おまけ:もう一つの恋のゆくえ
アシェルとリヴィの結婚式から1週間ほどが経ったある日のことだ。
その日、ドリスは客間の掃除にいそしんでいた。天井のほこりを払い落とし、隅から隅まで床を掃き、大きな窓ガラスを丁寧に拭き上げる。クローゼット内の忘れ物チェックにも余念がない。
結婚式を終えたことで、リヴィは正式にバルナベット家の一員となった。リヴィの私室は屋敷の3階へと移され、長く滞在した客間とはお別れとなったのだ。私物がすっかり運び出された客間は、ようやく客間としての本来の姿を取り戻した。とはいえ高山の山頂に位置するバルナベット家の屋敷に、はるばる客人がやってくることは稀なのだけれど。
大方の掃除が終わり、ドリスがほうきを片手に一息を吐いたとき、客間にはテオが入ってきた。右手に小さな旅行カバンをぶら下げたテオは、軽い調子でドリスに声をかけた。
「ドリス、やっほ。お疲れさん」
「テオ様、お疲れさまです。お仕事帰りですか?」
「そ、さっき帰ってきたばかり。次の仕事のことで諜報員と少し話がしたくてさ。ローズベルトの街まで行ってきたんだ」
ローズベルトはアンデルバール王国の南西部に位置する都市だ。馬車を飛ばしても日帰り旅行ができる距離ではないから、どうやらテオは数日がかりでローズベルトの街へと赴いていたらしい。ここ数日屋敷の中で姿を見かけなかったのはそういうことか、とドリスは密かに納得した。
「それは長旅でしたね。お時間があるようでしたら紅茶をお淹れいたしましょうか? ちょうどおやつ時ですし」
「お、いいねぇ。じゃあこれ、茶菓子の準備も一緒にお願い。ローズベルトの街で買ってきたんだ。チーズとこしょうのクッキー、ドリスが好きそうだなと思ってさ。一緒に食べよう」
テオはカバンから取り出した小箱を、ドリスの目の前に差し出した。ドリスはそれを遠慮がちに受け取った。
「いつもお土産をいただいてしまって申し訳ありません。手作りのクッキーを渡した分のお礼は、もうとっくに頂いておりますのに」
ドリスがテオに手作りクッキーを渡したのはもう数か月も前の出来事だ。それ以来、テオは『クッキーのお礼』と称してたびたび土産を買ってくるようになった。土産を貰えることはもちろん嬉しい。しかし土産を選ぶことがテオの負担になっているのではないかと、ドリスは気が気ではないのだ。
ドリスの不安を知ってか知らずか、テオは相変わらず軽い調子で言った。
「俺が勝手に買ってきてるだけなんだから気にしないで。行く先々で土産を選ぶのって結構楽しいんだよね。マリエラは好き嫌いが激しいし、リヴィに貢ぐとアシェル兄の怒りを買うからさ。気兼ねなく渡せる相手がドリスしかいないんだ」
にっこりと笑って言葉を続けた。
「じゃ、先に親父への報告を済ませてくるよ。そんなに時間はかからないと思うから、お茶の準備よろしく」
そう言い残しテオは客間を出て行った。
残されたドリスは閉じられたばかりの扉をしばし見つめ、それから手の中の小箱に視線を落とした。テオが先に言ったとおり、手渡される土産に特別な意味はない。土産を買うことに楽しみを覚えたテオは、後腐れのない渡し先としてドリスを選んだだけなのだ。
そう頭ではわかっていても、思わず頬が緩むのを抑えられないドリスであった。
***
掃除道具の片づけを終えたドリスは、その足で厨房へと向かった。時刻が午後3時を回った今、厨房に人の姿はない。昼食の後片付けを終えたシェフたちは、夕食の準備まで束の間の自由時間を楽しんでいる頃だ。
やかんに水を注ぎ、火にかける。ティーポットに茶葉を入れ、菓子皿にクッキーを並べる。テオがドリスの好みに合わせて買ってきてくれたクッキーからは、こしょうとチーズの良い香りが漂ってきた。
コンロの上のやかんがシュンシュンと音を立て始めた頃、厨房にはテオがやってきた。先ほどまでの朗らかな様子はどこへ行ったのやら、眉間にしわを寄せ難しい顔をしている。
ドリスはティーポットにお湯を注ぎながら尋ねた。
「テオ様、どうされました? 仕事のことで何か問題が起こりましたか?」
テオは歯切れ悪く答えた。
「んー……そういうわけじゃないんだけどさ」
「ではご家族の問題ですか? 私でよければお話をうかがいますけれど」
