29.恋のおはなし
「ドリス、少し相談に乗ってもらいたいのだけれど……良いかしら?」
リヴィが遠慮がちにそう話しかけると、ドリスからはすぐに返事が返ってきた。
「はい、私で良ければ。何なりとお話しください」
「ありがとう……じ、実はね。こ、こ、恋をするってどんな気持ちなのかなと思って……」
「恋……ですか?」
ドリスが意外な言葉を聞いた、というように目を瞬かせた。
ここはバルナベット家の屋敷の園庭。ドリスとリヴィは、ともに麦わら帽子をかぶって花壇の手入れに勤しんでいた。花が大きく育つようにと肥料をやり、雑草は綺麗に取り除く。本来ならば花壇の手入れはリヴィとアシェルの仕事なのだけれど、ここ数日間アシェルは屋敷を空けているのだ。長い期間馬車馬のように働いたテオに代わり、遠方での仕事をいくつか請け負ったらしい。
だからこの数日の間、リヴィはドリスとともに花壇の手入れを行っていた。
そんな中での質問であった。
リヴィはまごつきながら、最近自身に起こった変化について語った。
「最近、アシェル様のことばかり考えている気がするの。朝起きたら『アシェル様は今日何をする予定なのかしら』と考えてしまうし、ワンピースを選ぶときは『アシェル様はこの色がお好きかしら』なんて考えてしまう。食事をしているときも、本を読んでいるとときも、ほんの些細なきっかけでアシェル様のことを考えてしまうの……アシェル様が屋敷を空けられてから、余計に考える頻度が増えたみたい」
リヴィはちらりとドリスの方を見た。頭に麦わら帽子をのせたドリスは、草抜きをする手を止めてじっとリヴィのことを見つめていた。リヴィは深呼吸をして言葉をつづけた。
「それでね……初めはこの気持ちが恋なんじゃないかと思ったの。でも考えれば考えるほどわからなくなってしまうの。だって比べるものがないんだもの。1人の男性とこんなにたくさんお話しするのは初めてのことだし、結婚を意識するのも初めてのことだし……。ド、ドリスはどう思う……?」
途切れ途切れで消え入りそうなリヴィの問いかけに、ドリスは食い気味で答えを返した。
「リヴィ様は、アシェル様に恋をしておられるのではないかと感じますが」
リヴィは、途端に顔が熱くなるのを感じた。
「や、やっぱりそうなのかしら。でももしかしたら、たまたまお傍にいてくださるアシェル様のことが気にかかるだけなのかもしれないわ。もしも傍にいるのがアシェル様ではなくテオ様だったとしたら、私は毎日テオ様のことばかり考えていたのかも……」
アシェルへの恋心を否定する気持ちはなかった。多分そうなのだろう、とリヴィ自身も薄々勘付いていたからだ。リヴィの不安はアシェルへの恋心の有無ではなく、この恋が他の替えの利くものである可能性だ。もしもリヴィがテオの結婚候補者としてバルナベット家の屋敷に招かれていたら――リヴィはテオのことを好きになったいたかもしれない。そう思うと、アシェルに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
麦わら帽子に隠れたリヴィの顔を覗きこみ、ドリスは優しく笑った。
「例えそうだとしても、その『もしも』の世界は存在しません。今リヴィ様のお傍にいるのはアシェル様で、リヴィ様はそんなアシェル様に恋をしていらっしゃる。その事実があれば、起こりもしない『もしも』の話など気にかける必要はありませんよ」
ドリスの言葉はリヴィの胸にすとんと落ちた。
確かにこの世界には『もしも』など存在しないのだ。もしも赤い髪など持って生まれなかったら、と考えてもリヴィの髪の色が魔法のように変わるはずもなし。起こりもしなかった『もしも』の話を引き合いにして、現状に不安を覚えることに意味などないのだ。
「そう……何だかとても安心したわ。ドリス、ありがとう」
「いいえ、どうぞそのお気持ちを大切に育んでくださいませ」
リヴィとドリスは顔を見合わせ、ふふ、と笑い声をあげた。
アシェルへの気持ちを恋と認めてしまえば、途端に気持ちが楽になった。そしてとても嬉しくなった。例えこの恋が実ろうとも、実らずとも、リヴィにとっては初めての恋だ。また一つ、失った物を取り戻した気がした。
「ねぇドリス。ドリスは今、誰かに恋をしている?」
そう尋ねたのは単なる出来心であった。ドリスはリヴィからふいと視線を逸らした。
「……いえ。特には」
「そう……ほんの少しだけでも気になる人はいないの?」
「おりませんね。人との出会いが少ない職場でございますし」
などと言い切られてしまえば、リヴィはそれ以上詮索することができなかった。
