file002:推理の始まり
私たちとシャーロックの挨拶が終わってしばらくすると、長身で白皙、亜麻色の髪をした男が、部下と思われる警官一人と共に現れた。
男はスコットランドヤードの刑事でグレグスンと名乗り、シャーロックに幾つかの検査と質問をし、最後に旅行鞄の中身を検めると、それらをメモに書き留めてすぐに帰ってしまった。
一応、帰る前に、しばらくロンドンから出ない事と、事件に関して何か思い出したらすぐに連絡するようにと言って名刺を渡したが、その呆気なさにシャーロックは拍子抜けした。しかし表向きは素直に受け取り「分りました」と返事をして彼らを見送ったのだった。
警察が帰ると、私たちはワックスフラッター教授の研究室にシャーロックを連れて戻り、私とスタンフォードはシャーロックの扱いについて話し合った。しばらくはこの研究室に寝泊まりしてもらう事、二人で交代してシャーロックの側に付いている事などだ。
その一環として、気の進まぬ要望を伝えねばならず、私はシャーロックにある物を渡して、消極的に申し入れをした。
「申し訳ないんだが、これを腕に巻いてもらえないだろうか?」
「何だい?これは」
「居場所を探知する為の首輪だよ。君がどこに居るのかこちらで確認できるんだ。本来は野生動物用なんだが、急な事だから勘弁して欲しい」
シャーロックは渡された首輪をしげしげと眺め、フフッと鼻を鳴らすとそれを首に巻き始めた。
「おいおい何をしてるんだ!?腕だといったろう」
私の慌て具合が気に入ったのか、シャーロックは口元に笑みを浮かべて「いや、何」と返す。
「やはり首輪は首に巻くものだと思ってね。それにこの首輪は中々洒落たデザインだ」
そして完全に巻き終り、首輪の鍵を自身で掛けると鍵を放ってよこし、私を更に慌てさせるような発言をした。
「これで僕は君の犬という訳だね」
「何でそうなるんだ!?」
私は首輪を何とか外そうとしたが、シャーロックはヒラリと私の突進を交わしてしまうので、遂には諦め、私とスタンフォードは溜息を吐くしかなかった。
「かなり変わっているね」
「まったくだ」
「きっと君とは気が合うよ」
「どういう意味だ、スタンフォード?」
知らなかったが、どうやら私もかなりの変人だと思われていたようである。
さておき、スタンフォードは時計をチラリと見るとおずおずと申し出た。
「あのう…私はそろそろ帰って良いだろうか?」
「勿論だとも。朝まで私がしっかりシャーロックに付いているよ」
「すまない。ではまた明日」
そう言ってスタンフォードはやっと肩の荷が下りたという感じで帰り、それを見届けた私はシャーロックに向き直り、最後の確認をした。
「分かってると思うけど、この部屋にも施錠の魔法を掛けるからね。もし出たい時は私に言ってくれ」
「ふむ。するとトイレ一つにしても、僕は君に断りを入れないといけないという訳だ」
「不便をかけるけど、そうなるね」
「真夜中の場合はどうしたら良いだろう?」
「起こしてくれて構わないよ」
「それは有難い。君が下宿の決まる間、ここに泊まり込む予定で助かったよ」
その言葉に私はまたしても驚いた。
「待ってくれ。私は下宿の事を君に話した覚えはないぞ!?」
確かに私は下宿が決まる2、3日、この研究室で厄介になるつもりでいたのだ。
「何、そこの君の荷物を見たら分かるよ。着替えや洗面用具が置いてある。それらを見れば、ここ泊まるつもりなのは明白だ。そして君はロンドンに帰ってきたばかり。という事はまだ下宿が決まっていないのだと思っただけさ」
私はシャーロックの観察力に、何度目かの驚きを覚えた。この男の前では隠し事はできなさそうだ、と。
研究に何日も掛かる場合がある為、研究室には寝床が用意されている。とはいえ粗末なマットレスに木綿のシートを被せただけなのだが、それでもシャーロックは文句も言わずに横になると「ジョン、魔法についてそれなりの知識を持っている君に頼みがあるのだが、それをぜひ私に披露して欲しい」と話し掛けてきた。
