戦士って!?
渋谷を仕切る梟組の若頭藤堂は奈々と相対する。
(先生を危ない目に合わせられないわ。先生の頭脳は私たちの、いえ世界の宝よ。先生を守るために私たちは日々訓練してきたのよ)沙希は奈々を守るために戦うことに軽い興奮を覚えていた。それは涼子も麗華も同じである。
涼子を取り巻いていた、二~三人の若い男たちは、にやにやとしながら。
「へへへ、ずいぶんと勇ましいな、お姉ちゃんたち。」
「カタいこというなよ、ちょとカラオケに付き合ってくれればいいんだよ。」
そういいながら、男たちは沙希に似近づいた瞬間、リーダー風の男のみぞおちに沙希の中段突きが炸裂した。同じく涼子に近づいた長身の男には涼子の長い足がこめかみに吸い込まれ、麗華の方は一番チャラついた男の利き腕を極めてアスファルトにキスさせていた。
三人の男たちは三人ともアスファルトにはいつくばった。
「ふざけんなてめえら、女だとおもってやさしくしてしてやりゃ、付け上がりやがって。」
リーダー各の男が、いまどき昭和レトロの時代劇でも使いそうもないチープな台詞をはいて、今度は明らかに攻撃的に向かってきたが、先ほどのリプレイ動画を見るように見事にアスファルトに転がった。
「畜生、覚えてろ!!」
これまた、いつごろから使われ始めたかもわからない、負けたやつが逃げる時にはく定番台詞を残し、逃げ去った。
「あなたたち、とっても強いのね、驚いたわ。」
奈々は、なぜかうれしそうに、三人をほめた。それもそのはず戦いの女神にとって、ミューズが強いことは喜ばしいことであった。奈々にほめられた三人は戦いに勝った興奮とほめられたことにより、先ほどよりさらに顔を赤らめた。
「先生大丈夫でしたか、はしたないところをお見せしました。」
「本当に先生お怪我はありませんでしたか、おはずかしいところを・・・」
「先生大丈夫、ほんとサイテーなやつら、あんなやつら目じゃないわ。」
三人が三人とも奈々にほめられたことがうれしくて興奮気味に話した。
その興奮に冷水をかけるように、先ほどの店の店長があわてて走ってきてこう告げた。
「あなたたち、早く逃げたほうがいい、それか警察に保護を求めるとかした方がいいよ。あいつらはこの渋谷を仕切ってる、梟組の若いものだ。このまま済ませるわけがない。」
「ふん、あんなやつら何人来たって関係ないわ。」
麗華が威勢良く言い放ったが、沙希は冷静に。
「だめよ麗華、調子に乗っちゃ。先生をまた危ない目に合わせるようなことはいけないわ。今日は早く帰りましょう。」
そういって沙希を先頭に駅に向かって歩き出そうとしたときである。
「まてよ、このまますんなり帰ろうったってそうはいかねえぜ。」
記憶に新しいいやな声がかかった。
振り返るとそこには先ほどの三人と、さらに三人ほどガタイのいい男、うち一人はプロレスラーかと思われるほどの大男であった。
「涼子、麗華、気を引き締めて。今度は最初から全力で行かなければいけなさそうよ。」
沙希は険しい表情で二人にそう言うと、それに答えるように二人は奈々の前に進み出て沙希とともに奈々の盾のような形となった。
大男は低い声で。
「お前ら、こんなかわいい姉ちゃんたちになめられたのか、情けねえ。」
「剛田さん気をつけてください、この女ども素人じゃねえ、なんかやってます。」
剛田と呼ばれた大男のとなりでこちらもかなり体格のいい男が。
「ばかか、なんかやってなけりゃ、男に向かってくるわけないだろう。」
そんな会話が終わらないうちに沙希は先手を打って、大男に正拳突きを放った。大男は一瞬腰を折りうずくまるようなしぐさを見せたが、にやりと笑うと、沙希の正拳突きをした腕をつかむと。
「お嬢ちゃん、おいたが過ぎたような。」
沙希はあわてて回し蹴りを大男のわき腹に入れたが、それも大男が少し揺れただけで、つかまれた手は離れなかった。
「はっ離しなさい。」
沙希は、涼子と麗華に目をやると、二人とも、新たに加わった男たちに羽交い絞めにされていた。沙希は何とかしなければとあせった。この大男の手を振りほどき、二人と協力して何とかしないと。先生に私たちの阿部先生に危害が及ぶ。大男の前で沙希はもがいた。大男の手は離れずニヤニヤと笑っていた。そのときである。
「やめなさい!」
凛として、澄み切った声が日本最高学府の大講堂と同じく、渋谷の駅前に響き渡った。
