返ったことが上手く活かされるのか、実験であり実践です。
ではまた。