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2.バルナベット家

 カタコトと揺れる馬車の小窓から、リヴィは黙って外を眺めていた。


 こうして自由に景色を眺めるのは10年ぶりのこと。青々と広がる空にぽっかりと浮かぶ綿雲たち。ぽつりぽつりと建ち並ぶレンガ造りの家屋に、道を行き交うほがらかな人々。

 

 アンデルバール王国西部に位置するキャンベル家の領地は、自然環境に恵まれた土地だ。領地の周囲はなだらかな山脈に囲まれており、澄んだ川水が東西南北の山々から流れ込む。水に恵まれた土地であるだけに農業・酪農が盛んで、質のいい農畜産物が国内各地へと運ばれる。


 まだ厄憑き娘などとは呼ばれていなかった頃、リヴィは父ルドリッチとともによく領土の視察へ出かけた。今でこそ親子とは呼べない仲になってしまったが、父はきょうだいの中で一番リヴィを可愛がってくれていた。

 リヴィは父と向き合い馬車に揺られる時間が好きであった。


 ――厄憑き娘がいなくなれば、きょうだい達にもようやくまともな縁談をあてがってやれる。この家にもはやお前の居場所はない。2度と帰ってくるな。


 バルナベット家の馬車へ乗り込むリヴィに向かって、ルドリッチはそう言い放った。母もきょうだいも使用人も、誰一人として見送りには出てこなかった。

 見送りはいない、餞別はない、手荷物すらない。空っぽな旅立ち。


(さよなら大好きな故郷、もう2度と帰って来ることはない……)


 不思議と涙は流れずに、リヴィとドリスを乗せて馬車は進む。


 ***


 リヴィを乗せた馬車がバルナベット家の屋敷へと到着したのは、日暮れを目前にした頃であった。

 暗殺一族と名高いバルナベット家の領地は、アンデルバール王国北部の山岳地帯に位置している。濃い霧に包まれた高山の山頂に、ひっそりとその屋敷を構えているのだ。付近には野生の獣がうようよと生息し、たとえ均された馬車道があるのだとしても、この屋敷に近づこうとする者は多くはいない。

 

「リヴィ様、どうぞ馬車をお降りください。足元にお気をつけて」


 ドリスにうながされ馬車を降りたリヴィは、立ち込める冷気にふるりと身震いをした。キャンベル家の領地は1年を通して温暖だ。夜になっても寒さを感じることは滅多にない。

 しかしこの場所はどうだ。肌に触れる空気は冷たく、立ち込める霧が髪や服をしっとりと濡らす。日暮れ時であるというのに美しい夕焼けは見えず、濃い霧の向こうに薄灰色の空をのぞむだけ。


(とても嫌な雰囲気だわ……ここにいるだけで気分が重たくなる……)


 バルナベット家の屋敷は、霧の向こう側にどっしりと門扉を構えていた。うっそうとした木々に囲まれた屋敷は、豪華ではあれどまるで魔王の城のよう。アンデルバール王国に暮らす者であればその名を知らない者はいない、暗殺一族の住処だ。

 

 重厚な屋敷の扉をくぐる最中、リヴィはドリスに声をかけた。

 

「あの……ドリス様」


 ドリスは感情を感じさせない口調で答えた。

 

「どうぞドリスとお呼びくださいませ」

「……ではドリス。私はこれからどうなるのでしょう」

「まずは屋敷の主であるクラウス・バルナベット候に面会いただきます。その後のことは私も存じ上げません」

 

 リヴィは肩をすぼめ、すがるようにドリスを見た。

 

「私はこんな惨めな姿です。厄憑きなどという不名誉なふたつ名もあります。まさかすぐに追い返されたりはしないでしょうか……?」


 屋根裏部屋から出てそのままの姿で馬車へと飛び乗った。今のリヴィの姿は酷いものだ。

 ルビーレッドの髪はぼさぼさで、肌にはなめらかさの欠片もない。頬はこけ唇は渇き、まるで死人のような有様だ。身に着けた衣服はすりきれたワンピース、キャンベル家の使用人ですらもっと上等な服を着ていた。


 もしもリヴィがクラウス・バルナベットの立場であったなら、リヴィをバルナベット家に迎え入れようとは思わないだろう。美しくもなければ賢くもない、秀でた才能もない。ただみすぼらしいだけの娘など。

 リヴィの問いかけに、数秒経ってからドリスは答えた。


「私はバルナベット家に仕える一使用人。主の考えを推し量ることはできません」

「そう……」


 しかしすぐに帰れと言われたところで、リヴィにはもう帰る家はない。


 ***


 リヴィがドリスに通された場所は、屋敷3階の最奥部。廊下に立ち並ぶ他の扉よりも、明らかに豪華な扉の前だ。細微な装飾がほどこされた扉は、ここが屋敷の主の居室であるということをひしひしと伝えていた。

 ドリスのこぶしが、その豪華な扉をトントンと叩いた。


「クラウス候。リヴィ・キャンベル様がご到着いたしました」


 少し間を置いたあと、扉の向こう側からは低い声が返ってきた。


「通せ」


 ドリスの手が扉を開け、立ち入った先は扉の印象と違わない豪華な部屋であった。床一面にビロードの絨毯が敷きつめられ、天井からぶら下がるシャンデリアの繊細で美しいこと。ダークブラウンで統一された数々の調度品を、ぱちぱちと音を立てて燃える暖炉の火が照らしている。

 

