43.呪い
エミーリエが罪の告白を終え、時計室が行き場のない静寂に包まれたとき。また遠くからカンカンと鐘のような音が聞こえ始めた。螺旋階段を上る人の足音だ。時折音を途切させながら、ゆっくりと近づいてくる足音は2人分。ドリスとテオだ、とリヴィはすぐに気付いた。
リヴィが予想したとおり、時計室には間もなくドリスとテオが顔を出した。燕尾服の上着を肩にかけたテオは涼しい顔をしているが、ドリスは真っ赤な顔で息を切らしている。重たいマーメイドドレスのすそを引きずってきたのだから当然だ。
沈黙するアシェル、リヴィ、エミーリエを順に見やり、テオは居心地が悪そうに肩をすくめた。
「えーと……これ、どういう状況? ジーンはどこに行ったの?」
アシェルが腕組みをして答えた。
「ジーンは帰った。黒幕の正体が明らかになった以上、奴にもう用はない」
「黒幕って誰?」
「そこにいるエミーリエ・レスターだ」
テオとドリスは同時にエミーリエを見た。全ての罪を告白したエミーリエは、うなだれたままもう何も言わなかった。それでも2人は大体の状況を把握したようであった。
「……なるほどね。ジーンがエミーリエの名に反応を示したのは、エミーリエが殺しの依頼者だったからってことか。それでアシェル兄、この場の後始末はどうするわけ?」
テオの質問に、アシェルは少し考え込んだ。それからドリスの方を見て言った。
「ドリス、リヴィを連れて時計室を出てくれ。2人ともどこか暖かい場所で休んでいるといい。後始末は私とテオでする」
「わかりました」
まだ軽く息を弾ませながらドリスは返事をした。それからリヴィの方を見て言った。
「リヴィ様、行きましょう。まずは傷の手当てをなさいませんと。それから休憩室で温かなココアでも頂きましょう」
温かなココアと聞いて、リヴィは口の中に唾液が湧くのを感じた。あまりにもたくさんの出来事が起こりすぎて、心も身体もへとへとだった。甘いココアをたっぷりと飲んで、どこか静かな場所でゆっくりと休みたかった。
(エミーリエ……)
ドリスの肩を借り扉をくぐる最中、リヴィはエミーリエを見た。床にへたり込んだエミーリエは、ずっと黙り込んだまま。リヴィが部屋を立ち去ろうとしているというのに、視線一つ送ろうとしない。自らの行く先を悟っているのか、それとも何も聞こえてはいないのか。
何か伝えなければならない言葉があると思った。
その言葉が何なのかすぐにはわからなくとも。
リヴィはドリスの元を離れ、再び時計室の中へと歩み行った。エミーリエの膝元にしゃがみ込み、うなだれた顔を覗きこんだ。
エミーリエは不可解そうに少しだけ視線をあげた。
「……何よ」
「エミーリエ……私はあなたが好きだったわ。誰よりも幸せになってほしいと思っていた。薄暗い屋根裏部屋に閉じ込められても正気を失わずにいられたのは、あなたの存在があったから」
それは偽ることのないリヴィの本心だった。エミーリエがずっとリヴィを憎んでいたのだとしても、リヴィは誰よりもエミーリエが好きだった。例え裏切られたのだとしてもその事実は消えてなくなりはしない。
リヴィはエミーリエの瞳を真正面から見つめた。エミーリエの瞳は髪と同じ赤茶色だ。赤茶色の瞳にルビーレッドの瞳が映る。よく煮出された紅茶の水面に、鮮血を垂らしたように綺麗。2つの色は淡く輝きながら混じり合っていく。
「エミーリエ、私はあなたが好きだった。だから――あなたを赦すわ。あなたが私にしたこと、全部」
エミーリエの瞳を見つめたままリヴィは微笑んだ。それが最後だった。リヴィはそれきり何も言わず、ドリスとともに時計室を後にした。
カンカン、カン。狭苦しい階段室に2人分の足音が響く。リヴィはドリスの肩を借りながら、長い螺旋階段をゆっくりと下っていく。
もう遠く離れてしまった時計室の扉を見上げ、ドリスはやり切れなさそうな表情だ。
「リヴィ様……本当にエミーリエ嬢を赦してよろしかったのですか?」
リヴィは朗らかに笑った。
「エミーリエを赦すことが最善であったかどうかは、正直よくわからないわ。でも多分、間違ってはいなかったと思うの。だって私、今とても清々しい気分なんだもの」
「清々しい……ですか? 親友に殺されかけたというのに?」
よくわからない、とドリスは首をひねった。
リヴィは階段を下りる足を止め、ドリスを一緒に時計室の扉を見上げた。時計室にはまだアシェルとテオ、そしてエミーリエが残されている。アシェルの言う『後始末』が何を指すのか、正確なところはわからない。それでもどんな結果になっても後悔はしないのだろうという漠然とした予感はあった。なぜならもう全ては終わったことなのだから。
「さよなら、エミーリエ。もう2度と会うことはない」
リヴィは微笑み、また螺旋階段を下り始めた。それきりもう振り返ることはなかった。
***
ところ変わって、時計室。
