7.最後の晩餐
そこは恐ろしくなるほど豪華な晩餐会の会場であった。
四方の壁には、金色の額縁に飾られたたくさんの絵画。天井からぶら下がる巨大なシャンデリアが、テーブルクロスに並べられた銀食器を照らしている。テーブルの中央に生けられた花々の瑞々しく華やかなこと。
リヴィが晩餐会の会場に入ったとき、テーブルにはすでに3人の人が腰かけていた。横並びに座るクラウスとフローレンス、真正面にアシェル。アシェルの隣の席が空いているから、リヴィはそこに座る予定となっているらしい。
3人分の視線が射貫くようにリヴィを見た。可憐なすみれ色のドレスに身を包み、顔には薄化粧をほどこしたリヴィの姿を。
リヴィはふぅ、と息を吐き、それからドレスの裾をつまみ上げた。
「この度は夕食にお招きいただきありがとうございます。身支度に時間がかかってしまい、参上が遅れまことに申し訳ございません」
挨拶とともにリヴィが披露したのは、ヴィクトール直伝の優雅なカーテシー。まだぎこちない部分はあるけれど、頭を下げることしかできなかった初日の挨拶から比べれば、別人のような変貌だ。
リヴィが頭を上げたとき、フローレンスとアシェルは驚きに目を丸くし、クラウスは満足そうに頷いた。
「この10日間で化けたじゃないか。ヴィクトールに貴族界のマナーを習っているんだって?」
リヴィは真っ直ぐに背筋を伸ばし、はっきりとした口調で答えた。
「はい。毎日たくさんのことを教えていただいております」
「結構結構、引き続き励んでくれ。さぁ席につきなさい、すぐに料理を運ばせるから」
クラウスに促され、リヴィはアシェルの隣席に腰を下ろした。座りざま、伺うようにアシェルの横顔を見た。リヴィのカーテシーを見て一瞬驚きの表情を浮かべていたアシェルは、今はもう人形のように無表情だ。
間もなくして、数人の使用人が次々と料理を運んできた。色とりどりの前菜に、ほっこりと湯気を立ち昇らせるスープ、パンと数種類のジャム。リヴィにとっては幸いなことに、バルナベット家の晩餐は完全なフルコース形式ではないようだ。数種類のメニューがまとめて提供されるのならば、一皿一皿の食事マナーにそこまで気をつかう必要はない。
食前酒のグラスを片手に、フローレンスが涼しげな声で言った。
「リヴィさん。お洋服、マリエラのお古ばかりでごめんなさいね」
フローレンスの口調はリヴィを試しているようであり、そして見下しているようでもある。
リヴィは持ち上げかけていたフォークを、慌てて元の場所へと戻した。
「いいえ。私の方こそ何も持たずに来てしまってすみません。お洋服をお借りできて本当に助かっています」
「アシェルとの結婚が決まれば、お洋服なんて山のように買ってあげられるのだけれど。どう? アシェルとは仲良くやっているかしら」
「えっと……」
リヴィは言葉を詰まらせ、アシェルの顔色をうかがい見た。母親から名指しをされたというのに、アシェルは何食わぬ顔で前菜を口に運んでいる。会話に加わるつもりはなさそうだ。
返す言葉を探し、リヴィはおろおろと視線を泳がせた。
助け舟を出した者はクラウスであった。
「アシェル、お前の態度についてはドリスから聞いている。リヴィ嬢を避けているというじゃないか。仮にも結婚候補者として屋敷にお招きしているのだから、少しは歩み寄りの姿勢を見せたらどうだ」
クラウスの強い口調にも、アシェルは何も答えなかった。前菜の皿に視線を落とし、黙々と料理を食んでいる。
(覚悟はしていたけれど、アシェル様は本当に私のことが嫌いなのね……)
クラウスは溜息を零しただけでそれ以上何も言わなかつた。フローレンスも何食わぬ顔で食事に戻ったので、リヴィもまた余計なことは言わずにフォークを持ち上げた。
食事の時間がどれくらいになるのかはわからない。リヴィにとってはつらい時間となりそうだ。
