19.エミーリエ・レスター
服飾店を出たアシェルとリヴィは、ブリックヘイブンの街中へと向かって歩き始めた。
もう時刻は昼時に近い。高くのぼった太陽が石畳を照らし、歩いていればじわりと汗が滲む。山頂に位置するバルナベット家の屋敷は、昼時になってもあまり気温が上がらないから、こうして汗をかくのは久しぶりだとリヴィは感じた。
人通りの少ない道を2分も歩いたとき、リヴィは遠慮がちに口を開いた。
「あの、アシェル様……たくさん服を買っていただいて、ありがとうございました」
アシェルはちらりとリヴィを見た。それからつっけんどんに言った。
「金を出したのは父上だ。礼なら父上に言うといい」
「買い物に行こうと誘ってくださったのはアシェル様です。それにもしクラウス様に会わなかったら、アシェル様がお金を出してくださる予定だったのでしょう」
そこまで言って、リヴィはアシェルの不機嫌の理由に思い至った気がした。
恐らくアシェルは、クラウスに支払いを取られたことが悔しかったのだ。初めは自分が買い物の支払いをするつもりで、それなりの金額を用意していたというのに、それを上回る金額をぽんと手渡されてしまった。そしてそうなることを予想していたからこそ、クラウスの目を盗んでリヴィを買い物に連れ出そうとした。
そうだとわかると心がむず痒くなった。
愛などという激烈な感情はなくとも、婚約者などというわかりやすい肩書はなくとも、アシェルはアシェルなりにリヴィのことを思ってくれている。むず痒く、幸せな気持ちになった。
そしてアシェルの思いやりに気付いてしまえば、何も言わずにはいられなかった。
「アシェル様。私、恥ずかしながらお金を持っていないんです。お食事のときには、アシェル様にお支払いをお願いしてもよろしいでしょうか? クラウス様ではなく」
リヴィの言葉にアシェルは一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに何事もなかったかのように返事をした。
「初めからそのつもりだ」
相変わらずつっけんどんではあるけれど、アシェルの声からは不機嫌さが消えていた。
それどころか少し嬉しそうな調子であるのも、多分気のせいではないのだ。
石畳の道を5分も歩くと、辺りには人通りが増え始めた。ブリックヘイブンの中心部まではまだ少し距離があるが、すでに十分な賑わいだ。レンガ造りの街並みには『カフェテリア』や『バー』の看板をかかげた建物も目立つ。
アシェルはきょろきょろと辺りを見回し、少し離れたところにある建物を指さした。
「あそこのカフェテリアにしよう。食後のケーキが充実しているのだと、以前マリエラが言っていた」
「マリエラ様は、よくブリックヘイブンを訪れていらっしゃるのですか?」
「母上とマリエラは甘い物に目がないんだ。美味い菓子を食べるために、よく2人で街へ下りていると聞いている」
リヴィはふんふんと頷いた。
バルナベット家の屋敷に来てからかなりの時間が経つというのに、リヴィはまだアシェルのきょうだいに会ったことがなかった。妹であるマリエラにも、弟であるテオにもだ。きちんと挨拶をしなければと思いながらも、何となく機会を逃し続けてしまっている。顔もわからない人々であるからこそ、アシェルの口からきょうだいの話を聞くことは新鮮だった。
(マリエラ様は人見知りなのよね……。テオ様は気さくな方だと、以前クラウス様がおっしゃっていた。アシェル様にお願いして、ご挨拶の機会を作ってもらうべきかしら……)
しかし屋敷での立場が曖昧である以上、そうすることも大袈裟に思えてしまうのだ。
悩ましげな表情のリヴィの脇を、1台の馬車が通りかかった。
「リヴィ!?」
「え?」
突然大声で名前を呼ばれ、リヴィは驚いた。
リヴィの名を呼んだのはアシェルではない。今しがた通りかかった馬車の中から、リヴィを呼ぶ声が聞こえたのだ。
馬車はすぐに停まった。客車の扉が開き、若い女性がひどく慌てた様子で降りてきた。その女性の顔を見た瞬間、リヴィは驚きに目を見開いた。
「……エミーリエ?」
馬車から降りてきた若い女性は、リヴィの旧知の友人であるエミーリエであった。
キャンベル家と古くから付き合いのあるレスター家の長女。つい数か月前に、アンデルバール王国の第3王子であるオスカー・グランドとの婚約が発表されたばかりだ。厄憑きなどという汚名を持つリヴィとは対照的に、輝かしい将来が約束された女性である。
エミーリエはドレスのすそを持ち上げると、リヴィの方へと駆けよってきた。くせのない赤茶色の髪が、可憐なドレスの背中で揺れる。
いち早く口を開いたのはリヴィだった。
「エミーリエ、こんなところで何をしているの。オスカー殿下の婚約者として、もう王宮に入っているのではなかったの?」
エミーリエは弾んだ息を整えながら答えた。
「オスカー様の国内視察に同行しているのよ。ブリックヘイヴンは、北部地域では1番大きな街だから」
「そうなの……ではあの馬車にはオスカー殿下が乗っていらっしゃるの?」
リヴィは少し離れたところに停まる馬車を見やった。客車の扉はすでにきっかりと閉じられており、中の様子をうかがうことはできないが、大きさからすれば数人の人が乗っていそうだ。
そわそわと落ち着きをなくすリヴィを見て、エミーリエは苦笑いを浮かべた。
