38.時計塔の逢瀬
フランチェスコとの会話を終えたアシェルは、大急ぎでテオとドリスを探した。2人には「フランチェスコ・レスターが10年前の事件の黒幕である」として全ての推理を伝えてある。その前提がくつがえされてしまったことを、すぐにでも伝えなければならないと思ったからだ。
人混みの中にドリスの姿を見つけることはできながったが、テオはすぐに見つかった。燕尾服の上着を肘にかけたテオは、ちょうどバルコニーの階段を下りてきたところだった。
「テオ!」
アシェルが駆け寄ると、テオは呑気な調子で言った。
「アシェル兄、ちょうど良かった。エミーリエが会場を退席したから、俺たちは先にお暇するよ」
テオの言葉を聞き、アシェルは会場の中を見回した。
夜会に到着した当初、会場内にはエミーリエを含む数人の王族関係者が滞在しており、彼らの周囲には目立つ人だかりができていた。しかし今はその人だかりがすっかりなくなってしまっている。王族関係者はそろって会場から退席したようだ。
「……そのようだな。リヴィはすでに合流済みか?」
「いや、少し前から姿が見当たらないんだ。ちょっと目を離したすきに会場から出ちゃったみたいでさ。多分お手洗いだと思うから、ドリスが迎えに行ったところ」
「そうか……」
アシェルが煮え切らない表情で呟けば、テオは不思議そうな顔をした。
「どうしたの、何か問題が起こった?」
「……ああ、その通りだ」
アシェルは周囲の人々に聞こえないようにと声を潜め、先ほどのフランチェスコとのやり取りについて語った。フランチェスコは占星術師が不吉な予言をしたことについて、素直に謝罪を口にしたこと。占星術師と共謀した様子も、使用人たちの言動を操作しようとした様子もなかったこと。そして――占星術師の末路についても何も知らなかったこと。
すべてを語り終えたとき、テオのひたいには一筋の汗が流れた。
「ちょっと待ってよ。10年前の事件の黒幕はレスター候ではなく、真犯人は別にいるってこと? そうだとしたら真犯人の目的は何なのさ。リヴィを厄憑きにすることで利益を得る人物が、レスター候の他にいた?」
アシェルは少し考え込み、それからぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
「真犯人の目的は……目に見えた利益ではなかったのかもしれない。キャンベル家の評判を落とすこと……あるいはリヴィを不幸にすること……それ自体が真犯人の目的だったのかも」
そう、初めから何もかもが間違っていたのだ。
黒幕だと思っていたフランチェスコ・レスターの背後には、顔も名もわからない真犯人が隠れていた。その人物はキャンベル家に、あるいはリヴィ個人に恨みを抱き、姑息な手段を用いてリヴィを陥れんとした。
恐らく、真犯人は狙ってフランチェスコを隠れ蓑にしていたのだろう。フランチェスコが夜会に占星術師を招いたのは『真犯人にそう差し向けられた』から。レスター家の使用人がリヴィを貶めるような発言を繰り返したのは『彼らが真犯人によって操作されていた』からだ。いうなればフランチェスコは真犯人に利用されていただけ。王家との繋がりという甘い蜜を吸わされて、すべての罪を良いように押し付けられていた。
そして不覚にもヴィクトールとアシェルは――その真犯人の存在に気付くことができなかった。
アシェルはこぶしを握り締めた。ジーンと会話をした日の記憶がありありと思い出された。ジーンはアシェルの推理がまったくの的外れであることに気付いていたのだ。しかしあえてその間違いを正すことはせず、アシェルを夜会の会場へと呼び出した。真相はお前自身の目で確かめろ、と。仕事に享楽を求めるジーンらしいやり口だ。
怒りを募らせるアシェルを見て、テオが不安げに口を開いた。