奈々である。大講堂と同じ迫力で、こう続けた。
「いまなら、まだ許してあげる。三人から手を離し自分たちの場所に帰りなさい!」
さすがの迫力に大男の剛田は一瞬ひるんだが、奈々を見ると。
「またきれいな姉ちゃんだな、この子に変わって俺に付き合ってくれるのか。」
「聞こえなかった、今ならまだ許してあげるといっているのよ。」
つかつかと、剛田に近づいてきた。
(だめ、先生、こいつらは生徒とは違う、暴力団よ。)沙希は絶望的な思いがわきあがった。
「ねえちゃん、あんまり男をなめないほうがっ・・・」
全国で三番目、単独駅でも五番目の乗降客数を誇るJR渋谷駅の繁華街で、四人の美しき女性と渋谷を仕切るやくざの揉め事を固唾を呑んで見つめていた多くの人々は目の前に起こったことがにわかに信じられなかった。時は止まり、音もその役割を忘れたように無音となった。無造作に近づいてきた奈々に悪態をついた剛田は言い終わらないうちに、目の前の景色が百八十度回転した。その次に渋谷のネオンが、イチマルキュウがロクマルイチに見えた瞬間、大きなショックとともにアスファルトにたたきつけられた。
「ウゲッ」
剛田はカエルがつぶされたようなうめき声を上げた。こともあろうか、二メートルはあろうかと思われた剛田が宙を舞ったのである。まわりにいた人間は何が起こったのか、まったくわからず。腕をつかまれていた、当の沙希でさえその場に呆然と立ち竦んでしまった。
奈々はかまわず涼子を捕まえている男に近づくと剛田が宙に舞ったことへの理解と反応が起きていないうちに二人目の犠牲者が宙に舞った。もし冷静にこの場の状況を把握していたものがいたとしたら、先ほどの剛田よりも高く舞い上がったことに気がついただろう。
「「ウゲッ」」
二匹めのカエルが重なった。三人目の男は、少しだけ理解する時間があった。そして少しだけ反応した。すでに麗華を放し無造作に近づいてくる奈々に対して身構えたが、あまり大差は無かった。先ほどの男と同じくらい宙に舞い上がり。
「「「ウゲッ」」」
三匹めのカエルが重なっただけだった。回りの人間たちは何が起こっているかまったく理解できず、人ごみの中にできたサークルの中央に一呼吸も乱さずに慄然とたたずむ奈々の姿を呆然と見つめていた。見る人によっては光輝いて見えたが決して車のヘッドライトが重なっているわけではなかった。
「だから帰りなさいと言ったのよ。」
奈々から少し離れたサークルの端に、おそらく落下してくる人間を無意識のうちによけたのであろう、そこだけ膨らんでいる場所に目をやりながら、奈々は冷たく言い放った。奈々は少しだけ視線を動かすと、あごが外れたかのようにだらし無く口をあけっぱなしで立ち尽くす、きっかけとなった三人のチャラ男たちを見た。
「通行の邪魔よ、早くあれを片付けて帰りなさい。」
そう言うと、三匹のつぶれたカエルの方をあごでしゃくった。
「こっこっこのやろう、ぶっぶっぶっ殺してやる・・・」
声は震えていたが、ようやく思考能力が戻ってきた、チャラ男の一人がシュッと乾いた革と金属がこすれあう音とともに大型のサバイバルナイフを取り出した。人ごみの中からキャッという悲鳴と、警察を呼べという声が聞こえた。周りの大きな動揺とは裏腹に奈々は、やれやれといったふうの表情をした後、おそらく見たものをすべて石に変えるというメデューサの瞳よりも冷たい目で男を見ると。
「あなた、死ぬわよ。」
と静かに言い放った。男は自分でもわからないほど恐怖した。足ががくがくと震えるのを感じた。しかし懸命に自分自身に言い聞かせた、(こんな女が、こんな華奢な女が、強いわけがねえ。何かの間違いだ、錯覚だ。)男は虚勢を張るものの特長である、大声を上げて奈々に挑みかかってきた。
「うっうおおお・・・」
男の声は自分が思っているほどは大きくなく、裏返っていたが、ナイフを振り回して奈々に向かっていった。そのときである。
「やめろっ馬鹿共がっ。」
ナイフを持った男の後ろから、迫力のある声が響いた。ナイフを持った男が振り返るとそこには上下白のスーツにネクタイの男が立っていた。
周りの人ごみがざわつきだした。
「とっ藤堂だ・・・」
「梟組の若頭だ。」
「渋谷最強の男・・・」
ひとびとが口々に新たに現れた男が、別物であることをものがたった。ナイフを持って振り返った男はそれこそ泣きそうな顔で。
