変わり者の老賢人
一階に降りると、アサメは顔を洗うために洗面台へと向かった。カーテン越しに外を見ると、太陽もまだ布団から出るのを渋っているようだった。
おはよう、太陽。俺の方が早いよ。
自然と乾いた笑いが溢れる。
洗顔を済ませると、アサメはじいちゃんがいるであろう書斎へ向かうため地下へと続く螺旋階段を降り始めた。
大の本好きである老人の書斎は、書斎と呼ぶには桁違いな蔵書量を誇っている。天井まで続く巨大な本棚が四方を埋め尽くし、とりどりの背表紙が整然と並ぶ空間はもはやちょっとした図書館のよう。螺旋階段に沿う途中の壁にまで、本がびっしりと収められているほどである。
その全てに目を通すとなると考えただけで気が遠くなりそうだが、辞書のように分厚い本にはどれも読み古された跡が刻まれていた。
階下に降りると、案の定そこにじいちゃんの姿はあった。
点々と灯る暖色の照明、古びた紙と木の香り、めくられた古紙が擦れる音。それらが静かに調和した心地よい空間が書斎には流れている。
そんな書斎の中央には、経年変化により赤褐色に染まった重厚な木製の机と革張りの椅子が鎮座している。群青色のローブに身を包み立派な白髭を蓄えた老人は、そこに座って何やら調べ物に没頭しているようだった。
老人の周りには目視で7〜8冊の本がふわふわと宙に浮いていた。忙しなくめくられるページが、乾いた音を奏でている。
一見超常的な現象に見えるが、アサメは驚かない。天才科学者兼発明家(自称)のじいちゃんと暮らしていると、このような魔法じみた発明は日常茶飯事なのだ。
__とはいえ、果たしてそんな一度に目を通せているのだろうかという疑念は残る。
「じいちゃん、おはよ……」
寝惚け眼でアサメが声をかけたその時、
ゴスッ!!
鈍い音が書斎に響き渡った。老人の背後の本棚から落ちた一冊が、彼の後頭部に直撃したのだ。
凶弾に倒れる主人に呼応するかのように、重力に引き戻されバサバサと落ちていく本。
落下音の残響の中、じいちゃんは突っ伏すように机に倒れこんだ。
「だ、大丈夫……?」
おそるおそる尋ねるが返答はない。それどころか微動だに……
......いや、わずかに肩がピクピクと痙攣している。
一瞬冷たいものが背筋を走るアサメだったが、命に別状はなさそうであることを確認し一安心する。
最も、その様子からして当人は相当に痛がっているようではあるが。
「なぜ......」
顔を伏せたまま、掠れた声でじいちゃんが呟く。
「ん?」
「......なぜ、人は知を築きながら......その頂に立つ己を疑わぬのか......」
「......え?」
先ほどまで流れていたゆるやかな雰囲気から一転、突如として書斎にはシリアスな静けさが漂っている。
「つまり......あれじゃ......」
後頭部をさすりながらじいちゃんは涙目で続ける。
「高いところに本を置く時は、よう気をつけんといかんということじゃ......いちちちち......」
今日もまた、新しい1日が始まった。
アサメとじいちゃんが2人で暮らすこの家は、奇妙で独創的な発明品がそこかしこに溢れている。どれもじいちゃんが丹精込めて手がけた力作だが、その一つ一つが一癖も二癖もあるような不器用な愛嬌を持ち合わせている。
例えば、書斎の机に置かれている《自動筆記羽ペン》。話しかければ自分の代わりに手紙やメモを書いてくれる便利な発明だが、長い間話し相手がいないと機嫌を損ね、勝手に愚痴や文句を書き殴り始めるという難点がある。以前癇癪を起こした時には、大量の文句が連ねられた羊皮紙が書斎中に散乱していたことがあった。
窓辺に設置された《滝のカーテン》も、じいちゃんの自信作の一つ。布の代わりに水が絶え間なく流れ落ちる、遮光機能も備えた幻想的なカーテンである。人やものを感知すると、その部分だけ水流が静止する仕組みになっているため近づいても濡れる心配はない__はずなのだが、風にはあまり強くないらしく、窓を開けた時に飛沫が舞い散ってしまうのは日常茶飯事である。
また、家中の至る所には《動く絵画》が飾られている。意思こそ宿ってはいないが、描かれた前後の数秒間が切り取られているかのように、表情の変化や風にそよぐ髪、手を振る仕草などそれぞれの一瞬が額縁の中に閉じ込められ、繰り返し再生されている。これに関しては特筆すべき欠点はない......のだが、じいちゃんもどういう仕組みで動いているのかわからないと言う。怖い。
そして、中でも存在感を放っているのが、通称"フィルダム"と呼ばれる楽器群である。バイオリンやピアノ、ハープをはじめとする様々な楽器が意思を持っているかのようにひとりでに音色を奏でるまさに魔法じみた代物だが、それぞれの音楽性が異なるせいか、演奏中によく喧嘩をする。ピアノの静かな旋律をかき消すようにバイオリンが無理やり旋律を被せてきたり、不貞腐れたシンバルがストライキを決め込んだり、ついには"肉弾戦"に発展したり......といった具合だ。
「まあ良い、とりあえず今日は先に市場に行くぞい。そろそろ"豊漁祭"の準備が始まっているはずじゃ」
「あー、そういえば......」
寝癖でなくとも無造作に跳ねる癖毛の束を手櫛で直しながら、アサメは相槌を返す。書斎にはまだ夜の名残りを帯びた静けさが漂っているが、耳を澄ませると微かに聞こえる囀りが朝の空気を運んてきている。その囀りすらも心なしか浮き足立っているようだ。
そんなこんなで書斎を後にした2人は、朝食もそこそこに村の中心部にある市場へと出かけていった。
「静謐な雰囲気の書斎......宙に漂う書物......思索に耽る老賢人......ワシの初登場......威厳......」
外出の支度をしながらぼそっと呟くじいちゃんの言葉は、アサメの耳には届いていなかった。