 暖炉のそばには大きな皮張りのソファが置かれていて、2人の人物が腰かけていた。1人は男性、1人は女性。リヴィはすぐに理解した。彼らがバルナベット家の当主であるクラウスと、その夫人である。

 リヴィはソファからは離れた場所に立ち、たどたどしい動作で腰を折った。


「こ、このたびはお招きいただきありがとうございます。リヴィ・キャンベルと申します……」


 7歳のときに屋根裏部屋へ閉じ込められ、以降社交の機会も勉強の機会も奪われてしまったリヴィ。これが今できる精一杯の挨拶だ。

 おどおどと立つリヴィの顔に低く厳格な声があたった。

 

「私はクラウス・バルナベット、隣は妻のフローレンス。到着予定時刻からずいぶんと遅れたようだが、道中で何か問題が起こったのか?」


 クラウスの問いに、リヴィはすぐに答えられなかった。その問いがリヴィに向けられたものであるのか、ドリスに向けられたものであるか、判断がつかなかったからだ。

 

 リヴィがちらりと伺い見た先は、壁に背をつけて立つドリス。主であるクラウスを真っ直ぐに見据えながらも、一向に口を開こうとはしない。どうやらクラウスの質問には、リヴィ自らが答えなければならないようだ。


「申し訳ありません……。長旅に慣れておらず、ドリス様にお願いして何度か休憩をはさんでいただきました」


 リヴィが小声で答えると、クラウスは悪戯気に口の端を吊り上げた。

 

「ああ、そういう事情だったか。てっきり貴女がごねて出発が遅れているのかと思ったぞ。『暗殺一族に嫁ぐなど御免だ』と」

「いえ、まさかそんな……」


 はっと顔を上げたリヴィは、このとき初めてクラウスの顔を真正面から見つめた。

 暗殺一族の当主であるクラウス・バルナベットは武人のような男であった。黒髪はすっきりと刈り上げられていて、衣服の内側の肉体はたくましい。歳の頃で言えば、リヴィの父であるルドリッチとさほど違いはないだろう。しかし研ぎ澄まされた肉体を持つクラウスは、実際の年齢よりもはるかに若々しく見えた。

 クラウスを見つめるリヴィの耳に、高く澄んだ声が聞こえた。


「あなた、意地の悪いことを言うのはお止めくださいな。華の嫁入りだというのにドレスの一枚も持たされない、紅の一筆すら引いてもらえない。その娘が今までどのような扱いを受けていたかは火を見るよりも明らかでしょうに。嫁入りなど嫌とごねたところで、もう帰る場所などないのよ。そうでしょう?」


 そう含み笑いを零す者は、クラウスの隣に座るフローレンス・バルナベットだ。背を流れる黒髪は烏羽(からすば)のように艶々として、ドレスから突き出した腕足はたおやかだ。幼子のように小首をかしげ、白桃のような頬を膨らませて笑う。

 フローレンスの言葉に悪意を感じても、リヴィは言い返すことができなかった。その言葉が一言一句真実であるからだ。うつむきこぶしを震わせるだけ。


 そのとき、部屋の扉が音を立てて開いた。皆がいっせいにその音のした方を見た。

 

 部屋の入口には長身の青年が立っていた。まるで人形のように整った容姿の青年だ。几帳面に切り揃えられた黒髪がひたいを流れ、整った眉の下で黒曜石に似た瞳が輝いている。


(綺麗な人……まさかこの人が私の……?)


 リヴィの予想は間もなく正しいとわかった。クラウスが青年に向けてこう声をかけたからだ。


「ああ、来たのかアシェル。お前の結婚候補者であるリヴィ・キャンベル嬢だ。そんなところに立っていないで、こっちへ来て挨拶をするんだ」


 アシェルはすぐに動いた。リヴィを一瞥すらせずに部屋の中へ進み入ると、クラウスの座るソファのかたわらに立つ。

 そしてリヴィの顔を見ることなく冷たく言い放った。


「アシェル・バルナベット」


 氷のように冷たい声だ。人の声ではなく、からくり人形の放つ機械音のようですらある。

 これにはクラウスも苦笑いを零した。


「アシェル、そんな挨拶はないだろう。せっかく遠路はるばる来てくださったというのに」

「元より私が望んだ結婚ではありませんから」


 政略結婚、という言葉がリヴィの脳裏をよぎった。アンデルバール王国の貴族の間では、一族の繁栄を目的とした政略結婚がありふれている。自由な恋愛の末の結婚など夢のまた夢だ。

 

 アシェルとリヴィの結婚は、父であるクラウスとルドリッチの間で決められたこと。そこに結婚当事者であるアシェルとリヴィの意志は介入しない。貴族の結婚とはそういうものだ。

 それでもクラウスはリヴィのことを『結婚候補者』だと言った。多少なりとも検討の余地は残されているということだろう。


(アシェル様はとても綺麗な人なのに、他に縁談のお話はないのかしら。……いえ、あるはずがないわ。暗殺一族に嫁ぎたい令嬢などいるはずがないもの……)


 リヴィの目の前では、早々に場を立ち去ろうとするアシェルをクラウスが引き留めているところであった。


「アシェル。結婚に関する最終判断はお前に任せる。急くつもりはない、ゆっくりと考えてくれ。リヴィ嬢にはしばらく屋敷に滞在してもらうつもりでいるから」


 2人のやり取りを見ていると否が応でも理解してしまう。

 この結婚がうまくいく可能性は限りなく低い。


(でももしアシェル様に見捨てられたら、私はどこへ行けばいいの……)

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