8.たった1人でも
バルナベット家との夕食を終えたリヴィは、足元おぼつかなく客間へと戻った。
客間にはドリスが待機していて、リヴィの顔を見るや否や興奮気味で駆け寄ってきた。
「リヴィ様! お帰りをお待ち申し上げておりました。どうです、修行の成果は存分に発揮できましたか?」
ドリスに瞳は期待にきらきらと輝いている。
クラウスから夕食の誘いを受けたのは、今日のお昼頃の出来事だ。それ以降、ドリスは「ようやくアシェル様との距離を詰めるチャンスがやってきた」と言って、終始興奮しっぱなしであった。
リヴィのルビーレッドの髪を綺麗に結い上げたのはドリスであるし、化粧を施したのもドリス。衣装かけの中から一番リヴィに似合うドレスを選んだのもドリスであれば、挨拶の言葉を考えてくれたのもドリスだ。
ドリスはリヴィの味方だ。リヴィのことを誰よりもよく考えてくれている。
リヴィはくしゃりと顔を歪めた。
「ドリス……どうしよう。私、失敗してしまった……」
ドリスは途端に真面目な表情となった。
「失敗? 何があったのですか?」
「テーブルにステーキソースを零してしまったの。それだけならまだ良いんだけど、ステーキソースがアシェル様の服にもかかってしまって……」
リヴィが泣きそうな表情で訴えれば、ドリスはリヴィの肩に手を添えて微笑んだ。
「それくらいの事なら気になさらずとも大丈夫ですよ。どれだけ気を付けていても失敗はします。クラウス様は、それくらいの失敗でリヴィ様を追い出したりはしません」
「確かにクラウス様は『気にするな』と言ってくださったわ……。でもフローレンス様は見るからに呆れていたし、アシェル様は『着替える』と言って席を外したきり戻ってこなかったの……」
もしもリヴィとアシェルの仲が良好であったなら、多少の粗相は笑い話になったかもしれない。けれども現在、リヴィとアシェルの仲は最悪だ。ただでさえ嫌いな人間から、そのうえ粗相まで働かれたら、もう歩み寄る気持ちなどなくなってしまう。
リヴィの肩に手を添えたまま、ドリスは悩ましげな表情だ。
「リヴィ様……」
「それに私、きちんとアシェル様に謝ることができなかったの。気が動転してしまって……」
「それは……アシェル様の印象はよろしくないかもしれませんね……」
このたびの食事の席は、恐らくクラウスがセッティングしてくれたものだ。フローレンスやアシェルの態度を見る限りでは、その他の家族はみなリヴィの同席には反対していた。それも当然だ。礼儀も知らないみすぼらしいだけの娘を、食事仲間になどしたいはずがない。
しかしそうであるからこそ、今日の食事の席はリヴィにとってチャンスだった。うまく立ち振る舞えば、バルナベット家の人々がリヴィに抱いていた印象を一変することができたのだから。
(でも私は失敗してしまったわ……クラウス様には申し訳ないことをしたし、ドリスとヴィクトールの努力も無駄にしてしまった……)
リヴィの落ち込みぶりといったら、今にも膝から崩れ落ちてしまいそう。
しばらく考え込んでいたドリスが、よしと意気込みの声をあげた。
「リヴィ様。すぐにアシェル様に謝りにいきましょう」
思いもよらない提案に、リヴィは驚きの表情となった。
「い、今からアシェル様のところに?」
「そう、謝罪にはスピード感が大切です。夕食の場で謝罪ができなかったのなら、今すぐ謝りにいきましょう」
「でも私はアシェル様に嫌われているわ。私室をお訪ねしたところで、扉を開けてもらえるかどうか……」
リヴィが消え入るような声で訴えれば、ドリスは再び考え込んだ。
そして十数秒考え込んだあと、力のこもった口調で言った。
「ではまずクラウス様を味方につけましょう。クラウス様のところに行って、アシェル様に謝りたいから力を貸して欲しいとお願いするのです。当主であるクラウス様が扉を叩けば、あのアシェル様でも拒むような真似はできません」
ドリスの生き生きとした瞳をのぞき込んで、リヴィは遠慮がちに返した。
「確かにドリスの言うとおりだわ。でもそんなに上手くいくかしら……アシェル様を訪ねる前に、クラウス様の私室をお訪ねしなければならないということでしょう……」
リヴィの声はしだいに小さくなり、語尾はほとんど言葉にならなかった。
バルナベット家の屋敷は3階建てだ。1階部分は主として使用人らの私室区域であり、リヴィの間借りしている客間もこの1階部分に位置している。
2階分はバルナベット家の人々の生活区域だ。厨房やダイニングルーム、浴室や書庫などがこの階にある。
そして屋敷の3階部分は、バルナベット家の人々のプライベートゾーンだ。リヴィがこの3階に立ち入った経験は1度だけ。屋敷に到着したその日、クラウスへの挨拶に訪れたそのときだけだ。3階部分への立ち入りを禁じられているわけではないが、安易に立ち入っていい場所ではないということは、さすがのリヴィでも安易に想像ができた。
アシェルの私室を訪ねることは気が重い。そしてそれ以上に、屋敷の主であるクラウスの私室を訪ねることは気が重かった。リヴィを目の敵にするフローレンスが一緒にいる可能性もあるのだから尚更だ。
気落ちして小さくなるリヴィの肩に、ドリスが優しく触れた。
「クラウス様は晩酌が好きなお方です。夕食が終わった後も、1時間程度はダイニングルームに滞在されていることが多いんです」
リヴィははっと表情を明るくした。
「ではクラウス様は、まだダイニングルームにいらっしゃる……?」
「いらっしゃるかと存じます。それにフローレンス様はお酒を飲まれませんから、いつも食事が終わるとすぐに私室へと戻ってしまうんです。クラウス様と1対1なら、リヴィ様の頼みごとも引き受けてもらいやすいと思いますよ」
そこで言葉を区切ると、ドリスは客間の奥の方へと歩いていった。
そして再びリヴィの元へと戻ってきたときには、手のひらに小さな包みをのせていた。薄桃色の可憐な紙包みで、少しだけ厚みがある。見覚えのない紙包みを前に、リヴィは不思議そうに首をかしげた。
「……これは?」
「リヴィ様がお作りしたハンカチです。リヴィ様が客間を空けている間にお包みしておきました。これを持って一緒にアシェル様に謝りに行きましょう。心を込めて謝罪すれば、アシェル様もきっとわかってくださいますから……」
そう言って微笑むドリスの顔が、今のリヴィには天使のようにも見えた。
リヴィの人生は敵ばかりであった。大好きだった家族に虐げられ、友人たちに見放され、話相手といえばときおり屋根裏部屋を訪れる小鳥たちだけ。「助けてください」と訴えても、「許してください」と叫んでも、手を差し伸べてくれる者はいなかった。
けれども今はドリスがいてくれる。フローレンスに嫌味を言われても、アシェルに冷たくされても、ドリスがそばにいてくれれば乗り越えられる気がした。
「ドリス、ありがとう……」
リヴィはドリスの肩にひたいをのせ、心からのお礼を言った。
ドリスの瞳が一瞬、不安の色を映したことにリヴィは気づかなかった。