ユースティティアって!?
舞台変わって殺人事件。ユースティティアって最高裁判所にある天秤を持った像ですよ。
―ユースティティアの代わりに―
「沖田先生、どうしても考え直してもらえませんかねえ。」
「なんとおっしゃられても気持ちは変わりませんわ。北島先生。」
北島先生と呼びかけた男に対して、厳しい眼差しを向けたのは沖田先生と呼ばれた女性だった。北島ははあと一息つくと周りを見渡しと含みをこめた声音で言った。
「素敵な診療所ですねえ、沖田先生。こんな都内の一等地に構えて、随分繁盛しているようじゃありませんか。」
「いやな言い方をしないでください、何が言いたいんですか。」
「なに、この診療所だって、今回のことでやっていけなくなる可能性だってあるんじゃないんですか。」
北島はいやらしい表情で沖田を見据えた。沖田はそんな北島の脅しにも似たことばにも堂々とした態度で答えた。
「北島先生、もしそんなことになったとしても仕方が無いと思っています。このまま医師として罪悪感を抱えながら患者さんを診続ける方が、私には耐えられませんわ。」
北島はこの男の癖だろうが、人を小ばかにしたようにフフンと鼻を鳴らして言った。
「罪悪感、何が罪悪感なんですか。正当な医療行為の中で起こった出来事ですよ。よくある。」
沖田は驚いたように目を見開き、吐き捨てるてるように北島に言った。
「北島先生!本当にそんな風に考えておられるんですか。あれが正当な医療行為だったと、しかもよくある出来事だったと!私にはそんな風に考えている北島先生が信じられません。あの時、助手を務めた私は手術中に不審を感じたとき迷わず中止すべきだった。北島先生が持ち込んだ薬は日本では認可されていないものだった。」
北島はやれやれといった風な表情を見せて沖田を見下したように言った。
「沖田先生、どうもあなたは妙な誤解をしているようだ。確かに私は新薬を使いましたよ。でもそれが今回の結果につながっていると言う見解は出ていない。それにあの薬はヨーロッパではポピュラーで、日本での認可も近々下りるはずですよ。」
沖田はそれを聞くと更に厳格な声音となって北島に言った。
「北島先生、それはあの新薬が手術に使われたこと自体が隠されているからではないですか。私は報道を見て驚きました。あの時確かに使われたはずの新薬が通常の薬品名に変わっていた。なにをどうされたかわかりませんが、明らかに隠蔽だと思います。」
北島は一転して沖田を威圧するようににらみつけると、
「あなたは助手としてあの場にいた、あなたにだって責任はある。この診療所だって、下手をすれば医師を続けていくこともできなくなる。それでも証人として立とうというのですか。考え直した方がいい、現状は正当な医療行為として進んでいる。」
沖田は北島の脅しともとれる言葉にひるみもせず、きっぱりと言い切った。
「何度言われようとも考えは変わりません。医師としての信念に従うまでです。もうお引取りください、予約の患者さんがお見えになる時間です。」
北島は大きく目を見開き、狂気に満ちた表情で何かを叫ぼうとした様子だったが、そのとき診療所の呼び鈴が鳴った。北島は一瞬固まると狂気の表情から、いつもの人を小ばかにしたような表情に戻ると席を立ち上がった。
「沖田先生、また来ます。考え直した方が良いですよ。」
沖田はこの人物には珍しく怒りに満ちた表情で何か言おうといたが、そこへ予約の患者が現れた。
「沖田先生、失礼します。少し早かったですか。」
沖田はすぐさまいつもの穏やかな表情に戻ると予約の患者に申し訳なさそうに答えた。
「いいえ沙希さん、時間どおりよ。ごめんなさいね、騒がしくして。」
そう言うと刺すような視線を北島に向けると、北島は肩をすくめるようなしぐさを見せると入ってきた沙希をチラリと見据えると診療所を出て行った。
