楽しいティータイム……だと思いましたが……。
「あら? 黄色だけ少ない気がするんだけど?」
お皿に盛られたお菓子を見て、首を傾げた。
料理長の手によって見事に焼き上げられた七色ボーロ。なのに、なぜか黄色の卵ボーロだけ、見るからに数が少ない。
「『残りの生地は厨房の味見用にします』との伝言でございます」
「え? うわ、嬉しいっ!」
運んで来てくれたメイドちゃんのその言葉に、わたしは満面の笑みを浮かべてお礼を伝える。
わたしの力作、カボチャの卵ボーロ。ケネス様とぽにぃちゃの突撃訪問に悔し涙を呑んだのは今日の昼間だ。……まぁ、それはそれで有意義だったからイイんだけど。
でも、初めて自分で成形したお菓子だったから、ちゃんと最後までやりたかったな、と思っていたのは紛れもない本心で。その他六色の生地とともに残りのカボチャ生地を料理長に託した時には、我が子を託す気分になった。料理長の方がキレイに作ってくれるんだけどさ……わたし頑張りたかったんだよ……的な。
きっと、わたしのその無念を察してくれたのだろう。明日、料理長には改めて御礼を言いに行かなくちゃ。
だってこれ、つまり、「黄色はわたしが作ったの!」って言えるようにしてくれたってことだよね。
「このまま、明日のティータイム用に保管しておいてよろしいでしょうか?」
いつも通りの確認に、ちょっと悩んで……
「カウスくんっ!」
お皿を持ったメイドちゃんを従えて、カウスくんの部屋の扉を叩くことにした。だってせっかくなら作りたてサクサクを食べて欲しい。
「入るよ〜」
返事を待つのももどかしく遠慮なく飛び込んだ。夜だけど卵ボーロなら軽いから、少しは摘んでくれるだろう。
「……どうかしましたか」
(って、そうだった……)
デスク越し、めちゃくちゃ機嫌の悪い声と表情に「あちゃー」と軽く天を仰ぐ。
温度差がすごい。そういえば、なんだかカウスくん、めちゃくちゃお怒りモードなんだった……。
カボチャボーロが嬉し過ぎて失念していた。
「今日はね、食後のティータイムを一緒にしたいなぁと思って」
どビクッと肩を揺らしたメイドちゃんからお皿を受け取り、先に部屋を下がらせる。ドアを開けるのに困るから付いて来てもらっただけで、無理に残ってもらう必要はない。
カウスくん、誤解されやすいタイプだから、未だに使用人にも怖がられちゃうんだよね。困ったものだ。
とはいえ、彼が今現在、おヘソを曲げているのは確かな事実で。
「こんな時間に、ですか……?」
「あー……あはは……ごめん。明日のお茶の時間まで待ちきれなくて。
あのね、今日はなんと、わたしが作ったお菓子もあるの。……まぁ、焼いてくれたのは料理長なんだけどね?」
「……ツィーナが? …………殿下達にもお出ししたんですか」
「ん? 出してないよ、最初は絶対カウスくんと食べるって決めてたし」
そもそも彼のためのお菓子作りだ。
「………………そうですか」
夕食前に帰宅したカウスくんはまず、タウンハウスの家令さんから1日の報告を受けて──食堂に現れた時には、般若のような目をしていた。いや、ホント。義母としてこんなこと言うのは如何なものかとは思うけれど……途方に暮れる勢いで怖かった。