「あっ兄貴・・・」
「馬鹿が、早くしまえそんなもの。」
藤堂と呼ばれた男は三段に折り重なった、いちばん下を蹴り上げると。
「おきろっ剛田!情けねえ。」
いちばん下で伸びていた剛田はうめきながら、目を覚ますと。
「あっ兄貴、いったいなにがなんだか・・・」
「まったく、なんてざまだ。他の二人も起こせ。」
そう言うと中央に立つ奈々を振り返った。
「お嬢さん、たいしたもんだ。合気道かい。」
そう言うと奈々に鋭い眼光を向けた。奈々は何も変わらず冷たい眼をして。
「いかにもって感じのいでたちね。」
そう一言だけ言った。
「俺たちは見てのとおりのヤクザもんだ。ヤクザもんは見ただけでそうわかるようにしてる。素人さんと揉め事にならねえようにな。」
「そっちから仕掛けてきたのよ。」
「まあ、そんなところだろうな。だが俺たちヤクザは素人からなめられたらおわりだ。これからこの渋谷を仕切っていくのも差しさわりが出る。」
「こんなのでよく渋谷を仕切れてたわね、おどろきだわ。」
「言うねえ、お嬢さん。どうだい三十分でいいからこいつらとカラオケつきやっちゃくれねえか。そうすりゃ、何とか面子はたつ。今日のことはあまりにもおどろきのことで、そのうち真実かどうかわからなくなる。頼むよ。三十分きっかりで終わらせるから、もしこいつらが妙なことしたら、この俺がゆるさねえ、約束するっていっても、妙な真似ができるわけもねえか。」
そう言って物静かに、しかし強い圧力を持って奈々に話しかけた。奈々は藤堂の迫力に一切反応せず、静かに、しかし強い口調で言った。
「あんたたちの面子も、ここでの出来事がどうなろうと私には興味はないわ。ただこの子達を無事に帰さなければならないの。これ以上あなたたちと付き合う気はないわ。あなたの申し出を断ったらどうなるの。」
藤堂はふうと一息つくと。
「あんまり気は進まねえが、俺がこいつらと同じように頼むことになる。」
気のせいか奈々はかすかに笑ったように見えた。
「頼みね、いいわ頼んでみたら。」
藤堂は厳しい顔つきになると、かまえた。ボクシングのサウスポースタイルである。藤堂は全日本チャンピオンまでいった、元プロボクサーだった。世界チャンピオンも夢ではないとまで言われたが、友人とのケンカに巻き込まれライセンスを剥奪されてしまった。藤堂は考えた。
(合気道なら相手をつかんで、投げるはず。つかまれないよう最高のパンチで決める。さすがに女だ顔を殴るのはかわいそうだ、顔はフェイントでボディで決める。かわいそうだが、それで終わりだ。)
藤堂は静かに間合いを詰めると、フェイントである右のジャブを奈々の顔面に向けて放った。藤堂は一瞬、奈々が冷たく自分を見つめているように見えた。気のせいかと思った瞬間。
(左のボディでおやすみし・・・)
と思った藤堂の目に、ロクマルイチが飛び込んできた。
(なっ!)藤堂は瞬時に体をひねり、両手をアスファルトについた。汗が一瞬で噴出し、ぜいぜいと大きく息をついた。
「ばっばかな・・・」藤堂の口から思わず驚きの声が漏れた。
藤堂は先ほど三匹のカエルが折り重なっていたあたりに四つんばいになっていた。
「へえ、さっきのやつらとは、少しは違うようね。」
奈々は、先ほどとまったく変わらず冷たく言い放った。そしてほんの少し、表情をゆるめ、まるで教え子を諭すように言った。
「顔は殴らないようにして、お腹で気絶させようなんて、フェミニストみたいな考え方ができるなんて、少し驚いたけれど、そんなんじゃ指一本触ることもできないわよ、本気で来なさい。」
藤堂はじっと奈々を見つめると、息を整え、上着を脱ぐと、右手で後ろへ差し出した。
「持ってろ。」
「はっはい、兄貴。」
原因となったチャラ男は、惚けたように口を開け放っていたが、あわてて、上着を持った。
藤堂はさらにネクタイをはずすと、今度はチャラ男は差し出される前にとりに行った。すでに一観衆と化していた、巨漢の剛田は息を呑んだ。(本気だ、兄貴がネクタイをはずすのは何年ぶりだろう。あの時は、韓国の現役K‐1ファイターだった。)
