義母《マザ》コン令嬢の恐慌
【Side シャウラ】
お義母様は相当に危なっかしい。
そう気付いたのは、一緒に暮らし始めてわりとすぐのことだった。家の中では基本的に取り繕わない彼女は、隙だらけというか、鈍いと言うか──。
物理的な話じゃない。
なんというか……
(お兄様がお義母様のこと好きだって気付かないの、おかしくない?)
そんなところ。
異母兄は、わかりやすく義母が好きだ。見ていればわかる。
義母の前だと表情が豊かになるし、目が甘いし、態度も優しい。何より、義母に弱すぎる。
同い年だという彼らを葬儀で初めて見た時の、「跡取りと婚約者」という印象は決して間違いではなかったのだと思う。少なくとも兄は、恋愛的な意味合いで義母を見ている。
わたしが彼女を「ツィーナ様」ではなく「お義母様」と呼ぶのは、その方が圧倒的に喜ぶからだ。母として扱うとあからさまに顔が輝く。逆に名前で呼ぶとシュンと萎れて、こっちが悪いことをしているような気分になるのだ。
けれど、兄が義母を頑なに名前で呼ぶのは……間違いなく、恋心のせい。父が生きている状況でもずっと義母だけを見つめてきた兄は、愛を囁く代わりにそうやって自分をアピールして来たのだろう。
(そんな重たい愛情を、「家族の親愛の情」で片付けられるお義母様が恐ろしい……)
でも、まぁ。
兄も真面目なヒトだ。父が生きている限り、気付かせるつもりはなかったのだと思う。良くも悪くも、兄の世界は義母を中心に回っている。
しかし、ただでさえ鈍い義母の近くで、兄がそうやって下手な偽装をし続けた結果が……今のとんでもなく危なっかしい義母を作り上げた気がしないでもない。
そして、その庇護欲をそそる様子に陰でいっそう身悶える兄に、塩っぱい気分にならなくもない。
裏表なく接してくれて、真っ直ぐに愛情を伝えてくれる義母を、わたしは好ましく思っている。
一生懸命なのになぜか裏目に出る……可愛らしい小動物みたいな部分も含めて、憎めないヒトなのだ。
自分の容姿に無自覚なのも、とにかくわたしを猫っ可愛がりしようとするのも、冷淡冷徹な兄を子ども扱いしようとするのも……彼女なら、許せてしまう。それが魅力だとすら、思ってしまう。
だから、王弟殿下からの招待状に顔色を変えた兄の気持ちはよくわかった。
(王弟殿下って……ネフェリーの小父様でしょう?)
……無理無理。お義母様がぱっくり食べられるところしか想像できない。しかも、大きく開けて待っている口の中に、「ふんふふ〜ん」とお気楽な感じで自分から飛び込んでいく姿が容易に思い浮かんでしまう。
お義母様、ヒトを疑うってことをしないから。
義母とあの殿下では経験値が違いすぎるし、危機感も、根回しも腹黒さも何もかも、圧倒的に殿下が勝る。
小父様はわたしでも見惚れる程の色男だったし、何より、世慣れた感じがした。あれが仮の姿だとしたって、中身は一緒。さらに磨きがかかることはあれど、鈍ることはないはずだ。
「お兄様……お話しが」
招待状が届いて間もない、とある夜分。わたしは意を決して兄の居室の扉を叩いた。