でも、その荒みきった目のままで淡々とケネス様とぽにぃちゃのことを訊かれたから、「あぁ」と腑に落ちて。
なのに、「仲間外れにされた気分なのね?」と呟いた時の、カウスくんの「ふふ、ふふふ……ふは……ふはっ、ふはははっ」という無表情の笑い声には……さすがにお医者様を呼びかけた。
いくら忙しいからって……お義父様(仮)に会えなかったくらいで精神崩壊しかけるとか。さすがにストレスを溜め過ぎだ。
「焼きたてを冷まして届けてくれたから、わたしもまだ味見してないの。正真正銘の初お披露目よ」
いつもお茶をする、こぢんまりとした応接セットの机にお皿を置く。それから、備え付けの茶器でお茶を淹れた。
カーテンが閉まっているのが不思議な感じだ。そうだよね、夜なんだよね……と改めて思ったところで、
(うん。今日の不機嫌は今日のうちに)
と思い立った。夜分の電撃訪問も、そう考えれば悪くない。
この際だ。溜め込みやすいカウスくんの愚痴を、たっぷり吐き出させてあげよう。なんとなく、ちょっと話しただけだけど既に機嫌は上向いている感じがするし。
「ねぇ、そのソファー、もっと大きいのにしたら?」
まずは当たり障りのない話題から。
さり気ない雑談を仕掛ければ、優しいカウスくんはなんだかんだで返事をしてくれる。
(うふふ、わたしもワルよのぉ)
確信犯的な行動に、一人で内心、悦に入る。
「……イイんですよ。ボクとツィーナ以外に使うヒトはいないんですから」
(ふふっ、ほらね)
この調子で、いろいろ話してくれるとイイのだけれど。
「んー、まぁそうなんだけどねー……シャウラちゃんとかも来るかもしれないじゃない?」
各自の部屋に置かれた応接セットの出番は多くない。そもそも来客を自室に通すことはほとんどないし……家族か、よほど仲の良い知人くらいだ。
「彼女はお喋りを好む性格ではないでしょう?それに、女性と違ってボクは家具の流行に疎いですからね。このままで構いません」
「そう? でも狭いよー?」
「昼でも夜でも喋りながら寝てしまいかねないツィーナを1人で座らせる方が不安です。むしろちょうどイイと思いますよ」
「う゛ー……それ言われるとツラいわ」
はぁ、とため息をつきつつ振り返れば……ふっ、と笑うカウスくんが大人っぽく見えて、ドキリとした。
「……? なんですか?」
「え? あ、や、やっと笑ったなぁと思って。今日ずっと拗ねてるから。良かった」
「……拗ねてません。怒ってるんです」
「ほら、やっぱりいじけてる」
「なんですかそれ」
そっぽを向いた耳が赤い。思わず笑いが込み上げるが、ここでまたヘソを曲げられたら堪らないからグッと我慢。
湯気の立つストレートティーのカップを二つ、お盆に乗せるとそっと運んだ。なんだかんだ言いつつちゃんとソファーに移動してくれているカウスくんにやっぱり笑みを誘われて……その勢いのまま、隣の隙間に「えいっ」と飛び込む。
(まぁわたしも、このソファー嫌いじゃないんだけどね。ただ、未来の奥さんに悪いというか……んー……お母ちゃんだから別にイイのか?)