ドリスはちらりと視線をあげた。白い湯気の向こう側では、テオがのどに魚の小骨がつかえたかのような表情を浮かべていた。
やがてテオは途切れ途切れに語り始めた。
「親父がさ……突然、結婚の話を持ち出してきたんだよね」
ドリスはぴくりと肩を揺らした。
「……結婚、とはテオ様の結婚の話ですよね」
「そうそう、俺の結婚の話。アシェル兄とリヴィの結婚式のときに、とある貴族の家から縁談を持ちかけられたらしいんだよ。仕事上そこそこ付き合いのある家の娘だし、親父としてはまぁ悪くないかなって印象だったらしい」
淹れたての紅茶をちびりとすすり、テオは話を続けた。
「別にすぐにその娘を婚約者にしようだとか、そういう話ではないんだけどさ。『せっかくの機会だし一度くらい顔を合わせてみたらどうだ』くらいの温度感かな」
バルナベット家の跡取りではないテオは、将来に関しては自由が許されている。父親であるクラウスは、テオの結婚に関して積極的に口を出すつもりはないらしい――それは以前、ドリスがリヴィの口から聞いた話だ。
ドリスにとって、クラウスがテオの縁談を進めようとすることは予想外だった。おそらくテオにとっても予想外だったのだろう。だからこうして小難しい顔をして厨房を訪れた。
ドリスはこぶしを握りしめ、震える声で尋ねた。
「テオ様は……その娘と会ってみるつもりなのですか?」
テオはすぐに答えた。
「悩み中、親父にも『ちょっと考えさせて』と伝えてきた。正直、会ったところでその先に話が進むとは思えないんだよね。俺、結婚にも結婚相手にもこだわりないからさ。どんな良い子と会ったところで『この子と結婚したい』なんて思わないんじゃないかなー……」
テオが縁談に対して後ろ向きであることに、ドリスは少し安堵した。
しかしドリスの安堵を打ち砕くように、テオはまた口を開いた。
「でも、さ。こだわりがないからこそ、親父のいいなりになってみるのも悪くないと思う気持ちもあるんだ。初めて会ったときは好きになれなくても、いざ結婚してみたら意外とうまくやれる可能性だってあるわけだしさ。アシェル兄とリヴィだって最初は険悪な仲だったけど、今ではこっちの目が潰れるくらいラブラブだしさー。――ドリスはどう思う? 俺、その娘との結婚を前向きに検討すべきかな?」
軽い調子で投げかけられた質問に、ドリスは答えることができなかった。
つい数日前に見た光景が思い出された。リヴィとアシェルの結婚式だ。祭壇に立つアシェルの顔がテオの顔へと変わり、バージンロードを歩くリヴィの顔が知らない令嬢の顔へと変わる。テオが誰かと結婚するところなど見たくないと思った。だからといって黙りこくっているわけにはいかず、ドリスは震える唇を開いた。
「わ、私は――……」
しかし結局、その先に言葉は続かなかった。未来を想像すれば胸が痛み、ドリスの瞳からは大粒の涙が溢れ出した。テオはぎょっと目を剥いた。
「……ドリス?」
突然の涙に驚いたテオは、ドリスの肩に触れようと手を伸ばした。けれどもその手が届くよりも早く、ドリスはふいとテオに背を向けて、厨房から走り去ってしまった。数滴の涙の粒だけを残して。
「え? え?」
厨房に1人残されたテオは、困惑に頭を抱えていた。視界に入る物は湯気を立ち昇らせる2つのティーカップと、クッキーが盛りつけられた菓子皿。それから床に落ちた涙の粒。どの発言がドリスを傷つけてしまったのだろうと思い返してみれば、同時にいくつかの過去の出来事が頭の中に浮かんだ。
不貞腐れるテオに向かって、たった1袋しかない手作りクッキーを差し出したドリス。
クッキーのお礼として土産を手渡したときの、驚きながらも嬉しそうな顔。
以降土産を手渡すたびに、はにかむようなドリスの笑顔を見てきた。
「嘘、まさかドリスって……」
その可能性に行き着いた途端、顔に熱がのぼった。まさかそんなことがあるはずないと思いながらも、時間が経つにつれて可能性は現実味を帯びていく。
「何だよ、もぉー。それならそうと言ってくれれば、俺だってもうちょっとさぁ……」
癖っ毛をガシガシと掻き乱したテオは、ドリスを追って厨房を飛び出した。
リヴィとアシェルの結婚式が終わり、落ち着きを取り戻しかけたバルナベット家は、また少し賑やかになる。