それはちょっとした記事になったことがある、K‐1チャンピオンにもなった有名格闘家が渋谷で羽目をはずし店から追い出されたという内容だったが、実際は藤堂にのされて、あろうことか、K‐1に参加できなかったという、大失態を演じたものである。それまでも藤堂は渋谷最強とうわさされていたが、この事件以来、アンダーグランドの世界では藤堂の名は鳴り響いた。
藤堂は静かに奈々を見つめ、軽やかにステップを踏み始めた。二人を取り巻く観客の中には数年前の事件を覚えている者もいて固唾をのんで見守っていた。
沙希、涼子、麗華の三人のミューズたちは既に言葉を失い、手を握り合いながら、行く末を見守るしかないという体だった。そんな周りの不安をよそに、当の奈々は藤堂の本気を見て、あろうことか柔らかな笑みを浮かべた。
「へえ、やっと戦士の目になったわね。」
藤堂は一瞬奈々の言葉に何かを感じたが、それが何かか考える余裕など無く、静かに間合いを詰めて行った。
藤堂の右の高速ジャブが奈々の顔面を捉えたと思った瞬間、藤堂も周りの観客たちも、奈々の顔を拳が突き抜ける幻を見た。藤堂は背に氷のような殺気を感じ、あわててその場からとびはなれた。藤堂の立っていた場所には、奈々が先ほどと同じ柔らかな笑みを浮かべて立っていた。
「いいわね、戦士らしくて。引くべき所は引く。闇雲に突っかかってくる、愚かなものたちとは、違う。」
三人のミューズを含めた周りの観客たちは奈々の言葉の意味を理解する思考回路はすでにサボタージュを起こしていた。
一方藤堂は全身の毛穴から汗が吹き出るのを感じた。今までゴロを巻いて、こんな感覚を持ったことは無かった。K‐1ファイターとやっても、レスラー崩れとやっても、なかなかやるなと感じたことはあっても、今のような感覚は無かった。今の感覚は、本能的なものだった。(勝てない、俺の本能が言っている。この女、いや本当に女なのだろうか。とにかくこの存在に俺の本能が戦うなと言っている。)
藤堂は徐々に汗が引いてくるのを感じた。
ようやく思考回路が戻ってきた、三人のニューズたちは一様に沸きあがる感情を抑えられなかった。(私たちの先生はとんでもない存在だ。全てを超越している。先生を守ろうなんてとてつもない思い上がりだった、私たちの先生は別物だ!)。沙希も涼子も麗華も興奮で顔を赤らめ、最上級の敬意を持って奈々を見つめていた。
一方の藤堂は呼吸を整えるのに精一杯という感じだったが、心のそこから湧き上がる感情が汗を引かせてくれていた。その感情を次の瞬間、藤堂は全身全霊を込めて行動に移した。
奈々の目の前に飛び出て土下座すると。
「あっ姐さん、惚れた。付き合ってくれ。」
「「「「「えーーーーー!!」」」」」
奈々を含めた周りの観客がまさかの出来事に驚きの声を上げた。
「お願いだ。この藤堂、心底惚れた。付き合ってください。」
ちょうどそのとき、警官隊がこの騒ぎを取り囲んでいた。
「梟組の藤堂が暴れていると通報があったが」
ベテランらしい警察官が声を上げたが、その場の雰囲気に違和感を覚え、
「どうなっているんだ」
ベテラン警察官が見た光景は、ファッションモデルかと見まごうほどの、きれいな女性に男が土下座して告白しているのである。警官隊はざわざわとした。
「あれ、藤堂だよな。」
「あの藤堂が土下座して告ってるってこと・・・」
警察官たちはあの藤堂が暴れているということは、それまでに梟組みの若いやつらが騒ぎを起こしているはずだし、相手もかなりの人数だろうと予測し、警官隊を組織して渋谷にかけつけてきた。ところが今の状況はどうだ、仁王立ちしている一人の女性に土下座して付き合ってほしいと告白している情けない男、いや今の時代ストレートに告白できる男は情けないどころか立派な男かもしれない。
「これはどういうことかね。」
ベテランの警察官は周りの人だかりに問いかけたが、みな口をそろえて何がなにやらわからないとつぶやくのみである。ようやくベテラン警察官は見知った顔を見つけた。
「おい、剛田じゃねえか。おめえのところの若頭はいったい何をしている。」
ベテラン警察官はやや語気を強め、巨漢の剛田を問いただした。あごが外れたようにぽかんと口をだらしなく開けている剛田はいまさら警官隊に取り囲まれていることに気づいた様子で、
「さっ斉藤さん、いや俺にも何がなんだか・・・」
「おめえたちこんな渋谷の駅前で暴れてたんじゃねえのか。」
「いや、あの・・・その・・・」
「なんだ、剛田だけじゃねえ。山本も鈴木もいるじゃねえか。」