せめてもう一つイスがあれば違うのだろうが。
二人で座ると肩が触れるような小さなソファー。元々カウスくん1人で使っていたところに割り込んだのはわたしだから、強くは言えない。
温かな家族らしい距離感が何気に気に入っているのだけれど……貴族としては褒められた距離じゃないのは、知っている。とてもじゃないが他所様には見せられない。
「これね、料理長と考えた『七色ボーロ』なの。色によって味が違うはずなんだ」
「ツィーナが作ったのは……あ、黄色ですね?」
「そうだけど。なんで???」
「ほら、形が……」
「ぅあっ……カウスくん、目、良過ぎ」
わざわざ手のひらに乗せて持ち上げて見せてくれた、黄色と薄い青色の卵ボーロ。言われて見れば、料理長の作った方はふっくら丸くて、わたしのものはちょっとだけ平べったい。
「そんなにがっかりしなくても……初めてにしては良くできていますよ」
慰めるように言ったカウスくんが、わたしの唇に青のボーロを押し付けた。割れちゃうっ、と慌てて食いつけば、ホロリと解ける柔らかな甘み。
確か、青は花弁の粉末だった。味はノーマルとほぼ変わらないけれど、香りがイイ。バタフライピーとか、スミレの砂糖漬けなんかを思い出した。
「ん、おもしろい食感ですね。これは……カボチャですか?」
「あ、すごい! 大正解!」
「ツィーナは相変わらずおもしろいことを考えますね」
「じゃ、これはなーんだ」
緑の粒を摘んでカウスくんの口元に持って行く。パクリと食いつく姿が雛鳥のようで可愛らしい。
(んんんんっ! これ、楽しい……っ)
普段なら、こんな赤ん坊のようなことは絶対させてくれないのに。
今日はカウスくんから仕掛けて来たから、「いけるかな?」と試してみたら……案の定、大人しく食べてくれた。めっっっちゃ嬉しい。すんごく可愛い。
また少し、家族としての距離が近づいた気がする。
「……お茶の葉……いや、野菜……?」
「お、なかなかイイ線行きますねぇ。じゃあ……さっきのと、これ、どっちかがハーブティーで、どっちかが葉野菜です。さぁ、ど〜っちだ」
新しく手に持ったのは紫色の卵ボーロ。
そっと薄い唇に近づければまた、パクリと口が開いて啄む。うん、ラブリー。
「ふふっ」
「楽しそうですねツィーナ」
「だって唇くすぐったいし」
「それは失礼。……ん、わかりました。今のが野菜ですね。アケルナー特産の紫キャベツでしょう?」
「すごっ! 大正解!!」
「わかりますよ、この間嫌と言う程見て来たばかりですから。
この赤いのは?」
「んぐっ……ちょ、わたひひってるから……っんっ……おいしいけど」
「あはは、確かになかなか楽しいですね。何の味でした?」
「赤は苺〜」
お茶を飲みつつ、サクサクと食べさせあって遊ぶ。この、中身当てクイズみたいな他愛ない会話も楽しい。
「ん……んく……なんか、わたしばっかり食べてるような……」
「そうですか?」
「ん。……じゃあ、はい、今度はカウスくんも青食べてみて?」
「……ん。……うん、美味しいです」
「でも青の元は謎でしょ〜?」
「青の食べ物なんてありました? 魚の皮?」
「皮!? ……あはは、それはちょっと! 皮って!」
これでカウスくんのストレスも少し和らぐとイイな。……うん。少なくとも眉間の皺はなくなった。怒っていた理由がわからなくて、謝るのも変だよなぁと思っていたから、助かった。卵ボーロ様々……作って良かった!
「ね、これ、領地の特産品にすれば売れるかもね?」
「ふふ、同じことを考えていました。以前ツィーナが考案したフォーチュンクッキーは今年もかなりの売れ行きでしたよ」
シャウラちゃんとわたしがケネス様の離宮を訪れた日、カウスくんは領地にその年の収穫や収入、支出なんかの決算の確認に行っていた。
アケルナー領では毎年、領主代理であるカウスくんがあれこれ確認してOKを出すと漸く、収穫祭が始まるのだ。お祭り準備の傍ら、あちこちの村長達や各事業担当の役人さんが資料一式を持って集まるから、カウスくんも日程がズラせなくて……うん、あの時のおヘソの曲がりっぷりもすごかったな……。
「フォーチュンクッキーかぁ。そろそろ新しいタイプのも作りたいよねぇ」
この世界にもフォーチュンクッキーはあった。けれど、中に入った紙に書かれているのは偉人の名言。大事なことだと思うし、教養の程度が如実に露呈するから、貴族社会ではわりと見かける。
ただ、正直、つまらないんだよね。
