上
※本来は、上下だの前後半だのに分けられたものではありません。
「…………」
一人分の沈黙。
トースト、ハムエッグ、味噌汁に、ほんの申し訳程度のサラダ。
朝食をとりながらテレビ画面を見ていた。
『……以上、中継でした。一月二六日を皮切りにして続いているとされる連続殺人事件。最初の遺体の発見から一週間となる二月二日現在でも、警察は記者団の取材に対し“解決へ向け全力で捜査に取り組んでいる”と述べるにとどまっています。青木さん、今度の事件をどうお考えでしょうか』
『えー、この件では、警察の方で目下捜査中であるということしか明らかにしておりませんのでね。ただ犯行の猟奇性といいますか、残虐性といいますか、遺体の損壊状況からだと快楽殺人ではないかとの見方が有力でしょう。殺人行為そのものに執着しているかのような犯行ですし、明らかになっていないだけで証拠が全くないということはない筈です。捜査の進捗状況次第では、被害を食い止めるのが難しいこともあるでしょうが、地域では厳戒態勢も敷かれていますので逮捕もそう遠い未来ではないと思いたいですね』
『再び巷を騒がせている連続殺人。前回は犯人の自殺で事件が一応の終息をみました。今度の事件では遺体発見現場にバラつきがあるようですが、警察はこの一週間の犯行が同一人物の手によるものであるとみて捜査を続けているようです。しかし目撃情報は皆無に等しく、住民の間では不安が広がっています。また深夜とはいえ、誰も目撃者がいないのは妙だという声もあります。それについてはどうお考えでしょう』
『協力者についてですか? 共犯は考えられなくもないですが、しかし―――』
現状では何もわかっていない―――つまり、そういうことだった。
リモコンの適当なボタンを押し、チャンネルを次々と替えていく。
『またも軍拡か。油田をめぐり緊張状態にある□□とその隣国である■■。今や独裁政権下にある■■が、軍備を再来年までに現在の二倍へ拡張する指針を表明しました。その内容は自国が保有する核に対しても同様だと強調した上で、国営のメディアによる発表を通じ、両国の資源問題について干渉しようという第三国に対しても強硬な姿勢を―――』
『先月起こった○○同時多発テロについて、××族解放戦線が声明を出しました。国境なき医師団を含め民間人を多数巻き込んだテロに、否定的な国際世論が高まり―――』
『香ばしい生地と一体になったバジルの香り。とろける四種のチーズがさらに―――』
リモコンの電源ボタンを押すと、音もなくテレビ画面が真っ暗になった。
「…………」
溜め息を吐く代わりに黙ってみた。いや、実を言えば溜め息すら吐けなかったのだ。
絶望―――に近い嫌悪。どうしようもないほどの。
「…………」
小さいが、とても強い。
それ以上深さを増すことも、膨らむことも、濃くなることもない。
そんな感情が、無数の砂鉄が、視界を覆いながら舞っている。
テレビの、何も映さないチャンネルみたいに。
『……―――…』
何かが聞こえている気もするが、聞こえていない気もする。テレビの音に集中できない。
いや、テレビはさっき消したんだっけ。
テレビの音が耳に残っているような感覚に、目を瞬かせた。
「僕、そろそろヤバいのかな」
何がヤバいのかは考えないようにしながら。
『―――……――』
テレビ画面はいつも通りの映像を映し、いつも通りの音を出していた。
相も変わらず、いつも通りの演出を続けて。
「…………」
消しても消えない画面をじっと見つめてみる。
自分の顔が映っていた。
1 今、この時
一
ジャー カチャカチャ カチャ カタン
朝食を食べ終えた後でキッチンのシンクへ向かい、食器を片付ける。水を出し、スポンジに少量の洗剤を泡立て、食べ物の跡をなぞっていく。凍えるように冷たい流水が洗い物に跳ね返り、シンクの銀色とそこに付着した水滴が、窓から差し込む朝日を浴びて控えめに輝く。スポンジを握りしめる手は水の冷たさに感覚が麻痺し、白く柔らかい泡の心地良さを手首だけが感じていた。
ふと、洗い物をする手を止めて。
「ああ、お湯………まぁいいや。もう終わるし」
土曜日。どうしようもなく普通な公立高校で授業を受けるという、どうしようもなく普通な平日が終わってやっと巡ってくる、二日間の休みの初日。しかし今日は、平日とほとんど同じような感覚で過ごすことになるだろう。僕の通っている高校は週休二日制だが、テストが近い時期の休日などに午前中のみの授業を設けることがある。日付は二月に入り学年末テストが近づいているから、生徒達は学校に駆り出されることに。
今はそういう土曜日の朝だ。
バタバタバタ
二階から人が階段を駆け下りてくる音がする。
ガチャッ
ダイニングの入り口のドアを勢いよく開けて現れた人影が、キッチンでちょうど洗い物を終えたところの僕を見た。
「……あ、ごめん」
姿を現すなり、眠そうな瞼を軽く撫でながら申し訳なさそうに謝る少女。その小柄な体躯にはしっかりとサイズの合ったパジャマを着ている。寝起きとあっていかにもそれらしい姿で―――五つあるボタンのうち上二つが外れていて、首元から肩にかけて素肌を大きくのぞかせていた。しかし僕を見つめる可愛らしい表情と、肩に届くか届かないかという長さの栗色の髪はほとんどいつも通りに整っている。顔を洗ったけれども目が覚めなかったというところだろうか。
………そこまでするなら、服装も直してくるべきだと思うけれど。
僕は目のやり場に戸惑いながら、努めて冷静に振る舞った。
「起きたのか。そろそろ起こしに行こうかと思ってたんだ」
瑠璃―――祭華瑠璃は僕と同学年の『幼馴染』の少女、ということになるだろうか。本人によれば炊事や掃除、とにかく家事全般を完璧にこなす『良妻系女子』とのこと。もちろん、自分からそう名乗るのは伊達ではなく、料理、勉強やスポーツに至るまで、何でもそつなくこなす『万能系女子』………だから『良妻系』と言って差し支えないだろう。まるで冗談みたいな人間だ。しかし、目の前でその能力をまざまざと見せつけられれば、いるところにはいるものだと、やはり感心するしかないのだった。
そんな瑠璃と僕との関係は元々、親どうしの仲が良いので幼い頃から家族ぐるみの付き合いがあるという、ただそれだけのものだった。だが今はワケあって、僕達は同居しているのだ。
「今日は早いね………ううん、あたしが遅いんだね」
瑠璃はダイニングの壁掛け時計を見ると、眠い目をこする手を止めた。
瑠璃は寝過ごしたと思っているようだが、それでも普段の僕よりはずっと早い起床なんだよな………。
反省。
「いや、こっちこそ悪い。一緒に食べられなくて。かなりお腹が減っててさ」
今朝方は異常に強かった自分の食欲を恨みながら謝ると、僕の視線は瑠璃の胸元に引き寄せられた。
「ところで、それ………」
僕が自然を装い発した一言に、瑠璃の動きがピタリと止まる。
「――あ! こ、これはね、起きてからセツくんの部屋に行ったけどいなかったから、驚いてそのまま来ちゃったから………」
瑠璃は狼狽した様子で返答すると、恥ずかしそうに顔を赤らめた。今になって自身のあられもない姿に気付き、ボタンを嵌め直したようだった。
動揺した瑠璃が口走ったことには、というか今初めて明かされたことには、どうやら瑠璃が毎朝、部屋でまだ眠っている僕を見に来ているかもしれないという可能性が………。
ま、まぁ、触れないでおくことにしよう。その方が無難だ。
「寝起きの格好みたいだけど、どうする。着替えてくるか?」
僕の台詞が早いか、瑠璃は椅子に掛けてあったエプロンに手を伸ばす。
「ううん。それより、今からでも急いで―――」
「だから、もう食べちゃったんだ。ごめんな。簡単なもので悪いけど、そういうので良ければ用意はできてるから」
朝食を作るためにエプロンを身に付けようとした瑠璃を制止し、僕はダイニングテーブルの上に置いてある朝食を指さした。
「……!」
しかし瑠璃は突然固まってしまったようだった。つい先刻まで眠そうだった両目は大きく見開かれ、その視線は僕の顔とテーブルの上とを行ったり来たりしている。
「作ったの……?」
「そ。でも大丈夫だって。油と洗剤を間違えるとか、しょっぱすぎる味付けとか、そんな漫画みたいなのは狙ってないから」
「あ、ありがと。いただきます………」
瑠璃は放心したような表情のまま席につき、朝食をまじまじと見つめた。
(そんなに驚かなくても………いや、無理もないか)
