34.夜会の準備~彼女たちの場合~
早いもので、リヴィがバルナベット家の屋敷へとやって来てから半年が経とうとしていた。
日々はめぐり季節はめぐり、レンガ造りの花壇には満開の花が咲いていた。
その日、リヴィは夜会の準備に明け暮れていた。アンデルバール王国の宮殿で開催される、王家主催の夜会への招待を受けたからだ。招待状の発送者はリヴィの旧知の友人であるエミーリエ。招待状に添えられていた手紙によれば、このたびの夜会は王家の婚約者のお披露目会だという。王家の人間はもちろんのこと、王国中の貴族たちが勢揃いする大規模な夜会だから、ぜひリヴィにも参加してほしいとのことだった。
夜会への参加は、リヴィにとってエミーリエの門出を祝う最初で最後のチャンスであった。そこでアシェルに断りを入れ、夜会への参加を決めたのだ。
「リヴィ様、髪飾りはこの位置でよろしいでしょうか?」
ルビーレッドの髪に真珠の髪飾りをあてながら、ドリスが訊いた。リヴィは鏡を見ながらうなずいた。
「いいと思う。いつもよりしっかり留めてもらえると助かるわ。夜会なんて初めての経験だし、落として失くしてしまっては困るもの」
「わかりました。でしたらいつもより多めにピンを挿しておきますね」
ドリスは慣れた手つきで、リヴィの髪に髪飾りを留めていく。
そうして雑談を挟みながらおおよその身支度を終えた頃、2人の元に思いもよらない人物がやってきた。猫を抱いたフローレンスだ。フローレンスは客間の床に猫を下ろすと、艶やかな黒髪をかき上げながら言った。
「ごきげんよう。準備は順調かしら?」
(ど、どうしてフローレンス様が客間に……?)
フローレンスが客間に顔を出すのは初めてのことで、リヴィは返す言葉を失った。代わりにドリスがきびきびとした口調で答えた。
「おおむね順調です。予定通りの時刻に屋敷を出発できるものと思います」
ふーん、と曖昧な相づちを打った後、フローレンスはリヴィを見た。アシェルと同じ黒曜石の瞳はリヴィのドレスを眺め、綺麗に結い上げられた髪を見て、最後に顔面へと留まった。ドリスが化粧をほどこしてくれたばかりの顔だ。
「……あなた、その薄化粧で夜会へ参加するつもりなの?」
呆れを滲ませたフローレンスの指摘に、リヴィは心臓が縮み上がる思いだ。
「う、薄かったでしょうか……? 私としては、いつもよりかなり濃くしてもらったつもりなのですが……」
「夜会と茶会は違うのよ。会場に満足な明るさがあるとは限らないのだし、多くの人は数メートルも離れた場所からあなたの顔を見る。色味を抑えた薄化粧なんて、化粧をしていないのと変わらないわよ」
鈴の音のようなフローレンスの声を聞きながら、リヴィは鏡の中の自分の顔を見た。夜会に向けてドリスにほどこしてもらった化粧は、極力色味を抑えたナチュラルメイク。濃くしてもらったと言ってみても、口紅の色をいつもより派手にした程度のものだ。
テーブルの上のメイク道具に触れながら、フローレンスは続けた。
「せっかくたくさんのメイク道具があるのだから、色をふんだんに使いなさい。口紅はもっと濃くしていいし、アイシャドウは派手な色を使うのよ。あなたは元々の顔立ちが派手ではないんだから、化粧の力は借りられるだけ借りなさい」
リヴィとドリスは顔を見合わせた。相変わらず棘のある言い方ではあるが、フローレンスの指摘は的を射ていた。
ドリスはフローレンスに向けて軽く頭を下げた後、化粧筆を持ち上げて言った。
「リヴィ様。フローレンス様に助言をいただいたとおり、お化粧に色味を足してもよろしいですか?」
リヴィが「良い」と答えるよりも早く、フローレンスがドリスの手から化粧筆を抜き取った。そして驚いた表情のドリスに向けて、しっしと追い払うような仕草をした。
「化粧は私がするわ。ドリス、あなたは自分の準備を済ませてしまいなさい。私の名前を使って夜会に参加するのだから、中途半端なことはするんじゃないわよ」
ドリスは何かを言いかけたが、少しの沈黙のあと素直に返事をした。
「……はい。ではリヴィ様のお化粧はお任せいたします」
今夜、王国の宮殿で開催される夜会。夜会には王国各地から貴族たちが集結し、十数年に一度あるかないかの大規模な夜会になるだろうとの予測がされている。
夜会の開催にあたり、貴族の家であるバルナベット家にも当然招待状は送られてきた。しかし社交に興味のないクラウスとフローレンスは参加を辞退し、代わりにテオとドリスが夜会に参加することとなった。そこにバルナベット家の次期当主であるアシェルが加わり、リヴィを含めた夜会の参加者は4人だ。
テオとドリスが夜会に参加することとなった経緯をリヴィは知らなかった。アシェルいわく「夜会の最中に調べたいことがあり、そのためには2人の協力が必要不可欠だ」という。リヴィは言葉を変えて何度か尋ねてみたが、結局アシェルの言う『調べたいこと』の内容は教えてもらえなかった。
ドリスは身支度のために私室へと戻り、客間の中にはリヴィとフローレンスだけが残された。
フローレンスはそしらぬ顔でリヴィのまぶたにアイシャドウを塗り始めるが、リヴィは気が気ではなかった。気の利いた会話のひとつでも提供しなければと思ってはみても、リヴィはフローレンスが怖くて仕方ないのだ。
(フローレンス様はどういうおつもりなのかしら……私は嫌われているのだと、ずっとそう思っていたけれど……)
思えば初めて会ったときから、フローレンスはリヴィに冷たかった。婉曲的な物言いで、ちくちくと心に刺さる発言をされたことは、忘れようと思っても簡単には忘れられなかった。
リヴィの恐怖心が伝わったのだろう、フローレンスは冷たい口調で言った。
「何をそんなに緊張しているのよ。あなた、私が怖いの?」
「……ご、ごめんなさい。怖いです……」
思わず本音を返せば、フローレンスは驚いたように目を丸くした。
「あら、はっきり言うようになったじゃないの。以前はうつむいてプルプル震えているだけだったのに」
それから相変わらず感情を感じさせない口調で続けた。
「勘違いしないでほしいのだけれど、私はあなたが嫌いじゃないのよ。アシェルとの結婚に反対するつもりはないし、屋敷から追い出そうとも思っていない」
思いもよらないフローレンスの発言に、今度はリヴィが目を丸くする番だ。
「……そうなんですか?」
「私、生まれつき感情が欠けているのよ。悲しい、という気持ちがわからないの。自分が何を言われても傷つかないし、何をされても悲しいと感じないものだから、他人の気持ちを推し量ることができなくてね。もしも今までの間に、あなたを傷つけていたらごめんなさいね?」
フローレンスが素直に謝罪を口にしたことにリヴィは驚いた。そしてそれ以上に、フローレンスの発言が気にかかって仕方なかった。
(悲しいという気持ちがわからない……? フローレンス様は、私のことが嫌いで冷たい言葉を投げかけていたのではないということ……?)