それもあって、アケルナー領の特産品、つまり銘菓として売り出したのは、庶民向けのカードを入れたものだった。
字の読めない平民でも楽しめるように、「今日のラッキーアイテム」という売り文句で、イラストを描いた紙をペラリと挟む。種類は、スプーンなんかの生活小物から野菜、ただの色カードまで。味は1種類しかないけれど、頻繁に買っても占いがかぶらないように、カードの種類はかなり多めに設定した。
「あ、確か、アケルナーにも陶磁器作りの盛んな街があったよね?」
「有りますけど……あそこは職人気質というか、やけに細かいことにこだわる職人が多くて、買い手がつきにくいんですよね」
「じゃあ、小さな磁器人形とかは作れないかなぁ?」
「いえ、むしろ得意だとは思いますが……何を企んでるんですか?」
「うふふ〜フォーチュンクッキーにカードじゃなくて小さな磁器人形とかを入れるの〜」
前世で見たカラカラ煎餅に、ガレット・デ・ロワを合わせたイメージだ。
「そっちは中身の種類はそんなにたくさん要らないわ。むしろ、幾つか買ったらかぶりが出るようになる方がイイ。その方が、コレクター魂を刺激するからねっ」
「……コレクター魂が何かはわかりませんが、試してみるのは有りですね。磁器人形の打ち合わせはボクがやっても?」
「行けるなら行きたいかなぁ。でもこれからシャウラちゃんのお茶会をガンガン入れていかなきゃならないし……難しいかもねぇ」
「わかりました。では、先にアイディアを出しておいてください。見本ができたら見せますよ。ボクもしばらくは向こうに戻れそうにないので、アルギ達に主導させましょう。このボーロとやらはどうします?」
「うーん……商工会長さんに相談かなぁ。こうやって色を混ぜて売るのもイイけど、これ、実はわりと簡単なのよ。お店ごと一色ずつにして、それぞれの特色出すとか……? 将来的なことも考えると、やっぱり相談しておきたいかも」
「そうですねぇ。では今度王都に出てきた時に寄るように伝えておきます」
「うん、ありがとう。前から思ってたけど、カウスくんはイイ領主になるね」
堅物に見られがちな彼はその実、柔軟だ。これまでも、勢いだけのわたしの思いつきを実現させて、領地のために活かしてくれた。その度にわたしは、本当の天才とはカウスくんみたいなヒトを言うのだと実感する。
「ツィーナはよくそう言いますね。けれど、ツィーナのアイディアあってこそですよ。
ところで、その苺味、ボクも食べてみたいです」
ん? と思ったのは一瞬。軽く開いた唇に、「食べさせて」ということなのだと理解する。パチリと合った眼鏡越しの水色の目が細まって……なんか今日のカウスくん、大人っぽくない!? なんか……なんか、なんかなんか!!
(ケネス様みたい……!)
いつの間にカウスくんは色気とやらを身につけたのか。
わたしにはまだないのに羨ましい。……いや、別に恋愛とかする気ないから、無用の長物なんだけどね? でも同い年だと思うと……。……うん、カウスくんにはこれからガンガン可愛い子にモテまくって、婚約者決めて、幸せな人生を送って貰わなきゃならないんだから、これでイイんだよ。
まさか、こんな方向から我が子の成長を感じることになるとは思わなかったけど……そうだよね、攻略対象キャラなんだから、色気が出て来て当然だよね……。さすが、わたしの前世の最推し。
(……ダメだ。最推しとか意識したら何だかやけに……っ)
やけにキラキラして見える。背景から浮き出るレベルで。
……いや、カウスくんはいつだってイケメンだから。知的美人なのに可愛いって……ハァ、キュンキュンする。……ん、でも、我が子にメロメロなのはどこの親も一緒だよね? まぁ……うちの親は違ったけど、血肉の通った親なら普通だよね? 親バカと言われようが構わない。思いっきり我が子を可愛がって何が悪い。可愛いは正義。可愛い義息子を愛でたいと思うのは当然の親の主張だろう。
(ハァ、尊い)
とはいえ、平常心も大切だ。力み過ぎてボーロが割れたりしたらカッコ悪いことこの上無し。
こっそり心を落ち着かせてピンクに近い赤のボーロを優しく摘んだ。
「苺ね、はい。……あーん」
近づければパカっと開く唇が……
「ひゃ!?」
パカッと開いて、そのまま指ごと食べに来た。
ボーロを摘んだ指先が、温かく湿った口腔に含まれてぬるりぬるりと──
「うっっっっきゃあ!?」
(なななな、な、なななっ)
引き抜いた。
すごい勢いで引き抜いた指に、形のイイ唇がチュパッと音を立てる。
ちょ……何事!?