確かに珍しいことではある。いつも通りなら僕達二人とも、瑠璃自身の手による美味しい料理を食べられる筈だった。しかし今日の瑠璃は珍しく寝坊。そしてまた、早起きした僕がそれを補うかのように朝食を用意したのだから、珍しいことに珍しいことが重なったわけだ。
「ふぁ………」
席に着いた瑠璃は「いただきます」の後ですぐに食べ始めることもなく、そのまま口を押さえて欠伸をしてしまった。
「眠そうだな」
「うん、ちょっと…………」
僕は眠い理由を訊き出そうとするが、瑠璃には答える気がないらしかった。
(……? 寝起きはいい方の筈だし………。体調が悪いわけではなさそうだけど)
驚きの反応はともかく、一方で瑠璃のこの疲労には、いまいち心当たりがない。
よほど疲れていたのだろうか。昨日は普通の金曜日で、いつも通りに学校があったくらいだけれど。瑠璃は僕と違い、生活リズムが規則的な筈なのだ。
「食べ終わったら、流し台に重ねて置いといてくれ」
「これ、写真撮っても………?」
「そういうのいいから」
僕が料理をしたくらいで、それもかなり簡単な朝食を用意したくらいで記念写真だって? それは行き過ぎだ。
「それじゃあ―――はいっ。あ~ん」
瑠璃はさっきまで僕の料理に感激していたと思えば、今度は突然に、ありきたりな催促をしてきた。
「………どうした?」
「いや、その、食べさせてくれるとかは………」
「なんだって?」
「え、今日って何か特別な日だったんじゃ……ないよね? やっぱり」
「特別な日?」
「だ、だよね~、あはは………」
「……?」
瑠璃は何を勘違いしたのか、今日が特別な日だから僕がキッチンに立ったと思っているらしい。
「いつも作ってもらってるからさ。偶には、な」
他意はない。
ガタ………
「あれっ? やっぱり食べさせてくれるの?」
椅子に座った僕を、瑠璃が驚いた表情で見た。
「―――っと」
すぐに立ち上がる。朝食をとる時のいつもの癖で、瑠璃の向かいの席に引き寄せられるように座ってしまったのだった。
「………立ちくらみ?」
「何でもない。いいから早く食べなさい。遅刻したいのか?」
「は~い」
瑠璃は拗ねたように返事をすると、やっと朝食を食べ始めた。
「ほんとだ、普通に美味しい………!」
「………」
瑠璃の分の食器を洗い終える頃には時計の針が七時五〇分を回っていたが、出発までにはまだ少し時間がある。瑠璃が登校の支度をしている間、僕はキッチンと同じ空気を共有しているリビングのソファに腰かけ、スマホをいじりながら待つことにした。
僕の用意がこれだけ早いのは、瑠璃より少しだけ早く起きたからということもあるが、もう一つ、僕達の通う高校には指定の制服は存在しないからという理由も大きいだろう。
学校指定の制服がないというのはつまり、学びの場に相応しい服装を自分で用意しろということに外ならず、各々が好き勝手な学びの場を想定し、各々の判断で相応しさを演出することになる。それが常識的な範囲であれば可だろうが、果たして、自分のはどうだろうか。
下半身は黒のスラックスだが、上半身はTシャツの上に長袖を着ただけの格好。
別に文句を言われるわけでも、白い目で見られるわけでもない。派手過ぎず地味過ぎず。禁止されているわけでも、推奨されているわけでもない。こういうの、実のところどうなのだろう。クラスの担任に訊いたことがある。
「……ワイシャツは無いのか?」
服の色に関わらず、この服装はグレー扱いらしかった。
ああ、いや、今日の服の色はグレーだけれど。
「………」
スマホを手に取り操作すると、画面いっぱいにジャンルごとの記事が映る。ライターの大袈裟とも思えるコメントが並んだグルメの記事や芸能界でのハプニングなど、どうでもいいことが目白押しだった。そうかといって政治や経済に秒単位で注意を払うような性分でもないので、それらをチェックすることもなく。どうでもいいことがどうでもいいことのままであるのを確認すると、スマホをいじるのを止めて、テーブルの上のリモコンに手を伸ばし、テレビをつけた。
特に何に期待するでもなく、チャンネルを次々に替えていく。
『………では、斎村さんは犯人が多重人格者であると?』
『はい、少なくとも、私の見たところではそうですね。例えば、犯人は自身の脆く傷つきやすい人格を、ええと、かつての体験を生々しく記憶している、何らかの形態の人格を保持しているに違いありません。普段は社会に溶け込むために、一般的な人々の模倣のような人格を演じていますが、それが犯行時には影を潜めるのです。代わりに、犯行時には、いつも影を潜めていた交代人格、それはひょっとしたら先に挙げたような、自身の純粋な基礎人格であるかもしれませんし、あるいは別の―――』
さっきと同じだ。ニュースやワイドショーは繰り返し同じような内容を取り上げていた。
聞き飽きた話題に加えられる微細な変化、解釈の違い………。
『うう、お腹痛い!』
『そんなあなたに、新スタマッカーム!』
『―――では、前回の事件に触発されて、今度は模倣犯的な性格の連続殺人犯が出現したということになるのでしょうか』
『おそらくはそういうことでしょう』
『いや待ってくださいよ、あなたね、それじゃ無動機殺人でないことの証明になってないでしょ』
『動機はあるでしょう。連続殺人の後の連続殺人なんだから。センセーショナルな事件に魅了された人物が行った模倣ですよ、模倣』
『だからね、話のキモはそこじゃないんですよ。実質的に無動機である殺人が来るところまで来ちゃったって話を、だからね、現代の若者の―――』
出来損ないのCMには、やりたくもない演技をやらされているでも言いたげな役者と、奇怪な動きで視聴者の注意を引こうとする漫画のキャラクター。そういうノイズが聞こえなくなってやっと番組が始まったと思えば、それは実にくだらないワイドショーで、巷で噂の殺人鬼を嬉々として取り上げていた。安全なところに座って、持て余した時間と熱意とを、殺人鬼などという彼らにとってどうでもいいものに費やしている。
結局、出ている情報そのものが少ないのだから、ろくな議論などできたものではない。聞いたことのない名前の専門家達は、一般人にわかりにくい言葉で「わからない」と口を揃えているようにしか見えなかった。彼らにとって、連続殺人犯が人格障害であると安易に結論づけることは、専門家たる自分のプライドを守るために、あるいは自分の名を知らしめる機会を逃さないために、最も簡単で効果的な知ったかぶりの方法なのだから。
多重人格の連続殺人模倣犯だって。噂のひとり歩きの行きつく果てがそれだった。
「お、こっちのチャンネルは少しだけマシかも」
チャンネルを替えていった先には、こちらもまたワイドショーだったが、いくらか興味深い見方をしているようなものがあった。
『では前回の連続殺人事件の一連の流れについて見ていきましょう。一件目が男女のカップル、二件目が男性一人、三件目がとある家庭の母親、四件目がその息子―――』
今回の被害者どうしの共通項を関連付けるのはどうやら難しかったらしく、前回の事件と今回のものと、データを元に一から客観的な比較検討をしていくようだが………。
『―――ではなぜ、犯人が同様の事件を引き起こしたのでしょうか。犯人の心の内に潜む闇とは―――』
やっぱり。欠伸が出る。
(そりゃぁ、犯人を凡人でも才人でもない狂人とするなら、色々なことと関連付けるのも容易いんだろうけど………)
狂人は狂人として理解するしかないといった、決めつけと諦めの姿勢が見え隠れしているような気がするのは気のせいだろうか。思考を完全に止めてしまうわけでもなく、逸らすことで精神衛生の延命を図るみたいで。
……いや。やはり結局は話題性か。
出所のわからない嫌悪感に顔をしかめ、つけっぱなしのテレビからスマホに視線を戻そうとした時、瑠璃が側までやってきて不安そうに切り出した。
「連続殺人って、また―――」
「ああ。厳戒態勢が~なんて言われてるけど。特に夜は気を付けた方がいいだろうな」
「早く治まってくれないかな」
「………早く、って?」
僕がスマホの画面に問い返してみると、視界の端が少し揺れ動いた。瑠璃はカーディガンの上に飴色のコートを着て、平日とほとんど同じ格好をしている。もう既に支度を終えているようだった。
「だから、この前は………こんなに長引くような感じでもなかったし………」
「………そうか。そうだな」
