閑話.ハンカチのゆくえ
これはリヴィの花壇が、たくさんの双葉で賑やかになった頃の話だ。
アシェルには悩みがあった。その悩みはだいぶん前から感じていたことではあるけれど、最近は際立ってアシェルを憂鬱にさせることが増えた。ときには夜も眠れずに悶々と考え込んでしまうから、早急に解決しなければならないことは明らかだった。
ある晴れた日の午後、アシェルはドリスの元を訪れた。ドリスは丁度、園庭でたくさんの本を天日干ししていたところで、慌ただしい様子でアシェルに話しかけた。
「アシェル様、どうされましたか? リヴィ様でしたら、客間で文字の練習をしておられますよ」
アシェルは日向に並ぶおびただしい数の本を眺め、それからやや遠慮がちに言った。
「いや……今日はドリスに訊きたいことがある」
「私に訊きたいこと……ですか。何でしょう?」
ドリスは作業の手を完全に止めて、アシェルを見た。
しかしアシェルは、すぐにはその質問を口にしない。ドリスから視線を逸らし、下唇を噛み、言いにくいどころか居心地が悪そうな様子だ。
そしてたっぷりと時間が経った頃、ようやく重たい口を開くのである。
「あ、あのハンカチはどうなったんだ。以前見せてくれた空色のハンカチ……」
その瞬間、ドリスの顔から表情が消えた。氷点下の視線がアシェルを射貫く。
「そとはリヴィ様がアシェル様のためにお作りした、エーデルワイスの刺繍入りのハンカチのことでしょうか?」
「そうだ……」
「リヴィ様がアシェル様のために懸命に針を刺し、しかし最後はゴミクズのように投げ捨てられてしまった例のハンカチ?」
「そ……」
アシェルはそれきり黙ってしまった。
その出来事をアシェルとて忘れたわけではない。アシェルがリヴィを殺そうとした大雨の夜、ドリスはリヴィを救わんと手を尽くした。その必死の抵抗の一つが、リヴィが手作りしたハンカチをアシェルに渡すことだった。
しかし手渡された手作りのハンカチを、アシェルはゴミクズのように床に投げつけた。「いい加減、気は済んだか。娘の居場所を言え」と吐き捨てて、リヴィを探すために屋敷を飛び出したのである。
その出来事を忘れたわけではなかったし、都合よく記憶を改ざんしたわけでもない。だからこそアシェルは、ドリスにハンカチの行方を聞くことをためらった。
一度いらないと投げ捨てている以上、ハンカチのことを口にすれば、ドリスに冷たい視線を浴びせられることは目に見えていたからだ。
「アシェル様は、あのハンカチをどうされたいのです」
唐突かつ曖昧な質問に、アシェルは戸惑った。
「ど、どうとは……?」
「ハンカチがあの後どうなったかを知れば、それで満足なのですか? それともハンカチの行方を知る以上に、あのハンカチをどうにかしたいと思っているのですか?」
ドリスの質問は相変わらず曖昧であったが、アシェルはその意図を理解した。
つまりドリスの言いたいことはこうだ。「あのハンカチが欲しいのなら、ごまかさずにはっきりそう言え」どうやらドリスは、アシェルがハンカチを投げ捨てたことを相当根に持っているようだ。
アシェルはぎりり、と歯軋りをした。本能とプライドの間で揺れる。他人の手のひらの上で転がされることは屈辱的であった。しかしそれ以上に、アシェルはあのハンカチが気になって仕方ないのだ。「あのハンカチは今どこにあるのだろう」と悶々考え、夜も眠れなくなってしまうくらいに。
アシェルはカっと目を見開き、プライドをかなぐり捨てて叫んだ。
「あのときは本当に悪かった! リヴィの手作りハンカチが欲しいから、あのハンカチが今どこにあるかを教えてくれ!」
アシェルの魂の叫びは、人気のない園庭にくわんくわんと反響した。
場は一瞬沈黙となり、その沈黙を破ったものはどこか満足気なドリスの声だった。
「そういう事情でしたら仕方ありませんね。あの空色のハンカチでしたら、リヴィ様が滞在しておられる客間の、チェストの一番上の引き出しに入れてあります」
ハンカチが本当に捨てられてはいなかったことに、アシェルはひとまず安堵した。そして一度安堵してしまえば、次なる疑問が湧いてきた。
「リヴィはそのことを知っているのか?」
「私の口からは申し上げておりません。リヴィ様は普段チェストには触りませんから、気付いておられないかもしれません」
ドリスが語り終えた瞬間、アシェルは身をひるがえした。リヴィの客間を目指すためである。
