26.生意気なおとうと
バルナベット家の屋敷には、古今東西の書物を収めた書庫がある。元々は物置だった部屋を、先々代当主となる人物が書庫へと作り変え、以降代々の当主やその妻がたくさんの本を収めてきた。
最近では屋敷に仕える使用人たちが、各々好みの本を所蔵するスペースも確保され、まるで本の森のような有様となっている。
その古くも新しい空間が、リヴィは好きだった。
その日もリヴィは、好みの本を探すために書庫へと赴いていた。迷路のように配置された本棚をめぐり、気になった本を腕の中に積んでいく。絵本、歴史書、料理本、動物辞典。10年ものあいだ勉学の機会を奪われたリヴィにとって、バルナベット家の書庫は夢のような場所なのだ。
腕の中に7冊目となる本を積んだとき、ふとある本がリヴィの目に留まった。『植物の育て方』と書かれた分厚い本だ。背表紙の色合いから察するにあまり古い本ではない。せっかく花の世話を始めたのだから、参考程度に目を通してみようかと、リヴィはその本に手を伸ばす。
しかし――
(と、届かない……)
悲しいことにその本は本棚の高い場所にしまわれていて、リヴィの身長ではとることができなかった。
きょろきょろと辺りを見回してみても、踏み台らしき物は見当たらない。いつも書庫に入り浸っているヴィクトールも、今日に限って姿を見かけない――最近のヴィクトールはこうしてよく姿をくらませていた。何でも特別な仕事を任されているのだとか。
懸命に背伸びをするリヴィの頭上で、本がふわりと宙に浮いた。いや、宙に浮いたのではない。リヴィよりも背の高い誰かが、その本を本棚から引き抜いたのだ。
アシェルの顔が頭をよぎり、リヴィは勢いよく振り返った。
しかしそこに立っていた人物はアシェルではなかった。
「君がリヴィ・キャンベル? こんにちは、初めまして」
そう言ってニコリと微笑んだ者は、爽やかな印象の青年だった。背丈はリヴィよりこぶし3つ分も高く、くせの強い黒髪がほおの横を跳ねまわっている。年齢はリヴィと同じ頃か、少し歳上というところだ。
(ど、どなたしら。どことなくアシェル様と似たお顔立ちだけれど……?)
そう考えて、リヴィははっと気が付いた。
バルナベット家の現当主であるクラウスには2人の男子がいる。長男のアシェル、次男のテオ。そしてかつてクラウスが言った「テオは気さくな奴だから」という言葉は、青年の印象によく合っていた。
「あの……もしかしてテオ様でいらっしゃいますか?」
リヴィが遠慮がちにそう問いかければ、青年は人のいい笑みを深くした。
「そう、よくわかったね。俺の名前はテオ・バルナベット。よろしく」
簡単な自己紹介の後、青年――テオはリヴィの腕の中に本を積み上げた。背表紙に『植物の育て方』と書かれた分厚い本だ。自分が大荷物を抱えていたことに気が付いたリヴィは、ずっしりと重たい本山を床に置き、それからテオに向かって頭を下げた。
「私の方からご挨拶にうかがわず、すみませんでした」
リヴィがバルナベットの屋敷にやって来てからもう数か月が経つ。そうだというのに、今日に至るまでテオへの挨拶を先延ばしにしてしまっていた。本来ならば、屋敷に到着したその日にでも挨拶に行かなければならなかったのに。
テオは鼻の頭をかきながら、何でもないという風に答えた。
「ん? 別に気にしてないよ。だって俺、リヴィがやって来てからほとんど屋敷にいなかったし」
「……そうだったんですか?」
「そうそう、親父に次から次へと仕事を投げ込まれてさ。王国中を駆け回ってた。……何でだと思う?」
リヴィは小首をかしげ、考え込んだ。
「ええと……?」
テオは悪戯げに笑った。
「アシェル兄がいよいよ結婚するっていうからだよ。婚約者のご令嬢がはるばる屋敷にやって来てくれたというのに、アシェル兄が長く家を空けるわけにはいかないでしょう。だから俺がアシェル兄の分まで仕事をしてたんだ」
そう言われてみれば、リヴィにも思い当たる節があった。リヴィがやってきて以降、アシェルが長期で屋敷を空けたことは1度だけ。大量のマカロンをお土産にと買ってきた、あのときだけだ。
それ以外にもたびたび屋敷を空けることはあったが、いずれも3日は経たずに帰ってきた。恐らく仕事の割り振りを行うクラウスが、アシェルに重たい仕事を回さないようにしていたのだろう。理由はテオが言ったとおり、リヴィの存在があったから。そして本来アシェルが担当するべき分の仕事は、弟であるテオに回されていた――