殺人鬼などというものは小説や漫画など作り物の世界の話だと思っていたところに、自分達の日常とは縁遠いものだと思っていたところに、突然、それが現れた。その恐怖に苛まれて過ごしていると、それは一週間もしないうちに終わりを告げた。今回は前回に要した期間を数日ばかり過ぎたことになる。だから瑠璃は二者を比較して、今回は長い、と言う。たった数日の違いだが、平和な日常のそれと比べると、徒労というか緊張の度合いが違うのだろう。
(確かに。こんな日々が続くのは、臆病で善良な市民の精神衛生にとって好ましくないからな。こんな馬鹿な事件、早く終わってくれた方がいいよな)
何かに確認するように、一人で頷く。
「事件の早期収束を願って、変人に目を付けられないように、一般市民はおとなしく生活しておくとするか」
「じゃあ、今日の買い物は………」
「ああ、それなら多分大丈夫じゃないか? ヨーコドーって大きい店だし、日中ならその周りだって人通りは多い筈だし」
市内で変なのが出没しているわけだが、ここからは遠い場所だということだし。
「そっか。大丈夫だよね、そうだよね」
「ああ。あそこの警備態勢と客の多さを考えるとな」
ヨーコドーこと大手デパートの洋子堂。食料品からインテリアまであらゆるものが売っている。因みに洋子というのは創業者の名前らしい。古い伝統を持つ店で規模も大きく、来客数も多いため、昼間でも多数の警備員が駐車場で空気と睨めっこをしているのだ。
だから大丈夫だ、と言い聞かせる。瑠璃の心配を払拭することはできただろうか―――何となくそんなことを思っていたが、瑠璃はまだ心配しているようだった。
「予定、入れてないよね?」
約束を確認するその言葉には、様々な不安が同居しているように感じる。そんな瑠璃を視界の端に捉えながら、僕はテレビを消し、ソファに掛けてあった黒いコートを羽織った。
「ああ、大丈夫。学校の帰り、そのまま寄っていくか」
「うんっ!」
沈鬱な表情から一転、元気の良い返事、満面の笑み。とても可愛らしいのだが、何かに対する不安を打ち消そうとしているようにも見える。
瑠璃の中にある不安を何とかしてやりたいとは思うけれど―――。
正面からその表情を覗き込んだ時、そんな感情すら麻痺してしまうのだ。
ただ、この日々に溺れていきたいだけ。
「う~っ、寒っ」
二月、季節は冬。ただ最近は雪が降っておらず、道路の隅で汚いのが残っているくらい。しかし寒いことに変わりはない。冬の早朝では、当然のように庭先のバケツの水が凍っている。乾燥した空気は喉を刺すように冷たい。手袋をしなければすぐに手はかじかむ。
そんな真冬らしい厳しさを見せるこの時間帯は、暖かい布団にずっとくるまっていたいと思わせられる。重ねて言うが、今日は土曜日だ。
(土曜日なのに。普段通りなら温かい布団の中で眠っていていい筈なのに。くそっ)
寒い道を歩きながらぶつくさと文句を並べる。吐いてみた白い息は、まだ色彩の淡い視界ですぐに消えていった。
「こんな寒い日に登校させるなんて………しかもこれを出席日数にカウントするなんて、ほとんど鬼畜の所業としか思えないな。『課外』じゃなかったのか」
別に出席日数がまずいわけでも、皆勤賞を狙っているわけでもない。大きな利害があるわけでもないのに登校しながら文句を言っているのは、生徒に登校させようとする学校側の姿勢が、変に徹底しているように思えて癪に障っただけだ。
「そんなにイヤなの?」
「課外頼みで授業計画を組まれるのが嫌なんだよ。普段の授業の質を上げれば、こういうのは要らないだろ―――って、まぁ生徒の質にも同じことが言えるわけだけれども」
僕は少し苦い顔をしているかもしれない。瑠璃はいつも通り、楽しそうだ。
「でも健康的だし、色々とお得じゃない? 朝は早起きできるし、これからこうして一日中デートができるわけだし―――」
「早起きは三文の徳だなんて、僕はちっとも思わないけど」
そう言いながら、瑠璃がさりげなく、余りに自然な流れで発した言葉に気付いた。
「ん、デート? 一日中デートって言っても、昼までは学校があるし………そんな約束したか? 放課後に買い物をするくらいだろ?」
「学校でもずっと一緒みたいなものだし。それに『買い物をするくらい』なんて言うけど、買い物だからでしょ? デートじゃん。デートだよね?」
「………あ、鍵」
玄関の鍵、閉めたっけ?
「あ、鍵―――って、普通にスルーかっ! 今日は一日中一緒なんだよ⁉ ねぇっ! 楽しみだよね⁉ あたし達すれ違ってないよね⁉」
(一日中一緒って………。下校時間が早いだけで、いつもと大して変わらないだろ)
普段、家にいれば顔を合わせるんだから、それってやっぱりいつも通りじゃん。
「はいはいそうだなデートだな。で、鍵、今日はどうする?」
「むー………ま、いいけど。そうだね、今日はあたしが持つ」
尖らせた口元を戻すと、瑠璃はその華奢な手を差し出した。
(手袋すればいいのに………)
かじかんで余り動いていない様子の手を見て、そんなことを思った。
瑠璃は毎朝ソワソワしながら、吐息で手を温めているのだ。
「はい、鍵。なくすなよ」
僕はついでとばかりに、自分のスクールバッグから手袋を引きずり出した。
「あと、はいこれ。手袋。嵌めとけ」
「違うでしょ? もぉ~」
瑠璃が寒そうにしているのを見かねたから手袋を渡したのだが、あっさりと拒絶されてしまった。
そのまま二人して吐息で手を温めながら、高校も目の前というところで。
「ね」
こちらの顔色を窺うように、瑠璃は控えめに訊いてきた。
「今日もやっぱり、行くんだよね……?」
ヨーコドーに、ではない。もちろんそこにも行くけれど、瑠璃が言っているのはその後に控えた用事のことだ。
「あのなぁ」
これは三日に一度くらいの頻度で行われるやりとりだった。
「家族なんだから、本当なら毎日顔を合わせてもいいくらいなんだぞ」
「そうだよね。家族……かぞく……」
返答した僕から視線を外すと、瑠璃は地面を見つめてそう繰り返す。
「…………」
わかっている。
そんなのは口実だ。ただ―――
「ああ、そうだ。家族だからだよ」
家族だから。それが本当の理由であってほしかった。
「家族………だもんね」
瑠璃は安堵したような、残念そうな声を漏らす。
「…………」
(わかっているさ。わかっているんだ。でも、僕は―――)
僕は内心、このやり取りが好きではない。心を逆撫でされるような気がして。だから無言でこの話題から距離を取ろうとした。そんな僕の内心を知ってか知らずか、隣を歩く瑠璃は話題を変えてしまう。
「じゃ、今日は予定通り、荷物持ちよろしくねっ」
「ああ、わかってる。そんなに念を押すなよ。別にどこにも逃げたりしないから」
「そうだよ。約束してね?」
「…………」
自分がいつの間にか、学校の敷地内に足を踏み入れていることに気付いた。
そもそも、逃げる場所などどこにあるというのだろう。
二
校舎内に入ってしばらくすると、かじかんでいた手は通常の血色を取り戻した。
冷たい空気が支配する廊下とは打って変わって、暖かい空気が充満する教室では、眠そうな生徒がちらほらと見受けられる。冬という季節、暖かい場所にいるからこそ、その暖かさについ甘えたくなってしまうような、神経が鈍麻するような感覚。その心地良さに身を任せれば、既にクラスの何人かがしているような姿勢で、きっと僕も意識を失ってしまうことだろう。
二年一組の教室で、僕は教室中央のやや窓側寄りの列、後ろから二番目の席に座っている。
「―――最後に、彼はなんと、本を食べてしまったんだ」
今は二時限目で、授業から脱線しまくりの国語担当教師が、この高校の卒業生で偉人として扱われている人物の逸話についてツッコミを入れていた。生徒の方も一緒になって、自分達の在籍している高校のアイデンティティを笑いに変える。
因みに、この高校の正式名称は『楽島県立綿平高等学校』。ラクシマ県立、ニシキダイラ高等学校。
略称メンヒラ高。
俗称ヒラ高、またはメンヘラ高。
「………」
最後のはおかしい、確かにインパクトは大事だけど、などととりとめのないことばかり考えて授業を終えるのも何なので、教師の話に意識を戻した。
「確かに、彼の学習意欲はすごい。でも本を食べたら、次の人が読めなくなるだろう? 昔はちゃんとした辞書ならとても希少で高価だったんだ。当時、貧しかった彼にとって本格的な外国語辞書なんてものは、持っている人から借りるというのが当たり前だった筈なんだ」