(確かにバルナベット家の使用人は、女性が圧倒的に多いものね……。男性の使用人と言われて真っ先に思いつくのはヴィクトールだけれど、ドリスとは気の合う同僚という感じだし……。ドリスが恋をしているというのなら、誰よりも応援できると思ったのに残念だわ……)
リヴィが草むしりを再開しようとしたとき、花壇に人影が落ちた。
顔をあげて見れば、青空を背にテオが立っていた。くせの強い黒髪が、そよ風を受けてふわふわと揺れている。
「リヴィ、やっほ。何してんの?」
リヴィは麦わら帽子のつばをあげ、朗らかに答えた。
「花壇の手入れをしていたんです。大きな花が咲くようにと肥料をあげて、雑草を抜いていたところでした」
「ふーん、何だか大変そうだね。まぁ頑張って、綺麗な花が咲くといいね」
「はい、ありがとうございます」
短い会話を終え、テオは歩き出そうとした。1歩踏み出したところでふいに足を止め、花壇にしゃがみ込むドリスの顔を覗き込んだ。
「ドリス、頬に泥がついてるよ」
「え?」
ドリスは慌てた様子で、頬についた泥を指先で拭おうとした。しかし鏡もなしに、顔についた汚れを落とすことは簡単ではない。見当はずれな場所をこするドリスを見て、テオは可笑しそうに笑った。
「ここだよ。泥付きドリスだ、カッコ悪」
テオの指先がドリスの頬に触れた。そこについた泥汚れを綺麗に拭いとって、何事もなかったかのように花壇のそばを後にする。
テオの後ろ姿が屋敷の玄関口に消えたあと、何となしにドリスの顔を見たリヴィは、あまりの驚きに飛び上がった。麦わら帽子の下のドリスの顔が、ゆでダコよろしく真っ赤になっていたからだ。
「ド、ド、ドリス!? 顔が大変なことに……一体どうしたの……?」
慌てふためくリヴィであるが、ドリスは何食わぬ顔で答えた。
「いえ、特に何もございません。気温が上がって参りましたから、そのせいではないでしょうか」
そうは言われても、その言葉を簡単に信じることはできなかった。山頂に位置するバルナベット家の敷地は、一日を通して過ごしやすい気候だ。それでも今日はまだ気温が高いが、猛暑というには程遠い。そよ風が吹き抜ける心地いい気候である。
ドリスの赤ら顔を見つめていたリヴィは、つい数日前の出来事を思い出した。マリエラの悪戯でアシェルに抱き着いてしまったあの日、リヴィの顔は完熟林檎よろしく真っ赤になっていたはずだ。ドリスの顔の火照りが同じ理由からくるものだとすれば、色々なことがすっきりと落ちつく気がした。
「まさかドリスは……テオ様のことが好きなの?」
遠慮がちなリヴィの質問に、ドリスは早口で答えた。
「いえ、決してそのようなことは。私は一使用人の身。主であるテオ様に恋心と抱くなど、身分違いもはなはだしい」
ドリスの言い方は、まるで自分に言い聞かせているかのよう。今度はリヴィが、麦わら帽子に隠れたドリスの顔を覗きこむ番だ。
「身分違いの恋だからといって諦める必要はないと思うけれど。以前、テオ様は『俺は跡取りではないから、将来に関しては自由が許されている』とおっしゃっていたわ。クラウス様もテオ様の結婚に口出しするつもりはないようだし、ドリスが本気にテオ様を好きだというのなら、努力する前に諦める必要なんてない」
もしもテオが一般的な貴族の息子なら、使用人との結婚など許されるはずがない。しかし幸いにも、バルナベット家は一般的な貴族からはかけ離れた存在だ。国に認められた貴族の家でありながら、通常与えられるべき爵位を持たず、貴族特有の戒律に縛られることもない。見ようによっては、アンデルバール王国内で1番自由な一族だ。
そうであることを考えれば、ドリスの恋は決して許されざるものではない。今のテオに恋人や婚約者はいないのだから、恋が成就する可能性は十分にあった。
(でもテオ様が自由な結婚をするためには、アシェル様に世継ぎができなければならないのよね……。そのためには、私がアシェル様と結婚することが一番の近道なのだろうけど……こ、これは大変なことだわ)
ドリスとテオの未来まで背負った気がして、恐ろしさに身震いをしてしまうリヴィであった。
ふるふると震えるリヴィのかたわら、ドリスがもじもじと口を開いた。
「私は……確かにテオ様のことを好ましく感じています。ですが結婚まで考えているわけではなく、お傍にいられれば嬉しいと思うくらいで……。いえ、もちろんテオ様の方から結婚を申し込んでくださるのなら、すぐにでもお受けする覚悟ではありますが……」
要約すれば「今すぐ結婚したいくらいテオのことが大好き」とのことだ。
いつもキリリとした表情のドリスが、頬を朱に染めてまごつく様は愛らしく、リヴィは全身全霊でドリスの恋を応援したいと思った。
(でも私には恋のアドバイスなどできないし、余計なことをして2人が関係を拗らせてしまっては困るわ……どうしたら良いのかしら……)





