体調不良の少年は……身元不明ということで!
控え室に通じる廊下はそれなりに広い。ヒトが四人ぐらいは余裕で広がって歩ける幅だ。
だから……
(聞かれてないと信じたい!)
いくら暗くて見えなかったとはいえ、数歩先のバルコニーにヒトがいるなんて思わなかった。さっきのぐふぐふを聞かれてたらどうしよう……。
一瞬、「このまま急いで立ち去れ!」と脳裏に囁くモノがあった。けれど、「相手を確認しないで逃げたら万一の時に口止めできないよ!」とも。
(んー……きっと、カウスくんがより怒るのは、相手を確認しない場合、だよね)
わかっている。一度失態が流れれば撤回するのは難しい。それが貴族社会というやつだ。
でも……怖いんだもんっ!
「……ぐ」
場内が明るい分、バルコニーの夜闇が深くて暗くて、恐ろしい。魔法の灯りは、どうやら決められた範囲にしか届かない造りのようだ。
それに、バルコニーにいるヒトは、なんだかずっと、不審な音を立てている。真っ暗な中の不審者って……普通に怖い。
それでも、立ち去って巡回の騎士に知らせるという方法は、この時のわたしには思い浮かばなかった。自分で確認するか、しないかの二択。
(……よしっ!)
ふんすっと気合いを入れて、そろぉりそろぉり窓に近づく。
観音開きの大きな窓。真ん中に開いた隙間からそっと外を覗けば……
「ぇ……ちょっとあなた、大丈夫!?」
蹲っている細い背中。気分が悪いのか、「うぐっ」とくぐもった呻き声が漏れている。
考える間もなく窓を押し開け、人影に駆け寄った。暗くてよく見えないが、少年なのだと思う。
「具合が悪いのね? ……えっと…………」
開けっ放しの窓との明暗差で、尚更周囲が見えにくい。それでも、少年から少し離れた横側に壁を見つけ、わたしは久しぶりに魔法を使った。
この世界の人間は魔力がある。でも、大抵は自分で何らかの術を行使できるほどには強くない。だから、基本的には、時折現れる強大な魔力を持った一握りの人間──魔術師達が作った魔術具に魔力を送って、その恩恵を受けている。
ちなみに、生活に利用できるよう魔力に方向性を持たせたものが「魔術」で、魔力をそのまま放出したことで起こるあれこれを「魔法」と呼ぶ。いずれ現れるヒロインちゃんは、魔術師になれるほどではないものの魔力が多く、意図せずに魔法でトラブルを巻き起こすタイプだ。しかも、珍しい光属性。さすがヒロイン、存在自体の派手さが違う。
とはいえ、魔術具に流せば魔力はただの魔力で、属性なんて関係ない。誰でも……わたしでも普通に使えるし。
しかしもちろん、生まれ持った属性で魔法は変わる。
「そこ、掃き清めたから床に座って大丈夫よ。ほら……そう、こっち。壁に寄りかかって……」
「うぅ……」
カウスくんは見たままの水属性だけれど、わたしは風だ。なぜか、「意外」と言われる。……ていうのはこの際、どうでも良くて。とにかく、しがない成り上がり男爵家生まれのわたしに使える魔法は、「一瞬風を起こす」ただそれだけ。
使い道もそうそうないから滅多に使わない魔法だけれど……夜会用の衣装を汚す心配をせずに座ってもらえるのは、今は大きい。
そろそろと動く彼の腕を支えながら、蹲った窮屈な格好から、楽な姿勢に変えていく。壁に寄りかかって足を投げ出せば、彼は空気を求めるように大きく荒い息を吐いた。
「誰も見ていないから気にしなくて平気よ。わたしにもほとんど見えていないから心配しないで? まずはあなたの体調を整えるのが第一だもの。失礼……息がしやすいようにタイを弛めるわね」
貴族として、弱味をヒトに見せたくない気持ちはよくわかる。そもそもだからこそ、わたしはこうして少年の窮地に気づけた。
手探りでタイを弛め、一番上のボタンを外す。それから、手に魔法をのせてパタパタと少年を扇いでみた。不調の原因がわからないから効果の程も不明だが、他にできることが思いつかない。
「ハァ……ハァ……」
幸いにも、少年の呼吸は少しずつ落ち着いて来ている。このまま少し休めば、自分の控え室に戻れるくらいには回復するだろう。
「良かった……」