義母には優しくメロンメロンな兄だが、わたしとは今一つ距離がある。メイド達の間で、「見た目は完璧。ただし、あの目で見られると凍りつく。ちょっと離れたところから鑑賞する用貴公子」と評されているらしい兄の、水色の目は別に怖くない。何せ、わたしの目とよく似ているのだから。まぁ、切れ長に眼鏡をかけた兄と、大きな吊り目のわたしでは他人の印象は違うのだろうが。
ちなみにわたしにそのメイド達の話を吹き込んだのは、専属メイドのケイトだった。前の家から連れてきた彼女は、実母とさほど変わらない年齢なのに恋バナとやらに目がなくて、若いメイド達とすぐに打ち解けたようだった。
「……あぁ、おまえか。手短に話せ」
室内に通してくれた兄は、こちらをチラリと一瞥したあと、それまで通り書き物を続ける。どうやら、何か仕事の途中だったらしい。興味ないが。
「はい。王弟殿下からのお招きの件です」
「ふむ」
わたしがなんとなく彼に近寄らずにいるのは、単に用事がないからだ。わたしもそうだが、多分兄も、元来口数の多い方ではない。
話しかけてくる義母にあれこれ返していれば、それでもう、一日分喋った気になってしまう。特段必要がなければ、それ以上誰かと会話する必要を感じないのだ。
「まず、大前提として聞いてください」
兄の執務机の前に立つ。さすが次期公爵の机。彼の手にあるガラスペン1つとっても、繊細で優美な造りをしていた。
「わたしは、お兄様を応援しています。本心から、お義母様と『一刻も早く婚約をして欲しい』と思っています」
「!?」
パキッとガラスペンの先が割れた音が響いて、お兄様が顔を上げた。敢えて表情を消した顔は冷たい彫像のようで、確かにメイド達が怖がるのもわかる気がする。
「怒らせたいわけでも警戒されたいわけでもありません。ただ、わたしがそう思っていると知った上で聞いてください」
「……話せ」
低く抑えた声も、驚愕を封じ込めた無表情も、「まぁそうなるわな」と予想していたから何とも思わない。髪の色も顔立ちも似ていないが、わたし達は瞳の色だけでなく、性格もどことなく似ている。
「ネフェリー様……いえ、王弟殿下は、女性の扱いに長けています。さらに、以前父や実母との会話をこぼれ聞いた限りでは、自分より年下の女性でさえあれば無節操に手を伸ばす方のようでした」
「……」
「さすがに未成年は対象外らしいとホッとした覚えがあります。ただ、残念ながらお義母様は成人していますよね」
義母が19歳だと知った時の衝撃と言ったらない。
ふわふわと柔らかく艶のある桃色の髪も、大きく潤んだ若葉のような瞳も華奢な肢体も……「え、花の妖精?」「生きてる? え、人間なの?」と訊きたくなる。そんな容姿で成人済み。いや、むしろだからこそ尚更、妖精感が強まったが……。
しかも、大人の女性として、それなりに出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる。正直、胸元はわたしとそこまで大差ないが、腰の細さは絵画でしか見ない素晴らしさ。無節操なあのヒト……王弟殿下の射程範囲内なのは間違いないと思う。
(いや、むしろ……狙い撃ちの呼び出しよね。わたしの方がおまけじゃない?)
