10.Marry or die(結婚か死か)
山頂に位置するバルナベット家の敷地からは、季節を問わず満点の星空が臨むことができる。バケツいっぱいの煌めきを、夜空一面にぶちまけたような、美しく幻想的な光景だ。
しかし今夜、星は見えない。厚い雲が空一面をおおい隠しているからだ。
重く湿気をはらんだ風が吹く。
ざわざわと恐ろしげに木々が鳴る。
じきに雨が降り出すだろう。
屋敷の玄関口から屋外へと飛び出したリヴィは、だだ広い園庭をがむしゃらに駆けていた。
行く当てなどない。逃げる先などない。けれども走らずにはいられなかった。
(殺されるのはいや、殺されるのはいや、アシェル様に殺されるのは絶対にいや!)
園庭を走り抜けようとするリヴィの腕を、後ろから走ってきたドリスがつかんだ。
「リヴィ様、屋敷の敷地から出てはいけません!」
「いや、放して!」
リヴィはドリスの手を振りほどこうと暴れるが、ドリスは決してリヴィの腕を離さなかった。
やがてリヴィは抵抗を諦め、へなへなと地面に座り込み、蚊の鳴くような声で言った。
「なぜ逃がしてくれないの……ドリスだけは、ずっと私の味方でいてくれると信じていたのに……」
ルドリッチのこぶしからリヴィを守ってくれたのはドリスだった。リヴィのために温かな食事を運んでくれたのも、リヴィの呪われた髪を梳いてくれたのもドリスだった。
晩餐会の前にリヴィの髪を結い上げてくれたのも、化粧をほどこしてくれたのも、リヴィに一番似合うドレスを選んでくれたのもドリスだ。
ドリスはリヴィの味方だ。リヴィのことを誰よりもよく考えてくれている。ずっとそう信じていた。
アシェルに見捨てられたことは悲しい。でも今はそれ以上に、ドリスに裏切られることがつらかった。心が張り裂けてしまうくらいに。
ドリスは地面に膝をついた。リヴィのルビーレッドの瞳をのぞきこみ、赤子をあやすような優しい口調で言った。
「私はリヴィ様を傷つけるようなことは致しません。屋敷の敷地から出てはいけないと言ったのは、夜の山が危険だからです。夜行性の獣が数多く生息しておりますから」
「では私にどうしろと言うの……ここにいればアシェル様に見つかってしまう。獣に殺されるか、アシェル様に殺されるか、私に選べと言うの?」
ドリスは首を横に振った。
「私とヴィクトールでアシェル様を説得します。見殺しにするような真似は決してしません。だからリヴィ様、どうか屋敷の中にお戻りください」
リヴィはドリスの瞳をまじまじと覗きこんだ。嘘を言っているようには見えなかった。
助かるかもしれない、頭に湧いたわずかな期待はすぐに跡形もなく消えていった。あのクラウスですらアシェルの説得は叶わなかったのだ。使用人であるドリスとヴィクトールがいくら言葉を尽くしたところで、アシェルが心変わりすることは有りえない。
リヴィの末路は変わらない。
すっと頭の中心が冷えていくのを感じた。どう足掻いても助からないのだと途端に理解した。リヴィは芝生の上に正座をし、汚れたドレスのすそを見つめながら、ぽそぽそと小さな声で尋ねた。
「クラウス様は『キャンベル候からはすでに代金を頂いている』と言っていた……。バルナベット家の人々は初めから私を殺すつもりだったの? アシェル様の結婚候補だという話は? 私はずっと騙されていたの?」
ドリスはたじろいだ。
「それは……」
「ドリスお願い、本当のことを教えて。何も知らないまま殺されるだなんて虚しすぎるもの……」
リヴィの声は弱々しいが、拒むことのできない力強さを秘めていた。
黙りこくる2人の間を、重たい夜風が吹き抜けていった。ぽつ、とリヴィの手の甲に雫が落ちる。夜露だろうか、雨だろうか。
真っ黒な雲におおわれた空は、リヴィの心そのものだ。
沈黙の後、ドリスは意を決したように語り始めた。
「……3か月ほど前のことです。バルナベット家に暗殺依頼が舞い込みました。依頼者はルドリッチ・キャンベル候、暗殺対象者はリヴィ・キャンベル嬢。娘を殺してほしい、という実の父親からの依頼でした」
(やっぱり……お父様は私を殺そうとしたのね……)
ドリスの告白を聞いても、リヴィは不思議と冷静だった。
ルドリッチがリヴィを殺そうとした理由については考えずとも理解できた。リヴィがキャンベル家にとって邪魔な存在だからだ。