そういってベテラン警察官は奈々にカエルのように伸された三人組に目をやった。
「斉藤さん、最近問題ばかり起こしているチンピラ三人組もいます。」
そういって若い警察官が、きっかけとなったチャラ男三人をあごでしゃくった。
「おめえら、いったい何をしでかしやがった、藤堂はいったい何をしている。あのきれいなお嬢さんは何者だ。」
ベテラン警察官は矢継ぎ早に、質問したが、それに答えられるものは誰もいなかった。
衝撃の告白を受けた当の奈々は、駅前の道路の真ん中で仁王だちになり、先ほどとは打って変わって顔を赤らめ、土下座する藤堂を見下ろしていた。
「なっなにを言い出すの!ばっ馬鹿なことを。」
「いやっマジだ、マジに惚れた!それにこの勝負も完全に俺たちの負けだ、姐さんとやっても絶対に勝てねえ。俺の本能が訴えている。とにかく付き合ってくれ。」
トンでもない展開に奈々は顔を赤らめ、珍しくうろたえている様子だった。ただ男に告白されたことがうろたえた原因では無い。もとよりアテナは高潔な女神である。しかもゼウスでさえも逃れられないアフロディーテの愛の魔法にもかからない、数少ない神なのだ。この感覚は久しく感じていないものだった。戦いの女神であるアテナが最も喜びとするもの、それは戦士からの崇拝だった。ペルセウスもアキレウスもあのヘラクレスでさえアテナを崇拝し、たくさんの祈りと、貢物を奉げたのだ。
奈々は古の昔に受けていた心地よい崇拝と同じような感覚を感じていた。少しの間、昔を思い出していたのだろう、警官隊の包囲にも気づかず、立ち尽くしていた。
「先生!阿部先生!大丈夫ですか!」
ようやく我を取り戻した、沙希が奈々に取りすがると叫んだ。
「先生、おまわりさんたちがたくさん!」
「事情を説明してほしいといってます。」
沙希に続いて、麗華と涼子が泣きそうな顔をして必死に訴えた。奈々ははっと我に帰ると、まだアスファルトに頭をこすりつけている藤堂に、
「とにかく、土下座をやめなさい、警察官の方々がおかしく思っているわよ。」
「ポリなんて関係ねえ、姐さんが付き合ってくれるのなら、どうでもいい。」
「黙りなさい。私たちは関係あるのよ。」
奈々はベテラン警察官に向き直ると。
「お騒がせして申し訳ありません。何でもありませんわ。ただこの方が私とお付き合いしたいとおっしゃってるだけですわ。」
ベテラン警察官はそういう奈々の凛とした姿に気おされながら。
「いやっ何でもないわけがはありません。あなた方は知らないかも知れないが、この男は渋谷では知らないやつはいないほどの悪だ。」
「そのようですわね。でも、今の姿は望みのない告白を続ける情けない男以外の何者でもありませんわ。」
「そっそうかもしれませんが、このおとこは危険な男です、何か無ければこんなことには・・・」
「斉藤さん、お願いだからちょっと引っ込んでてくれねえか。」
藤堂はいったん立ち上がるとベテラン警官の斉藤に訴えかけた。斉藤は奈々とは打って変わって厳しい表情になると。
「なんだと、藤堂。俺に指図するのか!」
藤堂はこの男にしてはおかしなくらい必死に。
「斉藤さん。指図なんかしてねえよ。惚れた女に必死で告白してるんだ、そんなときにジャマに入らねえでくれって、お願いしているんだ。頼みますよ。このとおりだ。」
藤堂はあろうことかベテラン警官に深々と頭を下げ、そのまままた土下座までしそうな勢いだった。警官の斉藤は面食らった表情で、
「なっ何を言いやがる、トチ狂ったまねをするんじゃねえ。」
藤堂は斉藤の反応を待ちもせず、再び奈々の下に歩み寄ると、渋谷、いや、東京中のヤクザ者が恐れる、高速ジャブよりも高速に土下座体勢に移ると再び、
「姐さん、こんな気持ちになったのは初めてだ。俺の全てをささげます!」
藤堂の立派なのか、情けないのか良くわからない迫力に押されて、周りの観客は先ほどの対決とは違った意味で固唾を呑んで見守っていた。「やっやめなさい、みっともない・・・」
奈々はまたも少しうろたえながら、そのうろたえの原因になっている懐かしい感情にとらわれていた。(はるか昔、アテナイのパルテノン神殿で多くの民が、そして名だたる戦士である英雄が、この男と同じように私の前にひれ伏し祈りを奉げたわ。それこそが私の最高の喜びだった)