「…………それで?」
取り繕うのは止めたのか、兄が苦虫を噛み潰した顔をしている。もう、本当に嫌そうで苦しそう。
その表情からは、「そんなこと言われるまでもなくわかってる」と読み取れた。
「お兄様が一緒に行けないのはわかりました。でも……わたし、お義母様も置いて行きたいです」
「1人で行くということか」
「はい。その方が安心できます」
「む……」
お義母様が外面完璧なのは知っている。高位の女性貴族としての振る舞いを勉強する中で、何度か手本を見せてもらった。
けれど、そういう問題じゃない。
「ご招待いただいた離宮は王城にあるのですよね。王城って、自信過剰自意識過剰な人間の巣窟なのでしょう?」
もう少し歯に衣着せるべきかなぁ、とも思ったが、この兄なら直球の方が伝わりやすい気がする。
「おまえ……そんな失礼な噂、どこから聞いた」
「お父様です」
「…………」
額を押さえてため息をつく気持ちもわかるが、
「大切なのはそこではなく。そんなところにお義母様を放り込んだら、大変なことになるのが目に見える、ということです。わたしではまだ、お義母様をお守りすることは難しいですから」
攻撃的な女性や、下心のある男性がわんさか釣れるに違いないのだ。
「どうしても成人の付添人が必要でしたら、家令か誰か付けてください。その方が目立たないでしょうし、あっさり帰宅できると思います」
「……言い分はわかった」
なんとも複雑そうな表情。やっぱりこのヒトはわかりやすい。
いや……世間一般の彼の評価が「冷徹冷淡で何を考えているかわからない」なのだから、つまり、わたしもそう見られているということか。うん、自覚しておいた方がイイかもしれない。
「おまえの懸念ももっともだろう。だが……」
一瞬言い淀んだ兄が額に拳を押し当てた。
「あんなに嬉しそうなツィーナを止められるものか……っ!」
慟哭、とでも表現できそうなそれに、思わず真顔になる。元々表情は少ないけれど。
(……バカらし……)
「おまえには止められるのか……!?」
悩み深いポーズのまま血反吐を吐くような兄の問いかけに考える。
(いや、考えるまでもないか)
「わたしには止められないからこうして相談しております」
例えばわたしが「一人で行きます」と宣言する。義母は「遠慮しないで〜」と流す。
例えばさらにわたしが「いえ、来ないでください」とザックリ切る。義母は泣く。
付き合いの浅いわたしにはどうにもできない話なのだ。
泣かせておけば……というのは無理な話。義母を泣かせれば兄がキレるだろうと予測できるし、そもそも良心の呵責がとんでもない。
「わたしよりもお義母様のことをよく知っているお兄様なら奥の手があるのではないかと思いまして」
「奥の手……」
ブツブツブツブツ。
何かを高速で考えているのだろう。頭のキレる兄ならばきっと……
「……睡眠薬……鎖……監禁……ふは……ふはは……」
(ダメだこれ!!)
「あの……お兄様? とりあえず1度、しっかりお義母様と話し合ってみていただけませんか!?」
兄の脳内で何がどうなったのかわからないが、聞こえてはいけない単語が聞こえた。
「どうしても同行するのであれば、危機感を強く持つよう指導するとか……緊急時の連絡方法を教えておくとか……」
「……あぁ。それは確かに必要だな」
慌てて図った方向修正は、多分、ギリギリ間に合った……はず。こちらを見る普段通りの様子にほっと胸を撫で下ろした。
マズい。兄が拗らせている。病んだ匂いすら感じさせる。
背筋を流れる冷や汗に、「もしかしたらこのヒトに預けるのが1番ダメかも」なんて思いがチラリと過ぎった。
父が亡くなったという事実、それから、自身が公爵位を継ぐという重責が、もしかしたら兄からあれやこれやの枷を取っぱらってしまったのかもしれない。
……うん、きっとそうに違いない。大丈夫、生活が落ち着けば、冷静な兄に戻るはず。
だって、あの義母を任せられるのは兄しかいないと思うのだ。一見しっかり者に見せて、実はぽやや〜んとした義母。父のせいで、恋愛や男女の駆け引きに免疫のない、鈍い義母。
兄との仲は良好だし、むしろお互い支え合っている感じさえある。何より、並んだ絵面がとても良い。義母があそこまで無邪気に笑うのは兄の隣だけだ。が──
(お義母様……いい加減頑張らないと、本気で危険ですよ!?)
主に、兄のメンタル面が。
わたしは自由に振る舞う義母を見るのが好きなのだ。闊達に表情を変える義母が、笑わない人形のようになる未来は見たくない。
……まぁ、それでも、義母と遠く引き離されるよりはずっとマシか? うん、わたしも大概だ。
「わかった、話してみる。……だが、同行は決定事項だと思っておいた方がイイ」
「……はい」
「まぁ……なんと言うか、おまえと危機感を共有できたのは何よりだ」
「お義母様はアケルナーの太陽です。王族なんかに渡しません。お兄様、無事にお仕事を済まされて、早く爵位を継いでくださいね」
「……言われるまでもない」
(敵は王弟殿下唯一人! 負けないんだから!)