どうやらシャーロックは先程のグレグスンの件で腑に落ちない事があるらしく、その理由が知りたいようだった。私はこの男に助力を求められた事に気を良くして、喜んで協力する心持ちになった。
「グレグスンは、随分と簡単に僕の疑いを解いたが、僕ならタイミング良くあんな所にいた不審人物をそう簡単に野放しにしたりしないよ」
「それは検査で魔法残渣が出なかったからさ」
シャーロックはその一言で察したらしい。
「さっきのアレかい?」
そしてグレグスンが魔法杖でしていた動作を真似して見せる。
「そうだよ。あの魔法杖は警察で良く使われる検査を行う道具でね、魔法を使った者に反応するんだ。殺された男は魔法で殺害されたみたいだから、魔法を使ってない君は容疑者から外されたって訳さ」
それにシャーロックの鞄の中に魔法道具が一つも無かった事も関係あるだろう。鞄には一般的な旅行道具と本や小物が少々入っていた位で、殺人に使われそうな物は無かったのだ。只、魔法道具の学究の徒である私にとって、気になる小物があった事は付け加えておこう。
私の答えを聞いたシャーロックは「それだよ」と続けた。
「魔法で殺されたというが、その根拠は何だい?魔法以外の可能性だってあるだろう?」
「推測だけど、魔法が使われた痕跡が残っていたんじゃないかな」
「なるほどね。確かに死体には目立った外傷は無かったな。ただ苦悶の表情を浮かべていたから、一瞬で死んだわけではないのだろう。しかし辺りには夥しい血液が飛び散っていたし、焦げたような跡があったのも気になる…」
シャーロックが遠い目をして呟く言葉に、私はまたしても驚いた。
「まるで見てきたみたいに言うじゃないか!?」
私がそう言うとシャーロックは事も無げに答える。
「見てきたみたいじゃない。見たのさ」
「どうやって!?」
シャーロックの話によると、気付くと“そこ”=殺人のあった実験棟の隣の棟に居たのだそうだ。灯りの無い暗い建物の中だった。窓から差し込む薄明りで、そこが煉瓦造りのそこそこに広さが有る、僅かな物しか置いていない空間だと把握した。
とりあえず危険はないと判断したが、ここを動いて良いものかどうか考えていると、外から「誰かいるのか!」と声が聞こえたので、シャーロックが返事をすると、扉を開けて冴えない感じの警備員が現れた。
助けかと思われた警備員は、シャーロックを見つけると、興奮しながら大声で質問してきたのだ。
「あの男を殺したのはお前か!」
シャーロックはそこで「違う」とも「知らない」とも答えずに逆に質問した。
「“あの男”とはどの男だい?」
「ふざけるなッ、あの金持の学生の事だ!」
更に興奮する警備員を宥めつつ、シャーロックは誘導するように|話を続けた。
「それだけだと良く分からないな。できれば直接見せてくれないか?その方が間違いが無いだろう?」
警備員はまんまと乗せられてシャーロックを隣の実験棟まで連れて行き、事件現場を見せてくれたのだそうだ。
「おかげで警察が来る前に、じっくり観察できたよ」
シャーロックは満足げに頷き、その現場を思い浮かべて私に質問した。
「外傷が無いなら毒物と言う線は無いだろうか?」
「検死の結果が出ないと何とも言えないけど、代表的な毒物なら、先程の魔法杖の検査で分かるはずだよ」
「確かに口の近くを嗅いでみたが、毒物の臭いはしなかったな」
「なんだって!?君はそんな事までしたのかい?」
「暗くて顔が良く分からないから確かめさせてくれと言って、至近距離まで近付いたのさ。ある種の毒物なら特徴的な臭いがするからね」
私はシャーロックの手腕に感心しつつも、それにまんまと引っかかってしまった警備員に同情した。
「さて、僕の知りたい事は大体分ったよ。これ以上の推理は新しい情報が入ってからにしよう。では、おやすみ」
そう言ってシャーロックはさっさと寝てしまった。
しかし付き合わされた私の方は、体は疲れているのに脳だけが活発に動いてしまい、明け方まで眠れなかったのだった。