床にへたり込んだままのエミーリエを前にして、アシェルは『後始末』を始めようとしていた。燕尾服の上着をテオに手渡し、シャツの袖をまくる。たかだか少女1人消すだけの後始末。アシェルにとってはあくびが出るくらい簡単な仕事だ。
しかしテオは不安そうな面持ちだ。
「アシェル兄、勝手なことをしていいの? リヴィはエミーリエのことを赦すと言ってたけど」
「リヴィは赦したのかもしれないが、私は赦していない」
はっきりとそう言い切ると、アシェルはエミーリエの首元に向かって手を伸ばした。頸椎を粉砕すれば人は一瞬で死にいたる。必要以上に苦しむことはない。それがせめてもの情けだった。
アシェルの指先がエミーリエの肌に触れた。その瞬間、エミーリエがふいと顔を上げた。その表情を見た瞬間、アシェルは思わず息を飲んだ。
「……エミーリエ……?」
エミーリエの顔は正気を失っていた。光を失くした瞳は何を見つめるでもなく虚空を泳ぎ、だらりと開いた唇の間にはピンク色の舌が覗いている。投げ出された手足に力はなく、人形のようにぴくりとも動かない。
そして最も異常なことは――赤茶色であったはずの瞳が真っ赤に染まっていた。まぶたの内側に鮮血を垂らしたみたいに。
エミーリエの変貌を目の当たりにして、アシェルは動けなくなった。心臓がドクドクと嫌な音を立てた。少し前まで饒舌に自らの罪を告白していたエミーリエ。この短時間の間に、彼女の身に一体何が起こったというのだろう。
異変に気付いたテオが、アシェルの背後にかがみこんだ。エミーリエの顔をしばし見つめ、眉をひそめた。
「……完全に気が触れちゃってるみたいだけど。アシェル兄、何か変なこと、した?」
「いや……私は何もしていない。真実を吐かせるのに少々脅しはしたが、気が触れるようなことはなにも」
ごめんなさい、と小さな声が聞こえた。それはエミーリエの唇から零れ落ちた声だった。力なく虚空を見つめたエミーリエは、乾いた唇からぽつりぽつりと言葉を零れ落とす。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
まるで壊れたからくり人形のように何度も何度も。
終わることのない懺悔を聞くうちに、アシェルはエミーリエの変貌の理由がわかった気がした。
「まさか……リヴィの『神が与えし力』か?」
「『神が与えし力』? でもリヴィはギフトを持ってないはずじゃ……」
「目覚めたんだろう。きっと、そういうこともある」
この世界では、ごくまれに不可思議な力を持った人間が生まれる。力の発現は血統によるものだったり、育った環境によるものだったりと、様々な推測がされるが正確なところはわかっていない。ギフトの種類は様々で、時に世界を変えるような力を持って生まれる者がいれば、何の役にも立たない力のこともある。生まれたときから力を持つ者もいれば、死の直前に力を発現させる者もいる。
魔法、超能力、異能、様々な呼び名を持つ神が与えし力。
罪の告白を終えたエミーリエの顔を、リヴィは間近で覗き込んだ。視線を合わせて「赦す」と言った。何が力の発動条件であったのかはわからない。だがエミーリエの変貌は確かにリヴィの力によるものだ。
今、神から与えられたばかりの名もない神が与えし力。
「ははっ……」
アシェルの口から小さな笑い声が零れた。肩を揺らし、腹を震わせ、笑い声はしだいに大きくなる。しまいには身体をくの字に折り曲げて大笑いするアシェルの足元では、エミーリエがとろりと赤い涙を零し始めていた。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。繰り返される言葉とともに、血のように赤い涙が頬をつたう。
正気を失ったエミーリエは今、どんな世界を彷徨っているのだろう。
どんな世界を見て、どんな声を聞いているのだろう。
それが長い長い贖罪の旅だとすれば、旅の終わりは一体いつになるのだろう?
アシェルは突然、笑うことを止めた。そのまま何も言うことなく時計室を出ていこうとした。テオがそれを呼び止めた。
「ちょっとアシェル兄、後始末はどうするのさ?」
「何もする必要はないだろう。被害者であるリヴィ自身が、死ぬよりつらい罰を与えたのだから」
10年前、エミーリエは卑劣な手段を用いてリヴィを厄憑きにした。「赤い目髪には呪いの力がある」と吹聴し、リヴィの人生をめちゃめちゃにした。
時は流れ、エミーリエの罪は暴かれた。そして罪に相応しいだけの罰が与えられた。エミーリエはこの先の人生の大半を贖罪のために費やすのだろう。今を失い、未来を失い、美しさを失い、言葉すら失い、得体の知れない力に心を蝕まれ続けていく。それは死ぬことよりもつらい。
アシェルは考えた。
リヴィの『神が与えし力』にはなんと名前をつければ良いだろう。罪人に死よりもつらい罰を与える、おぞましい力にふさわしい名は。
おぞましくも美しい力にふさわしい名は――
「呪い」