……………………なんて、思っていた頃もありました。
「お義母様!?」
義母を止められないまま迎えた当日。わたしは最大限王弟殿下を警戒し、義母を守ろうと心に決めて馬車に乗った。
頼りの兄は遥か領地。けれど、彼は彼なりに、義母を守ろうとあれこれ知識を授け、簡単な護身術を教え、余計な注目を浴びないための社交法を叩き込んで行った。
「お義母様、大丈夫ですか!?」
だけどまさか。いったい誰が、こんな展開を予想できると言うのか。
わたしは、蒼白になって崩れる義母を必死で支えた。
(槍が降ってくるとかおかしいでしょーっ!? 誰がこんなとんでもないことをっ!!)
確かに、危機感が足りないと思っていた。でも、それはこういう生命の危機の話ではなく。
ホントにいったい、何をしてくれているのか。騎士団? 何ソレ、暴力集団の間違いか。許すまじ。
(惚れられて厄介なことになるとか、嫉妬されて意地悪されるとか! そういう人間関係的なトラブルを想像してたのに……! 平和の欠片もないんだけど!!)
胸中でそう憤ったのが悪かったのかもしれない。義母は見事、そちらのトラブルも引き当ててくれた。
もう本当に……大失敗。泣かれてもキレられても置いてくれば良かった。敵が一人だなんて思ったわたしが甘かった……!
(なんなの幼馴染って…………)
気を失いかけている義母を休ませるため案内された騎士団の建物で、事態は風雲急を告げた。
一騎当千の将として名高いバックス騎士団長が、実は、義母が兄とも慕う幼馴染だと発覚したのだ。
オレンジの短髪を雑に撫で付けた無骨な雰囲気のバックス騎士団長は、ガタイが良ければ顔も厳つい。よく見ると整った顔立ちをしているのだが、それより何より、その強そうで怖そうな印象に呑まれてしまう。
「ぽにいちゃ」と可愛らしい愛称を口にする可愛らしい義母と、愛称の似合わない猛獣のような男性。美少女と野獣……いや、妖精と筋肉? とにかく違和感がすごい。
(お兄様頑張って。ホント急いで。もう……お義母様の「花の妖精感」が強過ぎる……。なんでこんなにホイホイとムシが寄ってくるわけ!?)
甘い香りで誘う花のように。美しい見た目でヒトを魅了する妖精のように。無自覚で本領発揮しまくる義母……──。
こうなってくるとむしろ、領地にお義母様を隠していた父が正解だったのではないかと思えてくる。トラブルの回避法が、もはやそれしかないと思えた。
普通に考えて、「登城する。歩く。槍が降る。運ばれる。惚れられる。和解する。幼馴染だと発覚する」……最初の二つ以外全部おかしい。
ちなみに、「惚れられる」は槍を投げたという葡萄色の髪の騎士にかかる言葉だ。王城に多いと聞いていたプライドだけは高そうないけ好かない騎士。
そいつが、お義母様を見てからずっと、ソワソワしていた。赤くなったり青くなったりポーっとしたり。あんたがするべきは謝罪だけだろ! と睨んでみたが、何処吹く風でお義母様を熱っぽく見つめている。
まぁ、お義母様は可愛いからね、見惚れる気持ちはわかるけどね? でも、あんたはダメ。悪気がなかろうが事故だろうが、お義母様を害そうとしたヤツにお義母様を愛でる資格はないのだ。
(あぁもう……お兄様、助けて……)
義母のトラブル遭遇率の高さは異常だ。
兄からこっそり、先日の夜会で「王子を拾っていた」と聞かされた時にも思ったが。せめて、遭遇したトラブルに嬉々として突き進むのは止めて欲しい……。
「うぁあっ、ぼにぃちゃ、いぎでだぁあ……っ!」
というか、自分からトラブルを起こすのも止めてください!!