情報提供への礼もなく、園庭を立ち去ろうとするアシェルの背中に、試すようなドリスの声があたった。
「アシェル様。まさかリヴィ様に黙って、チェストからハンカチを盗み出すなんてことはなさいませんよね? 一度受け取りを拒否したのですから、ハンカチの所有権はまだリヴィ様にあります。欲しいと思うのなら、リヴィ様の手からしっかりと受け取ってください」
考えていたことを見透かされたようで、アシェルは一瞬いらだちを覚えた。しかし何も言い返すことはできなかった。
ドリスの言うことは100%正しいのだから。
***
アシェルが客間に立ち入ったとき、リヴィは机に向かって熱心に書き物をしていた。あまりに集中しているためか、アシェルの来訪にも気が付かないようである。
アシェルは足音を立てずリヴィに近づくと、背後から手元を覗き込んだ。あまり上等とはいえない紙の上に、お世辞にも上手とはいえない文字が並んでいる。つづりを間違えている箇所もあるし、紙の端にはインクが垂れ放題だ。
それでもアシェルは、微笑ましい気持ちでその下手くそな文字を眺めていた。リヴィが失った物の大きさは知っている。今アシェルの目の前にいるのは、失った時間を必死で取り戻そうとする健気な少女だ。
衣擦れの音が聞こえたのだろう、リヴィは唐突に振り返った。そこにアシェルがいることを知り、悲鳴に近い声をあげた。
「アシェル様、いつからそこにいらっしゃるのです⁉」
アシェルはしれっと答えた。
「少し前だ」
「ひ、一声かけてくだされば良かったのに……」
「ノックはした。集中していたようだから、邪魔しない方が良いかと思ったんだ」
ほんのりと赤い顔をしたリヴィは、大慌てで机の上の紙を伏せた。そこに書いてあるまだ練習途中の文字を、アシェルに見られたくないのだろう。伏せた紙の上に、数冊の本まで積み上げて、それから何食わぬ顔で口を開いた。
「……アシェル様、何かご用事でした?」
アシェルは少し考え、それから思ったままの言葉を口にした。
「実は、ハンカチを貰えないかと思って」
「ハンカチ、ですか?」
まだほんのりと赤い顔をしたリヴィは、そのまましばらく考え込んだ。それからワンピースのポケットに手を入れて、そこに入っていたハンカチをアシェルの目の前に差し出した。丁寧に折りたたまれた桃色のハンカチだ。
伝え方が悪かった、とアシェルは肩を落とした。
「いや、ハンカチなら何でも良いというわけではなく……リヴィが手作りしたハンカチだ。空色の布地に、エーデルワイスの刺繍が入った物」
リヴィは驚いた表情を浮かべ、それからすぐに困った顔となった。
「……すみません。あのハンカチ、どこかで失くしてしまったみたいなんです。多分、馬車道を走るうちに落としてしまったのかなって。何度か探しには出たんですけれど、見つからなくて……」
しょんぼりとうなだれるリヴィを見て、アシェルはほっと息を吐いた。
リヴィがあの夜の、ドリスとアシェルのやり取りを知らなかったことに安堵した。
アシェルと同じように、ハンカチの存在を気にかけていてくれたことが嬉しかった。
思わず緩みそうになる頬を押さえながら、アシェルは客間の隅に置かれたチェストを指さした。
「ハンカチは、チェストの一番上の引き出しにある。ドリスがそう言っていた」
「え、本当ですか?」
リヴィはすぐに立ち上がり、信じられないというような顔つきでチェストの方へと歩いて行った。
そして次のアシェルの側へ戻ってくるときには、顔いっぱいに微笑みを浮かべ、両手には空色のハンカチを握りしめていた。
「失くしていなくて良かった……一度、綺麗に洗濯してからお渡ししますね」
アシェルは食い気味で答えた。
「そのままで良い」
「ですが、少し埃臭くなってしまっていますし……」
「構わない。今、欲しいんだ」
アシェルはリヴィの胸の前に手のひらを差し出した。
リヴィは戸惑った表情でその手のひらを見下ろしていたが、やがて怖じ怖じとハンカチをのせた。
「では、どうぞ。つたない品ですが……」
エーデルワイスの刺繡が入った空色のハンカチ。アシェルに歩み寄りたというリヴィの想いが詰まったハンカチ。
今、ようやく自分の物になったハンカチを、アシェルは大切に胸ポケットへとしまい込んだ。
「ありがとう、大切にする」
その日、バルナベット家の屋敷のあちこちでは、上機嫌で鼻歌を歌うアシェルの姿が目撃されたのだそうな。
ある晴れた日の午後のできごとであった。