初めて知る事実に、リヴィはしおしおと小さくなった。
「私がいるせいでテオ様にはご迷惑を……すみませんでした……」
「いやいや、別にリヴィを責めてはいないんだ。だって俺としても、アシェル兄が早く結婚してくれた方が都合はいいからね。親父も『アシェルに無事世継ぎができれば、お前の結婚には一切口を出さない』って言ってくれてるし」
テオはリヴィの顔を至近距離から覗きこみ、にんまりと笑った。
「――というわけなんだけど、どう? アシェル兄とはうまくやってる? もう一緒のベッドで寝ちゃったりはしてる?」
(ど、どうしよう。テオ様はすごくグイグイくる……アシェル様とは全然違うタイプだわ……)
いつむ無表情で、どちらかといえば口数が少ないタイプのアシェル。それとは対照的にこのテオという人物は、くるくると表情を変えよくしゃべる。同じ家で育った兄弟で、ここまで性格が異なるものかと、感動すら覚えてしまうくらいだ。
テオの勢いに圧倒されながら、リヴィはやっとのことで答えた。
「ええと……実はまだ結婚までは話が進んでいないんです。保留状態、というか……」
テオは目をぱちくりさせた。
「保留? あれ、リヴィってアシェル兄の婚約者として屋敷へやってきたんじゃなかったの?」
「婚約者ではなく、結婚候補者という形で屋敷においていただいています。だから本当に結婚するかどうかはまだ分からないというか……」
リヴィがまごつきながらそう説明すれば、テオは「ふぅん」と呟いた。唇を撫でながらしばらく考え込んで、おもむろにとんでもない事を言い放った。
「じゃあ俺と結婚する?」
「え、ええ?」
まさかのプロポーズに、今度はリヴィが目をぱちくりさせる番だ。
テオは軽い調子で言葉をつづけた。
「俺、結婚相手にあまりこだわりもないし、余裕で結婚できるよ。リヴィにとっても悪くない提案だと思うけど。アシェル兄と結婚したら、一生この屋敷から離れることはできない。でも俺は跡取りでもなんでもないから、将来に関しては結構自由が許されてるんだよね。例えばどこか遠くの村で、牛でも飼いながらのんびり暮らすとかさ。そんなのも全然アリ」
(こ、こういう場合、なんとお返事するのが失礼にあたらないのかしら。アシェル様以外の男性と結婚だなんて、考えたこともなかった……)
リヴィはふと不思議な気持ちになった。
いつの間にか、アシェルとの結婚を思い描き始めている自分がいた。少し前までは「使用人として雇ってもらえれば十分だ」と考えていたはずなのに。でもその感情の変化が、何によってもたらされるものであるかは、今のリヴィにはよく分からなかった。
(アシェル様と話す機会が増えたから、アシェル様との未来を想像できるようになったのかしら? じゃあテオ様とたくさんお話をすれば、テオ様との結婚も考えられるようになる……?)
考え込むリヴィの耳に、ゴン、と鈍い音が聞こえてきた。見れば眉尻を吊り上げたアシェルが、テオの頭頂にげんこつを落としたところであった。アシェルの後ろにはドリスの姿もある。
「テオ! 勝手なことばかり抜かすな!」
書庫に響くアシェルの怒号。テオはげんこつを落とされた頭頂を撫で、唇を尖らせた。
「アシェル兄……何も殴ることはないだろ。俺、間違ったことは言ってない」
「間違ってなくても、リヴィをたぶらかすような発言をするんじゃない!」
「これでリヴィがたぶらかされるようなら、アシェル兄との関係はそれまでだったってこと。何でそんなに怒るわけ? 結婚を保留にしているということは、2人はあまり上手くいってないってことなんじゃないの?」
アシェルはぐっと答えに詰まった。1歩前へ進みでたドリスが、アシェルに変わりテオを諫めた。
「テオ様、無粋な横やりを入れることはお止めください。アシェル様とリヴィ様には、2人なりの順序というものがあるのです」
「ドリスまでそういう……わっかんないなぁ」
右へ左へと首をかしげるテオは、その後すぐにアシェルに連行されていった。ドリスもそれに続くから、別室で引き続き話し合いが行われる予定なのかもしれない。
また1人きりとなった書庫の中で、リヴィはほっと息を吐いた。
(テオ様……良い人なのは間違いないけれど、嵐のようなお方だった……)
屋敷での生活は、また少し賑やかになりそうだ。