うっすら輪郭が見えるだけだが、支えた感じ、やはり小柄な少年に違いなかった。イメージ的には中学生。……成長期前の。
「お家の方、呼んで来ましょうか……?」
もしかしたら探しているかもしれない。けれど、案の定彼は首を横に振った。家名を明かすのが嫌なのだと思う。
「んー……でも一人で放っておくのは心配ね……。あぁ、そうだ。わたくし控え室に行ってみるところだったの。付き合ってくれるかしら。ね、良ければ休んで行って?」
アケルナー家は腐っても公爵位。控え室は便利な場所に用意されている。心配性のカウスくんが「行けばわかります」と言うくらいだ。
「あなたの素性は一切聞かない。何よりも体調を立て直すことが大切だもの。落ち着いたら勝手に出て行ってもイイわ。……それにほら、女性には優しくなさいって習うでしょう? わたくし、一人だと迷ってしまうかもしれないわ。人助けだと思って、ね? すぐそこのはずだから、ちょっとだけ頑張って?」
このところ、夜は冷える。肝っ玉母ちゃんを目指すわたしに、具合いの悪い子どもを放置するという道はなかった。
可能なら無理やりにでも引っ張って行きたいところだが……そんな力、わたしには無いから、少年の手を取って促すだけに留めた。口だけはフル回転だ。
「ツラいのはわかるわ。でも、ね? 温かいお茶でも飲めば気分も変わるでしょう?」
躊躇っていた少年が、きゅっと手を握り返してくれたことに自信を深め、
「ね? こっちよ。これでもお茶を淹れるのは上手なの。ウチの家族のお墨付きよ」
両手を重ねると、彼の細い腕を引っ張ってみた。……うん、素直。くっ、と少しだけ力がかかり、少年が立ち上がったのがわかる。
「こっちよ。大丈夫。巡視の騎士に見つからずに行きましょう」
窓の手前で一度止まる。身バレしたくない少年を振り返ることはせずに、繋いだ手だけで彼の存在を確かめた。
キョロキョロと見回せば、数メートル先の扉に我が家の家紋が彫られているのがはっきり見える。更に奥には別の家紋。
(あ、確かに何かと使うものね。お部屋が常設されてるのはありがたいわ)
「……今よ!」
手を引いたままパッと駆け出す。
ドアノブのない扉は魔術具が仕込まれている。詳しい仕組みはわからないけれど、他家の人間では開けられない安全仕様。素早く魔力を流して室内へと飛び込んだ。
(無意識に奥様生活に慣れちゃってたわ……。こんなに魔力使うの久しぶり。日用品程度じゃほぼ使わないし……ハァ、疲れたかも……)
パタンと扉が閉まる音を背後に聞き、ホッと息を吐く。
「走らせてごめんなさいね。座って?」
そこで初めて、彼を見た。
振り返った先の、繊細な黄金。
思った通り、シャウラちゃんとさして変わらないだろう年齢の少年だ。美しい金髪で顔立ちは整っているが、それより何より顔色が悪い。大きな青紫の瞳も潤んでいて、「熱ある!?」と心配になった。
(早く休ませなきゃ!)
それなりの広さのある室内には、簡易の寝台も置かれている。なんか……日本の高級なホテルみたいだ。
流石に夜会用のゴテゴテした服装のままベッドに横になるのは大変だろう。わたしは少年にソファーを勧め、ベッドから剥ぎ取った毛布をバサリとかけた。遠慮なんてさせるものか。
それから、何か飲み物を……と見回せば、壁際の棚に水差しを見つけた。残念ながらティーセットはない。
(仕方ないか。お茶を淹れるのは従者の仕事。自分でやる貴族なんて滅多に居ないって聞くものね)
「ごめんなさい、温かいものはないみたい。ただのお水で申し訳ないけれど……少しだけでも飲んでみて?」
冷えたグラスを差し出せば、モゾモゾと毛布から出された細い指が躊躇いがちに受け取った。
さて、これでひとまず、彼の回復を待つばかりだ。真っ白だった唇の色も少しずつ戻って来たし、そこまでかからず自分の控え室に戻れるだろう。
「おかわりが欲しい時は言ってね?」
訊きたいことはたくさんある。けれど、詮索するのはやめておいた。逆の立場だったら、わたしは困りきってしまうから。
(わたしが居たら落ち着かないかなぁ? でも、いくら居心地のイイ部屋とはいえ、ここに置き去りにするのも、ねぇ?)