沙希はこの医師が好きであった。格闘技の練習中に怪我を負い、その治療に当たってくれたのが沖田医師であった。その治療の技術もさることながら、患者に対する思いやりや誠実な対応が沙希の心に深く響いた。当然、沙希の心は奈々への尊敬の念でいっぱいだったが、法学と医学という別ジャンルということもあり沖田には沖田としての尊敬や好意があった。
「沖田先生、今の人はお友達ですか。患者さんには見えませんでしたけど・・・」
沖田は一瞬、ぞっとしたような表情を見せると。
「友達なんてとんでもない。同じ職場で働いていたことのあるというだけ。できれば知り合いたくなかった人ね。」
沖田の整った顔に影が差すと、逆に沙希は明るく笑って、
「よかったあ、もし沖田先生のお友達だったらどうしようかと思いました。」
沙希の表情に触発されて沖田の表情にも光が射した。
「あらっどうして、沙希さん。」
「いえ、あの人には悪いですけど、さっきちらっと目が合った瞬間、なにかいやらしい感じがしてぞっとしたんです。」
「まあ沙希さんさすが帝大の才女ね、あの人は女性関係で悪いうわさの耐えない人なのよ。人を見る目があるわね。」
二人の美女は顔を見合わせて明るく笑った。
「さあ、沙希さん怪我の経過を見て見ましょう。」
「沙希さん、特に何も問題なく順調に回復しているわ。でもムリは禁物よ。」
「はい、沖田先生。ありがとうございます。」
「そういえば沙希さんの尊敬する、帝大の阿部先生のご本読ませていただいたわ。とてもすごい先生ね。沙希さんがこうも熱中するのが良くわかるわ。」
沙希は自分がほめられたようにほほを上気させると、
「そうなんです。法律の知識はすごくて、公安の顧問もやっているし、犯罪心理学では世界的権威で・・・あっ、すっすみません、つい興奮してしまって・・・」
そう恥ずかしそうに顔を赤らめる沙希をほほえましく沖田は見つめていた。
「本当に一度お会いしたいものね、阿部先生に。」
沙希は一度納まった興奮がまた湧き出しながら、
「沖田先生、それじゃあ近々セッティングしますね。」
と沙希は持ち前の積極さで沖田に提案した。沖田はうれしそうに笑ったが、次の瞬間表情が曇ると、
「沙希さん、ご提案はうれしいけれど少し後の方がいいわ。」
沙希は怪訝そうに沖田の顔を見つめると、
「沖田先生、どうしてですか、何か不都合が・・・」
「ごめんなさいね、今ちょっと法律的なことがあって、今のタイミングで阿部先生にお会いすると迷惑がかかってしまうかも知れないから・・・」
沖田には似つかわしくない暗い表情に沙希は、
「そっそれなら、なおのこと阿部先生に・・・」
沖田は沙希にみなまで言わせず、
「いいの、こちらにもちゃんとした担当の方がいるから。」
沙希はハッとして言葉を収めると、シュンとして。
「沖田先生、申し訳ありませんでした。出すぎた事を言ってしまって・・・」
「いいのよ沙希さん、私のことを考えてくれてのことでしょう。このことはすぐ片付くから、そのときはぜひ阿部先生との会席是非お願いね。」
「はい、わかりました。」
そうこうしているうちに次の予約の患者が現れた。
「あら、由紀子さん、次の予約はあなただったの。」
「その声は、沙希さんね。こんにちは。」
沙希の後に現れた予約の患者は沙希を声で判断したように白い杖を持った、目の不自由な若い女性だった。名を近藤由紀子といった。幼いころにわずらった病のためにほとんど視力を失っていたが、聡明で美しく国立の名門、一都大学に通っている。沙希たちとはちょうど学年も同じで大学の集まりなどで顔を見かけていた。沙希が沖田医師の診療所に通い始めたとき、偶然出会い(と言っても沙希の方から話しかけたのだが)意気投合したのだ。沙希は涼子や麗華以外にも優秀な学生が学生がいるのだなと結構な上から目線で由紀子のことを見ていた。
「由紀子さん、私はもう終わりだから、ごゆっくりどうぞ。」
「沙希さんなら一緒にいていただいてもけっこうよ。」
微笑みながら由紀子はそういったが、沙希も微笑みはしていたが
「由紀子さん、さすがに家族でもない私が同席するわけにはいかないわ。ねっ沖田先生。」
