6.名前も知らない花
リヴィがバルナベット家にやってきてから、間もなく1週間が経とうとしていた。
バルナベット家でのリヴィの生活はおおむね順調であった。栄養豊富な3度の食事と、清潔で手入れの行き届いた生活。死人のように青白かったリヴィの顔は、この1週間で別人のように健康的となった。
しかし順調であるのはあくまでリヴィの健康面の話。肝心のアシェルとの結婚話については、全くと言っていいほど進展を見せていない。
「ドリス……私はこれからどうすれば良いのかしら」
1週間とは打って変わって、打ち解けた口調でリヴィは尋ねた。
会話相手のドリスは、客間の隅でリヴィの衣服にブラシをかけているところだ。
「どうすれば、とは? 今の生活に何か不満がございますか?」
「不満がある、という意味ではないの。でもこのままではいけないと思うの。だって私、この1週間で一度もアシェル様に会っていないもの……」
リヴィは悲しげに溜息を零した。
バルナベット家の長男であり次期当主であるアシェル・バルナベット。黒曜石のような瞳と、烏羽のような黒髪を持つ、人形のように整った容姿の男性だ。
リヴィはそのアシェルの結婚候補者としてバルナベット家へとやってきたはずなのに、アシェルと話をした機会は屋敷に到着した初日だけ。それもアシェルから一方的な自己紹介を受けただけだ。廊下ですれ違うこともなければ、園庭で顔を合わせる機会もない。
同じ屋根の下で暮らして1週間が経とうというのに、リヴィとアシェルはほぼ赤の他人のままだ。
リヴィの悩みをドリスは正しく汲みとったようだ。衣服にブラシをかける手を止め、悩ましげにうなる。
「確かにリヴィ様のおっしゃるとおりです。アシェル様にご披露の機会がないのであれば、花嫁教育は何の意味もなさない」
ドリスとリヴィは顔を見合わせた。
十数秒に及ぶ沈黙のあと、リヴィは小さな声で言った。
「アシェル様の私室をお訪ねして、お話の機会を作る……というのは不味いかしら?」
ドリスはきっぱりと言い返した。
「あまりよろしくはないと思います。この1週間、アシェル様はお屋敷に滞在していらっしゃるはずですが、私は一度も姿をお見かけしておりません。恐らくアシェル様は、私とリヴィ様を意図的に避けていらっしゃる」
「そう……じゃあ私室をお訪ねしても追い返される可能性が高いのね……」
――元より私が望んだ結婚ではありませんから。
リヴィが初めてアシェルに会ったその日、アシェルは父親であるクラウスに向けてそう言い放った。
アシェルは端からリヴィと結婚するつもりはない。結婚自体が嫌なのか、それとも単純にリヴィのことが嫌いなのか、詳細な事情はわからないけれど。
(どうすればいいのかしら……いくら私の方から歩み寄ろうとしても、アシェル様が私を避けているとなると……)
散々な初対面ではあったが、リヴィはアシェルが嫌いではない。互いに望まない政略結婚なのだとしても、できる限りは心を通わせたいと思う。
しかしこれだけ大きな屋敷の中で、故意に接触の機会を断たれてしまっては、歩み寄ることは簡単ではなかった。
長い長い沈黙のあと、遠慮がちにドリスは言った。
「リヴィ様、その……贈り物などはいかがでしょう」
リヴィは意外そうに目を瞬かせた。
「……贈り物? 私からアシェル様に?」
「そうです。贈り物をもらって嫌な気分になる人はいません。あのアシェル様でも多少はリヴィ様を意識するようになるでしょう。贈り物を渡したい、というのは私室を訪ねる理由にもなりますし」
ドリスの主張は非常に説得力があった。
しかしリヴィはドリスを見つめ、悲しそうに言った。
「とてもいい案だとは思うけれど、私はアシェル様にあげられる物を何も持っていないわ……」
ドリスは「おっしゃる通りです」と肩を落とした。
手荷物ひとつ持たずバルナベット家の屋敷へとやって来たリヴィ。もし宝石のひとつでも、ハンカチの1枚でも持ち合わせていたのなら、アシェルへの贈り物にすることができたのだけれど。
