21.忍びよる悪意
「物が失くなる……ですか?」
ドリスは不思議そうに聞き返した。
両手に紅茶のカップを抱え込んだリヴィは、困り顔で説明を続けた。
「正確には失くなる、ということはないの。私が目を離した隙に、物が別の場所に移動してしまっている……という感じかしら。例えばベッドの枕元に置いていた本がいつの間にか書庫に戻されていたり、洗面台に置いておいた髪飾りがなぜか廊下の隅で見つかったり……」
リヴィの周りでそんな奇妙な出来事が起こり始めたのは、今日から10日ほど前のことだ。
初めはほんの些細な出来事だった。しっかりと本に挟んでいたはずの栞が床に落ちているだとか、クローゼット内の物の配置が変わっているだとか、そんな些細な物の移動。そしてその取るに足らない奇妙な物の移動は、この10日間の間で徐々にエスカレートしつつあった。多少の薄気味悪さを感じるほどに。
しかしドリスは、リヴィの報告をさほど深刻に受け止めた様子はなかった。
「偶然が重なった、という可能性はないでしょうか? 本が書庫に戻されていた件については、ベッドメイクを担当した使用人が気を利かせて戻してくれた可能性があります。髪飾りの件についても、洗面台の掃除をした使用人がポケットに入れて、廊下を歩くうちに落としてしまったですとか」
ドリスの推理は理にかなっていた。リヴィが間借りする客間には、1日を通して数人の使用人が出入りする。彼らがリヴィの知らないところで、客間の物を移動させているという可能性は捨てきれなかった。
けれどもリヴィには、ドリスの推理を素直に受け入れられない理由があった。
「初めは私も、偶然が重なったのだろうと思っていたの。でもここ2,3日の間に、物が移動する回数は目に見えて増えているわ。誰かが意図的にそうしているのではないか、と思うくらいに」
ドリスの瞳がするどく光った。
「誰かがリヴィ様を困らせようして、意図的に物を動かしている……ということでしょうか」
「ごめんなさい、私も使用人の方々を疑いたくはないの。でも現実に私は困っているのよ。広い書庫から読みかけの本を探すのは大変だし、髪飾りはアシェル様に買っていただいた大切な物だわ。本当に失くしてしまったら、どんな顔をしてアシェル様に謝ればいいの……」
リヴィはしゅんとうなだれた。
アシェルと良好な関係を築きつつあるとはいえ、リヴィはしょせん屋敷のいそうろうだ。リヴィが物を失くしたり、壊してしまったりすれば誰かに迷惑がかかる。本を失くせば書庫の主であるヴィクトールが悲しむだろうし、せっかく買ってもらった服や靴を失くせばアシェルを嫌な気持ちにさせてしまうだろう。
(自分が困るだけならいい。でもこの奇妙な物の移動が原因で、周りの人々を傷つけてしまうことは嫌だわ……)
リヴィの切実な訴えを聞き、ドリスはしばらく考え込んだ。それからふいに顔を上げ、優しい口調で言った。
「わかりました。私の方からそれとなく皆に警告しておきます。『客間の物を勝手に移動させる行為は控えるように』と。一度、それで様子を見ていただけますか?」
「ええ……ありがとう、ドリス」
肩の荷が下りたような気持ちを覚えながらも、リヴィの心には薄灰色のもやもやが残ったままだった。
***
ドリスに相談してからというもの、奇妙な物の移動はぱたりとなくなった。恐らくはドリスの警告が効いたのだろう。
平穏な日常が戻ってきたことに安堵する反面、リヴィは少し悲しい気持ちになった。ドリスの警告が効いたということは、使用人の誰かが悪意を持ってリヴィの物を移動させていたという意味に他ならない。バルナベット家の屋敷の中には、リヴィの存在を疎ましく思う者がいるということだ。
その日、リヴィはドリスと一緒に花壇へ花の種をまいていた。壊れかけたレンガ囲いを積みなおし、丁寧に土をたがやし、小さな花の種を一つ一つまいていく。
伯爵令嬢であるリヴィが泥仕事をするなどと、貴族界の常識に照らせば信じがたい行為だ。けれどもここにリヴィを責める者はいない。厳しい貴族の戒律を押し付けようとする者もいない。あふれんばかりの自由がここにはあった。
「ドリス……種を埋める深さはこのくらいで良いのかしら」
花壇縁にしゃがみこんだリヴィが生真面目な顔で質問すれば、ドリスはリヴィの手元を覗き込んだ。
「もう少し深いところに埋めた方がよろしいかもしれませんね。あまり浅いところに埋めると、水をかけたときに種が地表へ飛び出してしまいますから」
「なるほど……ではもう少し深く穴を掘ってみるわ……」
リヴィは鼻頭に浮いた汗粒をぬぐい、また作業に没頭する。鼻先にちょんと泥がついたリヴィの顔を見て、ドリスが小さな笑い声を零した。
30分も経つと花壇はすっかり綺麗になった。広い花壇には隅々まで花の種が植えられて、じょうろで水やりまで済ませてある。毎日欠かさずに水をやれば、1週間と経たずに芽が出るだろう。
花壇にたくさんの花が咲き乱れる様を想像すれば、今から心が躍った。
一仕事を終えてすっきりした表情のドリスが訊いた。
「リヴィ様。花の水やりはご自身でなさいますか? 庭掃除当番の使用人に任せることもできますけれど」
リヴィは少し考え、明るい声で答えた。
「頑張って自分でお世話してみるわ。そうすれば種が芽吹いたとき、一番に気付くことができるもの」
それがよろしいですね、と言ってドリスは笑った。
小さな種が花咲かせる日をリヴィは楽しみにしていた。
しかし不運なことにも、リヴィとドリスが植えた種は花を咲かせることはなかった。それどころか芽吹くことすらしなかった。リヴィが花の世話を怠ったのではない。種が芽吹くよりも先に、花壇が何者かによって荒らされてしまったのだ。
種植えから4日後の出来事であった。