リヴィのまぶたに赤いアイシャドウを塗りながら、フローレンスの語りは続く。
「今は好き勝手しているように見えるかもしれないけれど、子どもの頃は苦労したのよ。他人を傷つけるような発言ばかりするものだから友達なんて1人もいなかったわ。でも友達がいないことを悲しみもしないものだから、家族からはひどく気味悪がられてね」
ふ、とフローレンスは息を吐いた。過去を懐かしむように視線を巡らせる。
「それでね、ふと思い立って飼い猫を殺してみたのよ。身近な生物の死というのは、人間にこの上ない悲しみを与えるものでしょう? 大好きな飼い猫が死ねば、私にも悲しいという気持ちがわかるかと思って。でも全然ダメ、なぁんにも感じないの。その後も何度か小鳥や野良猫を殺していたら、両親に見つかって『悪魔憑き』呼ばわりよ。失礼しちゃうわ。私は私なりに考えてやっていたことなのに」
フローレンスは子どものように頬を膨らませるが、その表情に目立った感情はない。友達がいなかったことも、家族から気味悪がられていたことも、大切な飼い猫を死なせてしまったことも、本当に大したことだとは考えていないのだ。
まるで昨晩のディナーが何であったかを語るように、淡々とした調子で続けた。
「両親はバルナベット家に『悪魔憑きの娘』の暗殺依頼を出し、クラウスが私を殺しにやってきた。けれど私は殺されなかった。こうしてバルナベット家の一員として、今ものうのうと生きているの。人生とは不思議なものね」
フローレンスの最後の一言にだけはわかりやすい感情が滲んだ。喜び。
リヴィは目から鱗が落ちたような心地になった。フローレンスがどのような経緯でバルナベット家へと嫁いできたかなど、考えたこともなかったからだ。
(フローレンス様も、一度はクラウス様に殺されそうになった。けれども殺されることはなく、何十年経った今も妻としてクラウス様のそばにいる。それは……クラウス様がフローレンス様に魅せられたから? 暗殺者としての任務を遂行するよりも、1人の人間としてフローレンス様を愛することを選んだから?)
かつて『悪魔憑き』と呼ばれ家族から見放された少女は、暗殺者に愛され幸せな人生を歩んだ。かつて『厄憑き』と呼ばれ家族から虐げられたリヴィには、一体どんな未来が待っているのだろう? フローレンスと話をして、初めて自らの望む未来が形になった気がした。
(私も……アシェル様とずっと一緒にいたい。使用人としてではなく、妻としてお傍に置いてもらいたい。クラウス様とフローレンス様のように、何十年経った後もずっと仲睦まじく……)
想いが形になれば涙が零れそうで、リヴィは目頭に力をこめた。せっかく施してもらった化粧を涙で台無しにしては、フローレンスから罵声を浴びせられることは目に見えていたからだ。
しかし不思議と、もうフローレンスのことを怖いとは感じなかった。彼女の発言に悪意はない、ただ思ったことを思ったまま口にしているだけなのだ。あどけない子どものように。
フローレンスは化粧筆を置き、リヴィの肩を軽く叩いて言った。
「さぁ、こんなもので良いでしょう。化粧道具はポーチに入れて持っていきなさい。ちぐはぐな顔になりたくなければ、口紅くらいはこまめに塗り直すことね」
リヴィは鏡を見つめた。まぶたに、頬に、唇に、くっきりとした色味が足された顔は艶やかでいて美しい。自分のものではない、別人の顔を見ているかのような錯覚すら覚えてしまう。赤を基調としたアイシャドウは、リヴィのルビーレッドの髪によく合っていた。
役目を終えさっさと客間を出ていこうとするフローレンスに、リヴィは静かに頭を下げた。
「フローレンス様、ありがとうございました」
「いいえ。どうぞ楽しんでいらっしゃい」
フローレンスの声は相変わらず冷たい調子だが、リヴィはその声に人の優しさを感じた。