「そうね、いくら由紀子さんと沙希さんが仲良しといっても、医療行為の立会いをするのなら、いろいろ手続きしないとね。」
沖田は冗談とも本気ともつかないような表情で微笑みながら言った。
「さっ由紀子さん始めましょう。」
沙希は沖田の診療所を後にしながら、漠然とした不安が頭をよぎっていた。
(沖田先生の言っていた、法律的なことって何かしら。あまり詮索してはいけないとは思うけど、なんとなく心配だわ。あんなにいい先生なかなかいないし、阿部先生にもぜひ紹介したいし・・・)
沙希はとりとめも無いことを考えながら家路に着いた。
「特に進行している様子は無いわ、由紀子さん。」
沖田は由紀子の目の診察を終えて話した。
「今の状態なら、角膜の提供者がいれば十分視力は回復すると思うわ。」
「ありがとうございます。沖田先生・・・でも、なかなか角膜の提供は難しくて・・・」
「あせらないで由紀子さん、必ず良い方向に進むから。落ち着いてゆっくり待つのよ。」
そういって沖田は一つ息をつくと、
「私のがあげられればいいんだけど・・・」
とポツリと言った。由紀子は跳ねるように声のほうに振り向くと、
「先生!変なこと言わないでください。私はちゃんとあせらず待ちますから。先生にはこれからも、見えるようになってからもずっとお世話にならなくちゃいけないんですから。」
「北島先生、お出かけですか。」
護国大総合病院の看護師長が私服に着替えていた北島医師に声をかけた。
「ああ、救急までには時間があるから、リフレッシュしてくる。」
「いつもの所ですか・・・行ってらっしゃい。」
北島は振り向きもせず、右手を上げて病院を出て行った。病院から程近いところに、カプセルインサウナがある。カプセルホテルを併設したサウナ施設で大浴場にはサウナはもちろんのこと、ジャグジーやミストサウナ、打たせ湯やマッサージ浴まで備えている。浴場を出たところには簡単な軽食ができるカウンターバーがあり、世に言うオジサン族でにぎわっている。北島はよくここを利用していた。終電に乗り遅れたサラリーマンがよく使うサウナという施設の性格上、常連客であっても職員はあまり声をかけない、ただよく見る顔はしっかり覚えていて、カウンターバーが混雑していると注文した品を休憩スペースでくつろいでいるところに無言で運んでくれたりしてくれる。サービスがいいんだか悪いんだかわからないおもてなしをしてくれる。北島はカウンターで飲み物と軽食を注文すると休憩スペースへ向かっていった。
由紀子は沖田に別れを告げるとなれた足どりで診療所をあとにしていた。
(沖田先生ッたら、あんなこと言うなんて・・・)
由紀子もなんとなく胸騒ぎを覚えながら岐路についていた。
(さあ今日も一日終わったわ。)
沖田は片づけを始めた。
(沙希さんと由紀子さん、あの二人が来るときには本当に穏やかな気持ちになるわ。特に今日はあいたくも無い人に訪問されたしね・・・)
診療所の片づけが終わり、証明を消すと廊下の非常灯だけが光るほぼ暗闇の世界だった。都心の診療所と言うこともあり、診療はかなり深夜まで行っていた。沖田の入っているフロアは一般的な会社の事務所が多いため、診療が終了する時間には既に営業している事務所が他に無いのが通常だった。沖田は診療所の鍵をかけると暗い廊下に出た。そのときである、
「沖田先生」
不意に声をかけられた。北島である。沖田は文字通り死ぬほど驚いた。
「なっ何ですか!あなたは!」
思わず大きな声を上げたがその声には動ぜず、先ほど沖田に声をかけたと思われる人影が近づいてきた。沖田は防犯ブザーを握り身構えたが、人影はゆっくりと話しかけてきた。
「沖田先生、私ですよ、北島です。」
北島と聞いて沖田は一瞬ほっとしたような、感覚があったがまったく見知らぬ人物ではなかったというだけで警戒心は解かなかった。沖田は厳しい口調で、
「北島先生!失礼じゃないですか、連絡もなしに突然現れるなんて。」
「いやあ、沖田先生はお忙しそうなんで、診療が終わるまで待っていたんですよ。」
