第58話 「俺は、円花が欲しくてたまらないんだ」
円花に対して、俺は、高く険しい壁を築き上げていた。壁があったことで、俺が間違った道をたどることはなかった。
その壁には、すこし前からひびが入っていた。ひびの箇所は日を追うごとに増えていった。
やがて壁は不安定となり、その一部が、ついさきほど崩壊した……。
「なあ、円花……」
「うん?」
「俺、一緒に乗ってもいいのかな。円花と俺のふたりきりで乗る列車に」
つまりは、円花の提案した条件を飲もうということだ。
結婚。
別にいいじゃないか。義妹だからって、血が繋がっているわけではないし、ヤンデレだって怖くない。むしろ可愛げと若さがあっていい。
「ようやく……ようやく、ゆーくんも決断してくれたんですね」
「ごめん、ずっと待たせてた」
「いいよ、ゆーくん。覚悟ができているなら、それだけで充分です。同じ列車に乗って、同じ景色を眺めながら年をとる。そういう未来を選ぼうとしてくれているのだと考えると、私、生きていてよかったなって思います」
目があう。円花の瞳には、これまでのような、深い闇をふくんでいなかった。
心ここにあらず。彼女の目には、俺と、考えうる明るい未来とがうつっているらしい。それは、敬虔な教徒のようであった。
「もう、血判した書類も効力を有さない。それと、特別デーも廃止でいい。おかしいよな、義妹の行動を制限する兄さんなんて。これまでがおかしかったんだ……」
「変わりましたね、ゆーくん!」
「ああ、それも素晴らしい変化だ」
これでいいんだ。ただ、高くそびえ立つ壁は、いまでも崩壊を続けているかのように思われてしまう。
「まあ、せっかく決断してもらったはいいんですけど、すぐ結婚はできませんね。あと数年して、一八歳にならないと」
「兄妹関係から結婚。そこまでひとっ飛びである必要はない。恋人同士の関係からスタートでいいんじゃないか?」
「たしかに……それじゃあ、恋人からはじめましょう!」
「喜んで」
ややぎこちなかったが、これが、二人の関係における大きな分岐点となるのは間違いないだろう。
「ふぅ……」
「お疲れですか?」
「決断には大きなエネルギーを要するものらしいな」
「ふつうに縛られて疲れているだけではありませんか?」
「そうかもしれないな」
円花は疲れをみせない。俺の体力が吸われているのではないだろうかとすら思えてくる。
呼吸を整え、気持ちを落ち着かせんとする。数秒間目をつむり、息をゆっくりと肺から出していく。
視界に入るのは、もちろん円花である。
あらためて、彼女のことを観察すると、その美しさに気づいた。やはり、自分のタイプのど真ん中をつらぬいていくような容姿を持ち合わせている。服は、円花のために作られたかのように思えるほど似合っている。
円花。
美の神に、そして世界に、愛されるべくして愛された、危険な棘をもつ薔薇。
「いまさら見惚れているんですか?」
「……すまない、あまりに美しいものだから」
「気障なセリフですね。ゆーくんにまるで似合いませんが」
「ひどい彼女だ」
「間違っていますよ、ゆーくん。いいところも悪いところも、全部ひっくるめて愛しているということなんですよ?」
鼓動が速まる。口の中に、大量の砂糖を注ぎ込まれたような感覚に陥る。
甘い、甘すぎる……。
壁をなくした途端、円花が可愛すぎる。俺の中の世界が変わっただけで、円花自身は変わっていないのだろう。
円花と会って間もない頃のような、純粋な心に戻っていた。
「円花、どうして円花は素晴らしいんだ? そして、どうして俺はそれに気づけなかったんだ……!」
頭を搔きむしる。本心とか本能とか下心とか、そんなものは全面に押し出されている。それは、円花のことを信頼してのことだ。彼女がいってくれたんだ。
たとえ悪いところでも好きだ、と。
「ゆーくんは後悔しなくていいんです」
「そんな人間でいいのか?」
「もちろんです。もっというなら、成長しなくてもいいんです。
将来、働く必要もありません。家事もなさらなくて結構です。勉強なんてしなくていいです。社会に貢献なんてしなくていいんです。
私がゆーくんに求めるのは、ゆーくんがゆーくんのままでいることなんです。お金ならあります。お金が苦労をとり除いてくれるんです。あとは、私とゆーくんが愛しあっていくだけの人生でいいんです。
実に魅力的だと思いませんか? 苦痛を感じなくていいんです。
私たちの列車は貸切であって満員電車じゃありません。それでいて、各駅停車であって急行ではないんです。
いつか、自然豊かな景勝地にログハウスを立てて、そこでふたりきりで過ごしたいと考えています。いつでも詳細を伝えられるように、スライドも作ってあります。
さきほどもいいましたが、ゆーくんは列車に乗っているだけ、つまり、生きているだけで一等賞です。国民栄誉賞でもノーベル賞でも、生きているだけでもらっていいと、私は本気で思っています」
本当に、生きているだけでいいのだろうか。
もちろん、円花と自由気ままに愛しあえる生活というのは、実に魅力的で、いますぐにも実行したいくらいである。
ただ、話をきく限り、俺は何もしない人間に仕立てあげられそうな予感がするのだ。
もし、俺が怠惰をむさぼって生きるだけの人間と化せば、堕落街道まっしぐらであろう。
いつか、円花も死ぬ。かりに先立たれれば、俺だけが残る。傲慢や強欲といった。多種多様な欲望だけをかき混ぜた、唾棄すべき化合物、それだけが残る。
末恐ろしい。が。それはおいおい調整すればよいことだろう。堕落せぬよう、確固たる意志をもっていれば、大丈夫。きっと大丈夫。そういうことにしておこう。
そんなことより、いまは愛を求めていた。三大欲求のエンジンがかかって、現在、俺はアクセルを踏んで急発進中である。
「いい計画だな」
「構想一か月の甲斐がありました」
一か月もかかってるのかい。それは一分近くも語りたくなるわ。
「ところで、円花」
「はい、どうしました?」
「ムードもへったくれもないことをいわせてもらう」
心を決める。
「俺は、円花が欲しくてたまらないんだ」
「……!」
円花に肉薄する。甘く透き通った香りが、鼻腔をくすぐった。




