3.今はただ夢の中
クラウス、フローレンス、アシェルとの面会を終えたリヴィは、ドリスの案内により客間へと通された。
屋敷の1階に位置する客間には、クラウスの居室ほどではなくとも豪華な調度品が揃えられていた。
リヴィはふかふかのソファに尻をうずめ、それから大きく息を吐いた。
(とても疲れたわ……それでもすぐに追い返されなくて本当によかった……)
今日1日の出来事がぐるぐると頭の中を巡った。
突然キャンベル家へとやって来たドリス、涙すらなかった家族との別れ、気が遠くなるほどに長い馬車旅、霧の中で見上げた不気味な屋敷、そしてバルナベット家の人々との対面――……リヴィを取り巻く環境は、今日1日であまりにも変わってしまった。全てを夢と疑うほどに。
一緒に客間へと入ってきたドリスが、感情のない声でリヴィに尋ねた。
「リヴィ様。夕食は何をお召し上がりになりますか?」
リヴィは恐る恐る尋ね返した。
「……夕食をいただけるのですか?」
「もちろん。リヴィ様はアシェル様の大切な結婚候補者でございます。バルナベットの屋敷に滞在される限り、何ひとつ不自由ない生活をお約束いたします。夕食の他にも、必要な物があれば遠慮なくおっしゃってくださいませ」
リヴィは自身の衣服へ視線を落とした。
可愛らしさの欠片もないワンピースはあちこちが擦り切れて、補修が途中になってしまったため袖口が破れたままだ。そしてどことなくカビ臭い。ぼさぼさの髪にはほこりが絡みついているし、手足の汚れも目立つ。
上目づかいでドリスを見やり、遠慮がちに口を開く。
「では先にお風呂を貸してもらえないでしょうか。こんな汚い姿で夕食をいただくのは気が引けますし……あと部屋着も貸していただきたいです……」
「承知いたしました、すぐに湯船の準備をいたします。部屋着は客人用の物をお持ちしましょう。少々お待ちくださいませ」
ドリスはリヴィに向かって一礼をすると、すぐに客間を出ていった。
残されたリヴィはまたひとつ息を吐き、ソファへと倒れ込んだ。本当にとても疲れたのだ。10年ものあいだ屋根裏部屋で暮らしてきた。長い時間馬車に揺られることも、初対面の人々と会話をすることも、リヴィにとっては重労働であった。
柔らかな座面に頬をつけ、目を閉じる。温かなお風呂も美味しい食事も魅力的だけれど、できればこのまま眠ってしまいたかった。
汚れて土くれのようになった靴を脱ぎ、ソファの上で身体を丸める。生まれたての赤子のように。すぐに眠気が訪れる。穏やかな眠りに引き込まれていく。
やがてリヴィの唇からは静かな寝息が聞こえ始めた。
***
「父上は何をお考えなのです。あのようなみすぼらしい娘を私の妻にしようなどと!」
リヴィがソファの上で眠りについた頃、クラウスの居室にはアシェルの怒号が響いていた。怒りでぶるぶるとこぶしを震わせるアシェルを見ても、クラウスはなお冷静だ。
「すぐに妻にしろなどとは言っていない。結婚候補者として検討しろ、と言っている。人の話をよく聞け」
アシェルは嘲笑を零した。
「検討? 検討の余地などあるはずがないでしょう。まともな挨拶ひとつできない乞食のような娘など」
「最初にリヴィ嬢を見たときは私とて驚いたがな。しかし彼女の境遇を考えれば仕方のないことだ。『厄憑き娘』として家族に虐げられていたのだと、以前お前にも話しただろう」
「記憶にありませんね。結婚話は父上の冗談だと思っていたので」
アシェルはきっぱりと言い放ち、クラウスは苦笑いだ。
「アシェル、お前な……」
わいわいと言い合いを続ける父子のかたわらでは、フローレンスが安穏と猫を撫でていた。リヴィ・キャンベルにも、息子の結婚にも、まるで興味がないのだというように。
白桃の頬に黒髪を垂らし、ゆるゆると猫の背を撫でるさまは1枚の美しい絵画のようだ。
「私はあの娘と結婚するつもりはありません。すぐに追い返してください」
「それはできない」
「なぜ!」
「キャンベル侯から『決して厄憑き娘を送り返してくれるな』と言われているからだ」
フローレンスの猫を撫でる手が止まった。闇夜のような瞳はクラウスを見て、そしてアシェルの黒曜石の瞳もまたいぶかしげにクラウスを見た。
「……どういう意味でしょう。まさか私が妻にせずとも、使用人としてあの娘を屋敷に留めるつもりですか?」
アシェルはことさら不機嫌だ。
アシェルの中でリヴィの第一印象は最悪であった。仮にもバルナベット家に嫁いできた身だというのに、結婚相手であるアシェルに向かって名乗ることもしない。みすぼらしいなりであったとしても、淑やかなカーテシーのひとつでも披露すれば、印象は大分違ったであろうに。
妻としても使用人としても、リヴィを屋敷に置くことは御免、アシェルの無言の訴えを受けてクラウスはからからと笑った。
「私とて役立たずの娘を使用人に迎え入れるつもりなどない」
「では一体どうするつもりで――……まさか」
アシェルの瞳には、ほんのわずかに戸惑いの色がにじんだ。
対するクラウスは、ソファの上で足を組み替え優雅なものだ。
「リヴィ・キャンベルを妻として迎え入れるかどうか、判断はお前に一任しよう。どのような結果になっても文句は言わない。ただしもしもリヴィ嬢との結婚を拒むのであれば――」
クラウスの視線がアシェルを射抜いた。さも楽しげに。
「――後始末もお前の仕事だ、アシェル」