(なんでこんなに甘えん坊モード!? ちょ、これ、本物のカウスくん!? え、ご乱心!?)
「な……なん…………っ!!」
「うん、美味しい」
ペロリと唇についた粉を舐める赤い舌がやけに目につく。
こっちは左手で右手を抱えてオタオタしてるっていうのにさ!
(なんでそこでそんな笑顔!? むちゃくちゃ嬉しそうなんだけど!? ちょ……なんか恥ずかしい……っ!)
「ふ……ツィーナの顔も苺みたい……。真っ赤ですよ?」
「うぁあああっ、言わないで! 見ないで! なんかわかんないけどごめんなさいっ!!」
「白い肌が上気して……あぁ、耳も首も真っ赤ですね。どうしたんですか? ボクは美味しくボーロをいただいただけですよ」
「うん、ホントごめんなさいっ! なんか……なんか変! わたし変! ごめんなさいっ!」
だって、指! 食べられるとか思わないし! そりゃ真っ赤にもなるでしょうよ!? なんでそんなに落ち着いてるの!?
(深呼吸! 深呼吸深呼吸深呼吸! ちょっとびっくりしただけだから! ほら、赤ちゃんが何でも口に入れたり、わんちゃんが飼い主を舐めるのと一緒だから! むしろそんなのに動揺してる方が恥ずかしい! 深呼吸〜深呼吸〜深呼吸〜……お母ちゃんはこの程度じゃ動じない〜、強心臓強メンタル強内臓〜っ)
「ふふ……ツィーナも美味しく食べてあげましょうか?」
(う……っぎゃあああああっ! 誰これ誰これ誰これ!?)
クスリ、と下から覗き込んでくる甘い微笑み。ほんのりと眇められた瞳から目が離せない。
「……いい加減ボクも悟りました。傍に居るだけでは……見ているだけでは、ツィーナは守れない。本当に……シャウラの言う通りだ。なんだってこうホイホイとムシを寄せてしまうのか……。ハァ…………いっそ、一度枯らしてしまいましょうか……?」
「ちょ、ねぇカウスくん!? なんかお疲れ過ぎなんじゃない!? 疲れ過ぎて人格崩壊の危機なんじゃないっ!?」
頭の片隅の冷静な部分が「おまえもな?」と人格崩壊の危機を指摘して来るけれど、取り合っている場合じゃない。とにかく今はカウスくんだ。
「ねぇツィーナ。ボクの目の届くところに居てくださいね。どこにも行かないで? でないとボクは……」
「うん行かない! どこも行かない! カウスくんと一緒にいるから!」
(なんか急に可愛いし! 子犬か! でも瞳孔開いてない!? なんでこんなに精神不安定なの、ストレスが脳に回ってる!?)
本日瞳孔開き日和……なのだろうか。
ケネス様とぽにぃちゃに続いてカウスくんで三人目だ。あれかな、気圧のせいとかかな。台風とか、発生しちゃった!?