奈々ははるか遠くを見つめ、古の思いにとらわれていたとき、
「先生、先生!どうしたんですか!」
沙希はいままで見たことも無いような様子の奈々に驚いて、あわてて駆け寄ると叫んだ。
奈々は沙希の呼びかけに、ハっと我に返ると、周りの誰もが予想しない言葉を発した。
「仕方ないわね、とりあえずカラオケだけ付き合ってあげる。三十分だけよ。」
「「「「「「「「「「「「「「えーーーーーーーーーーーーーーーー」」」」」」」」」」」」」」」
沙希、涼子、麗華をはじめ周りを取り囲んでいる野次馬や警官隊、剛田や果てはベテラン警官の斉藤まで驚愕の声を上げた。
「藤堂とかいったわね、祈りっじゃない、土下座をやめなさい。今日のところはそれでいいでしょ。」
藤堂はまるで子供のように小躍りして喜ぶと、
「おっおまえら。姐さんの気がかわらねえうちに、渋谷で最高のカラオケとってこい、五分以内だぞ。」
剛田を初めとする渋谷の顔役たちは雲の子を散らすようにすっ飛んでいった。奈々はやれやれといった表情で、
「それから、姐さんと言うのはやめなさい。私はあなたたちの身内じゃないわ。」
「すっすみません、姐さん!」
と、藤堂は子供のようにはにかんで答えるのであった。奈々は少しうんざりとした表情で、三人のミューズたちを振り返ると、
「あなたたちまで付き合うことはないわ、もう帰りなさい。」
何が起こったか、把握し切れていない沙希はそれでもこう答えた。
「それだけは先生の言うことでも聞けません。先生だけ行かせるわけには行きません。私たちも行きます。」
と勝手に涼子も麗華も巻き込んでいたが、三人の思いは同じなようで、沙希の後ろで二人はうんうんとうなづいていた。
「でも先生、どうして誘いに乗ったんです。」
沙希は不思議そうに尋ねた。確かに先ほどからの顛末を見ていれば、奈々がどう転んでもヤクザ者の脅しに負けるようには見えない、それどころか下手をすれば組ごとつぶしてしまうのではないかと思われるほどの迫力であった。沙希の問いに対して奈々は妙な笑みを浮かべて、
「戦士の祈りを無下にするわけにもいかないしね・・・」
と沙希たちには意味不明の言葉をつぶやいた。そうこうしているうちに、きっかけとなったチャラ男が息せき切って藤堂の所にすっ飛んできた。
「あっ兄貴、取ってきました。渋谷グランドです、いかがですか。」
「グランドか、おめえにしちゃあ、まずまずだな。姐さん、場所が決まりました、ここからすぐです。グランド渋谷です。」
「グランド渋谷、良く週末のこの時間に取れたわね、まさか店やお客さんに迷惑かけるようなことはしてないでしょうね。」
奈々は厳しい視線を藤堂に向けると、藤堂はあわてたように、チャラ男をにらみつけると、
「おいッシン!まさか、そんなことはねえだろうな。」
「とっとんでもない。そんなことはありません。」
とシンと呼ばれたチャラ男はブンブンと首を振った。確かに脅して無理やりあけさせたわけではない。ただ、シンがナンパ用にいつもあけさせている部屋だった。そういう意味では店に迷惑をかけているともいえるが、とても言い出せる雰囲気ではなかった。
「それじゃあ、いくわよ。さっさと行って、さっさと帰りましょう。」
そう言うと、奈々は先頭に立って歩き出した。三人のミューズたちもそれに従った。
「ちょっ、ちょっと待ってくれ。いったい何が・・・」
ベテラン警官の斉藤はあわてて奈々に追いすがると、問いただそうとするが、奈々は意に介さず、歩きながら。
「特に何もありませんわ、ナンパされただけです。」
そういって颯爽と歩いていく。斉藤はあっけにとられて、
「ナンパされただけって・・・」
そうつぶやきながら呆然と見送っていた。
颯爽と歩く4人の美女たちに藤堂他渋谷を牛耳る強面たちがちょろちょろつき従うという妙な光景を渋谷駅前に集まった群衆たちは斉藤や警官隊と同じように呆然と見送っていた。
グランド渋谷のVIPカラオケルームに入ると既に飲み物や料理が準備されていた。
「姐さん、好きな飲み物を注文してください。料理も何でもそろえますから。」
そういって藤堂は、一緒に来た組員たちが吹き出しそうになるほど、子供のような笑顔で奈々のご機嫌をとっていた。奈々はテーブルの上を見渡すと、
「このお寿司はまともじゃないわね、いくらグランド渋谷でもこのお寿司は出せないはず、かなりの名店のものじゃないの。それから姐さんはやめなさい。」