もう何の話だかわからない。
途中から聞いていなかった僕が悪いのだが。だからもう聞かなくていいやと思った。
授業は予定していたところまで終わらなさそうだったので、ペンを動かす手を止め、俯いた。
キーンコーンカーンコーン――………
音の後半はほとんど耳に残らないチャイムが鳴る。午前授業の前半も終わり、休み時間となった。一五分間の退屈が始まる。
僕は自分の机を囲んで談笑するクラスメイト数人と共にいた。
「―――……。――って……きが……――さ」
「あ~、―――えて……と――たんだ……うな」
「だよね」
(アイツ、今日は来てないのか………)
クラスメイトの話に適当に相槌を打ちながら、僕はある場所を見ていた。
教室の窓側、一番後ろの空席。頻繁に欠席する、橘美織という女子生徒。
本日も欠席らしい。
「でさ、――の模試の結果―――、見たかよ」
「あー、それ! 今回は難しか――から、み――ひど――――て。ちょっと安心した」
「ったく、定期テストと模試の日取り――うちょっと調整しても――たいよなぁ」
「理系なん――うさんざんだっ――しいぜ」
「マジかよー。で――れら――ん系だからって、喜ん――はできねーよな」
教室内の他の生徒の例に漏れず、美織の席の近くで楽しそうに話す男子生徒達も、いつもよりハツラツとしている。
「――でさ、とうとう―――の女子があいつにコクっ――しいぜ!」
話題だって、いつもと大して変わらないのに。考えないようにしているのか、本当に忘れているのか―――市内で連続殺人犯が出現したというあのショッキングなニュースも、青春を謳歌する高校生にとってはどこ吹く風といった感じだ。
この前も似たようなニュースがあったけれど、その時はクラスもその話題で持ち切りだった。今回はみんな無関心。専門家やニュースキャスターの言う『模倣犯』という言葉が効いているのだろう。人殺しが絶えない世の中では、このようにもなってしまうというものだろうか。
「マジか! で、どうだったんだ?」
「さあ。ただ、コクったやつの方は後日欠席だったらしい」
「うわぁ……」
それにしても、午前のみ授業がある日というのは、皆どこか浮ついた調子でいるなと思う。わざわざ休日の午前中を返上して学校まで来ているというのに、どこか楽しそうな。僕はそんな雰囲気の中で、心を空っぽにしていた。
「雪衣く~ん」
ところがそんな軽い放心状態だった僕のところへ、一人の女子生徒が歩いてきた。
確か名前は……苗字は、柳田だった筈。長い黒髪の後ろを一つに束ねていて、縁なし眼鏡をかけていて、整った顔に鋭い目元、仕事のできそうな女といった雰囲気のわりに、おっとりした話し方をする女子だ。
「ん。どうしたの?」
「来てるよ?」
「何が?」
「何が………って、あれぇ?」
その女子生徒は、教室の前後のドア周辺を交互に見回した。
「どうかした?」
「ううん、何でもないです。すみません、お邪魔しました~」
(……? 何だろう。度々こういうことがあるんだよな………)
女子生徒の意味不明な言動に首を傾げてから、また数人のクラスメイトの方に向き直ったというところで―――
「そうそう、モテるといえば! お前、モテるよな?」
「は?」
背後のグループで話していた一人の男子生徒が話しかけてきた。
「モテてるんだよ、お前は」
突然、何なんだ。この脈絡のない話の振り方、空気を読む努力すら感じられない―――木田らしいと言えば木田らしい。背後で繰り広げられていたのはどうやら浮かれた話題らしかったが、とんだとばっちり………。
「いるじゃんか、あの小っさい可愛い子。何組だっけ? 三組? 四組?」
(瑠璃のことか………?)
ひょっとしてもし万が一仮に、ある特定の人物ただ一人から好意を向けられているという場合、その状態を『モテている』と表現して良いものか。ま、どうでもいいことだけれど。
「そんなんじゃないって。あいつは、いもう――」
「だからさ~、俺にもさ~、モテるコツとか教えてほしいワケ! てか妹とか、そういうのいいって。今時そんなごまかしは通用しないっての!」
「いや、だから、本当にあいつは家族みたいなも――」
「い・い・か・ら! モテるコツをゲロしちゃいなさーイ! あ、『イケメン』とかそういう条件はいらないからマジで。本当にそういうのはいいからマジで」
(………はぁ)
あらためて。この、人懐っこそうな目をしたやつ。前髪を真ん中で分け、頭頂部の髪を逆立てている、長い茶髪の男子。これは木田。僕のクラスメイトで、物事を余り深く考えない性格の男。これは別に全く僕の友達というわけではなく、僕がクラスメイトと話していると結構な頻度で割り込んでくるのだ。今回は他の誰かと話していたところで僕に話を振ってきたようだった。
『…………』
僕と話していたクラスメイト数人も、この木田の態度に呆れていた。彼は、クラス内でのいわゆる「困ったちゃん」なのである。
「なあなあ、どうなのよー?」
木田が少し大きめの声でそう訊いてきた時、クラスの人間達の意識がこちらに集中している気がした。しかし周りを見回しても誰とも視線は合わなかったので、おそらく気のせいだろう。
「僕に訊いてどうするんだよ?」
「そんなこと言っちゃってー。もったいぶらずに、どうやったらモテるのかを教えてくれよおー。明日……いや今日から工夫し直さなきゃと思ってさ。釣り、についてなんだが」
木田が釣り竿のリールを巻きあげるかのような動作をしながら、やや興奮気味な様子で目を輝かせている。僕は声が大きくわざとらしくならないように、饒舌にまくしたてた。
「そうだなー。まずは餌の方にも気を遣わないと。カフェや公園など、人通りの多いところへ誘うのがいいかな。映画館とかそういった暗所へいきなり誘うのは逆に怖がられるだけだろうし。大切なのは順序。あと、リールにも気を遣うこと。ジャンクなんてもってのほかだ。垂らした釣り針に食いついた魚には責任をもって………なんて」
自分でも何を話しているのかわからなくなった。
「しつも~ん! リールの例えがわからないんですけど!」
そんなの僕も知らない。
「あ~、まぁ、あれだよ、あれ」
ひとが友達と話しているところへ乱暴に割って入って来るあたり、こいつが周りに好かれない理由の一端にもなっていることだろう。過去にウケたことのある冗談を何度も繰り返す、周りを威圧するかのような大声で話す、人の話を聞かない、無神経・デリカシーなし、その他。空気を読まない行動をコンプリートしているんじゃないか。イジメられていないのが不思議なくらい。
学校のやつらがイイヤツばかりで良かったな。きちんと教育の行き届いているヤツばかりでよかったな。見習え。
「あれだよあれ、って、『あれ』じゃわかんねぇよ~」
もういいだろう。勘弁してくれ。どうやったらモテるかなんて、そんな方法を知りもしない僕に、執拗にしかも大声で訊いてくる。まるで嫌がらせというか、色々と配慮が足りないというか………。
(悪いやつではない筈なんだけど………)
本人にはひょっとしたら自覚があるのかもしれないが、要するに男にも女にもモテないのだ。
「気を遣うリールって意味深じゃーん?」
「ただ、下種な下心が丸見えでもあえて誘いに乗っちゃうような子も多いからなー」
「あはは、言えてるー」
この際誰がゲスなのかは置いといて、だ。
「やっぱモテるやつの話は違うなー、なっ!」
そう言いながら木田は背後にいたグループの一人の肩を叩く。こちらの会話もそこそこに、今度は違うグループを踏み荒らしに行ったようだった。
僕が内心ほっとしていると、話していたクラスメイトの内の一人、津田が口を開いた。
「無視したりしないんだな」
「ああいうのは、ね………仕方ないんじゃないかな」
「それは優しさか?」
「違うけどさ」
「……まぁいいや。誰にでも優しいのは結構だけどな―――うっ」
「?」
津田は急に固まってしまった。まるで何かに驚いたような、怯えたような表情。何かにどん引きしている顔、とも言えるかもしれない。
「そ、そういうの、良く思わないヤツもいるから気を付けるようにしろよ」
話を再開した津田は自嘲するかのように笑顔を引きつらせた。その視界に僕は入っているのだろうが、焦点はこちらで結ばれていない。
「良く思わないヤツ?」
僕はそう言いながら、津田の見ていた教室の入り口を振り返る。
誰もいない。