「アシェル兄……ジーンは『今回の依頼は10年前の事件とつながっている』と言ったんだろ。その言葉は『10年前の事件の真犯人がまた動こうとしている』という意味だったんじゃない? だとしたら今回の依頼のターゲットはエミーリエじゃない」
テオはその先を言わなかったが、アシェルは頭の芯がキンと冷えていくのを感じた。
ジーンは夜会の最中に1人の令嬢を殺すつもりだ。そしてその殺しの依頼者は、キャンベル家に、あるいはリヴィ個人に強い恨みを抱いている。加えてかつてジーンが言い放った意味深な言葉――夜会に来いよ、アシェル。きっとお前にとって忘れられない夜になるぜ。
「リヴィ」
アシェルは呟き、会場の出口に向かって駆けだした。
誰かの死がアシェルの心に傷跡を残すとすれば、それはリヴィの他にいない。
***
午後8時を目前にして、リヴィは宮殿の時計塔へと向かった。時計塔は夜会の舞台となる舞踏会場からは少し離れているが、目立つ建物であるから目指すことに苦労はしない。現に宮殿へと到着した当初、リヴィはその時計塔の時計を見て時刻を確認したのだ。
リヴィが時計塔の真下へと辿りついたとき、暗闇の中には男性が1人立っていた。月明かりに煌めく金色の髪と、女性のように優しい面立ち。彼がアンデルバール王国第3王子であるオスカー・グランドだ。
オスカーはリヴィの姿を認めると、花がほころぶように笑った。
「リヴィ・キャンベル嬢。来てくれたのか、良かった」
リヴィはオスカーからは少し離れたところに立ち、静々と頭を下げた。
「オスカー殿下……お久しぶりでございます」
「そうだな。あなたが私の婚約者となって、宮殿挨拶に訪れたとき以来会っていないのだから、もう10年ぶりだ。つらい生活を強いられていたのだと聞いていたが、元気そうで良かった」
「バルナベット家の皆さまにとても良くしていただいています。ご存じのこととは思いますが、アシェル・バルナベット様との結婚話が持ち上がっておりまして」
「……そのようだな」
オスカーはそこで言葉を区切ると、時計塔の入り口を指さした。
「時計塔の中に入ろう。この先の話は、決して誰にも聞かれるわけにはいかないんだ」
「はい……わかりました」
リヴィは素直にうなずき、オスカーに続き時計塔の扉をくぐった。
時計塔の内部は薄暗闇に包まれていた。大きな窓から射しこむ月光を除き灯りはない。もしも今日が新月の夜であったなら、時計塔の内部は底なしの暗闇に包まれていたことだろう。
リヴィを招き入れたあと、オスカーは時計塔の扉を丁寧に閉めた。それから物々しい口調で言った。
「リヴィ嬢、単刀直入に言わせてほしい。もう一度私の婚約者になるつもりはないか?」
突然の、そして思いもよらない提案だった。リヴィは目を丸くしてオスカーの顔を見た。
「何をおっしゃるのです。オスカー殿下にはエミーリエ・レスターという婚約者がいらっしゃいます」
オスカーはリヴィのルビーレッドの瞳を見つめ返し、低く掠れた声で告げた。
「エミーリエはじきに私の婚約者から外される。父親であるレスター候の不祥事が明らかになったからだ」
「……不祥事……ですか?」
「10年前、あなたが『厄憑き』の汚名を受けた件の茶会に関することだ。レスター候は無名の占星術師と共謀し、キャンベル家を陥れようと企んだ。目的は、あなたを王家の婚約者の座から引きずり下ろすこと」
リヴィは息を飲んだ。
「まさか」
「残念だが真実だ。王家の婚約者になったばかりのあなたに、根拠のない不吉な予言が授けられたことを、私はずっと疑問に思っていた。長年をかけて調査を続け、このたびレスター候が黒幕であるという揺るぎない証拠を入手した。この証拠があれば、レスター候の悪事を白日の下に晒すことができる。それはつまり、あなたの名誉を回復することができるということだ」
リヴィは混乱した。キャンベル家とレスター家の間には古くからの付き合いがある。当主であるルドリッチがとフランチェスコは良好な関係を築いていたし、リヴィとエミーリエは小さい頃からの親友だ。