社交経験の少なさが恨めしい。ここまで来てなんだけど、何が正解なのかまったく想像がつかない。
「……ありがとう」
手持ち無沙汰で部屋の設備を確認していると、ふいに少年が口を開いた。想像していたよりずっと、落ち着いた声だ。
「気にしないで? 困った時はお互い様よ」
じっとわたしを見る目は黒目がちで、なんだか、子猫のようだった。煌びやかな服を着ているもののガリガリで、どことなく、捨て猫を連想させる。
「……ここ、座って?」
だから、彼が自分の隣を控えめに指す姿に驚いた。警戒心の高そうな子に見えるのに。
「あの……あなたの、手…………風が……」
(あぁ。扇いで欲しいのかな?)
犬はヒトにつくけど猫は家につく、と言う。つまり、「居心地の良さ」重視ということ。
わたしは一人で納得して、大きなソファーの隣に腰掛けた。ちょっと近いかなぁ? とは思ったものの、これ以上遠いとわたしの魔法程度じゃ届かない。
ごそりと横を向きパタパタと扇いでやれば、少年は「ふぅ」と息を吐いて背もたれに寄りかかった。
「寒くないの?」
体は相変わらず毛布の中。なのに、そよそよ吹く風で髪が揺れる様子は……なんだか不思議な感じがする。
「……心地イイです……」
目を閉じた彼は、本当に寛いでいるように見えた。
(……ん、顔色もかなり戻ったみたい)
不自然な白さがなくなっている。
(あ、この子もまつ毛長い。……さすが乙女ゲームの世界よねぇ。モブだろうがなんだろうが、みんな見た目がイイわ)
美形がインフレを起こして感覚麻痺する。これだけ美形揃いだと、個性出すのも大変だよねぇ……なんて、ズレた感想が頭に浮かぶ。でも、人類総じて「鑑賞に耐えうる」外見とか……。それなのにきっとその中でも容姿いじりはあるのかもなぁ、なんて考えると……結局、「人間てヤツはさぁ」という袋小路にハマり込む。
(……うん。やっぱり希望の全ては肝っ玉母ちゃんにかかってるわ。世の中に肝っ玉母ちゃんが増えれば、もっと世界は良くなると思うのよねっ)
前世の記憶に、「家庭は最小規模の社会」という概念があった。「大きな葛籠より小さな葛籠」って話もあった気がするし……つまり! 家族がうまくいけば、世界がうまくいく。家庭を守る女主人が仲良し家族を築ければ、きっと、カウスくんの世界もシャウラちゃんの世界も笑顔いっぱい──!!
(お母ちゃんの責任は重大ね。頑張らなくちゃ)
そのためにも、帰る前にしっかり第2王子をリサーチしよう。
「そろそろ自分の控え室に戻れそう?」
「…………ぇ」
うっとりと目を瞑っていた少年は、ウトウトしていたのかもしれない。びっくりしたように目を開けて、じぃっとわたしを見つめた。
それから、あからさまに悲しそうな表情で、
「…………はぃ」
と応える。
(はぅっ!)
ちょっと待ってちょっと待ってちょっと待って。何その縋るような捨て子猫の目!
うちの継子達があまり表情豊かなタイプじゃないせいか、こういうド直球な反応をされると弱い。母性本能にキュンキュン来る。
(めっっっっっちゃ可愛いんですけどっ!!)
「まだツラいなら無理しなくてもイイのよ? あのね、子どもが遠慮なんてするものじゃないの。甘えてイイのよ。特に、わたしみたいなお節介焼きは、頼られると喜ぶんだから」
誰にでも気を許すのはよろしくないが、敢えて言わずともこの子なら大丈夫だろう。ちょっと茶化しつつそう言えば、彼ははにかんだように小さく笑った。うん、ラブリー。
「……じゃあ……あの、少しだけ、横になってもイイですか……?」
「もちろんどうぞ」
(……ってそこかーいっ!)
