35.夜会の準備~彼らの場合~
リヴィがフローレンスから赤いアイシャドウを塗られている頃、屋敷のベランダにはアシェルとテオの姿があった。滅多に立ち入る者のいないそのベランダからは、屋敷の園庭を一望することできる。
早々に夜会の身支度を終えた2人は、ベランダの柵に肘をのせ、人気のない園庭をぼんやりと眺めていたところだ。
「テオ、面倒事に巻き込んですまなかったな」
突然のアシェルの謝罪に、テオは何でもないという風に返した。
「俺は気にしてないよ。事情を聞けばちょっと放っておけない感じだし、リヴィのためならできることは協力するさ」
「そう言ってくれると助かる」
「まぁ……ドリスはちょっと気の毒だけどね。フローレンス・バルナベットの名前で夜会に参加すると知ったとき、完全に言葉を失ってたもん。できる限りフォローはするつもりではいるけど、ドリスとしては荷が重いだろうなぁ」
テオの言葉に、アシェルは苦笑いを零した。
「そうだな……ドリスには悪いことをしたと思っている。しかしいざ何かが起こったとき、ドリスの力なしには乗り切れそうもない。いかんせん、会場が広すぎるからな」
「まぁね、今回ドリスの力が必要なのは確かだ」
今日の夜会で、ジーン・ロペスは誰かを殺す。そしてその殺しの依頼者は、10年前の事件と深く関わる人物である可能性が高い――
アシェルがジーンからその話を聞いた数日後、バルナベット家には2通の招待状が届いた。1通はクラウス・バルナベットに宛てた物、もう1通はリヴィ・キャンベルに宛てた物。おかたく形式ばったクラウス宛ての招待状とは対照的に、リヴィに宛てられた招待状には感情に溢れた手紙が添えられていた。手紙の書き手はエミーリエ・レスター、手紙の最後はこう締めくくられていた。
――リヴィと一緒に夜会を楽しめるなど最初で最後のことだから、ぜひ都合をつけて参加してほしいの。親友からの最後の頼みだと思って、どうか私の願いを叶えて――
その手紙を読んで、リヴィはすぐに夜会への参加を決めた。参加の是非を決めかねていたアシェルも、リヴィの参加を受けて夜会への参加を決断した。殺人事件が起こるとわかっている夜会に、リヴィ1人を送り込むわけにはいかないからだ。
そして夜会への参加にあたり、アシェルはテオとドリスに同行を願い出た。使用人の立場では会場での行動に制限がかかるから、ドリスにはフローレンスの名前を使って出席してほしいと頼んだのもこのときだ。必然的にテオがクラウスを演じることとなり、テオ演じるクラウス、ドリス演じるフローレンス、2人の息子であり次期当主であるアシェル、その婚約者であるリヴィ、と対外的には不自然のないパーティができあがったのだ。
ぴゅう、と乾いた音を立てて風が吹き抜けた。アシェルとテオは同時に身を竦めた。山頂に位置するバルナベット家の敷地は、日中であってもあまり気温が上がらない。暖かいと感じるような日でも、風が吹けばふいに上着が欲しくなってしまう。
上着の胸元をかき合わせながらテオは尋ねた。
「結局、リヴィには何も言っていないの?」
アシェルは1拍を置いてうなずいた。
「ああ、言っていない」
夜会への同行を頼むにあたり、アシェルはテオとドリスに全ての情報を伝えた。ジーンが夜会での殺人予告をしたことも、依頼者が10年前の事件とつながっている可能性が高いことも、殺しのターゲットがエミーリエである可能性が高いこともだ。2人は全てを知った上で夜会への参加を承知してくれた。
しかしそれとは反対に――リヴィには何も伝えていなかった。リヴィは今日の夜会で何が起こるかを知らない。煌びやかな人々の中に、どす黒い悪意が紛れていることを知らない。
テオが言いにくそうに口を開いた。
「今更かもしれないけどさ……きちんと全てを話しておいた方がいいんじゃないの? リヴィにとってエミーリエはたった1人の友達なんでしょ? リヴィを危険に巻き込まないためにも、今からでも全てを話すべきだと俺は思うけど」
アシェルは強い口調で返した。
「リヴィには何も教えないし、何も見せるつもりはない。エミーリエへの挨拶が済んだら、お前たちはリヴィを連れてすぐに会場を出てくれて構わない。あとは私1人で何とかする」
「何とかするって……何をするつもりなのさ。まさかジーンに殺人を止めさせるつもり?」
「そんな事できるはずがないだろう。気に食わない奴ではあるがジーンは同業者だ。正当な理由もなく仕事を邪魔することはできない」