「ツィーナ……ずっと……ずっと一緒に居てくれるんですよね?」
「え? それはもちろ……」
「ツィーナとボクはかけがえの無い家族なんでしょう?」
食い気味なうえに、真剣過ぎる響き。本当に、何が起こっているのやら──。
「そうね。……どうしたの? なんかさっきから変だよ? 具合悪い?」
恥ずかしいのに心配で、聞きたいのに聞きたくない。驚き過ぎて、頭の中がぐちゃぐちゃだ。わたしの処理速度じゃついていけない。
若奥様として培ってきた仮面も、肝っ玉母ちゃんになるために作り上げている自分も、全部が崩されて、更地に取り残されてしまったかのような──片隅に湧いた、強い不安。
「ツィーナ……」
そっと伸ばされた手が、わたしの頬をそっと撫でた。カウスくんの長い指が、静かに、壊れ物を扱うかのように優しく撫でて……そのまま、頬を包み込む。
逃げ場なんてない狭いソファー。そもそも相手は可愛い義息子だ、逃げるなんて選択肢ははじめから、ない。
「ツィーナが好きです」
「……えっと……? わたしもカウスくん、好きだよ……?」
「誤魔化さないでください。ツィーナ、目を逸らさないで」
(だって……無理……っ)
わたしを見つめるカウスくんの視線が甘い。
いつだって、カウスくんは優しくて温かい目をしているけど……それとは違う。
(なんのスチルが降臨してるの!?)
まるで、恋しい相手を見るかのような。
氷のようだと評される水色の瞳に浮かぶ、甘やかな光。切なさを秘めた、熱い瞳。
「このまま……本当に食べてしまいたい……」
クラクラした。だってこんなの──
「…………母親揶揄って楽しい?」
出た声は、思った以上に低かった。
だって、こんなの、冗談にしては酷過ぎる。
「カウスくんもわたしのこと、大事な家族だと思ってくれてるんだって思ってた……」
「……ツィーナ?」
思わず伏せてしまった視線を合わせるように、カウスくんの手が少し下がって、ツ……とわたしの顎の角度を変えた。
彼は……わたしを誘惑して、いったい何をしたいのだろうか。わからな過ぎて頭に来る。新手の遊び? それとも何かの罰ゲーム?
「わたしがカウスくんを大切に思うように……カウスくんだって少しはわたしのこと、大切にしてくれてるって思ってたのに……」
(ヤバい……泣きそう)
彼の眼鏡に薄く映る自分の顔にがっかりする。こんな情けない顔をして、よく「肝っ玉母ちゃんになる」なんて言えたものだ。
怒っているようで、傷ついたようで、今にも泣き出しそうな、弱虫の表情。わたしの……生まれ持った「素」の顔だった。
「大切に思っています。ツィーナだけが……」
「だったら! なんでそんな揶揄い方するの!? わたしはカウスくんのお義母さんなのに……っ!!」
義母として彼を幸せにしたい。
義母として家族を大切にしたい。
義母としてずっとこの縁を持ち続けたい。
唯一無二の、母親として──。
喧嘩したって、道が分かたれたって、本当の家族ならまた、元に戻れるはずなのだ。友人や恋人やガワだけの家族じゃなく、わたしが、本物のお母ちゃんになれれば…………。
「揶揄ってなんていません。ボクは」
困惑したように揺れていたカウスくんの顔から、表情が抜け落ちた。
「ボクは……ツィーナを母だと思ったことはありません」
「っ……」
目の前が真っ白になった。
鈍器で頭を殴られたかのような衝撃。
「ツィーナはツィーナです。母親じゃ、ない」
「う、そ…………」
すべてわたしの独り相撲だったのだろうか。
ずっと彼は呆れていたのだろうか。
バカみたいにはしゃぐわたしを……おままごとに興じる子どもを見るかのように……?
呆れながらも、父の妻だからと諦めて……?
愚かな子どもだなぁ、寂しいんだろうなぁ、と同情して……?