「北島先生!あのお話でしたら、私の考えは変わりません。何度こられても無駄です。」
「ご心配はいりません。沖田先生、うかがうのは今日で最後です。」
と言った瞬間、北島は沖田に飛びかかっていた。
北島は医師らしく冷静に沖田の瞳孔を確認していた。冷たくなった沖田の体を廊下に置くと腕時計を確認した。
(少し時間がかかりすぎているな、はやく戻らないと)
北島は立ち上がると、暗い廊下を小走りに駆け出した。
「キャッ!」
どすんという音とともに女の悲鳴が聞こえた。なんと北島は暗闇の廊下で人とぶつかったのである。北島の表情に表情に驚きと同時に見る見る凶暴な色が浮かんだ。
(くそっ仕方が無い・・・)
そう北島の心が悪魔に支配されたとき、
「どなたですか!大丈夫ですか!」
暗闇の中でぶつかった女は四方に声をかけているようだった。女の傍らには、なぜこの女が暗闇の中で廊下を歩いてくることができたのかの答えとなるものが、ぼうっとうかんでいた。白い杖である。
「どなたですか!大丈夫ですか!」
女は再び問いかけたが、それを見た北島は冷静に女を観察すると、ゆっくりと音を立てないようにその場から去っていった。
「どうしたの!由紀子さん!何があったの!落ち着いて!」
アイフォンを片手に周りが振り向くほどの大声で、話かける沙希がいた。
「「沙希、いったい何があったの!!」」
いつものように一緒に食事をとっていた、涼子と麗華が口々に問いかけた。
「わからない、由紀子さんのあわてぶりが尋常じゃないわ!!」
沙希が病院で意気投合した近藤由紀子は、他の場面で涼子と麗華は面識があり何回か一緒に食事したりもしていた。
「由紀子さん、泣き叫んでいてはわからないわ、落ち着いて。えっ沖田先生!沖田先生の所にいるの?わかった、すぐ行くから、待っていて!」
沙希は振り返って涼子と麗華を見ると、
「ごめんなさい!これから一緒に・・・」
と言いかけたがすでに涼子も麗華も身支度を済ませ、涼子は食事代の清算を済ませており、麗華は沙希のコートとバッグを持って準備していた。沙希はいまさらながら二人のミューズに頼もしさを感じたが、それよりも由紀子のもとへ急ぐのが先決だった。
「沖田先生って沙希がかかりつけの先生でしょう。」
「阿部先生に紹介したい言ってたほどの名医なんでしょう。」
涼子と麗華が小走りになりながら沙希に話しかけた。
「ええ、今日もかかってきたの、そのとき入れ替わりで最後の患者が由紀子さんだったわ。とにかく、十五分ぐらいでつけるはず!」
急ぎ走る三人の美女の姿はすれ違った人々を振り替えさせずにはいられなかった。
沖田のクリニックが入るビルに三人が着くと、そこは騒然となっていた。パトカーが数台、救急車も到着していた。
(いったい何があったの、ただごとじゃ無いわ。)
沙希は胸騒ぎを感じながらビルに近づくと、警察官に笛とともに両手を広げられた。
「君たち、ここから先は立ち入り禁止だ!」
涼子がいち早く沙希に目配せすると警察官に話しかけた。
「おまわりさん、事件のあったクリニックに私たちの友達がいるんです!入れてください。」
若い警察官は驚いた表情で、
「えっ何でクリニックで事件があったって・・・」
涼子は警察官に最後まで言わせず、
「そこから、連絡があったんです。」
若い警察官は近くにいた刑事らしき男に何かしら耳打ちする、沙希たちの所に戻ってくると、
「こちらに来てください。」
刑事らしき男と二人で沙希たちを案内すると救急車の中に血色を失った由紀子がいた。
「由紀子さん!大丈夫、沙希よ!」
後部座席のドアを勢いよく開けると沙希は由紀子に呼びかけた。その瞬間今まで死んでいるのでは無いかと思われるほどぐったりとしていた由紀子が沙希の抱きついてきた。わあわあと泣きだすと、
「沖田先生が、沖田先生が・・・」
と繰り返すばかりだった。
「どうだった由紀子さん。」
沙希が病院の待合室へ戻ってくると、麗華が心配そうに問いかけた。
「ええ、ようやく落ち着いて、今眠っているわ。」
沙希は少しほっとしたような表情で答えた。