突然激しく泣き出して止まらなくなった義母の頭からは、間違いなく、お兄様が教えた社交のあれこれがすっ飛んでいる。
「ほれチーニャ、甘くて旨いぞぉ」
慌てるわたしとは違って、落ち着いて飴玉を取り出すバックス騎士団長の姿に、「幼馴染というのは嘘ではない」と感じた。あやし方が慣れている。
……19歳の義母に向かって、「あやす」も何もないとは思うが。
(お兄様は悔しがるかもな)
そもそも、大号泣なんていう貴重なシーンを見逃したことを。なんと言っても、兄は義母が好きすぎる。騎士団長が「チーニャ」なんて呼んでるって知ったら……暴れるかもしれない。
冷静沈着で公正公平な兄だが、義母のこととなると途端に心が狭くなる。
だから、泣き止んだ義母の言葉があまりにも気さくで、怖くなった。兄との約束を破っているとバレたら……病んで暴走した彼に閉じ込められてしまうかもしれないのに。わたしだって怒られるが、義母は今日登城した時点で地雷に片足を乗せているようなものなのだ。
うふふ、と可愛らしい笑顔で騎士団長と笑い合う義母を怒鳴りつけてしまいたい。言ったところで、「カウスくんが? 大丈夫だよ、優しいもん」と聞いてくれないこと受け合いなので、言わないが。正直、もう、ツラい。今すぐ、義母の手を引いて逃げ出したい。
なぜ、本丸に到着してもいないのに、2人もの騎士を魅了しているのか。騎士団長なんてさっきまでは厳つい見た目に合わない紳士っぷりで、義母に「特別な感情も興味もありません」て顔してたのに。
非常によろしくない展開だ。これ絶対後日、槍投げ騎士は「改めてお詫びに」とか言って、騎士団長は「旧交を温めに」とか言って、義母に会いに来るパターンだ。
「なんなら俺、チーニャのオムツも替えてるし」
「ぎゃああああっ!」
裏のないあけすけな笑顔は2人とも一緒で、兄妹のようなものと言われれば納得できる部分もある。心根のおおらかさというか、眩しさというか……わたしにはないものが、2人似ている。
ただ……純粋に「兄妹みたいなもの」と言うには、なんとなく……。時折、翳る赤い瞳が気になった。
(しかも、何がマズいって……お義母様、未亡人なのよ!! 世間的にはフリーも同じ!!)
だからさっさと婚約しろって言ったのに。爵位を継いでからとかウダウダ言う生真面目な兄の背中を蹴り飛ばしたい。
人間、適当が一番なのだ。真面目に筋を通そうと固執するからこそ、崩れる時は一気に病む。お義母様に会えないとか、わたしも嫌だから。適度なところでさっさと囲ってしまえばイイのに。まったく不器用なんだから。
ワキャワキャと盛り上がる義母はこの上なく愛らしい。が、わたしはもう、白目をむいて倒れたい気分だった。
案の定また会う約束をしている義母とバックス騎士団長を眺めながら、兄にどう報告したものか考える。一応、わたしにも報告義務が課されているけど……もう、お義母様に任せようかな……。「お義母様の言う通りです」ってしようかな……。
「では、毎日食べにおいで?」
しかし、這う這うの体で辿り着いた目的地の大本命は、やはり大物。想像以上に手強かった。
騎士団の一件で精神力をガリガリ削られたわたしの手に負える相手じゃない。全快状態だって立ち向かえるかあやしいのに……やっぱり王弟殿下、とんでもない。
このヒト、父の親友だって嘘じゃない? こんな大物が父みたいな小物の相手するとか……まぁ爵位だけ見ればつるんでいてもおかしくないけど……。
久々に会う王弟殿下は、以前よりも輝いていた。服装のせいもあるだろうが、なんというか……気合いが入っているような……?