「ま、まぁ、なんだ………優しさとか思いやりってのは、人を選ばなければいけないよな、うん。でないと、その……こ、この先誰かに優しさをあげることすらできなくなることもあるかも、ってことだ。優しさそれ自体にだって、与え手も受け手もダメにしてしまうかもしれない毒が含まれているわけだしな」
「妙に生々しい話題だな」
ありがたい話は要領を得ず、その表情はぎこちない。次の瞬間、津田は僕の肩に手を置いた。
「お前、くれぐれも気を付けろよ。絶対に間違えるなよ」
「どういうことだよ」
「お前のために言ってるんだ。お前と、お前に関わってしまってるやつのために。しかし、何だな……休み時間の度に教室を抜け出して来てるんだろうが、すごい執念………」
「……? ああ、ありがとう。でも大丈夫だよ」
「そ、そうか………。ならいいんだけどな………」
「?」
何が言いたいのか。この場面でそんなことを言う意図がいまいちわからなかった。けれど比較的近しい間柄だからだろうが、そんな忠告まで、そんな心配までしてくれる津田自身も人が好いと思う。
ただ、その忠告と心配は的外れなのだ。的外れもいいところなのだ。
人間関係について言えば、僕は別に、クラスで浮いているようなやつを生暖かい目で見守るような、どうにかしてそいつに手を差し伸べてやるような心優しい人間ではない。
優しさ云々どころの話ではない。
興味がないだけなのだ。冷めている、と言ってもいい。
誰かに対して、僕が積極的な感情を抱くことはない……だろう。
それは諦観だとか挫折だとかいうのとほとんど同じものかもしれないけれど。
感情を抑え、心が少しずつ擦り減っていくのを待つことが正しいと思っている。
………でも、それでいいんだ。
無感動に感情を擦り減らすだけだとしても、それでいい。
そうすれば―――
「――セツくん。帰ろ?」
ほら、こんなにも早く放課後を迎えられる―――。
三
放課後はヨーコドーに行く約束だった。
「他にもヨーコドーに用事が?」
「お花だけでもいいんだけど……他にも見て回りたいかな。ねっ、付き合って?」
「いいけど。余り遅くならないんなら」
「りょーかい。荷物持ち、よろしくね♪」
「ああ」
花。それは今、病院で眠り続けている人のためのもの。
もちろん、見舞いに行くことには違いないのだが、しかし見舞いというよりは―――何だろう、休憩みたいなもの、とでも言うべきだろうか?
結局、慰められているのは僕の方なのだから。
こんなことばかりを繰り返して。時間が止まることを、いや、時間が巻き戻ることさえ望んでいる自分がいる。一体、僕は、何を―――
「――ん、――ツくん、セツくん!」
「………え?」
大きなT字路を左へ曲がろうとしたところを、瑠璃に呼び止められた。
「どうしたの? さっきからぼうっとしちゃって。ヨーコドーはこっちでしょ」
いけないいけない、最近どうも呆けていることが多くなってしまった。
「そんなに油断してると、刺されちゃうよ?」
「確かにそう……………ん⁉」
刺され………え?
「殺人鬼に」
だ、だよなー。それは危ない。本当に危険だ。絶対に避けるべきだ。
「なーんて。まだ明るいから大丈夫だろうケド」
「あ、ああ、わかってる。それを言ったら、僕よりも―――」
僕の言葉は、瑠璃の方が危なっかしいのではと反論する意図だったのだが、やはり瑠璃は好意的に受け取った。
「あれ? そんなわかりやすく………珍しい、心配してくれるんだ?」
「…………」
……すぐこれだ。僕は瑠璃から顔を逸らし、ポケットからスマホを取り出して時間を確認した。
「むーっ、無視かっ! なんだか今日は冷たくない⁉」
そんな僕の態度が気に入らない瑠璃は少しむくれる。
「………一時半、か」
もう二月で、冬至から大分遠ざかったが、日没時刻はまだかなり早い。それと例の殺人鬼出没のことを考えると、いつもより更に早い時間で切り上げた方がよさそうだ。
「少しならゆっくりできる、ってところかな」
「……そだね」
そして僕達はしばらく無言で歩く……のも少しアレなので、僕の方から仕切り直そうとしてみる。
「それにしてもダルかったよなぁ。土曜日は生徒を学校に駆り出すより、自宅学習でいいんじゃないかと思っ―――」
「ね。せめて普段は、普段くらいは頑張ろうよ」
しかし突然、瑠璃はこちらを見て、僕を憐れむような、責めるような表情に―――いや、違うか―――瑠璃は僕と目を合わせながら、ただ寂しさを湛えたかのような表情になってしまう。
「………ああ。どうした? 急に」
「今、セツくんが寂しそうな顔してたから」
「何だそれ」
ああ、僕の方がそういう顔をしていたということか。
「だって、偶にそういう顔してるよ?」
「そんなことないって。……ほら、着いたぞ。ヨーコドー」
考え事をしたり、瑠璃と会話をしていたりするうちに、僕達は既にヨーコドーの手前まで来てしまっていた。
「……ま、いいけど。セツくん、それじゃ約束通り―――」
「りょーかい」
僕は仕方がないという風に肩を竦め、瑠璃は足取りを弾ませてヨーコドーの自動ドアをくぐって行った。
瑠璃と一緒に、ヨーコドー内のクレープ屋で軽い昼食をとり、予定外だったその他の日用品の買い物までも済ませた。そして今、デパートというデパートにありふれているであろう雑踏の中、ヨーコドー一階の一角にて、僕は買い物袋を持ったまま直立不動の姿勢を貫いている。
僕がこんなところにいる理由は、瑠璃がデパート内のフラワーショップで花を買っているからだ。今日の買い物の本当の目的であるわけで、けれどもそれを選ぶのは僕でなく、瑠璃の役目なのだった。なんでも、僕だと花のことについて何も知らなさすぎるから、とのことだ。一緒にいても役に立てそうにないので、僕は一人で待っていた。
「………」
ポケットからスマホを取り出した手が、一瞬ピクリと震えた。
手持無沙汰になるとついスマホでニュースをチェックしてしまう。『ニュース依存』もとい、『スマホ依存』という悪癖をあらためて自覚する。その瞬間、もともと削がれるほどもなかった興が完全に削がれたので電源ボタンを押す。点いたばかりのスマホの画面は真っ暗になった。
(現状では、一日や二日で何かが変わるわけでもなし………)
朝のニュースを思い出しながら、仕方ないと溜め息を吐く。
知りたいのは、政治でも経済でもグルメでもエンターテインメントでもない。
「あれ」
そしてスマホから顔を上げた僕が見つけたのは、一人の見知った人間だった。
「美織?」
「せ、雪衣くん⁉」
大きな紙袋を手に提げている彼女は、僕に気付いてとても驚いたようだったが、それでもその声はデパート内の喧騒に容易くかき消されてしまうほど小さいものだった。
「どうしてここに⁉」
「ちょっと花買いに来てたんだ。そっちは……っていうか、今日は学校来てなかったよな? 大丈夫なのか? 風邪だとか―――」
彼女、橘美織は僕と同じ二年一組だ。彼女はクラスメイトである以前に中学の時からの知り合いで、僕の数少ない、そして親しい友人の一人でもある。
彼女はパーカーにデニムといった格好でウロウロしていた。全体的に長めの黒髪で、後ろは背中の中ほどくらいまであるだろうか。揃った前髪は額を覆い、整った顔に影を落としている。もったいない、せっかくの美少女なのに。上目遣いで遠慮がちに話す彼女の様子が、その大人しく地味な印象に拍車をかけているようでもあった。
「へ、へぇ、そうなんだぁ。じゃ、その……瑠璃ちゃんも……?」
「あぁ、すぐそこで花を買ってる」
「あ、あぅぅ………」
僕が背後を見ずに親指だけで示すと、美織はそこに何を見たのか、呻き声ともとれるような、声にもならないような声を出しながら後ずさりしていく。
「ところでさ、何で今日お前は休ん―――って、美織?」
「わ、私はこれでっ、さよならぁ~!」
突然駆けだしたかと思うと、一定の距離を進んだ彼女がチラリとこちらを見た。その顔が少しだけ悲しそうだったのは………。
「……何だあいつ」
僕がその表情の意味を考える間もなく―――
「せ~つくん、お待たせ」
背後から、少なめの花束を持った瑠璃が声をかけてきた。
美織のあの態度は気になるが………。
「じゃ、行くか」
「うんっ!」
僕達はヨーコドーを後にした。
「今の、みおちゃんだよね?」
ヨーコドーから大病院までの道すがら、やはり瑠璃は先刻のことを訊いてきた。
「ああ。なんだ、見てたのか。声かければよかったのに」
「そ、う………だよね」
瑠璃がわずかに目を泳がせる。
(……? 何だろう?)
