私は奴隷に恋をした
「何ニヤついてるの?」
リンテは語尾に不快を含ませ、黒いストッキングの足を組み直す。
ひざまずいてリンテの靴を磨いていたマルトは驚いて身を引くが、勢いよく移動するストラップシューズをかわせずにガツンと額を打った。
蹴るつもりはなかったリンテは思わず息を飲む。しかし彼女が何か言い掛ける前にマルトはにこにこと顔を上げた。
「ぼく、自分のなまえが書けるようになったからうれしくて」
赤くなった額など気にせずにマルトは答えた。成人した男とは思えないほど無邪気な言葉だが、瞳は偽り無く輝いている。
リンテは謝るタイミングを失った上、プライドの高さが災いして頭を下げる事が出来ない。
「……勉強、続けてんのね」
動揺がばれぬよう、背もたれに身を沈めて顔を反らした。
「はい」
マルトは再びリンテの小さな靴に向き直る。そっと手で靴底を支え、ブラシで艶をかけ出した。
「すこしだけなら、文字も読めるようになりました」
生まれて初めて知る学ぶ喜びが、彼の全身から滲んでいた。
勉強──。リンテは自らの服に目を落とす。
金の髪が胸まで垂れた、黒いボレロとグレーのジャンパースカート。貴族の子女ばかりが通う名門校の制服。
彼女が幼少部で使っていた教材を彼に与えたのは、数日前だ。
リンテもたまに文字を教えてはいたが、彼は毎晩夢中で読み書きの練習をし、ゆっくりだが確実に知識を増やしていった。
足元で体を屈める彼に視線を移すと、痩せてゴツゴツした背中が小刻みに揺れている。
教養はないが、雑用だけはマルトの身に刻まれており、靴を磨く手つきは鮮やかだ。
オニキスのカフスの袖口から覗く素手に、ミミズ腫れに似た傷跡が幾筋も這う。
──その赤い筋を目にした瞬間、反射的にリンテの記憶が掘り返された。
今は立派なスーツを着せられているマルトだが、初めて彼を見た時は、ほとんど裸でボロ布しか纏ってなかった。
首輪から伸びた鎖は、どこかに繋がれていて──
「お嬢さま、ありがとう」
古い悪夢に落ち掛けていたリンテをマルトの声が呼び戻す。
「何が」
胸を読まれたようなタイミングで声を掛けられ、内心飛び上がりそうだったが、リンテはなんとかそう返す。
「犬のぼくにいっぱいやさしくしてくれる。お嬢さまは、とってもいいひと」
犬。
犬のぼくに。
そう笑う顔が本当に嬉しそうで、嬉しそうで、リンテの胸にチクリと妬みの針が刺さる。
こんな風に無邪気に主人を慕える彼が憎たらしい。
憐れな境遇の彼をかしずかせ、椅子でふんぞり返っている自分が憎たらしい。
親の金で制服で飾られ、親の金で当然のように学校に通い、そして、親の金で買い上げたマルト。
「じゃあお礼にキスして」
困らせてやりたい一心で、リンテはそう彼に命令を下した。
マルトはリンテを仰ぎ見る。しばらくきょとんと瞬いていたが、言葉の意味を理解して目を見開いた。
リンテは自分の唇を意識し軽く噛み締める。自分でそう分かるほどに顔が熱かった。
主人に接吻など出来ないと言い出すのか、従順に命令のままに唇を重ねるのか。リンテの胸が緊張に締め付けられる。
リンテの不安をよそに、マルトは直ぐに微笑んだ。
リンテの耳に朱が走る。
マルトの手にした靴が、うやうやしく掲げられた。
リンテが制止する間もなく、マルトの唇はストラップシューズの先に落ちる。
その光景に呆然とする彼女を、靴から口を離したマルトが無邪気な笑顔で見上げた。
「お嬢さま…どうして泣いているのですか?」
了