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31.甘い甘いクッキー

 厨房を出た瞬間、リヴィの胸はどきどきと高鳴り始めた。どきどきの理由は2つ。作戦が順調に進んでいる達成感と、この先も順調に進むだろうかという不安感だ。

 

 このたびのクッキー作りはリヴィの発案だ。マリエラを誘ったのもリヴィであれば、ドリスに「クッキーの作り方を教えてほしい」とたのんだのもリヴィ。シェフ相手に厨房の使用許可を求めたのもリヴィである。

 リヴィがそこまでしてクッキーを作りたいと思ったことにはいくつかの理由があった。まずはマリエラと仲良くなりたいと思ったこと、お菓子作りにチャレンジしてみたかったこと、お世話になっている人たちにプレゼントを渡したかったこと、そして――このクッキー作りがドリスの恋の手助けになればいいと思ったこと。


 バルナベット家にやってきて間もない頃、リヴィはアシェルと話す機会を持てずに悩んでいた。そんなとき、ドリスはリヴィに贈り物の提案をしてくれたのだ。「贈り物を貰って嫌な気分になる人はいません。あのアシェル様でも多少はリヴィ様を意識するようになるでしょう」と言って。

 その言葉を信じ、リヴィはエーデルワイスの刺繍が入ったハンカチを作った。ハンカチがアシェルの手に渡ったのはだいぶん後のことだけれど、アシェルはとても喜んでくれた。

 だからこそリヴィは、『贈り物を渡す』という行為は、ドリスの恋の初めの一歩として最適だと考えたのだ。

 

 努力の甲斐あって、ドリスと一緒にクッキーを作ることはできた。ドリスにクッキーの袋を渡すことにも成功した。ここまでの計画は順調だが、しかし問題はここからである。


 厨房を出たリヴィとドリス、マリエラは、人気のない廊下を横並びで歩いた。どこを目指して歩いているということはなく、一仕事を終えた後のおしゃべりタイムといった感じだ。

 ドリスと取り留めのない会話を交わしながら、リヴィは廊下のあちこちへと意識を向けていた。部屋の中から話し声が聞こえないかと耳を澄ませてみたり、園庭に人の姿がないかと窓の外を見つめてみたり。大忙しだ。


(ドリスがクッキーを持っているうちに、何としてもテオ様に出会わないと。ドリスの性格上、偶然を装わないとプレゼントなんて渡せっこないもの……)


 そう、問題はここからである。いくらドリスがプレゼント用のクッキーを持っていたのだとしても、渡す相手に出会わなければ意味がない。つまりドリスからテオにクッキーを渡させるためには、今この瞬間にでもテオに出会わなければならなかった。


 リヴィの願いは間もなく天に届き、廊下の向こう側から2人組の男性が歩いてきた。アシェルとテオだ。まず声をあげたのはアシェルだった。


「ああ、リヴィ。こんなところにいたのか。客間にも書庫にも姿が見えなかったから、どこに行ったのかと思っていた」


 リヴィは微笑んで答えた。


「厨房でクッキーを作っていたんです。ドリスとマリエラ様と一緒に」


 アシェルは意外そうな顔をした。


「ほう……マリエラも一緒に? この短い間にずいぶん仲良くなったんだな」

「はい、それでこれ――」


 リヴィはアシェルの胸の前に、クッキーの包み紙を差し出した。

 

「もしよろしければ、どうぞ。初めて作った物ですから形は少しいびつですけれど……」


 包み紙を持つ手が震えた。リヴィがアシェルに贈り物を渡すのは初めてのことではないし、アシェルが受け取りを拒否するとも思えない。それでも好きな人に何かを渡すということは、こんなにも緊張するものなのだ。

 小刻みに震えるリヴィの手から、アシェルは包み紙を受け取った。


「ありがとう。今夜、夕食の後でいただくことにする」


 優しく微笑むアシェルの顔を見て、リヴィはほっと胸を撫でおろした。

 それまで傍観に徹していたテオが、そのとき初めて口を開いた。


「ねぇねぇリヴィ、俺の分はないの?」


 テオが指さす先は、リヴィが抱き込んだもう1つの菓子袋だ。リヴィは菓子袋に視線を落とし、それから申し訳なさそうに肩を竦めた。


「すみません、これはヴィクトールにあげる分なんです。いつもお世話になっているから……」

「ええー……そうなの。じゃあマリエラは?」


 次にテオが視線を送った先はマリエラ。うさぎ柄のエプロンをつけたままのマリエラは、細い腕に3つの菓子袋を抱き込んでいる。いつも消え入るような声で話すことの多いマリエラが、そのときばかりは強い口調で言った。


「これはお父様の分と、お母様の分と、わたしの分」

「ちょっと待ってよ。何で親父の分はあって俺の分はないの? 親父とお袋には2人で1袋あれば十分でしょ、俺にちょーだい」

「絶対だめ」


 マリエラは眉を吊り上げ、3つの菓子袋を抱きしめた。宿敵さながらの威嚇を受けて、テオは不満げだ。


(ドリス……)