オズオズと姿勢を崩した少年の頭が、ころりと膝の上に乗る。つまり……予想外の、膝枕。
なかなか大胆な少年に驚くが、野良猫が懐くって、まさにこういう状況なのかもしれない。そう思うとやけにほっこり。ヒトの厚意には甘えろと言った手前、無下にもできないし……。
わたしは大人しく、膝の上でサラリと揺れる金色にパタパタと風を送り続けた。
「……あなたは……」
「なぁに?」
どのくらい経っただろう。いい加減腕が疲れた。もうイイかな、と内心で音を上げかけていたところに声をかけられ、これ幸い、ピタリと仰ぐ手を止める。
「あなたは……変わったヒトですね……」
んん? ……言うに事欠いてそれ? そう思わなくもないが、まぁ確かに、夜会の参加者の行動として模範的とは言い難い。そもそも、「ぐふぐふ笑いを聞かれてたかもしれない疑惑」だって拭えていないし。
(確かに……うーん……変人? ……かも、しれない…………ぅぐっ)
おかしい。肝っ玉母ちゃんを目指したら変人になった。
なんだそれ……ダメージが大き過ぎる。マイナスしかない。
「だって……見ず知らずの相手に親切にしたところで……見返りはないでしょう?」
「……あ、あぁ。そういうことね……? 別に見返りなんていらないもの」
心底不思議そうな彼の声に納得した。こちらを見上げる瞳にも、純粋な疑問が浮かんで見える。
足の引っ張り合い、恩の売り合いこそが宮廷の常。カウスくんが以前言っていた。腹の探り合いの得手不得手はそのまま立身出世に影響する、と。
「全部わたくしの自己満足。あなたが気にする必要はないわ」
「そんなことは……ないでしょう……? あなたも貴族なのですから」
「うーん……どう言えば伝わるかしら。例えば……嫁ぎ先を探しているご令嬢なら、これを機に縁を繋ごうとするかもしれないわね」
これは女性に限った話ではなく、他家との繋がりを得たいと思っている老若男女に通ずる考え方だ。ただ、夜会はどうしても若い男女の顔合わせの場という印象が強いから、例としてわかりやすいだろうと思った。少年も、早ければ婚約者を見つける年頃だ。
「娘を持つ母でも同じでしょうし……息子だとしても、あなたの家族や親戚との縁を探すかもしれないわ」
貴族位を持つ者は多い。到底全員の顔と名前を覚えるなんて無理だ。親族か仕事で縁のあるヒト、または姻族の一部……大抵、そのくらいしか繋がりはないし、分家の人間ともなれば尚更人脈は限られる。
わたしみたいに結婚したことで王城の夜会への参加資格を得た者も居れば、その逆も居るし……とにかく貴族社会は複雑怪奇な伏魔殿。
「わたくしはね、そういった縁は求めていないの」
「え……?」
少年が大きな瞳を瞬いた。
カウスくんとシャウラちゃんに良縁は欲しいと思っている。でも、まだ本格的に考えているわけではないのだ。
彼らの人生が大きく動くのはゲームが始まってから。わたしはその時までに状況の改善をしておきたい。
たぶん、ゲーム開始自体は避けられないことだろう。ウチの義子たちはきっと、ヒロインに逢う。関わらずに生きるのは難しい。
ただ、その時に二人が幸せへの道を選べるように、たくさんの可能性を提示しておきたいのだ。カウスくんもシャウラちゃんも、愛情たっぷりに育てれば、人間不信に陥ったり他人を妬んで意地悪したりするヒトにはならないはず。
現在形でカウスくんをお見合い状態で放置した張本人が何を言うか……という感じではあるけれど、本心を言ってしまえば夜会でのカップル成立は彼に限っては有り得ない。カウスくん、慎重派だし堅実派だし。一目惚れから最も遠い人種だと思っている。
(むしろ今のままじゃ婚約者ができる想像すらできないもの。場馴れヒト慣れさせておかないと幸せが形になって目の前に現れたって、そうと気づけないわ)
「では……あなたは…………?」
「ツィーナ、居ますか?」
「え? カウスくん? なんで? あの女の子は?」
少年が何かを言いかけたとき、バタリとドアが開いた。顔が見えるより先に、カウスくんの声が飛んでくる。
「あぁ良かった……また何かやらかしているのではないかと…………っ!? 何者だ!!」
眉間にシワを刻んだカウスくんがツカツカと歩み寄り……わたしの膝の上に気付くや否や、すごい勢いでわたしの腕をグイイッと引いた。
「え、ちょ……っ」
いくら体格差があるとはいえ、突然軽々とソファーから引っこ抜かれるとびっくりする。
「ぅぐ……」
ゴロリとソファーから転げ落ちた少年は、膝を打ったのか、痛そうだ。半端にかけていた毛布がバサリとまとわりついて、アヤシイお化けみたいになっている。
「これだから目が離せないんですよ!!」
「ちょ、カウスくんっ? お、おちっ、落ち着いて!?」
激おこモードのカウスくんにブンブンと振り回され、説明する余裕がない。わたしを背中に庇って携帯用の捕縛魔術具を手に持ったカウスくんが、体勢を崩したままの少年にバッと襲いかかった。
力任せに毛布を引っ張れば、絡まっていた少年が「いたっ」と悲鳴をあげつつ転がり出る。
「!? リーベルト殿下!?」
「……ひどいです」
(ん?)