確かに、カウスくんは昔、「母は実母一人です」と言っていた。
でもそれは…………彼だって、わたしを家族と認めてくれたはずだったのに……。
堪えていた涙がポロリと零れ落ちてカウスくんの手を濡らす。
「ツィーナが好きです。大切です。でも、母親だと思ったことは一度もありません」
傷口を抉るかのような言葉に息が詰まる。
良い母親になろうと努力した。明後日の方向に突っ走ることもあったけれど、わたしなりに、我が子を思って。
でも全部。わたしの、押し付けだったということ──。
カウスくんは嘘をついていない。それはわかった。
真摯な態度が……真っ直ぐな瞳が……緊張のあまり抜け落ちた表情が……。ずっと見てきたからわかる。彼は本心から言っている、と。
「ぁ……あは、あはは……ごめん、わたし、一人で母親ぶって……迷惑かけて…………っ」
もうダメだった。
それだけ謝るので、精一杯。
これ以上カウスくんの顔を見ていたら、酷いことを言ってしまいそうだった。
彼は真摯に言ってくれた。長年の、言えなかった本心を。わたしが落ち込むだろうとわかっていたから、優しいカウスくんは事前にフォローしてくれていたのだろう。
人格崩壊を疑うレベルで甘かったのは、全て、布石──。そう思えば、彼の優しさを思えば、納得できる。
わたしが今日もまた、一人で空回りしていただけ。
それでわたしが傷付くのは筋違いだし、裏切られたなんて思うのは身勝手だ。
「ごめん……戻るね……」
「ツィーナ! 聞いてください、ボクはあなたが好きなんです!」
「……ん……ありがと…………」
カウスくんは優しい。
母親としての価値のないわたしが、これ以上落ち込まないように「そのままでイイ」と……慰めてくれている。「嫌いじゃない」と。
なのにわたしは……あんなにフォローしてもらったのに。なんでこんなに自分勝手で心が弱いのか……嫌になる。
カウスくんの気持ちは嬉しいけれど、素直に聞く余裕がなかった。優しさが、ツラい。自分のバカさが浮き彫られる。
母親だとは思えないけれど、家族としては嫌いじゃない。
家族だと思っているけど、母親だとは思えない。
(じゃあ……わたしは何なの…………?)
ペット、だろうか……?
混乱し過ぎて、モノがまともに考えられない。ひどく疲れた気分だった。
優しい優しいカウスくん。
彼の本心が聞けたことは、良かったと思う。これからはもう、振り回さずに済むのだから。
今だって一生懸命フォローしてくれている彼が……真摯なカウスくんが、意を決して話してくれたのに……。せめて彼に、話したことを後悔させないようにしなくてはならない。
お母ちゃんに成れなくても、今だけは肝を据えて……。
「おやすみなさい、カウスくん。……イイ夢を……」
「ツィーナ!」
「また……明日、ね」
明日──?
これからわたしは、彼にどう接していけばイイのだろう。母親ではない家族として……。
(どうしたら──)
引き留めようとするカウスくんを弱々しく振り払って部屋を出る。彼は優しいから……無理に引き留めたりしない、そうわかっていた。
時間が欲しい。
これからの自分を考えるための。今までの足場を……崩れてしまった全てを見直すための。
(結局わたしは……いつだってこうだ。思い込みが激しくて……いつだってそれで失敗する)
ははは……。
乾いた笑いが零れ落ちて、暗い廊下に木霊する。
バカみたい。
バカみたい、バカみたい、バカみたい──。
重たい足を引き摺って戻った自分の部屋。そのままベッドにダイブした。
「お戻りですか? ご入浴はいかがいたしましょう」
部屋付きのメイドさんの一人が明るく声をかけて来る。いつもなら癒されるその明るさも、
「イイ……。一人にしてくれる……?」
今だけは、ツラい。
「ごめんね……」
照明を控えめに落とし、静かに部屋を辞す彼女達の背中に呟いた。
このまま、消えてなくなってしまいたい。
無価値な自分。くだらない暴走癖──。
『ツィーナを母だと思ったことはありません』
耳の奥、ガンガンとカウスくんの声が響いている。グルグルと渦を巻いて……
(……ただの女の子じゃダメなんだよ。それじゃあ、カウスくんもシャウラちゃんも幸せにできない。わたしだって……生きていく価値がない……)
どうしたらイイのだろうか。
「ああもぅっ!! ……う……うぅ……うぁあああ……っ」
空気と一緒に漏れた声が、そのまま嗚咽に変わって飛び出した。
今夜は──どうやっても、眠れそうにない。
すべてわたしの、自業自得で。