優しくて誠実なフランチェスコがリヴィを陥れたのだと言われても、そう簡単に信じることはできなかった。
(でもオスカー殿下の発言が嘘だと決めつけることもできない……だって私には呪いの力などなかったんだもの。王家の婚約者の座を狙う何者かが、占星術師と共謀して私に嘘の予言を授けたのだとすれば、すべての辻褄がとおってしまう……)
オスカーはリヴィに1歩近づき、力強い口調で続けた。
「リヴィ嬢、私と一緒に失った人生を取り戻さないか。他ならぬこの夜会の会場で、私はレスター候の悪事を暴く。そしてその場でエミーリエ嬢との婚約を解消し、再びあなたを婚約者とすることを宣言しようじゃないか」
「でも、私にはアシェル様が……」
「私と結婚し王家の一員となることと、アシェル・バルナベットと結婚し暗殺一族の一員となること。どちらがあなたの人生にとって幸せだと思う。よく考えるんだ」
リヴィの身体がぬくもりに包まれた。オスカーに抱きしめられているのだと気付いた。
「リヴィ嬢、私はあなたを愛している。10年前、あなたは多数の令嬢を押しのけ私の婚約者となった。私がそれを望んだからだ。あなたとの婚約が解消されると知ったとき、私は何とかそれを止めようとしたが駄目だった。本当ならば私自身の手で……あなたを暗い屋根裏部屋から助け出したかった」
オスカーの優しい声が耳朶に流れ込んできた。しかしその子どもをあやすような優しい声に、リヴィはふと違和感を覚えるのだ。
違和感の理由はわからない、いうなれば本能からの警告だ。目の前の人物の言うことを素直に信じてはいけない、と。
リヴィはオスカーの肩を押し返した。
「あなたは……本当にオスカー殿下?」
オスカーは驚いたように目を見開いた。
「いきなりどうしたんだ。私がオスカー・グランド以外の誰に見える」
「違う、あなたはオスカー殿下じゃない。あなたは――……」
リヴィは至近距離にあるオスカーの顔を見つめた。リヴィがオスカーの顔を最後に見たのはもう10年以上も前のこと。それでも目の前の青年の顔は当時のオスカーの面影を残しており、別人だとは思えなかった。
しかしリヴィの中で違和感は膨らんでいく。膨張した違和感は冷や汗となって背筋をつたい落ちる。
(なぜかしら……私はこの人が怖い。この人の目に見つめられることが怖い。この人に触れられることが怖い。この感覚は以前にも味わったことがある……)
リヴィはオスカーの腕から逃れ、震える唇でその名前を口にした。
「あなたは――……ジーン・ロペス?」
次の瞬間、オスカーの顔面はどろりと溶け落ちた。まるで顔面に塗りつけていた蝋が熱で溶けていくような異様な光景だった。女性のように優しげな面立ちはボタボタと音を立てて床に落ち、ついには煌めく金髪も溶け落ちて、リヴィの前に姿を現した人物はジーン・ロペス。
ジーンはオリーブ色の髪を掻き上げながら、忌々しげに言った。
「俺の『仮面』、完璧だったはずなんだけど。動物的第6感が働いたってやつ? ほんとアンタ、野生児だよなぁ。面倒くせぇ」
(ジーンも『神が与えし力』の持ち主だったのね……他人の顔を借りることができるだなんて、人を殺すにはうってつけの力……)
リヴィはじりじりとジーンから距離をとりながら、平静を装って尋ねた。
「どうしてオスカー殿下に化けていたの。私に何の用?」
「俺の用事? そんなの聞くまでもないだろ」
次の瞬間、ジーンは目にも留まらない速さで動いた。燕尾服の懐から抜かれたナイフがリヴィの左腕を切り裂く。突然の出来事にリヴィは悲鳴をあげることもできず、よろよろと数歩後ずさった。
「なぜ」
呆然とつぶやき、切り裂かれたばかりの傷口に触れた。ぱっくりと割れた皮膚の間から鮮血が溢れ出してくる。焼けるような痛みを感じる。
右手にナイフをぶら下げたジーンは、蛇の目を細めて嗤った。
「お前を殺すぜ、リヴィ・キャンベル。せいぜい可愛い声で鳴いて、俺の嗜虐心を満たしてくれ」





