file004:事件現場
「雨が降らなくて良かったよ」
シャーロックは雲の中に辛うじて青色が覗く空を見上げて言った。雨が降れば事件の痕跡が消えてしまうからだ。
事件現場は昨日の夜に見ているが、それは一部でしかないし、明るい状態なら見落としていたものが見つかるかもしれないからねと私に説明する。
「じゃあもし、夜中に雨が降っていたらどうするつもりだったんだい?」
好奇心から出た私の質問に、シャーロックは涼しい顔で答える。
「その時は昨日の内に現場を見に行っただろうね」
「いやいや、それは私が許さないよ」
シャーロックの見張り役である私が苦笑すると、彼はフフンと鼻を鳴らして目を細めた。
「君は人が良いからね、おっとこれは褒め言葉だよ。それに押しに弱そうだから、僕がどうしてもと言えばきっと頼みを聞いてくれたよ」
その答えに私は何も言えなくなった。どうやら私の性格は彼に見透かされているようである。
ワックスフラッター教授の研究室が入っている建物から大きめの道に出て左に曲がる。古びた石畳の道を歩きながらシャーロックは「それにね」と続けた。
「僕には雨が降らない事は分かっていんだ。雨の前には軽い頭痛になる質でね」
そう言って自分のこめかみを人差し指で示す。雨によって体の一部が痛む事象は私も聞いたことがある。
「雨天時の魔力干渉か。厄介だね」
そう返す私に彼は小さく呟いた。
「ふむ、体質すらも魔法が関係するのか」
「何か言ったかい?」
「いや、何でもないよ」
さて、私には一つ懸念があった。シャーロックが付けている動物用の首輪である。これは彼の居場所を離れた場所からでも確認できる道具であり、本人の同意も得ている(というか首に付けたのはシャーロット自身だ)が、一般人が見れば通報されかねない奇妙な格好である。
私は騒ぎになったらどう説明しようかと思案していたのだが、それについて問題は起こらなかった。
実の所、大学という場所は特殊な空間であり、奇妙な格好をしている者が一定数存在しているのだ。現に私も昨日、研究室に着くまでにニシキヘビを首に巻いた男や、雄鶏の作り物を被っている者を見かけた。だから首輪を付けた人間が彷徨いていても、それ程は気にされないのだ。
誤解されないように付け加えておくが、大半の学生は学外を歩いても問題のない格好である。
私が数人の通行人の反応を見てホッとしていると、シャーロックが声を掛けてきた。
「ジョン、一つ、君の知識を僕に示して欲しいのだが良いだろうか?」
その回りくどい言い方に私は文句を言う。
「普通に“教えてくれ”と言えよ」
「すまない。僕の悪い癖でね」
シャーロックは肩をすくめて謝ると言い直した。
「事件のあった建物について知りたいのだよ。あれはどのような目的の建物で、誰が管理しているだろう?」
「あれはハドスン教授の実験棟だよ」
あの建物の正式名称は「召喚研究科 第七実験棟」だが、愛称の「ハドスン実験棟」で親しまれている。
ハドスン教授は召喚研究科の教授で、魔法陣による精霊召喚が研究のメインテーマだ。同じ魔法陣で条件を変えて、召喚の成功率を高めたり、魔力を最小に抑える実験や、紙に書かれた簡易魔法陣による召喚などをしていた。
また精霊を呼び出した後の交渉においても一目置かれていて、精霊語にも精通していたと言われる。
「魔法陣そのものではなく触媒が重要だと考えていた人らしいよ」
私はそこまで話してから言い足した。
「だけど教授は私が学生の時には既に退職されていて、実験棟は大学の管理になっていたんだ」
実験で広い場所が必要な場合、事前に申請を出せば他の教授や学生が借りる事ができたのだと話すと、シャーロックは少し考え込んでいるようだった。
そんな話をしている内に、赤い煉瓦造りのドーム型の建物が見えてきた。所々に耐震工事がされているその建物が私たちの目的地であるハドスン実験棟である。しかし周りには学生たちがかなり集まっていた。
「ある程度は予想していたが、思った以上に情報が広がっているようだね」
周りの人だかりも凄いが、警察が規制線を張っているので中には入れそうにない。
どうにか警察に入れてもらえないかと様子を伺っている私を余所に、シャーロックの方は大勢の学生の中から一人を選んで突然に話し掛けた。
「これは一体何の騒ぎだい?」
シャーロックの態度は、まるで偶然通り掛かりましたと言わんばかりである。
「殺人事件さ!」
聞かれた学生は話したくて仕方が無かったらしく興奮しながら説明しだした。
「殺されたのは錬金術科のドレバーで、昨日の夜中に事件が起こったらしいよ」
学生は警察からドレバーの写真を見せられ、知ってる事を話したのだそうだ。
シャーロックはその後も、言葉巧みに情報を引き出したのだが、その時の顔は、いつもの人を怯ませる目つきではなく、好奇心旺盛な子供のようであった。後でその時の事を聞くと「僕は中々の演じ手なんだ」と意味ありげに笑った。
話を学生に戻そう。彼は精霊科の騒ぎの事も知っていた。
「ドレバーは俺たちのアイドル、精霊科のアリス嬢にちょっかいをかけたんだ」
「この前の騒ぎの事かい?」
スタンフォードから話を聞いただけなのに、その場に居たかようにシャーロックは聞き返す。
「そうさ!余りにしつこく付き纏うから、とうとうアリス嬢の兄であるアーサーが追い払ったんだけど、その時、ドレバーはアーサーにボッコボッコにされたのさ」
そんな話を幾つか聞くと、シャーロックは学生に礼を言ってその場を離れた。
「現場を見なくて良かったのかい?」
私は後ろ髪を引かれる思いで建物を振り返ったが、シャーロックは気にする様子も無かった。
「現場は保存されてるようだし、後はグレグスンから聞き出す事にするよ。彼は几帳面だから色々と書き留めているだろう。僕の知りたい情報を見逃していない事を祈るよ」
次に私は先程の話に出てきた人物ついて質問した。
「犯人はアーサーという学生だろうか?」
これもシャーロックは私の顔を見るまでも無く答える。
「アーサーが犯人なら事件は解決だが、まあ違うだろうね」
「何故だい?」
「学生の話ではアーサーはドレバーを殴ったと言っていたじゃないか?もしアーサーが犯人なら同じように殴った可能性が高い。しかしそれなら外傷が残るはずだが、僕が見た限り、そんな跡は無かったよ」
「外傷が残らないような殴り方をしたのかも?力を何倍にも高めた衝撃波とかで?」
シャーロックは「確かにね」と口では同意したが、アーサー犯人説は考えていないらしい。
「僕の経験からするとね、犯人の目的は“復讐”だよ」
シャーロックは昨日見た現場を頭の中に再現しているようだった。
「現場を見た印象では、犯人はドレバーが苦しむような殺し方を選んだんだ。アーサーには動機はあるが、妹に少し付き纏われた位で復讐するとは考えにくい。もしアーサーが犯人なら別の動機があるし、僕は他に犯人がいると睨んでいるよ」
シャーロックはまだ見ぬ犯人の顔を思い描いているようである。
「それでこれからどうする?戻るのかい?」
街路樹の下で足を止めた私が尋ねると、シャーロックは「とんでもない」と言って外出の続行を提案した。
「次は死体の第一発見者にして、私を救出した英雄、夜警をしていた警備員の所に行こうじゃないか!」