「そういえば瑠璃、中学まではアイツと仲良かったよな?」
「うーん? まぁ……普通かな?」
瑠璃は僕の質問に曖昧な返事をすると、笑顔を作って僕から目を逸らしてしまった。
「あのさ、一方的に避けるっていうのはおかしくないか?」
「別に、避けてないよ? 普通だよ?」
今の質問、主語は美織のつもりだったんだけど。
「本当か?」
「本当、本当」
「………そっか」
どうやら話題はすぐに変わってしまいそうだ。ま、仕方ないか。どうしても答える気がないというのであれば無理に訊き出すわけにもいかないし。
「そんなことより―――」
瑠璃はそう言って僕の正面に回り込み、僕を見上げた。そうして口を尖らせ、形の良い眉を寄せると、僕を詰問する時間が始まるのだ。
「セツくんこそ、みおちゃんと何を話してたの?」
「いや、何も話してないよ」
「本当に~?」
正しくは、何も話せていない、というところだろう。実際、最近の彼女とはまともに話すことがなかったし、友人として積もる話もあろうものだが、デパートで偶然見かけたくらいで一体何について話し込むことができるというのだろう。
「本当だっつーの。何も話してない」
「みおちゃんを見つけたら嬉しそうに話しかけてたように見えたけど?」
「別に嬉しそうになんか………ただ、友達が学校を休んでたから、その理由を訊こうとしただけじゃんか」
「ふぅん?」
瑠璃は少し気を悪くしたようだったが―――
「(そっかそっか~。ただの友達、かぁ)」
瑠璃が小さく呟いた時は、心なしか嬉しそうに見えた。
四
三渡船祀大学附属病院。しばしば三大病と略されるが、それはどうかと思う。
ここは僕の進路などとは全く関係がない筈の大学に付属する、言わずと知れた大病院なのだった。見上げるだけで心が空っぽになるような、白色で大きな建物の割に玄関は小さな自動ドア。医療というものを象徴しているかのように感じられるのは、多分気のせいだろう。玄関をくぐったところは、たくさんの固定椅子が並ぶ大きなロビーとなっている。椅子が向いている方向の壁に取り付けられた大型のテレビモニターが、音もない笑い声を上げていた。それがただ消音になっているだけであることを確認すると、僕は九〇度向きを変え、受付へと向かう。
「セツイです。三○三、面会お願いします」
「廻璃様へ面会の雪衣様ですね。どうぞ。面会時間は七時までとなっております」
エレベーターで三階まで上がる。三○三号室までの道のりは、もう既に充分すぎるほど身体に染みついていた。
『三○三 祭華 廻璃 様』
今日まで何度確認したかわからないそんな表札を確認して病室に入ると、廊下とはまた違う雰囲気だった。職員や患者の歩く通路の、慌ただしさがない。きっと空気の流れが穏やかだからだろう。何度も訪れているから慣れてしまったというのもあるとはいえ、変に安心感が得られてしまうのは複雑だけれど。
病室の入り口を境に、緩やかな流れの時間に包まれ、しかしというかやはりというか、少しだけ肩の力が抜けてしまい、病室の中をぼーっと見渡していた。
それほど広くはない。この病棟で入院するとなれば四人相部屋が普通で、一部屋あたり二〇平方メートルほどの床面積になる。一人用であるこの個室はその三分の一程度だろうか。そうした小ささも、この妙な安堵の原因かもしれない。
「…………」
壁の白と床の乳白色を、窓からの陽光が照らしている。病室の清潔な白壁を背景に、きちんと清掃が行き届いたリノリウムの床がぼんやりと浮かび上がり、設えられたベッドとの境界を曖昧している。僕はベッドの側まで歩くと、陽の当たったシーツの端を撫でてみる。確認するまでもなく、そこは仄かに温かくなっていた。
「花瓶、そろそろ新しいのにしようかな」
ヨーコドーで買った、スノードロップという花を活けながら瑠璃は言った。この辺では余り売っていない種類のようで、もの珍しさで買っただけ………ということらしい。
青い空を切り取ったような窓を背景に、真っ白な花瓶は無機質な光沢を放つ。そこに活けられたスノードロップの花にも、何か冷たさのようなものを感じる。僕の視線はもっと人間的なものを求めて、ベッドの上へと落ち着いた。
「…………」
ベッドには一人の少女が安らかな表情で眠り続けていた。身体の大部分は布団で覆われてしまっているが、布団の隙間から伸びた線が横の機械に繋がっている。表情に反して、その見た目が少し痛々しい。
(廻璃―――)
今眠っている少女―――廻璃は、僕の家族だ。血の繋がりがない、僕の妹。本当は、瑠璃と血を分けた、瑠璃の妹。けれど一緒に住んでいた時期が長かったから、僕の妹でもある―――というわけだ。そう思うことにしている。だから、家族。
「…………」
ベッド横のモニターには、廻璃の規則的な心拍が緑色の折れ線になって映し出されている。僕は安堵したような、裏切られたような気持ちになって、眠り続ける廻璃を見た。
かつては、あらゆる景色を映し爛々と輝いていた目も、今は閉じられていて―――
僕は今も、あの美しい、茶色に輝いていた虹彩を思い出すことができる。
かつては、可愛らしく快活だった表情も、今は安らかな寝顔で―――
僕は今も、あの美しい、みずみずしい笑顔を憶えている。
僕が『おにいちゃん』などと呼ばれていた頃が懐かしい。本当に。
ガサリ、と音を立て、僕の手から荷物が落ちる。
「―――ん、あたし―――」
「…………」
「――しはずっと、――いる――ね」
「……え?」
「あ――しはずっと側にい――から。………りと違って」
「何言っ――」
出かけた台詞の続きを、喉の奥でギリギリ堰き止めることができた。
「――あぁ。いや、それは困る。しっかりと自立した人間になってもらわないとな」
本当は、『何言ってるんだ。廻璃だって、こうして一緒にいるじゃないか』と言ってしまうところだった。実際、そう思ってしまった。でもそれは。
(ヤバいやつの言うことだよなぁ)
別に、瑠璃にどう思われるかを気にしているわけではない。ただそれを言ってしまうと、僕が僕でなくなってしまうような気がしたのだ。
廻璃から目を離せない僕に構わず、瑠璃は言った。
「……大丈夫だよ」
「何が」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
「大丈夫」
それでも瑠璃はそう続ける。いつの間にそうしていたのか、僕の背中には瑠璃の身体が重なっていた。小柄な体躯で僕に寄りかかり、その両腕で僕を抱きしめる。後ろからそうされたのではその表情を窺うことも、瑠璃を抱き返すこともできない。
瑠璃はその微妙な力で、僕の動きを完全に止めてしまう。
(時間が、止まろうとしてくれているみたいで―――)
目を閉じる。景色も、音も、思考さえも無理矢理にシャットアウトしてしまう。
何も見ない、何も聞かない、何も考えない。
ただ触れ合う―――その感覚のみが全て。
僕と瑠璃は、歩くことも座り込むこともせずにしばらくそうしていた。
そう、いつもこうだ。毎日ではないかもしれないが、毎回こうなのだ。
僕が何を思っていても。僕がどんなことを感じていても。
(大したことじゃない―――)
廻璃がいる。瑠璃がいる。美織だって、元気そうだった。
(何も、悲しいことなんてない―――)
僕がそうやってある言葉を呟いた時、少女の声が重なった。
「大丈夫、だな」
「大丈夫、だよ」
それは、互いに言い聞かせ合うような呟きだった。
2 変調前進
一
『 、 ―――? ? っ⁉ おいっ、どうした―――』
――を………少女を抱きかかえた僕の腕が、袖が、真っ赤に濡れてしまった。それは決して赤い水などではなく、赤い油のようなもの。綺麗な鮮紅色だった。
(まいったな、本当にまいった。ポスターカラーなんて、普通に洗っても落ちないぞ)
そう思っても、それを容赦なく否定してくる現実の、液体の温度に、感触に、ニオイに、泣きそうになる。
だって、リアルなんだ、すごく。ぬるくて、ぬるぬるしていて、とても、有機的な、無機物のニオイ。
