13.雨は止み……
「リヴィ。お前さえいなければ、キャンベル家はこうも不幸にならなかったのに」
閉ざされた扉の向こう側から、憎しみに満ちたルドリッチの声がした。
リヴィは扉を前にぼんやりと立ち尽くしていたが、やがて思い出したように周囲の様子をうかがった。
がらりと広い屋根裏部屋だ。小さな窓のそばには薄い布団をのせたベッドが置かれており、ベッドの足元にはつくろいかけの衣服。何度も何度も読み返しすりきれてしまった本と、それからカゴに入れられたいくつかの生活用品。
リヴィの世界の全てだ。
(私……今まで何をしていたのかしら。長い夢を見ていた気がする……)
リヴィは記憶をたどるように自らの頬に触れた。肉が削げ落ち、老人のように乾いた肌がそこにある。10年に及ぶ幽閉生活は、リヴィから何もかもを奪っていった。
どん、と扉を叩く音が聞こえた。リヴィは肩を強張らせ、その音がした方を見た。
「聞いているのかリヴィ! 『厄憑き娘』がいるせいで、私がどれだけ肩身の狭い思いをしていると思っている! お前さえいなければ、お前さえいなければ……」
扉越しに聞くルドリッチの声は、だんだんと悲痛の色を滲ませ始めた。
リヴィは耳を塞いだ。
罵られることには慣れてしまった。けれどもルドリッチのつらそうな声を聞くことには、いつまで経っても慣れなかった。傷口に塩を塗りこめられるような激しい痛み。ズタズタに切り裂かれた心から、枯れてしまったはずの血が溢れ出してくる。
(ごめんなさい……私がこの家に生まれてしまったばかりに……)
ルドリッチはリヴィに向けて恨み言を吐きつらね続けていたが、ふいにその声が聞こえなくなった。
少し間を置き、カチャリと静かな音がした。外側から扉の鍵が開けられたのだ。分厚い木製の扉が少しずつ開いていく。
扉の外側にルドリッチはいなかった。代わりに背の高い黒髪の男性が立っていて、黒曜石に似た2つの瞳が感情なくリヴィを見下ろしていた。
リヴィはその男性をよく知っていた。
「……アシェル様?」
扉の外側に立っていた者はアシェル・バルナベット。
アシェルは何も言わず部屋の中に進みいると、リヴィに向かって手を伸ばした。
温かな指先が首筋に触れた。
冷たい色をたたえた瞳がリヴィを見ていた。
薄い唇がかすかに弧を描いた。
そのとき唐突に夢は醒めた。
***
目を覚ましたリヴィが初めに見たものは、さわさわと枝を揺らす深緑の木々だ。開け放たれた窓からは、暖かな日射しとともに、爽やかな森の香りが流れ込んでくる。
夢の中とは正反対とも思われるのどかな光景の中、リヴィは柔らかなベッドに寝ていた。
木々の香りを吸い込もうとリヴィが身じろぎをすれば、間髪入れずにドリスの声が聞こえた。
「リヴィ様、お目覚めになられましたか!」
リヴィが答えよりも早く、視界にはドリスの顔が現れた。ドリスはベッドに寝転んだリヴィを心配そうな面持ちで覗き込み、矢継ぎ早にこう問いかけた。
「どこか痛むところはございますか。動かしづらさや違和感を感じる場所は? 些細なことでも構いませんから、何かありましたら遠慮なくおっしゃってください」
ドリスの勢いに圧倒されながら、リヴィはもそもそとベッドの上に身を起こした。
瞬間、右脚に激痛が走った。
「痛っ……!」
眠気眼も覚めるような激しい痛みだった。思わず布団をめくりあげたリヴィの目に飛びこんできたものは、包帯でぐるぐる巻きにされた右脚だ。ふくらはぎを包み込むようにして添木があててある。
あまりの痛みに悶絶するリヴィに、ドリスが優しく声をかけた。
「脛骨の骨折については適切な処置が済んでいます。痛みが酷いようでしたら、後ほど痛み止めを持って参りましょう。その他のすり傷や打撲痕についても、ひとまずの手当ては済んでいますが、気になることがございましたら何なりとお尋ねください」
右脚を襲う激しい痛みと、ドリスの気づかいに満ちた言葉は、リヴィに昨晩の出来事をありありと思い出させた。
――アシェル様に殺されるくらいなら自分で死にます。家族に殺されるのは辛すぎるから。