 リヴィは期待を込めた眼差しでドリスを見た。

 ここまでの流れはリヴィが事前に思い描いていたとおりだ。リヴィたちがクッキーを作っていたと知れば、テオはそのクッキーを欲しがるだろう。アシェルとクラウスがクッキーを貰えるのだとわかれば尚更だ。しかしリヴィとマリエラはテオの分のクッキーを持っていない。そうとなれば、残されたドリスがテオにクッキーを渡すチャンスが訪れる。

 

 そう、今まさに最大のチャンスが訪れているということだ。


(ドリス、頑張って。今なら自然にテオ様へクッキーを渡せる……)


 リヴィは必死で願った。

 しかしリヴィの願いは届かず、ドリスはいつまで経っても口を開かなかった。クッキーを渡すつもりがないというよりは、突然のチャンス到来に思考が停止しているという様子だ。目を見開き口を半開きにして、人形のように固まってしまっている。

 だがリヴィとてそこまで爪は甘くない。こうなることは想定のうちで、しっかりと次の1手を用意していた。


(マリエラ様、お願い……!)

 

 リヴィの視線の先で、マリエラの瞳が輝いた。任せてよ、とその表情は告げていた。

 次の瞬間、マリエラはリヴィの背後にさっと身を隠した。3つの包み紙をエプロンのポケットへと仕舞いこみ、変わりに取り出した物は人形(アリス)。目を細めて悪戯げに笑う。


 唐突にドリスは動いた。さっきまでの硬直が嘘のように、きびきびとした動作でテオの前まで歩いていくと、不貞腐れ顔のテオの目の前に勢いよくクッキーの包み紙を差し出した。

 テオは驚きに目を丸くした。


「え……貰っていいの?」


 ドリスは何も答えなかった。何が起こっているか理解できないというようにポカンと口を開けて、目の前に立つテオの顔を見つめていた。

 テオは遠慮がちに、ドリスの手から包み紙を受け取った。


「も、貰っていいなら貰うけどさ……ありがとう」


 テオがお礼を言ってもなお、ドリスはポカンと口を開けていた。しかし次の瞬間には、その顔はみるみる赤く染まり始めた。両手で顔をおおい隠し、声にならない悲鳴をあげたドリスは、豹さながらの俊敏さでその場から走り去っていく。

 リヴィの背後では、にんまり顔のマリエラがエプロンのポケットに人形(アリス)を仕舞ったところであった。わたし、いいお仕事したよね。


 何も知らないテオが、つつ、とマリエラの方へと寄って行った。


「ねね、マリエラ……俺、そんなに物欲しそうな感じだった? 1人だけクッキーを貰えなくて可哀想な感じだった?」


 マリエラがそしらぬ顔でうなずけば、テオは困り顔でほおを掻いた。


「えー……そっかぁ。ドリスに悪いことしちゃったかな。このクッキー、返した方がいいと思う?」

「……一度もらった物を返すのは失礼だよ。悪いことをしたと思うのなら、お返しにプレゼントをあげればいいと思う」

「ん、確かにそーだ。次の仕事のときに、何かお土産を買ってくるかぁ」


 そんなことを話しながら、マリエラとテオは廊下を歩いて行った。残された者はまだ緊張冷めやらぬ様子のリヴィと、静かに事のなりゆきを見守っていたアシェル。

 廊下がすっかり静かになった時、アシェルが控えめに口を開いた。


「リヴィ……今のは一体、何だったんだ?」


 リヴィははっと我に返り、もごもごと言い淀んだ。


「今のは……ええと、内緒です……。お、女の子だけの秘密の話……」


 そうごまかす以外に選択肢はなかった。作戦への協力をあおぐ以上、マリエラには最低限の事情を説明せざるを得なかったけれど、リヴィはドリスの恋を見世物にするつもりなどない。初めの1歩こそお節介で手を貸したが、この先はドリスが自分で道を切り開いてくれればいいと思っていた。だから相手がアシェルとはいえ、ドリスの密かな恋心を教えることはできなかった。

 

 アシェルは俯くリヴィをしばらく見つめていたが、やがてふっと破顔した。

 

「……そうだな。もしリヴィがもう一度、私のためだけにクッキーを焼いてくれるのなら、何も見なかったし何も気付かなかったことにしよう」


 予想もしなかった条件に、リヴィは慌てふためいた。


「そ、それは私1人でクッキーを焼かなければならないということですか……? ドリスがそばに付いていてくれても焼き過ぎてしまったのだから、私1人で作ったらきっと消し炭のような有様に……」

「消し炭になったらなったで、甘いココアと一緒に食べることにするさ」


 そうして2人並んで歩き出す。

 夕陽が射し込み始めた廊下には、ほんのりと甘いクッキーの香りが漂っていた。

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