「何か話しはできたの。」
涼子は冷静にそう聞いた。
「警察の人も立会いで、少し話はできたわ。由紀子さんは治療が終わってからいったん帰宅しようとしたんだけど、忘れ物をしたらしく戻ってきたらしいの。クリニックはしまってるかも知れないけれど、沖田先生はわりと夜遅くまでお仕事しているみたいだからいるんじゃないかなって。由紀子さん目が不自由だけど光は少し感じるらしいの、それでクリニックのフロアはほとんど真っ暗だったんですって。でも一様クリニックまで行ってみようとしたら、そこで・・・」
涼子と麗華はそこで一息ついた沙希をみてゴクリと固唾を呑んだ。
「「そこで・・・」」
「そう、そこで人とぶつかったんだって。」
「そっ、それって・・・」
「ええ、たぶん犯人。」
非常に残念なことだが、沖田医師の死亡が確認されたばかりだった。
「そっそれでどんな人だっ」
たと麗華は言いかけてはっと口をつぐんだ。
「警察の人もそこは質問していたけど、由紀子さんは目が不自由だから、なかなかそこは難しくて・・・、ぶつかった感じからは、男の人じゃないかってことなんだけれども、それすらも確かじゃ無い感じだし・・・。でもこんなことを言うと、とてもよくないけれど目が不自由だったことで、命が助かったかも知れないの・・・。」
涼子と麗華は怪訝そうに沙希を見た。
「由紀子さんに聞くと、ぶつかった後しばらく相手は近くにいたらしいの。」
「えっそれじゃ由紀子さんがもし犯人の顔を見ていたら・・・」
涼子は少し震えたように言った。沙希も涼子の震えが移ったように身震いすると、
「ええ、由紀子さんも被害者になっていた可能性があるかもって、警察の人が言っていたわ。」
もとより三人は頭脳明晰で度胸もあり、最近もヤクザと立ち回りを演じたほどだが、さすがに身近に殺人犯がいて、自分の身近な人が殺害され、また友達も被害にあいそうだったことに恐怖を覚えた。
南は浮かない顔をして病院の待合室に一人座っていた。南は普段ならそんな表情の似合わない警視庁捜査一課の若手のホープである。
(まったくただの流しの犯行とは思えない。目撃者がすくなすぎる。計画的にそんな時間を選んだに違いない。唯一の目撃者ともいえる人間があの女学生だけとは・・・)
「南さん、短い時間にしてくださいよ。近藤さんはまだ十分に回復していないんですから。」
「わかっていますよ、先生。」
南はエリート特有の冷たいトーンでそんなことには気もとめていないよといった感じでこたえた。
「近藤さん、何度もおうかがいして申し訳ないんですが、繰り返すことによって思い出すこともありますので、あの日のことをもう一度最初からお話し願えませんか。」
「はあ・・・でもあまり新しいことは思い出してはいないんですが・・・」
由紀子は病院のベッドから半身だけ起き上がりやつれた顔で南に答えた。
「先ほども申しましたが、何度も同じことを話しているうちに新たな真実が発見されることは良くあることです。申し訳ありませんがお願いします。」
と南は微笑みながら話しかけたが、目は明らかに拒否を許さない光があった。
由紀子に南の目の光は感じられなかったとは思うが、一息吸うとゆっくりと話し出した。
「あの日は私の目の定期健診の日で、いつもどおりの診療最後の時間に沖田先生の所に行きました。私の前には当日に助けに来てくれたお友達の沙希さんがいました。沙希さんとは挨拶を交わした程度で分かれました。いつものように目を見て頂いて、状態をうかがいました。時間は、いつもどおり一時間程度だったと思います。」
そこで由紀子はつらそうに一息つくと続けた。
「沖田先生の診療所を後にして、いったん帰路につきましたが途中で診察券を置いてきてしまったことに気がついたんです。それで引き返したんです。」
「戻っても既に診療所は閉まっている時間では無かったですか。」
南は由紀子がつらそうにしていることなど意に解さず、事務的に質問をはさんだ。
