23.殺意のカケラ
花壇に花の種を蒔き直してからというもの、毎日の水やりはアシェルとリヴィの日課となった。朝食を終えれば中庭に集合し、2つのジョウロを使って花壇に水をまく。小さな花壇なのだから、水やりの人手は1人いれば十分なのだけれど、リヴィはあえてその事を口にしなかった。アシェルも何も言わなかった。
特別な会話をするでもなく、2人で黙々と花壇に水をやる時間が、いつしか2人にとってかけがえのない物となっていた。
その日もリヴィは、園庭に向かうためにいそいそと身支度をしていた。
水やりの邪魔にならないようにと長い髪を一つにまとめ、日よけのための帽子をかぶる。服はドリスから借りている膝丈ワンピースだ。アシェルが買ってくれたワンピースは、装飾品が多いため庭仕事には向いていない。水やりのときだけはクローゼットの中でお留守番なのだ。
身支度の最後に、リヴィはクローゼットを開けた。
少し前まではマリエラのお下がりばかりだったクローゼットの中身は、今はずいぶんと賑やかになった。十数着におよぶワンピースと、形の違う3枚の上着。数点の髪飾りと靴。これらは全て、ブリックヘイブンの服飾店でアシェルが買ってくれた物だ。
リヴィは花畑のような色合いのクローゼットを眺め渡し、そこから靴を一足とりあげた。アシェルが買ってくれた靴の中では、一番シンプルで歩きやすい物だ。散歩や庭仕事のときにはこの靴を履くと決めていた。
(今日は朝食が少し遅くなってしまったから、早く行かないとアシェル様を待たせてしまう……)
リヴィは大急ぎで履いていた靴を脱ぐと、クローゼットから出したばかりの靴に右足を入れた。
その瞬間、足の裏に激痛が走った。
「痛っ……!」
足の裏にナイフを突き刺されたかのような鋭い痛みだった。反射的に靴から足を引き抜いたリヴィは、床の上に尻もちをついた。
ドクドクと嫌な音をたてて心臓が鳴る。
こめかみに脂汗がにじむ。
おそるおそる右足を見れば、今もなお鋭い痛みを訴える足裏からは、鮮血がとめどなく溢れ出していた。親指の付け根あたりに切り傷がある。いや、切り傷というよりは刺し傷だ。すぐに止血をしなければならないような傷ではないが、数日は歩くのに不自由するだろう。
中に何が入っていたのだろうと、リヴィは靴をかたむけた。カラリと乾いた音を立てて床に落ちた物は――
「ガ、ガラスの欠片……?」
リヴィの靴から転がり落ちた物は、鋭利に尖ったガラスの欠片だった。
鮮血に濡れ、なおもキラキラと輝くその欠片からは、リヴィを傷つけようとする明らかな悪意を感じ取ることができた。
*
「リヴィ、怪我をしたというのは本当か!」
大きな足音を立てながら、客室にアシェルが入ってきた。どうやら園庭から走ってきたらしい、黒髪が少し乱れてしまっている。
ドリスから怪我の手当てを受けていたリヴィは、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。怪我はしましたけれど、大した傷ではありませんから。もう血も止まりかけていますし」
リヴィはまだ手当て途中の右足を見た。そこそこ深さのある傷ではあったが、ドリスの手早い応急処置のおかげで出血は治まりつつある。ガーゼをあててしっかりと包帯を巻いてしまえば、痛みも少しは和らぐはずだ。このように小さな傷でアシェルを心配させてしまったことの方が、リヴィにとっては余程気がかりだった。
アシェルはしばらく黙っていた。床に落ちた血まみれのタオルをじっと見つめ、それからおもむろに口を開いた。
「何をしているときにできた傷だ」
リヴィは反射的に答えた。
「靴を履き替えようとしたんです。そうしたら靴の中にガラスの欠片が入っていて……」
「靴の中にガラス? なぜそんな事が起きるんだ」
強い口調で聞き返されて、リヴィはしまったと思った。靴の中にガラスが入っているなど、普通であれば有り得ない。廊下に脱ぎ捨ててあった靴にたまたまガラスが入ってしまった、というのならまだ説明はつくが、リヴィの靴はずっとクローゼットにしまってあったのだ。
つじつまを合わせるためには、アシェルに一連の出来事を説明するしか方法はなかった。
ドリスから怪我の手当てを受けながら、リヴィはここ最近の出来事について語った。
始まりは客間の物が何者かによって移動されていたことで、その行為が徐々にエスカレートしていったこと。ドリスの警告により嫌がらせは一時治まったが、安心した頃に花壇が荒らされたこと。そして今日、明らかにリヴィを傷つけることを目的として、靴にガラスの欠片が入れられていたこと。
全てを語り終えたとき、リヴィは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。アシェルが冷たい眼差しでリヴィを見下ろすから尚更だ。
「なぜその事を私に黙っていた」
「すみません……ドリスが警告してくれたことで、この件はもう終わったんだと思っていたんです。花壇が荒らされた件については、獣の悪戯という可能性も捨てきれませんでしたし……」
アシェルは溜息を吐き、それからドリスの方を見た。
「例えそうだとしてもだ。リヴィに対する嫌がらせ行為があったのだとしたら、一言私に報告すべきだとは思わなかったのか。ドリス、お前に言っているんだ」
ちょうどリヴィの足に包帯を巻いている最中であったドリスは、手当ての手を止め謝罪を口にした。
「……はい、申し訳ありません。私の判断誤りでした」
「この件については私の方で対応を考える。ドリス、お前もただで済むとは思うなよ。犯人は別にいるのだとしても、お前が適切な報告を行っていれば、このたびの怪我は防げたかもしれないんだ」