(どうしよう……思ってた以上に本気なのかも……)
相変わらず優しげで、色気がすごい。大人の落ち着きというのだろうか。まだ、「渋い」というほどの年齢でもないが、かと言って青臭さは抜けきっている。わたしの目から見ても見惚れるような男振りだ。
ゴツゴツして大きな騎士達を見たあとだからかそこまで長身には感じないが、逆にバランスの良さが際立っていた。
「なんなら逗留してもいいんだよ?」
なぜここまであからさまに誘われて、気付かないのか。兄が恋情を家族愛に隠して来たせいもあるだろうが、義母自身、母親という役割に固執し過ぎて自分が恋愛対象に見られる可能性に思い至っていないせいもある。とにかく、今この場にあっては致命的だ。
現実的に考えて、騎士団長や若輩騎士がお義母様との婚姻を望む可能性は低いと思う。彼らがいかに熱を上げたって、彼らの家がそれを許さないだろうから。
王家からの下げ渡しならばともかく、公爵家の後妻を息子の初婚相手に選ぶ貴族はそうそう居ない。アケルナー公爵家との縁を結びたい、またはお義母様のご実家と縁を結びたい家なら有り得るが……実際のところは、お兄様の不況を買うこと間違いなし。
ただ、王弟殿下だけは別枠だ。
彼は国王の影として正妃を迎えられない代わりに、人妻以外、誰を愛妾にしても許される。それは未亡人でも問題なくて、当人達の同意だけが有ればイイ。
しかも、現国王陛下の第一王子殿下と第二王子殿下が成人を迎えた今、彼は大公として臣籍降下すると噂されていた。その時きっと、愛妾は大公夫人となるはずだ。
(やっぱり……小父様が一番手強い。それにしてもお義母様……楚々とした笑顔を浮かべてる場合じゃないでしょうよ……!)
「あの、恐れながら王弟殿下」
義母に任せておくのはもう無理! とドキドキしながら口を挟む。
前々からの知り合いというのもあって、王弟殿下はわたしにも優しい。でも、目当てが義母なのは疑いようのない事実。
このままでは兄に申し訳が立たないし、自分自身も後悔する。そう強く思うからこそ、わたしは必死で言い募った。
「ツィーナ嬢の評判を上げるためにも……」
まぁ正直、そう言われた時にはちょっと揺れたが。
そうだろうなぁとは思っていたけれど、やはり父と義母は形だけの夫婦だった。それ自体はむしろ、「あんなのと暮らさずに住んで良かったね」と思う。父と義母を脳内で並べてみたが……悪い冗談か犯罪だ。
問題なのは、その事実を王弟殿下が指摘したこと。父と殿下は仲が良かったから、それで知っていたのだろうとは思う。ただ、誰か1人が知っているのならばそれはもう秘密じゃない。その他100人が知っていても不思議はないということで……。
可愛らしいわたしの義母を、見たこともないヒト達が「気の毒な女」として嘲笑う。そんなの嫌だ。近々兄と相談しなくちゃ。
「しかしながら……」
どこに意識を飛ばしていたのか……我に返ったように反論を始めた義母に内心胸を撫で下ろし、放置していた料理を頬張った。
味も見た目も素晴らしいのだろうとは思うが、わたしは食べ切ることで手一杯。出された料理を残すような失礼なことは許されないのに、さっきからハラハラし通しで食べる暇が全然ないのだ。
(!?)