「さすが、姐さん、お目が高い。渋谷でも人気の○△の特上・・・」
「そうじゃなくて、私はしがない公務員、この子たちは学生、分相応というものがあるのよ。」
そう奈々は厳しい口調で藤堂を睨むと、
「一人いくらなの、ちゃんとワリカンでなければ、今すぐ帰るわよ。」
藤堂は一転かわいそうになるほど、シュンとした表情で、
「いや、姐さん俺たちが迷惑かけたから・・・」
奈々は藤堂の泣きそうになりながらの精一杯の主張を冷たくさえぎると、
「いくらなの。」
厳しい口調で繰り返した。藤堂は泣きそうになりながらも、
「ひっ一人三千円ぐらいです。」
とようやく、声を絞り出した。
「うそおっしゃい。そんなもので済むわけないでしょう。」
奈々は、もはやレポート提出を忘れた生徒を問いただすように厳しく言った。藤堂も宿題をごまかす小学生のようになりながら、
「本当です、こいつらも頭数に入ってますから・・・」
そういって、後ろの方を指し示すと、広々とした室内の隅の方に、巨漢の剛田を始めとして、シンと呼ばれたチャラ男までまとまって控えていた。沙希・涼子・麗華の三人はさっきまであんなに怖かったヤクザ者たちが、墨の方で小さくなっているのを見て思わず笑ってしまった。奈々はその様子を見てすっと表情を緩めると、
「なるほど、この人数ならそんなものかもね、この子たちの分は私が払うわ。」
そういって一万二千円を藤堂に差し出すと、藤堂はまたも一転して子供のような笑顔を浮かべ、まるで神からの賜りものをいただくように、うやうやしく受け取った。奈々は三人の教え子たちに微笑んで、
「さあ、支払いは済んだわよ。あなたたち遠慮なくいただきなさい、少しからだを動かしたからお腹が減っているんじゃない、それにワリカン負けしないのは女子大生の得意技でしょ。」
沙希たち三人はさっきまでの怖さも無くなり、確かにお腹もすいていて、目の前の豪華なすしに手を伸ばした。
「わっおいしい。」
「ほんとっこんなお寿司、食べたこと無い。」
「トロ絶品!」
三人は口々に感想を伝えると、女子大生の得意技を発揮し始めた。
「そうでしょう、お嬢さん方。ここのマグロは大間産の最高級だ、ウニもイクラも北海道で今日水揚げされたばかりの最上級品だ。そいつを渋谷で一番の職人が握ってる。うまくねえわけがねえ。」
藤堂はニコニコしながらまるでグルメ番組の案内役のようにとくとくと語っていた。
「あなたたちも遠慮しないで食べたらどう。」
奈々は角で縮こまっている、剛田たちに視線を向けると剛田たち六人は首をブンブン振って
「とっとんでねえ。姐さん方で食べてくだせえ。」
剛田がチラッと向けた視線の先には、まさか俺を差し置いて姐さんと一緒にすしを食うなんて大それたことをしでかすわけではなかろうなあ、と恐怖の眼差しを向ける藤堂がいた。
(殺される、すしを食ったら殺される!)剛田以下の六人は真剣にそう思った。
「あなたたちの、上下関係はどうでもいいけど、ワリカンと言ったからにはあなたも食べなさい。」
そういって奈々はこともあろうかとりわけ用の小皿に数貫すしを取ると藤堂に差し出した。
「あっ姐さん!ありがとうございます!ありがとうございます!」
とまるで初めて契約をとったセールスマンのように何度も頭を下げると、うやうやしく小皿を受け取ると。
「一生の宝にします!!」
とわけのわからないことを言い出した。
「いいから、早く食え!!。それから姐さんはやめろ!!」
藤堂はそれこそ赤子のように屈託の無い笑顔を浮かべて、おいしそうにすしをほうばった。それを見ていた沙希たち三人はまた吹き出してしまうのだった。そうこうしているうちに三十分があっというまに過ぎ、奈々はすっくと立ち上がると。
「さあ、時間よ。帰るわ。」
「姐さん、もっもう少し・・・」
「黙りなさい、戦士は潔くするものよ。」
三人のミューズたちも立ち上がり奈々に付き従うと、出口に向かって歩き出した。
「姐さん、まっまた・・・」
藤堂は必死の思いで奈々の背中に呼びかけたが奈々は振り向きもせず。
「二度目は無いわ、今回だけよ、それから町で会っても声をかけないでね。迷惑よ。」