そう冷たく言い放ち、アシェルは部屋を出て行った。久しぶりに聞く突き放すような口調だった。リヴィは悲しくなった。
(どうしよう……アシェル様を怒らせてしまった。こんな形で報告することになるくらいなら、初めから全部話しておけば良かった……)
リヴィが嫌がらせの件をアシェルに話していなかったことには、特別深い理由はなかった。ただ何となく機を逃してしまったのと、この件をあまり大事にはしたくないと思っただけ。アシェルに報告せず事が治まるのなら、それが一番いいと考えていたのだ。
けれど嫌がらせは治まることなく、リヴィは足に怪我を負ってしまった。今まで報告がなかったことに怒りを覚えたアシェルは、ドリスにまで処罰を下すと言い放った。
沈黙が招いた最悪の結果だ。
「ドリス……ごめんなさい。私がしっかりアシェル様にお話ししていれば……」
ドリスはうっすらと微笑みを浮かべ、首を横に振った。
「リヴィ様のせいではありませんよ。本当なら、使用人である私の口からアシェル様に報告を行うべきだったんです。嫌がらせがなくなったと思い込んで、クローゼット内のチェックを怠ったのも私です。私の不注意でリヴィ様に怪我をさせてしまい、申し訳ありませんでした」
そう言ってドリスが深く頭を下げるものだから、リヴィは泣き出したい気持ちになった。
ドリスはずっとリヴィの味方でいてくれた。フローレンスに嫌味を言われたときも、アシェルに冷たい態度を取られたときも、心が折れずに済んだのはドリスが傍にいてくれたからだ。
ドリスが謝る必要などまるでないのだ。深々と頭を下げるべきは、悪質な嫌がらせを続ける張本人だけ。ふつふつと怒りが湧き上がるのを感じながら、リヴィはドリスの顔を覗きこんだ。
「ドリス……あのね。これから話すことは、誰にも言わないでほしいの」
ドリスはリヴィの瞳を見つめ返し、小さな声で返事をした。
「……はい、承知しました」
リヴィは客間の中をぐるりと見回し、そこに人の姿がないことを確認した上で、静かな声で語り始めた。
「私に嫌がらせをする犯人は、カーラじゃないかと思っているの」
「カーラ……ですか。それはどうして?」
ドリスは不思議そうな表情だ。
カーラはバルナベット家に仕える使用人の1人、ドリスと同じ年頃の若い女性だ。リヴィは直接話をした経験はないが、屋敷の中で何度か姿を見かけた経験がある。
一番最近の出来事でいえば、花壇が何者かに荒らされたとき、ドリスとアシェルを呼びに行った人物がカーラだった。「リヴィ様が手入れされた花壇ですから、アシェル様にもお知らせした方がいいかと思って」カーラがそう話す声をリヴィはよく覚えていた。
「嫌がらせが始まったくらいから、客間の中で頻繁にカーラの匂いを感じるようになったから。カーラは少し変わった香水をつけているでしょう。ケーキみたいに甘い香りの」
「そ、そうだったでしょうか。すみません、あまり気に掛けたことがありませんでした……」
「今日クローゼットを開けたときも、ほのかにカーラの匂いがした。急いでいたから気にも留めなかったのだけれど。恐らく今も、匂いは残っていると思う」
リヴィがはっきりと言い切れば、ドリスは戸惑いながらクローゼットの方へと歩いて行った。そしてクローゼットの中に顔を突っ込み、ふんふんと鼻を動かした後、困ったようにリヴィを見た。
「……私にはよくわかりません。リヴィ様には、このかすかな匂いがわかるのですか?」
リヴィはうなずいた。クローゼットの近くまで歩いていかなくても、リヴィの鼻は焼き菓子に似た甘い香りを感じ取ることができた。ここ数日の間に何度も嗅いだ香りだ。
ドリスがにわかには信じ固いという表情を浮かべるものだから、リヴィは苦笑いを浮かべながら語り始めた。
「キャンベル家の屋敷で暮らしていた頃、食事に変な物を入れられていることがあったの。石鹸の欠片だったり、虫の死骸だったり、万年筆のインクだったり、入れられている物はその時によって違ったのだけれど」
ドリスは苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべた。
「キャンベル家の使用人が、そのような悪質な嫌がらせを働いていたのですか?」
「多分そう……食事の配膳は使用人の仕事だったから。それで変な物を食べさせられては敵わないからと、毎日必死で食事の匂いを嗅ぐうちに、とっても鼻が良くなってしまったの。冗談みたいな話かもしれないけれど」
冗談みたいな話だが冗談ではなかった。食事に混ぜ物をされることはリヴィにとって死活問題だった。普通の人なら何でもないような異物でも、身体の弱ったリヴィにとっては猛毒となる可能性があったからだ。身体を壊しても治療を受けさせてもらえる保証などなかったのだから。
だからリヴィの身体はいくつかの五感を発達させた。生き残るために、人の悪意に負けないために。
ドリスの両手を握りしめ、リヴィは語り続ける。
「嫌がらせの犯人がカーラだという絶対の証拠はない。同じ香水を使っている使用人がいるかもしれないし、今日も別の用事でたまたまクローゼットを覗いただけかもしれない。でももし本当に犯人がカーラだとしたら、ドリスの力で嫌がらせを止めさせることはできないかしら。そうすればアシェル様も、ドリスを処罰するなんて言わないと思う……」
ドリスはしばらく黙っていたが、やがてやる気に満ちあふれた顔でリヴィの手のひらを握り返した。
「少しやり方を考えてみます。リヴィ様の心づかいを決して無駄には致しません」
薄く開いた扉の向こう側で、人影が音もなく動いたことに、リヴィとドリスは気付かなかった。