のっそりと立ち上がった少年が恨みがましい目でカウスくんを見て、
「久しぶりですね、カウス・アケルナー」
にこりと笑う。
(んんん?)
わたしの目には、彼が一瞬で仮面を身につける様子が映った。貴族らしい隙のない笑顔だ。
「……不敬を承知でお尋ねしますが、なぜ、リーベルト殿下がここに?」
「それはもちろん、彼女が入れてくれたからです。わたしにこの部屋は開けられないと知っているでしょう?」
「…………ツィーナ?」
相手から目を離さないようにしたまま、チラリと睨む氷の目が恐ろしく冷たい。予想より遥かに怖い。これはマズい。
(ひぃいっどうしよう!? でも……リーベルト殿下って、目的の第2王子よね。なんで……こんな子どもなの? ……え……?)
身元は追及しない約束だったのに、カウスくんからあっさりと答えがもたらされてしまった。
攻略対象者と接触するという目的が達成されたのは嬉しいけれど、これでは彼との約束を破ってしまう。それって、大人としてどうなんだろうか。
(さっきまで捨て猫みたいな顔してたのにこの笑顔……。やっぱ、弱味を見せたくないんだよね?)
うん、決めた。わたしは何も知らない、聞いてない。
本当なら、王子だと知った時点で礼儀を持って接するべきだと思う、けれど。
「カウスくん、具合の悪い子どもにその態度はどうなの? 大人気ないと思わない?」
わたしは彼を、あくまで「どこかの貴族の子」として扱おう。
「は? ツィーナこそ殿下に……」
「どこの子かは知らないわ。聞かない約束をしたもの。途中で困っているところを見つけたから少し休んで行くように誘ったのよ。だから、ね? カウスくんも目を瞑って。彼には休憩が必要なの」
「しかし……」
「ね、あなたも。お互いこれ以上周りに心配をかけたくないものね? このことは誰にも秘密よ?」
王子の失態など、まさにスキャンダルだ。互いにこのことは忘れた方がイイ。
「ね、わかったでしょう、カウスくん。全部わたしの責任なの。すぐに戻るつもりだったのに、心配かけてごめんなさい!」
まだ片手に毛布を握りしめたままのカウスくんに、必死の想いで縋り付く。
いくらわたしが頑固に粘ったところで、カウスくんを丸め込めなければ失敗だ。引きこもりのわたしと違って、彼は出仕する身なのだから。
いつもより眉間のシワが深い。けれど、探るような水色の目は、きっと、もう一押し。
「ね、あなたからもお願いして! お互い、今日のことはここだけの秘密にしましょう、って」
少年をじいぃっと見つめれば、一瞬笑顔を曇らせたあと、
「今日のところは仕方ないです」
一つ小さく頷いた。そして、カウスくんに向かって、
「どこのどなたか存じませんが、そういうことでお願いします」
輝く余所行き仮面でそう告げた。
「……」
ぐっ、と詰まったカウスくんを二人で見つめる。
なんとなく……子猫を拾った子どもと親のような……。立場逆じゃない!? と思わなくもないけれど……。仕方ない、だってカウスくんにかかってる。しかもカウスくん、若いのに頭堅いから。
「…………次はありません。今回だけ、特別に目を瞑りましょう」
無言の攻防のあと、ついに「ハアァァ」と重いため息をついてカウスくんが折れた。疲れきったサラリーマンのようにこめかみを揉み、
「ということで、どこのどなたか存じませんが、お引き取り願いましょう。ご自分の居るべき場所にお戻りください。あまり長居されると、どこのどなたか思い出してしまうかもしれませんから」
同じく余所行きの顔でそう告げる。
カウスくんの余所行き笑顔って、スチル的には最高だけど、普段を知ってるわたしからするとゾワリとする。黒くて怖い。
「融通の利かない方ですね。せっかくですから恩人の彼女と少しお話ししてみたいのですが」
「止めておいた方が無難でしょう。何をきっかけにあなたの身元が判明するかわかりませんよ」
(……なんかこの子……印象違くない……?)