リヴィを屋根裏部屋に閉じ込めたことで、キャンベル家に降りかかっていた呪いは一時的になりを潜めた。けれどもキャンベル家に厄憑き娘がいるという事実は消えない。現実にリヴィの存在が原因できょうだい達の縁談はうまくいっていなかったのだし、家業も順風満帆であるとは言い難かった。リヴィの存在は、キャンベル家の繁栄に暗い影を落とし続けていたのだ。
しかしだからといって、ルドリッチ自身がリヴィを手にかけることはできない。そんなことをすれば、今度はルドリッチが『娘殺し』の悪名を残すことになるからだ。
だからルドリッチはバルナベット家の力を借りることにした。暗殺一族に金を払い、穏便にリヴィを始末しようと考えたのだ。
ぽつりぽつりと降り始めた雨の下で、ドリスの告白は続く。
「ですがクラウス様は、キャンベル候の暗殺依頼を引き受けはしませんでした。というのもリヴィ様の暗殺は、バルナベット家の暗殺ポリシーに反するものだったからです。冷徹無慈悲とささやかれるバルナベット家ですが、依頼を受ければ誰彼構わず殺しているわけではありません。依頼者とターゲットの関係性、暗殺を依頼した理由、その暗殺が社会に与える影響の大きさ。様々な要因を加味して、そのターゲットが『暗殺するに足る人物であるか』どうかを判断するのです」
「私は……暗殺するに足る人物ではなかったということ……?」
ドリスはうなずいた。
「暗殺とは『社会的影響力を持った人間を秘密裏に殺す』こと。私怨や私利私欲のために他者を殺そうとする愚かな行為を、暗殺とは言いません。リヴィ様の暗殺が成功したときに利益を得るのはキャンベル家だけ。そういった『社会的影響力の小さい、あるいは偏った』暗殺を、クラウス様は引き受けません」
「でも現実に、私はアシェル様に殺されようとしているわ……」
リヴィの悲痛なつぶやきを聞き、ドリスもまた悲痛の表情となった。
「……この件に関してはキャンベル候が一枚上手でした。リヴィ様の暗殺が引き受けられないと知った次の瞬間には、『では娘をアシェル殿の妻にしてくれまいか』と打診をしてきたのです。『娘を引き取ってくれるのならば、結婚祝い金として暗殺依頼料の倍額をお支払いする。ただし娘を妻にするかどうかの最終判断はバルナベット家に一任する』と言葉を付け加えて」
リヴィは少し考え、すぐにそのやり取りの本質を理解した。
ルドリッチは正規の依頼を介さずに、リヴィの暗殺を依頼したということだ。結婚祝い金はリヴィの引き取り料、そして引き取ったリヴィの処遇はバルナベット家に一任された。アシェルの妻にするなり、使用人としてこき使うなり、不要物として処分するなり、好きにして構わないということだ。
クラウスはルドリッチの要求をのんだ。アシェルがリヴィを妻として認めるのならそれでよし、そうでなければさっさと始末してしまえばいい。屋敷に招き入れた虚弱な娘を殺すだけで、通常の依頼料の倍額が手に入るというのなら、こんなに割のいい仕事はない。正規の依頼ではないのだから、バルナベット家の暗殺ポリシーに反することもない。
しとしとと降る雨が、リヴィの髪や衣服を濡らした。頭皮をつたう雨が頬を流れても、不思議と涙は流れなかった。
あまりにも冷たい水に浸かり込んでいたら、しだいに冷たさなど感じなくなってしまう。何も感じないまま身体は動かなくなり、心臓は鼓動を止め、ほの暗い水底にたった1人沈んでいく。
(私は誰にも必要となどされていなかった……結婚候補者とは名ばかりで、初めから殺されるためにバルナベット家の屋敷へと招かれた……アシェル様はそのことを知っていてもなお、私と歩み寄ることを拒み、不快な羽虫をつぶすように私のことを殺そうとしている……)
リヴィはふらりと立ち上がった。よろよろと覚束ない足取りで、屋敷の玄関口とは逆方向に向かって歩いていく。そこでは真っ黒な木々が、雨に濡れてさわさわと葉を揺らしている。
「リヴィ様……」
ドリスの声に力はなく、リヴィを引き留めることは出来なかった。
リヴィが立ち去った芝生の上には、雨に濡れてぐちゃぐちゃになった紙包みが残されていた。
リヴィが大切に握り込んでいたはずの、アシェルへの贈り物が。