それから先は、クラウスとフローレンスが会話の中心となり夕食の席は進んだ。会話の内容は他愛のないことだ。たとえば屋敷の庭に野良猫が入り込んだだとか、最近市井で流行っている菓子の話だとか、そんなとりとめのない話。
リヴィは黙ってバルナベット夫妻の会話に耳を澄ませていたが、使用人がメイン料理を運んできたとき勇気を出して口を開いた。
「あの……夕食の席に他のごきょうだいはいらっしゃらないのでしょうか」
リヴィの質問に、クラウスとフローレンスは顔を見合わせた。少し間をおいた後、口を開いた者はフローレンスだ。
「マリエラは人見知りなの。一応声はかけたのだけれど、家族以外の人間がいる食事の席には座りたくないんですって」
フローレンスの口調にはあからさまな棘がある。リヴィはうつむき、ぐっと唇を噛んだ。
(私はマリエラ様にもフローレンス様にも、アシェル様の結婚相手として認められてはいないのね……)
スプーンを握る手に力がこもった。
この10日間の間に、リヴィはヴィクトールの教えで一通りのマナーを身に着けた。会話、挨拶、身だしなみ、歩き方、食事、その他思いつく限りのマナーを。多少の付け焼刃感は否めないが、世間知らずであったリヴィにとっては大きな進歩だ。
しかしそれらのマナーは、通常の貴族の令嬢であれば当たり前のように身に着けていること。いわばリヴィはまだスタートラインに立っただけなのだ。ただ当たり前のことができるだけでは、アシェルの結婚相手として認められるはずもない。
(落ち込んでいても仕方がないわ……こうして屋敷に置いてもらえるだけで感謝しないと……)
リヴィが気を取り直して顔を上げたとき、クラウスが口を開いた。
「テオは仕事中だ。ドリスからテオのことは聞いているか?」
「アシェル様の弟君ですよね。お名前だけは伺っております」
クラウスは満足そうに頷いた。
「そうか。帰ってきたらすぐに挨拶に向かわせよう。テオはきょうだいの中で一番気さくな奴だ。リヴィ嬢も仲良くなれるだろう」
リヴィはいつかのドリスの説明を思い出した。
バルナベット家は3きょうだいで、長男のアシェルが21歳、末娘のマリエラが11歳、そして次男のテオは18歳であったはずだ。リヴィと一番年齢が近く、父親いわく気さくな性格であるというテオ。彼が仕事を終え屋敷へと戻ってくれば、リヴィとアシェルの関係も少しは変わるだろうか。
そのとき黙々とメインディッシュを口に運んでいたアシェルが、今日初めて口を開いた。
「母上、ステーキソースを取っていただけますか?」
アシェルの視線の先には、小皿に注がれたステーキソースがあった。フローレンスの席からも十分に届く位置ではあるが、一番手が届きやすい場所に座っているのはリヴィだ。
フローレンスがナプキンで指先をぬぐう間に、リヴィはステーキソースに向かって手を伸ばした。
「アシェル様、私がお取りいたします」
リヴィはステーキソースの小皿を持ち上げた。
どんな些細なやり取りでもいいから、アシェルと会話がしたいと思った。ほんの一瞬でもいいから、アシェルと真正面から視線を交わらせてみたいと思ったのだ。
しかし――
「あ」
と声をあげたのが誰であったのかはわからない。
リヴィの手のひらから転がり落ちた小皿は、真っ白なテーブルクロスの上を跳ね、そのまま床へと落ちていく。小皿から零れたステーキソースが、アシェルのズボンに降りかかり点々と染みを作った。
からんからんと床の上で回転する小皿を、リヴィは呆然と見下ろした。視界の端には茶色く汚れたテーブルクロスと、そして不愉快そうに歪んだアシェルの顔。
(ど、どうしよう……せっかく夕食に呼んでいただいたのに……)
余計な気回しをしなければよかったと後悔しても、過ぎた時間は戻らない。