生きていくのに精一杯の、か弱い捨て猫のような子だと思っていた。なのに、カウスくんと堂々渡り合う姿は強かなボス猫を思わせる。
表向きは、知らない子。
でも、わたしはもう、彼が今日の目的の一人だと知ってしまった。確かに、綺麗な金髪と、紫の瞳はリーベルト殿下を連想させる。それでも、正直なところ、俄には信じ難い。
わたしの知るゲーム内のリーベルト殿下は、いかにもな好青年だ。長身ではないものの、平均よりは高めの身長に、爽やかな王子様スマイル。まさにスパダリ、非の打ち所のないパーフェクトヒューマンだった。
だけど、彼は……。
「随分と獰猛な番犬を飼っているようですね、レディ。今日のところは引きましょう。けれど、いずれそう遠くないうちに、このお礼ができればと思っています」
まず、小さい。
いくら今がゲーム開始前だとはいえ、こんなに小柄な彼が立派な青年になるのだろうか。確か、シャウラちゃんの五つ歳上……今、17歳だったはずだ。ここから3年くらいで急成長? え、これでわたしの2歳下?
そして、
(レディって。なんか……)
「身元不明同士でどう御礼するつもりなのでしょうね? あなたにできる何よりのことは心に秘めておくことです。我々もこの部屋を1歩出たら、全てを忘れます」
「またこうしてお会いできたら嬉しいです。もちろん、二人きりで。お茶を淹れる約束もお忘れなく」
キレイな青紫の瞳がパチンとウィンクを寄越す。違和感なく流れに挟んでくるあたり、手慣れている。アイドルか。
「早く出て行っていただけます? 彼女は慣れない夜会に疲れていますからね。本当に感謝しているのならば、部外者はさっさと去るべきです」
「ではレディ、別れのキスを……」
「おや、どこのどなたか存じませんが、帰り道をお忘れのようですね。衛兵か誰かを呼びましょう。あぁ、そこに緊急時用の魔術具が」
「気の利きすぎる番犬ですね。ハァ……仕方ありません。では、またいずれ」
(なんか…………チャラくない!?)
目が一切笑っていない冷たい冷たいカウスくんの笑顔を浴びながら言い合いできる胆力。それは素直に賞賛に値するし、二人ともよく口回るなぁと感心しきりだ。けど。
最後までわたしに愛想を振り撒いて出ていく少年の姿に目眩を覚えた。いくらこれが外面で、真実とは違うのだとは言ったって。
(リーベルト王子ってさ……明るくて爽やかで、唯一闇のない……純粋な王道恋愛コースじゃなかったっけ……?)
悪役令嬢に一目惚れされるイケメンで。
ヒロインは、初々しくも甘酸っぱい気持ちに振り回されて。キュンキュンしっぱなしの甘ぁい恋愛を楽しめる──。
大人の魅力全開でちょっと際どいケネス殿下コースとも、魅惑のクーデレヤンデレが楽しめるカウスくんコースとも違う、キラキラなリーベルト王子コース。…………の、はずなんだけど……?
(なんか違う! ……え、ここからの数年で一気に背が伸びて筋肉ついてさらに性格まで変わるわけ??? どれだけの修羅場よソレ!?)
パタリ。閉まった扉に唖然としたまま立ち尽くす。
「ツィーナ」
だから正気に戻るのが一瞬遅れた。
「……ん?」
「そこに座ってください。話があります」
「え、後でイイよ。だって……ほら、今から陛下のお言葉でしょう?」
「まだご臨席になっていません。心配不要です。座りなさい」
「……はぃ」
逃げを打つのに失敗したどころか、さらに気圧を急降下させてしまったかもしれない。すごすごと指し示されたソファーに腰を下ろせば、カウスくんは真向かいに陣取った。
「僕がなぜ怒っているかわかりますか」
「えー……っと……」
(子どもとはいえ知らないヒトを部屋に入れたこと。身元不明のままにするって勝手に決めたこと。あとは……ミュウミュウちゃんと二人きりにしたことも、かな……?)
どれを応えるのが無難なのだろう。これは本気で悩ましい。
「僕以外の人間と二人きりにならないと、約束しましたよね?」
(それか!! 確かにそれが根本だわ……! ……ん? そうか? いや、でも……)
口が裂けても言えないけれど、忘れてた。見事にすっぱり失念していた。
「……まさか、僕との約束を忘れていた、なんてことは──」
「っあるわけないじゃないっ!」
眼鏡の向こうの目が笑ってないパターンも怖いけど、室内の灯りがレンズに反射してそもそも目が見えないパターンは……めっっっちゃくちゃ怖いっ!!