「はい・・・でも受付のボックスに残っているはずでしたから、診療所が閉まっていても大丈夫だと思ったんです。」
「だからフロアが暗い中でも、診療所へ向かったと。」
「はい、もとより私はあまり明かりを必要としませんので・・・、フロアが暗かったことはわかりましたが、受付の方へ向かいました。そのとき不意に人にぶつかったのです。」
由紀子はそこまで一気に話すと少し身震いしたようだった。それが犯人で、もしかしたら自分自身も犠牲者になっていたかも知れないと警察に聞かされていたためである。
「私はその人に呼びかけました。大丈夫ですかと、でもその人は何も答えず、じっと私を見ているようでした。」
由紀子はそこまで言うと掛け布団のシーツを握り閉めた手がわなわなと震えた。
南はチラッと由紀子の震える手に目をやったが、すぐに視線を直すと由紀子に質問した。
「近藤さん、あなたはぶつかったのが男かもしれないといいましたが、なぜそう思ったのです。」
「確実なことはわかりません、ただぶつかった感じががっしりしていたような気がしたので男性かも知れないとお話したのです。でも確実だとは言い切れません。ぶつかったのは一瞬でしたし、まさかあんなことになっているなんて思いもしませんでしたから・・・」
南は問い詰めるように質問を続けた。
「でも実際にぶつかったのに男性か女性かもわからないってことはないんじゃないですか。がっしりした体だったらほぼ確実に男性でしょう?それに目が不自由だとしても体臭や香水など何か匂いを感じたりしなかったのですか。あなたのような方はそういった感覚が鋭いのでしょう。」
由紀子は唇を震わせながら答えた。
「本当にわからないのです。沖田先生があんなことになっているなんて思ってもみなかったですし、特に何の匂いも感じなかったんです。」
由紀子の顔色はますます青白く血の気を失っていった。この後、由紀子は廊下に倒れている沖田医師を確認したのである。それでも南は冷たくい質問を続けた。
「近藤さん、落ち着いて考えてください。直接ぶつかっているんです、何か思い当たることがあるはずです。匂いじゃなくてもいい、音だとか息使いとか何かありませんか。」
南の声のトーンはまるで犯人を採り調べしているような厳しい雰囲気を漂い始めた。
「わかりません、わかりません・・・沖田先生がなぜあんなことに・・・私にはわかりません・・・」
由紀子は今にも泣き出しそうに答えた。南はそれでも質問を続けようとしたときである。
「やめなさい!礼状はお持ちなの。」
冷たく厳しい声が、由紀子の病室に響き渡った。その声に驚いて振り返った南は思わず息を呑んだ。そこには怒りの炎を冷たい瞳に宿した奈々が立っていた。南は一瞬たじろいだがエリート然とした口調で答えた。
「礼状?任意でお話をうかがっているだけですよ。礼状は必要ありません。」
「であればお引取り下さい。任意でのお話はここまでです。」
奈々が神として崇められていた時代であればおそらく、南は消滅していたであろう怒りを持って言葉を浴びせかけた。さすがの南もこれにはたじろいだが、奈々の後ろに見知った三人を見ると気をとりなおして、
「やあ、君たちか。この勇ましいご婦人はどなたかい。」
南はことさらなれなれしい口調で沙希、涼子、麗華に話しかけてきた。沙希は一歩前に出ると南に対して、はっきりとした口調で言った。
「この方は私たちの先生です!」
南は少し鼻で笑うようなしぐさを見せ、
「先生?学校の先生ですか?あなた方の先生が何の権利があって警察の捜査をジャマするんですか。」
これにはすかさず奈々が答えた。
「捜査、これは捜査とおっしゃいましたね。では礼状の提示を求めますわ。それから権利についてお話されたようですけど、由紀子さんの顧問弁護士としてお話をさせていただいているつもりですが。」
これには南は目を見張った。あらためて奈々を見直すと胸には燦然と弁護士バッジが輝いていた。
正義の女神ユースティティアに代わって事件の解決にあたる知恵の女神アテナ。果たしてどのような結末となるのやら。