『おかしいな。僕、油絵具は美術の授業でしか使わないから、学校に置いたままの筈なんだけどな。やっぱりこれはおかしいよな。ありえないよ』
そう言って、顔を引き攣らせてでも笑おうとする。
(何が起き―――え、なぜ―――)
納得がいかなかった。なぜ? なぜこうなった? なぜ少女は今眠らなければいけない? 意味がわからない。わかるわけがない。納得できない。できるわけがない。
……いや待てよ、ひょっとしたらこの少女は眠っているのではないか? そうして自分を驚かそうとしているのではないか? きっとそうだ。そうでなければ困る。
『ははっ、もうドッキリはいいってば、おい、ちょっと』
笑えるほど起きない。揺すっても目を覚ますことはない。ただ横隔膜が痙攣するように笑えない冗談に笑ってしまうように、僕は呼びかけ続ける。
『起きないと、ほら、冗談じゃなくなっちゃうから。そろそろ起きても大丈夫だぞ~?』
信じられないほど深い眠りだった。あれだけ起きていたのに。
まるで冗談ではないみたいに。
まるで死んでしまったかのように動かなくなった。
(いや違うまだ生きている。ほらこの通り心臓だってちゃんと動いているのだから。それにほら呼吸だってさこんなに苦しそうで弱々しいけれどちゃんと―――)
どうしていいかわからなかった。
そして背後に何かを感じると―――。
………―――――…――……
僕は、弱っていく少女を見続けていた。
うろ覚えの止血をして、じっと見続けて、静物のように、動かずに、静かに。耳の後ろから自分の動悸が聞こえてくるほどに。
ああ、と。
ただ絶望していた。
『救急車……救急車‼ は……くき………ぉ~!』
誰かの―――いや、隣で今にも泣き出しそうにしていた、瑠璃の声が遠くなる。
そんな中、はっきりと聞こえる声があることに驚く。息も絶え絶えに、少女はかつての願いを口にした。
「……たし、も………せに……なりたかった………」
ここで僕の記憶は暗転する―――。
『―――ん………ょっと、――くん、セツくんってばぁ』
(…………)
「セツくーん? せーつーくーん!」
暗い部屋で、小さな赤い光を宿した大きな宝石が二つ、目の前にゆらゆらと浮かんでいる。その輝きに言い知れぬ恐怖を感じてしまい、吐き出そうとした息が大声に変わった。
「―――ぅぉわあああぁぁっ‼」
「きゃぁっ⁉」
悲鳴と共に遠ざかったその宝石は、瑠璃の双眸だった。
叫んだ僕はといえば、自分の部屋のベッドの上に寝ていたのだった。いつもの就寝時間になったから、いつも通りに眠ったんだっけ。もっとも、最近はよく同じような悪夢で起こされてしまっているけれど。
時刻はおそらく真夜中だろうが、確認する気にもならず、気怠さに任せて暗闇を見つめていた。
「瑠璃………か。おどかすなよ………」
「こっちの台詞。もぉ、びっくりしたぁ。セツくん驚きすぎー」
僕の身体にかかる軽い圧力。それは主に、僕の腰部と腹部にかかっているものだ。
瑠璃は両膝で僕の胴体を挟み込むようにして馬乗りになり、背筋をピンと伸ばしたまま僕を見つめていた。その目には『充電中』であることを示す僕のスマホの赤いライトが映っている。それは枕元に充電中のスマホが置いてあったからなのだが、瑠璃はその小さな光を気にしている様子はない。暗い部屋で赤い目をし、唇を潤わせ、しっかりと僕を見つめる瑠璃の様子には、背すじを細い指で撫でまわされるような、そんな感覚を呼び起こされるような妖しさがあった。
「………重いんだけど」
ようやく紡いだ理性は、動揺を取り繕うのに必死だった。
「あっ、ごめん……じゃなくて。もー、すぐそういうこと言う」
瑠璃の声は落ち着いている。
「どうかしたのか?」
「あたしじゃなくて」
瑠璃は首を横に振った。
「うなされてたから」
「僕が? そんなに?」
「うん。隣の部屋まで聞こえてきたよ」
少女の心配そうな声が僕の耳に心地好い刺激を与え、その手は僕の頬を包み始める。
「そうかぁ。ちょっと………悪い夢だったからな」
それは悪い夢でも何でもない。限りなく幻想に近い、ただの記憶なのだ。
瑠璃は馬乗りだった上半身を倒し、僕の耳元で囁く。
「どんな?」
心をくすぐるように艶やかで澄んだ、みずみずしい声。そしてこちらの方が溶けてしまいそうになるほどの、ひかえめながら柔らかい感触が、何かを誘うように僕の胸の上を支配していた。
「どんな悪い夢だったの?」
「…………」
悪い夢は悪い夢だ、と。僕はわざとらしく考え込む間をおく。
「……忘れた」
僕のその返答が気に入ったのか、瑠璃は笑顔で小さく頷くと、
「そう。残念」
とだけ言った。
「あぁ………」
「ふふっ。今日はこっちで寝ちゃお」
「…………」
もう用は済んだだろうと話を切り上げるが、瑠璃は自分の部屋に戻らず、僕の布団に潜り込んできた。
「おやすみ」
「………おい」
こっちで寝るのかよ、とつっこむものの。
「ダメ?」
「ダメじゃないけど」
「それじゃ、おやすみ」
「…………」
やがて訪れる沈黙。瑠璃が寝息をたて始める前に、僕は挨拶を返した。
「………おやすみ」
寝る前の会話はこんなもので終わる筈だったのだが、しかし、その言葉にさらに応えるように、瑠璃は呪文のような言葉を口にしてしまう。
「ずっと、このままなのかな―――」
その一言は、どうしようもなく快楽に耽溺するような調子で、とても心地好く―――
その声だけで、僕の意識は暗闇に溶けていくのだ。
二
日曜日。午前一〇時ジャスト。
ピ――ン―――ポン――――
(あ、美織だ。時間通りだな)
美織が家に来た。定刻であることと、控えめなチャイムの調子でそれとわかる。
「よっ。時間通りだな」
「お、お邪魔しま~す」
玄関の外できょろきょろと辺りを見回し、玄関から入っても家の中できょろきょろと周囲を見回す。それは自室へ招き入れても同じだった。
前髪が長めなことも合わさってか、表情には影があった。どこか思い詰めた様子というほどではなかったけれど。ただ眠いだけなのかもしれないけれど。わざとらしいほど動きに落ち着きがないように見えるのは、この家に住む僕以外の住人を気にしているからだろう。
「瑠璃ならいないけど」
「そう………?」
「ああ。買い物……じゃないな、いや、買い物だったかな? とにかく、しばらくは帰ってこないと思う」
朝起きたばかりの時はいつも通り寝ぼけていたものだから、瑠璃の言ったことが頭の中に残っていなかった。
「ならよかった」
ほっ、と胸をなでおろす美織。
(本当、変わっちゃったよな………)
こうしてゆっくり話すことができる状況は、実は随分と久しぶりだったりする。
中学時代は、というか高一くらいまでは、美織とは変わらず親しくしていたつもりだった。明るい美少女で、友達としては非の打ち所のなかった少女だった。ただ、今にして思えば、関係を発展させる気は僕にも美織にもなかったと思う。二人とも交際相手というのはいなかったとはいえ、僕には大切な妹がいたし、美織とはとりあえず一緒に遊ぶだけで、それ以上は望んでいなかった。美織も僕には興味がなかったのだろう。
にもかかわらず、僕達は馬が合った。互いに共通していた趣味といえば、一昔前のアーティストの曲が好きなことくらいだった。しかし、いや、だからこそ不思議なことに、美織は美織で女子らしい趣味、僕は僕で男子らしい趣味をちゃんと持っていて、やはり好きなアーティストが同じというところ以外は全く共通点などなかったのに、やたら一緒にいた気がする。一緒にいるだけ、一緒にいても益体のない会話を延々とするだけという仲なのに、互いの家に遊びに行ったことだって数知れない。
(ま、何の感傷にも浸れない話だけど)
しかし、美織は変わってしまった。
あれは確か、高一の夏休みの頃だったか。毎年、夏休みには隣町の川沿いで大きな花火大会があった。たくさんの屋台が並び、多くの人々で賑わう大きな祭り。地元の人々も多く、わざわざ遠くから来る人々の数だって多い。ツアー客や家族連れ、友達同士で集まる人やカップルなど………そこである者は失恋に泣き、またある者は恋の成就に顔をほころばせたことだったろう。まぁ、別にそればかりではないだろうけれど、僕の周りはそんなのばかりだった気がする。