間髪入れず否定して、わたしは必死に考える。
(捻りだせ理由! 今働かないでいつ働くのわたしの脳! 今よ今! ジャストナウでしょっ!!)
「……でも、体調の悪いヒトを無視するなんて、淑女としてあるまじきことよね!?」
火事場の馬鹿力は存在した。
やった! 偉いぞわたしの脳!! と勝利を確証した瞬間、
「ほぅ。……なぜ彼の体調不良に、顔見知りですらないツィーナが気付けたのでしょうねぇ?」
「うっ……」
ザックリと切り返される。
そうだった……。わたし、発端からして、やらかしていた。
(ぇ……どこから説明しよう……。ぐふぐふ? ……いや、そしたら絶対何考えてたのかまで言わされるよ……っ!?)
「ろ……廊下、静かだったから……」
「はい」
「音が良く聞こえるな、って……ほら、控え室に来る通路は音楽ないし……」
「そうですね」
「だから……なんか聞こえるなって気になって……」
「それで?」
「よく見たら……バ……隅っこの方、に、あの子が蹲ってて……」
「ほぉ? なぜ巡回の騎士を呼ばなかったのですか? 彼らはそういう時の対応も心得ています」
「でも……具合悪いの、あんまり知られたくなかったみたいだから……その……」
「まぁそうでしょうねぇ。高位であればあるほど弱みを晒すわけがない。当然の反応です、もちろん予想していましたよね?」
「えっと……」
(何この尋問!? プレッシャー半端ないんだけど! てかなんでわたし、尋問されてるの!? 人助けって悪いことか!?)
「だから……だから周りに気付かれないように連れて来れて休んでもらってました!!」
「……で?」
「え?」
(「で?」って何!? 今説明したよね!?)
最後は早口になりつつ「言い切った!」と思ったところに謎の追撃。理解がまったく追いつかない。
「ツィーナが僕との約束を破った理由にはなりません。体調不良者を発見して連れて来た、それのどこに、『二人きり』になる必要性があったのでしょうね? さあ、わかりやすくどうぞ? 聞きますよ?」
怖い。
なんか……部屋がひんやりと寒いんだけど。
カウスくんの魔法は水属性。これはもしや……空気中の水分の温度が変わってたり……?
いやぁ、公爵家のお血筋はわたしなんかと魔法のレベルが違うわ……とか感心してる場合じゃなく。寒いです大真面目に。これはもう、
(凍らされる!?)
本気で怖い。いろんな意味でガクガクブルブルが止まらない。
ここまできたらもはや、小手先の言い訳は火に油を……いや、氷に塩を足すようなものだろう。素直に謝り倒すのが一番な気がする。
「僕との約束は、ツィーナにとって所詮、その程度なんですね」
「違うよっ!」
ガタッ! 反射的に立ち上がった。
だって……そんな受け取り方、悲し過ぎる。
「でもあなたは結果として彼と二人きりでした」
結果論を言われてしまえば反論できない。それでも、
「カウスくんが大事じゃないわけないじゃない!」
「……よく知りもしない令嬢と僕を二人にさせて、自分は殿下と──」
「違うってば!!」
やっぱり根に持っていたか。まぁ、意図はバレバレなんだろうなぁとは思っていた。
「約束を破ったことは本当に悪かったと思ってる。ごめんなさい……!」
「では、また似たような場面に出会ったら? 今度こそ約束を守れますか?」
「それは……っ」
(だって具合悪い子どもをほっとけないよね!? カウスくんだってきっと助けるでしょ……?)