「残念ながらオスカー様は馬車に乗っていないわ。私の付き人だけよ。オスカー様は、ブリックヘイヴンを治める貴族の家で仰々しい接待を受けていらっしゃるわ。私は体調が悪いことにして、こっそりお屋敷を抜け出してきたの」
「そ、そんなことをして大丈夫なの……?」
不安いっぱいのリヴィが尋ねれば、エミーリエは唇を尖らせた。
「だって本当に体調が悪くなりそうなのよ。私はまだ婚約者の立場だから、込み入った話に口をはさむわけにはいかないでしょう。自己紹介以外にすることもないし、かといって接待の席で居眠りすることもできないし、ただにこにこ笑って席に座っているだけ。ほっぺたの筋肉がおかしくなりそうだわ」
「そ、そうだったの。王族の婚約者というのも大変なのね……」
などと労いの言葉を口にしながらも、リヴィは懐かしさに涙が出そうだった。
エミーリエはリヴィにとってただ1人、屋根裏部屋生活の最中にもつきあいが続いていた友人だ。優しく正義感の強いエミーリエは、ルドリッチの制止も聞かずよくリヴィに会いにきてくれた。開くことのない扉をはさんで他愛のない話を聞かせてくれたし、屋根裏部屋の窓からお菓子を投げ入れてくれることもあった。
10年に及ぶ孤独な生活の中で、リヴィが正気を失わずにいられたのは、エミーリエの存在があったからだ。エミーリエがいなければ、リヴィは今この場所にいなかっただろう。
だからリヴィはエミーリエが大好きだ。
誰よりも幸せになってほしいと心から願うくらいに。
(お別れを言えなかったこと、ずっと気になっていた……偶然会えるだなんて夢みたい……)
リヴィが喜びを噛みしめるかたわら、エミーリエはアシェルに視線を向けた。
「リヴィ、そちらの男性は?」
エミーリエの声は軽い調子だ。まさか目の前の男性が、かの有名な暗殺一族の一員であるなどとは考えもしないのだろう。
リヴィは口を開きかけるが、アシェルが名乗る方が早かった。
「アシェル・バルナベットだ」
その瞬間、エミーリエの顔から笑顔が消えた。
先ほどまでの快活な様子はどこへ行ったのだろう。エミーリエは真っ青な顔でよろめきながら1歩、2歩と後ずさる。そして震える指先でスカートをつまみあげると、アシェルの前に首を垂れた。
「ご、ご挨拶が遅れて申し訳ございません。私、エミーリエ・レスターと申します。バルナベット家一族のご栄光は、父からよく聞かされておりました……」
消え入るような挨拶の端々からは、「どうか殺さないで」という心の声が聞こえてくる。
エミーリエの願いを汲み取ったかのようにアシェルは言った。
「怯える必要はない。私は、無礼を理由に人を殺したりはしない」
エミーリエはバルナベット家の次期当主であるアシェルの顔を知らなかった。アシェルに向けて名乗ることもしないままリヴィと雑談に興じた。エミーリエが王家の婚約者であるという点を差し引いても重大なマナー違反だ。
けれどもアシェルは、エミーリエのマナー違反をさして気に留めた様子はない。
その理由は、バルナベット一族が貴族というにはあまりに異質な存在だからだ。バルナベット一族は、本来貴族が行うべき社交を一切行わない。貴族同士の茶会に参加することはなく、王族主催の夜会にも姿を現すことはない。
だからバルナベット一族はその名前こそ広く知られているものの、彼らの顔を知る者はほとんどいない。エミーリエの無知は、決して責められるべきものではないのだ。
アシェルがそれきり黙りこんだので、エミーリエはひとまず安心したようだった。それでもやはりアシェルのことは気になるようで、ちらちらと様子をうかがいながらリヴィに話しかけた。
「本当にごめんなさい。ルドリッチ様からリヴィが家を出たことは聞いていたのだけれど、行き先までは教えてもらえなくて……。まさか貴族のおうちで奉公しているだなんて思わなかったわ。召使として雇われているの?」
リヴィはそうだと答えようとした。そう答えることが一番わかりやすく、誰に対しても角が立たないと思ったからだ。
しかしまたもや、アシェルが口を開く方が早かった。
「リヴィは召使ではない。私の婚約者だ」
はっきりと伝えられた言葉に、驚きに目を丸くした者はエミーリエだけではなかった。リヴィもまたルビーレッドの目をまん丸にしてアシェルを見た。アシェルの口から『婚約者』などという単語が飛び出すとは、想像もしていなかったからだ。
(き、きっと深い意味はないのよね……私たちの関係を言葉にすることが難しいから、仕方なく婚約者という表現を選んだだけ……)
そう自分に言い聞かせても、何だかそわそわしてしまうリヴィである。
アシェルは石畳の向こう側にある建物を指さした。2人が昼食をとる予定のカフェテリアだ。
「リヴィ、私は先に店へ行っている。席はとっておくから、ゆっくり話をしてくるといい」
リヴィは迷うことなく答えた。
「いえ、もう大丈夫です。お待たせしてしまって申し訳ありません。……じゃあね、エミーリエ。今日は会えて嬉しかった」
簡単ながらも心のこもった挨拶を済ませ、リヴィはアシェルに並んで歩きだそうとした。
控えめな声がリヴィを呼んだ。振り返ってみれば、エミーリエが戸惑った表情でリヴィを見つめていた。
「リヴィ……あなたは今、幸せなの?」
「……そうね、幸せだわ。そう思えるまでには色々なことがあったけれど」
エミーリエはうつむき、それきり何も言わなかった。