うしろで藤堂が泣きそうな声で何か言っているのが聞こえたが、奈々たちはそのまますたすたと渋谷グランドを後にした。沙希・涼子・麗華の三人は奈々につき従いながら、今日の出来事を振り返って、えも言われぬ感動に浸っていた。
(私たちの先生は本当にすごい、常識では測れないわ。学術的なことは今までもわかっていた。世界的な権威を持っている学者であることは当然のことながら大尊敬の対象だった。講義の時の凛とした姿も憧れだった。でも、でもまさか暴力に対してもこんなにも強いなんて思わなかった。私たちは少しでも先生を守るために強くなろうとしたなんて恥ずかしい。これからは少しでも先生に近づけるように学業も格闘技の技も磨いていかなければ。)
三人はお酒に酔ったわけではない上気した顔を見合わせた。
一方カラオケボックスに取り残された藤堂は呆然と立ち尽していた。
(今日あったことは現実なのだろうか、俺たちが束になってもかなわない女なんてこの世に存在するのだろうか、いや本当に女なのだろうか、思わず惚れたとか言ってしまったがこの気持ちは本当だ、惚れたというかとにかく全てをささげてもかまわないと思ったことは事実だ。しかしどうも現実身が無い、本当にあの人は存在しているのだろうか。いや人なのかもわからない。本当は神なのでは・・・実は女神なのでは・・・)
藤堂は知らず知らずのうちに真実にたどりついていた。
四人は渋谷駅で地下鉄に乗ると奈々は大学の近くのマンションに帰るため溜池山王で乗り換えた。山手線を乗り換える際奈々は三人を気遣い、ちゃんと帰れるかと問いかけたが、当の三人は興奮冷めやらず首をブンブン縦に振りながらドアの向こうの奈々を見送った。
「本当にすごい、私たちの先生はすごいわ。」
沙希が口火を切って興奮気味に話した。涼子は既に深夜の時間帯に入ろうかとしている車内だったが東京メトロ銀座線はかなりの混雑であり、周りのお客に気遣うようにと沙希に目配せしながら。
「現実のものとは思えなかったわ、あの大男が吹っ飛んだ瞬間。冷静な目で見れていなかったかもしれないけれど、本当に何が起こったかわからなかった。あの瞬間時が止まったように、そして別次元の力が働いたみたいに大男が宙を舞ったわ。」
周りを気にしなさいと目配せした本人が徐々に声が大きくなっていったのに気がついていなかった。最初から周りを気にする気もなさそうな麗華が参戦した。
「私はあの藤堂とか言う男の時。あの男おまわりさんたちが言ってたけど渋谷どころか東京でも超危ない人でしょ。その人を軽くあしらって、しかもメロメロにさせちゃって超すごい!」
「本当に私たちの先生はすごすぎる。私たちも先生のシンパを名乗るなら、相当気合を入れないとね。学問では当然少しでも先生の後をついていけたらと思っていたけど、まさか暴力に対してもあんなに強いなんて・・・わたしは恥ずかしい、今まで先生を守るために格闘技を習っていたの、あなたたちはどう。でもそれは大きな間違いだったしとんでもない思い上がりだったわ。」
沙希はあふれ出る思いを一気に語った。さすがに涼子は、改めて周りを気にするように促しながらそれでも彼女にしては珍しく興奮気味に。
「そうなのよ、本当に思い上がっていたわ。私はかなり自身があった。学問も格闘もね。さすがに学問は先生に勝てるとは思わないけれど、ついていけると思っていた。そしてゆくゆくは同じ舞台に立てると思っていた。でも格闘技はまったく違う思いだった。道場でも私は誰にも負けないし、男の選手だって目じゃなかったわ。実際何度やっても私から一本でも取れる男はいなかった。阿部先生は教壇では確かに迫力があった。全ての生徒を従わせる力があった。でもそれは、教壇、講堂という秩序が守られた世界だからだと思っていた。ところがとんでもなかった。先生は守られているなんてレベルを超越している、先生こそ秩序そのものだわ。」
麗華はさらに興奮気味に
「そうよ!そうなのよ!先生の存在は何もかも超越してるわ。わたし先生をずっと見てた。怖さもあせりも、何も無かった、ただ淡々と降りかかる火の粉を払うように氷のように静かに、ヤクザ者を払っていったわ。すごすぎる。私たちの想像を絶するわ。」
気がつけば三人は住まいのある白山で降りたもののまっすぐは帰らず、二四時間営業のトトールに入ってレギュラーコーヒーのエムサイズを三杯もおかわりしていた。
渋谷の騒動が今後どんな展開を見せるのか、ってちょっと他人事。