もう一度あの場面を繰り返しても、わたしには無視するのは難しい。だって、そもそも、
「……どうするのが正解なのかわからなくて……でも、放置したら後悔するし……」
さっきも思った。正解の行動は何なのか、と。
「わからない?」
「だって、お城じゃなくても夜会なんて初めてだし……従者だっていないから……」
「あぁ。そういう弊害もありましたね。…………ハァ」
転生してからこの方、わたしは本当に一人きりになったことなんて、数える程しかなかった。いつも誰かメイドちゃんがいたし、カウスくんなりエバさんなりが先回りして、あれこれ手配してくれていたから。
改めて考えてみれば、甘ったれてる。でも、それがこの世界の貴族のお嬢様の普通で、奥様の普通だった。
ここが王城じゃなくて、従者の付き添いが許されていたなら、わたしはきっと、彼を見つけても自分で動こうなんて思わなかった。ただ、メイドちゃんなり誰なりに命じて、彼の介抱をさせただろう。
(ははっ、よくそれで肝っ玉母ちゃんとか言えたもんだわ……。でも……だからこそ、憧れるのよね……)
一人っきりで歩いていたあの時、わたしは奥様というより「わたし」だった。もしかしたら、一人歩きが当然だった前世の記憶が強く出ていたのかもしれない。
「勉強不足……いえ、教育不足ですね」
深い深い溜息のあと、カウスくんが疲れきった表情で呟いて、座るようにと促してきた。曰く、行儀が悪い。
「ツィーナ、覚えていてください。今回の場合の正解は、『巡回の騎士を呼びに行く』です」
「え? だって知られたくないのに……」
「そんなこと騎士達も心得ています。当然、口外法度も職務の内ですよ。王城勤めの騎士達です、王家の名や騎士団の名誉を汚すような真似は絶対にしません」
「そうなんだ……」
目からウロコ。
言われてみれば確かに、王城に詰める騎士は私兵じゃない。平民あがりも少数居るらしいが、基本的にはみんな、貴族として育っている。規律での縛り以前に、みんな機微はわかっているのだ。
「体調不良を装った暴漢の可能性だって皆無ではありません。例えば、今回は当てはまりませんが……未婚の男女が二人きりで居れば、どういう目で見られるか、ツィーナも流石にわかりますよね?」
「かなり親密な恋人か……婚約者……」
「そうです。過去には、その状況から世間体を考慮した親により即座に婚姻を結ばされた男女が、実は相思相愛などではなく、拉致された女性と誘拐犯だったというケースもありました。逆に、男性が嵌められて結婚させられたパターンもあります」
既成事実さえあればどうとでもできる、そういうことなのだろう。「異性と二人きりイコール即結婚」という堅過ぎる貞操観念はさておき、わたしに慎重さが足りなかったのは事実だ。指摘されて、ようようわかった。
あの子は悪事を働くタイプじゃない。そう言いたいところだけれど、そんなことはカウスくんだってわかっているはず。要は、わたしの危機管理能力の問題なのだろう。
人助けが悪いのではなくて、人助けの仕方を学んで考えろ。そういう話だ。
「けれどそれはまだ良い方で。我々の祖父母世代では夜会の浮かれ気分の隙をついての暗殺も珍しくはなかったとか」
「暗殺……」
あるんだ、やっぱり……。ブルブルと底冷えするものを感じる。
「警備は万全といえど、完璧ではありません。だからこそ、些細なことでも騎士を呼ぶのが正しいのです」
訪れる全員が従者を連れていては、さすがの王城といえど人が増えすぎる。広さの問題ではなく、不審な人物を入れずに要人を「守る」という観点からの人数制限であり、それ故の、騎士達なのだ。
カウスくんは、必要ならば騎士が城の人員の手配もしてくれるのだと言う。
その説明に、
「そうなんだ……」
ようやくわたしは得心行った。
確かに、その視点で考えればわたしの行動は何から何まで失格だ。そりゃ怒られる。
「そっかぁ……バルコニーを覗いた時点で既に間違ってたのかぁ……」
いや、そもそも油断して、廊下でぐふぐふ笑っちゃったことが致命的だったのかも。あれさえなければ……
「バルコニー? ツィーナ? バルコニーに出たんですか? 一人で? それとも殿下と?」
「ひぅっ!?」
一人密かに反省していたはずが、口から零れていたらしい。収まったはずの圧が急にどどんと増して、どビクッと背筋が伸びた。
「ツィーナ」
「は、はいっ……!?」
「帰ったらお勉強です」
「は……ぃ……」
「それから、今日はもう、一切余計なことをしないように。僕から離れてもいけません」
「え……」
「わかりましたね?」
にこにこにこにこ。
(表情は笑ってるのに……! 怖過ぎるぅ……っ!)
「頬が引き攣っていますよ? そこから教育のし直しですか?」
「ひぃえ! あ、いえっ!」
噛んだ。普通にめちゃくちゃ恥ずかしい。
義息子にビビって噛む肝っ玉母ちゃんとか……有り得ない。情けないにも程がある。
(うぅ……泣きそう……。重ね重ね自分で自分にガッカリするわ……)
誰か……わたしに、まずは肝っ玉貴族婦人のなり方を教えてください……!!
肝っ玉母ちゃんへの道は、かなり険しい。