そうアシェルに伝えたリヴィは、もう一度崖から飛び降りようと馬車道を上った。しかし寒さに凍えた身体と、激痛を訴える右脚を抱えていては、長い馬車道を這って上ることは困難だった。
結局数十メートルと馬車道を上らないうちに、リヴィは気を失ってしまったのだ。
霞んでいく視界が最後に映したものは、雨に濡れたアシェルの顔だった。いつもと同じ無表情で、しかし何かを決断したような眼差しで、泥溜まりに沈んでいくリヴィを見つめていた。
全てを思い出したリヴィは、困惑の面持ちでドリスを見た。
「私はなぜ生きているの? アシェル様に殺されたはずでは?」
アシェルはリヴィを切り捨てた。「リヴィ・キャンベルとは結婚はしない」と、クラウスの前ではっきりと言い放ったのだ。
そして不要な花嫁を始末するために、雨の中リヴィを追ってきたはずなのに。「私にはお前を生かす理由がない」と、冷たくそう言い放ったはずなのに。
リヴィは答えを求めドリスを見つめるが、ドリスは困ったように首をかしげるだけだった。
「それが私にもさっぱりなのです……。昨晩……アシェル様はリヴィ様を亡き者にせんと屋敷を出ていかれました。恥ずかしながら、私とヴィクトールでは説得が叶わなかったのです。意気消沈した私たちは、玄関口でアシェル様のお帰りをお待ちしていたのですが――……」
ドリスはそこで言葉を切った。
昨晩の出来事を思い出すように数度まばたきをして、それからゆっくりと語り始めた。
「アシェル様はリヴィ様を抱きかかえてお戻りになりました。初めは亡骸とも覚悟したのですが、リヴィ様は気を失っているだけでしっかりと呼吸をしておられました。アシェル様はリヴィ様を私どもに預け、そのまま何も言わずに自室へと戻ってしまい、もう何が何だかわからず今に至ります」
最後の方はなかば投げやりにそう言うと、ドリスはこれ見よがしに肩をすくめた。
リヴィはつきつきと痛みを訴える右肘に触れた。肘全体をおおうようにして、大判のガーゼがあててある。昨晩、地面を這ったときに擦り傷ができてしまったのだろう。その他にも身体中の至るところが鈍痛を訴えている。
けれども死ぬつもりで崖から飛び降りたことを思えば、この程度の怪我で済んだことは幸運であった。『幸運』とは、アシェルがリヴィを殺さなかったからこそ使える言葉なのだけれど。
「アシェル様はなぜ私を殺さなかったのかしら……武器を忘れてしまった、とか?」
リヴィが遠慮がちに尋ねると、ドリスはすぐに首を横に振った。
「まさか。バルナベット家の方々は武器などなくとも人を殺せます」
「大雨に夜には暗殺をしない、というポリシーがあるとか……」
「いえ、そんなポリシーは聞いたこともありませんが……」
リヴィとドリスは顔を見合わせた。客間の中に沈黙が落ちる。
そのとき、静かな音を立てて客間の扉が開いた。一瞬ヴィクトールが入ってきたのかとも思われたが、そこに立っていたのは予想外の人物だ。
短く切り揃えられた烏羽の髪に、黒曜石に似た2つの瞳。渦中の人、アシェル・バルナベットだ。
リヴィはこくりと息を飲んだ。
(ど、どうしてアシェル様が私の部屋に……? まさか私を殺すために……)
ベッドのかたわらでは、ドリスが音もなく佇まいを改めていた。背筋を伸ばし、真っ直ぐにアシェルを見つめる姿からはドリスの緊張が伝わってくる。
ドリスもまたリヴィと同じことを考えている。アシェルはリヴィを始末するために客間を訪れたのではないか、と。
(そうだとしても仕方がないことだわ……だって私は、自分で自分の命を終わらせることができなかったんだもの。どのような最期にも文句を言うことなどできない……)
リヴィは死を覚悟した。身体から力を抜き、きたるべき最期に備えた。
しかし予想に反し、アシェルはいつまで経っても動かなかった。扉のそばに仁王立ちしたままリヴィを見つめ、そして次の瞬間には何事もなかったかのように部屋から出て行った。言葉ひとつ話さないまま。
今また2人きりとなった客間の中で、リヴィとドリスは同時に首をかしげた。
「……アシェル様は何のご用だったのかしら」
「さぁ……?」