ふとある考えがリヴィの頭に浮かんだ。
「ドリス……いらない布を少しわけて貰うことはできるかしら」
リヴィの突然の要望に、ドリスはいぶかしげな表情を作った。
「布、ですか? 構いませんが……」
「あと裁縫道具を貸してほしいの。色々な色の刺繍糸があると嬉しいのだけれど」
「使用人共用の裁縫道具でよければ、どうぞご自由にお使いください。針仕事に不自由がないだけの刺繍糸は揃っていると存じますが」
リヴィはほっとした表情で微笑んだ。
「良かった。それなら何とかなりそう」
「あの……リヴィ様、一体何をお考えです?」
戸惑いを隠せないドリスに、リヴィは屋敷にやってきて一番の笑顔を向けた。
「私は何もできないし、何も持っていないけれど、裁縫は少しだけ得意なの」
***
真四角に裁断した空色の布を、ほつれないよう丁寧に縫っていく。
ソファに腰かけちくちくと針仕事に勤しむリヴィを、ドリスは関心した表情で見つめていた。
「リヴィ様にこんな特技があったとは想像もしませんでした」
布と同じく空色の木綿糸をきゅ、と引っ張り、リヴィは苦笑いを浮かべた。
「特技というわけではないの。屋根裏部屋で暮らしていたとき、服が破れても新しい物をもらえなかったから、破れたところを自分でつくろうしかなかったの……」
「あのクソ狸ジジイ……と、失礼。ところで布は無地で良かったのですか。アシェル様に贈るハンカチなら、柄のある布の方が良かったのでは?」
リヴィがアシェルへの贈り物として選んだのは、手作りのハンカチだ。小さなハンカチならば端切れからでも十分に作ることができるし、出来上がりまでそれほど時間もかからない。保管場所に困ることもないし、いざとなれば雑巾にでもしてもらえばいい。
贈る側としても、もらう側としても気楽だと思ったからだ。
そして物置に保管された箱一杯の端切れの中から、リヴィが選んだのは柄のない空色の布。贈り物としてはシンプルすぎる、というドリスの懸念はもっともだ。
けれどそれについては、リヴィにもしっかりと考えがある。
「ハンカチに刺繍を入れようと思っているの。あまり大掛かりな刺繍は入れられないけれど、隅っこにワンポイントを入れるくらいなら、私でも十分にできるから……」
「ははぁ、なるほど刺繍ですか。ちなみにどのような刺繍を入れるご予定です?」
リヴィは縫い針を持ったその手で、客間の壁にかけられた絵画を指さした。そこには淡い黄色の背景に、数本の白い花が描かれていた。星のような形をした花だ。
「あの花を刺繍しようと思うの。バルナベット家のお屋敷には、あの花を描いた絵画が何枚も飾ってあるから」
絵画に描かれた白い花の名前を、リヴィは知らない。その花の実物を見たこともない。けれどもこうして屋敷に絵画を飾るということは、その白い花はバルナベット家にとって特別な物なのだ。
そう思い、ハンカチの刺繍はその白い花にしようと決めた。
(空色の布地に白い花を刺繍すれば、きっと綺麗なハンカチになるわ。アシェル様が受け取ってくれるといいけれど……)
――元より私が望んだ結婚ではありませんから。
そう言い放ったアシェルの顔を、リヴィはまた思い出す。手作りのハンカチを渡しただけでは、アシェルとの関係が劇的に良くなるとは思えなかった。
それでもせめて、このハンカチを渡すことがほんの1歩歩み寄るきっかけになれば。そう願わずにはいられない。
針仕事に没頭するリヴィを、ドリスがやり切れない面持ちで見つめていた。
「きっとアシェル様は喜んでくださいます……きっと……」
「ありがとう。そう言ってくれると嬉しいわ……」
それから数日の間、リヴィは花嫁教育の間をぬってハンカチ作りを続けた。
バルナベット家の当主であるクラウスから、晩餐への誘いを受けたのは、リヴィが刺繍の最後の一針を刺し終えたその日のことであった。