蕩けるような肉を食べ、付け合せの野菜を一生懸命食べていた時のことだった。
ゾクッと背筋に怖気が走った。良くない感覚に、辺りを見回す。
(何、アレ……)
まるで閉じ込めるかのように……押し潰すかのように黒く染まった窓。
本能的な恐怖のあまり、手にしていたフォークを取り落とした。あれは良くないモノだ、そう直感する。
歯の根が合わない。ヒタヒタと押し寄せる闇に絡め取られてしまいそうで息が詰まる。
自分を怖がりだと思ったことはなかった。小さい頃から一人で留守番するのには慣れていたし、嘘くさい怪談話に興味はない。
(ヤだ……怖い……っ)
しかし、今自分を取り囲む闇は、生半可なものではなかった。全てを飲み込む、奈落。
世の中にはもしかしたら死ぬより恐ろしいことがあるのかもしれない。そんな絶望が押し寄せる。
(助けて……っ)
ギュッと固く目を瞑る。手足は冷え固まって動かなかった。
「大丈夫よ」
ふいに温もりが頭を包んだ。
柔らかな感覚と、優しい香り。夢見がちなのに芯の強い声。
(……お義母様)
強ばっていた体から力が抜けた。もう大丈夫、そんな気がする。
守ってあげなくちゃ、と思っていた義母に守られている現状を情けなく思うものの、今は心の底からありがたかった。止まっていた心臓が息を吹き返したかのようで、必死に温もりに縋り付く。
こんな恐ろしい闇の中、どうしてお義母様は立っていられるのだろうか。少し落ち着いてきた頭が、不思議を訴える。でも、そんな考えもすぐに消えた。頭を撫でてくれる手が優しくて……涙がとめどなく湧いてくる。
ついさっき、泣きじゃくる義母に困らされたばかりなのに。今度はわたしの涙が止まらなかった。恐怖と安堵で、張り詰めていたものが爆ぜてしまった。
儚げなのに、強い義母。
可愛いのに、頼れる義母。
母親というものが、こんなにも圧倒的な安堵を与えてくれる存在だと知ったのは、義母に出会ってからだった。無条件にわたしを受け入れてくれて、無条件に愛してくれて。
ただわたしがわたしであればイイ。そう言ってくれる義母に、救われた。
まだ一緒に暮らし始めて半年ほどしか経っていない。それでも、彼女の愛情はしっかりわたしに伝わって来た。
たぶん……自分と似ていると感じた兄が、彼女には心を開いているのを見たからかもしれない。わたしも、義母に愛されたいと──。
「ケネス様がこの子の父であると言うのならば、今はまず、この子を連れて帰って休ませるべきだとお気付きいただけますね?」
嗚咽を引き摺りながら、義母の細い腰に抱きつく。
「そんなに義娘が大事?」
「親とは、我が子の幸せを願うものだと思っております。母と父は共に、我が子を想うもの。ケネス様がわたくしと共にこの子達の幸せのためにご尽力くださるなら、それ以上の喜びはございません」
泣き疲れてぼーっとする頭に、2人分の声が響く。優しくて強いお義母様と……楽しげな……
「ふふ……そうか……将を射んとする者はまず……。あなたを御するのはなかなかに骨が折れそうだ」
「ケネス様がわたくし達を家族と思ってくださるのでしたら、どうぞいつでもおいでください。わたくし達がこちらに伺うには手続き等ございますが、ケネス様が王都に住む家族をお訪ねになる分には問題はないかと存じます」
「……そうだね。そうさせてもらうよ。義息子とも話したいし」
ゾクリ。背筋が泡立った。
楽しげな声なのに、消えたはずの恐怖が鎌首をもたげる。
「えぇ、きっと彼も喜びますわ」
「根菜の菓子というのも楽しみにさせてもらおうかな」
「うふふ、それは是非」
見えない闇が、蛇のようにまとわりついて来るかのようだ。ぬるりぬるりと這い上がって、締め付けて来る。
平然としている義母が信じられない。
(も……無理……)
「あ!? シャウラちゃん!? 大変……っ」
再び手足が震え始めるのを感じながら、わたしは念願叶って、意識をふっつり手放した。
後になって考えると……それが良かったのか悪かったのか、よくわからないが──。