迷いのないアシェルの言葉に、テオはもどかしそうに肩を揺らした。
「リヴィの笑顔を守るために、エミーリエを助けるとは言わないんだ」
「言わない。私の目的はリヴィの汚名を晴らすこと。殺人の依頼者が誰であるかを突き止め、10年前の事件とのつながりを見つけられれば十分だ。たとえリヴィの友人であったとしても、他人の命を気にかけている余裕などない」
「……冷てぇの」
現実とはそんなものさ、とアシェルは心の中でつぶやいた。無償の愛ですべての人々の命を救おうとするのは、おとぎ話の中の戦士だけ。現実はたった1人の大切な人を守るだけで精いっぱいだ。
そもそもアシェルは正義ですらない。人を殺して金を得るだけの暗殺者だ。
アシェルとテオは、しばらく無言で園庭を見下ろしていた。園庭の片隅にはレンガ造りの花壇があり、色とりどりの花びらが揺れている。アシェルとリヴィが種をまき、水をやり、数日前に満開の花を咲かせたばかりの花壇だ。
その尊くも美しい花壇を眺めながら、テオはまた遠慮がちに尋ねた。
「ねぇアシェル兄……もうひとつ、聞いてもいい?」
「何だ」
「何でリヴィと結婚しないの?」
遠慮がちだが率直なテオの質問に、アシェルはすぐに答えなかった。満開の花壇を見下ろしたまま、言葉を探し黙り込んだ。アシェルが答えを見つけるよりも早く、テオが言葉を重ねた。
「アシェル兄がリヴィを大切に思っていることは知っている。リヴィもアシェル兄のことが好きだと思う。はたから見てたら完全に両想いなのにさぁ。なんでさっさと結婚しないわけ?」
テオの言うとおり、アシェルはリヴィのことを大切に思っていた。一度は不用品として切り捨てようとした少女が、今やアシェルの生活になくてはならない存在となっていた。人はその感情をときに恋と呼び、ときに愛と呼ぶ。
しかしアシェルには、すぐにリヴィと結婚できない理由があった。
「結婚すれば、リヴィを永遠に縛り付けることになる。この異常な暗殺一族の一員として」
「……そりゃそーだ。でもそれって何か問題がある?」
「リヴィは普通の人生を知らないんだ。友と語らう楽しさも、自由に街を歩くことの解放感も、異国の情景を美しいと思う気持ちも、ほとんど何も知らないまま身体だけが成長してしまった。もしも私と結婚してしまえば、リヴィは普通の楽しみなど何も知らないまま一生を終えることになってしまう」
リヴィは哀れな少女だ。王家の婚約者になったことを妬まれ、ありもしない呪いの力を捏造されて、人生の大半を失ってしまった。
バルナベット家へとやってきたことで、リヴィは人並みの生活を取り戻した。それは紛れもない事実だ。しかしもしもアシェルと結婚しバルナベット家の一員となれば、リヴィの人生はまた『普通』からは程遠いものとなる。自由に友人を作ることも叶わず、普通の貴族の令嬢のように茶会に参加することも叶わない。はては『冷徹無慈悲の暗殺一族』として王国中の人々から恐れられる日々だ。
そんな人生を送ることがリヴィにとって幸せなのだろうかと、アシェルはいつも考えてしまう。
珍しく弱気なアシェルを前にして、テオはもどかしそうに言った。
「アシェル兄と結婚しなくたって、リヴィはもう普通の人生には戻れないよ。一度着せられた汚名って、そう簡単には消えてなくならないものだからさ」
「アンデルバール王国での生活にこだわらなければ、生きていく方法はいくらでもある。どこか遠い遠い異国の地で、つらい過去など全て忘れ、1から人生を作り上げる方がリヴィにとっては幸せかもしれないだろう」
テオは一瞬言葉に詰まり、それから低い声で訊き正した。
「リヴィのことが大切だから、リヴィをバルナベット家には縛り付けたくないということ?」
アシェルは淡々とした調子で答えた。
「そういうことだ」
また2人のあいだを風が通り抜けた。
午後の日射しに照らされた園庭では、数名の使用人が馬車の準備を始めたところだ。もう30分もすれば、彼らはその馬車に乗って屋敷を出発する。一足早く夜会の準備に取りかかったリヴィとドリスも、そろそろおおよその身支度を終えた頃だろうか。
「俺さ……今、リヴィが本当に厄憑きだったら良かったのにって思ってるよ。そうしたらアシェル兄は、迷うことなくリヴィを縛り付けておけただろ」
どこか皮肉めいたテオの言葉に、アシェルは自嘲の笑みを零した。
「そうだな。リヴィが本当に他者を呪う力を持っていれば、私は迷うことなくリヴィをこの屋敷に閉じ込めておけたのかもしれない」