多かれ少なかれ、花火大会を主な行事とする夏休みに、何かしらの変化があるものだった。
それは僕の人間関係も例外ではなく―――。
(そうか。変わったのは、美織だけじゃなくて、本当は僕の周囲すべてだったのかも)
その夏休みが終わる頃には、僕達の人間関係はすっかり変わってしまった―――いや、変えられてしまっていた。
それは一昨年の夏休みのことだ。
三
ピロピロピロピロ ピロピロピロピロ
家の一階。廊下で、固定電話の頼りない音が鳴った。
「はい、もしもし」
『あ、私で~す。雪衣くん? 急でごめんね』
美織が電話してくるのは珍しくないけれど、家の電話にかけてきたのはこれが初めてではないだろうか。
「どうした?」
『あ、今さ、瑠璃ちゃんいないよね………?』
「僕の側にはいないな。それがどうかしたか? 用件は聞かれちゃマズかったり?」
『ううん、何でもない。用事はそれに全然関係ないんだけど………いや、全然関係なくはないかぁ………』
美織はわけのわからないことを呟き続けるものだから、用件がわからなかった。
「家の電話にかけてくるなんて初めてだったからびっくりしたよ。で、何か用?」
『うんとねぇ………その、あれ―――』
中々本題を切り出さなかった美織の話をまとめると、僕は美織から花火大会に誘われているようだった。
『で、どうかな………? 急な連絡で申し訳ないんだけど』
「わるい、美織。ちょっと今日は無理だったりするかも」
『……! そっかぁ、そうだよね。急だったし、雪衣くん、忙しいもんね………』
「いや、そうじゃなくて……だから、無理だったりする『かも』って言ったろ? 妹と行く約束だったんだ」
『――えっ……?』
美織の声が強張った。一瞬だけ、緊張度が急上昇したようだった。
「あぁ……妹っていうのは―――」
「おにいちゃーん?」
突然、受話器の外、二階の方から声が聞こえてきた。電話中だというのに……といっても、廻璃は二階で何やら忙しそうだったし、電話に気付いていないとしても仕方ないか。
「ちょっと―――」
「悪い、今ちょっと電話中だから後にしてくれー!」
僕は二階に叫ぶと、受話器を耳に当て直した。
『あ、ひょっとして廻璃ちゃん?』
ほっとしたような声を出す美織。何だろう?
「ええと………あれ? 廻璃を知ってるのか?」
『瑠璃ちゃんのお姉ちゃんだっていう子でしょ?』
「妹、な」
『あれ? そうだっけ? ……で、とにかく明るくて、可愛くて、頭がぁ……良くて、う、運動し神経も………いい………子……だよね………』
(運動視神経………? 動体視力のことか?)
後半の語調から劣等感がひしひしと伝わってきた。
「そうか、知り合いだったんだな。あと、運動神経が~とか言ってるけど、美織の運動神経だっていい方だと思うぞ……(少し)」
運動神経はふつ………いや、平均的な女子より、少しだけ運動が苦手な女子と比べれば、美織の運動神経は少し良い筈だ。
……美織の成績についてはフォローできなかった。
『うぅ……ありがとぉ。え、少し?』
「まぁそれは置いといて。で、妹同伴なのはオーケーか? 別にそれでもいいって言うなら、僕からは文句ナシなんだけど」
『なぁんだ、そんなこと気にしてたの? いいっていいってぇ』
(さっきまで瑠璃のことを気にしてたのに?)
まぁ、ここで問い詰めても仕方がないか。
「それと、うちの妹は美織のことを知ってるってことでいいんだな?」
『そうなるけど………うん、そうなるね』
「? じゃあ、知り合いってことだよな?」
『ふふん、あの子はまだ夏の私を知らないようだけどねぇ』
「?」
『金魚の救世主‼』
「どうした、突然…………あっ」
金魚すくいって?
「うわ、寒っ! 夏なのに今一瞬寒かったぞ」
でもそれ、結果的に金魚はほとんど助からないんじゃないか? 全然洒落てない洒落ももちろんだが、何よりすくわれる金魚の未来を想像すると不安がよぎる。すくわれても救われないというか―――あれって、その後の生存率はどのくらいなんだろう………。
『でも、よかったぁ』
「……?」
『妹さんだって言ってたっけ。そういえばそうだもんねぇ』
「それがどうかしたのか?」
『何か、兄妹にしては仲が良すぎる気もしてたから………』
「ははは、何言ってんだよ。やめてくれ、兄妹だぞ」
大袈裟に否定してみせた後、自分の顔が引き攣っているのがわかった。
『本当~? 普通の兄妹にしては仲良いし、怪しい雰囲気にも見えるんだけど。兄妹間の禁断の愛………でなければ、義理の兄妹、とか。ていうか、似てないからその方が納得でき―――』
「そっ、れよりっ、金魚セーバーさん、集合はどうする? 来るか? 僕達がそっちに行こうか?」
話題を無理やり切り替えた。
「あぁ、いや、どうせ駅に行くんだもんな。駅に集合した方が効率的なのか………」
美織の家と僕の家はそれほど遠く離れていない。花火大会が行われる川沿いの広場までは、どちらの家から出発しようと大した違いはなかった。まずは最寄りの同じ駅を目指すことになるからだ。
『えっ、集合⁉ そ、そうだ! そういえばこれって、デっ、デ………』
意味深なことを呟くと、美織は黙り込んでしまった。
(デ………? で? 電話か? 電話だよな)
美織が今まさに手に持っている『これ』は間違いなく電話だろう。両手を放して電話する事情があるのならまた別だけれど。
「美織? やっぱり僕達がそっちに行こうか? それでオーケー?」
『え、ぇえ駅に集合で!』
「え?」
『混むから、七時っ』
「おい、ちょっ―――」
『じゃ、じゃぁねぇ~‼』
ガチャッ ツー ツー ツー ツー
「………。何だあいつ」
本当、偶にだが、美織は突然に、今さっきのようなつれない態度をとることがある。
「まぁ確かに、どちらかの家にわざわざ寄る必要もないか」
「おにいちゃん? どうしたの? 今の誰?」
階段を下ってきたらしい廻璃が、いつの間にか僕の顔を覗き込んでいた。
「偶然、アイツも今から花火大会に行くんだとさ。駅で待ってるって。皆で一緒に金魚すくいするんだって言って、なぜかすごくやる気だったぞ」
「みおちゃんが? ふぅん……それじゃあ………」
「で、そっちこそどうした?」
「あ、そうそう。明るい感じ、落ち着いた感じとかがあって……青とか黒とか赤とか……どれがいい?」
「? あ、そっか、着付けだよな」
廻璃は今、僕の母親に振袖の着付けをしてもらうところなのだろう。
「黒っぽいの以外なら。でも寒色系か暖色系かぁ。迷うな~」
「わかった。黒以外、でいいんだよね?」
「ああ」
廻璃は少し急いだ様子で階段を二階へ上がっていく。
「別に、黒だって悪いわけじゃぁないんだけど………」
黒い振袖を好む人を見かけるが……当たり前のことだけれど、花火大会は夜に行われるものだ。夜道ではドライバーから見えにくい筈なので、道路を歩く都合上できれば闇に紛れてしまうような格好はしない方がいいだろう。
(過保護かな……?)
既に支度を終えて暇を持て余していた僕は、廊下の壁に寄りかかってスマホを弄っていたのだった。必要な物はすべて、このウエストポーチに入っている。
『―――、~~~……。――ぃ?』
『――。………――、―――ぁ~』
二階から何やら話し声が聞こえてくる。その判然としない内容をなるべく聞かないようにしながら、心を躍らせて待つことにした。
しばらくすると、落ち着いた衣擦れの音とともに廻璃が階段を下りてきた。
「………お、おまたせ」
「お、ぉぉ」
余りの綺麗さに、思わず見惚れてしまった。
廻璃は振袖を着ていた。振袖は、青色の地に流れるような模様と赤い花とが絶妙なバランスで交じり合ったデザイン。髪を後ろで折りたたむように結い、見たことのない花をあしらった美麗な簪が飾られている。化粧は口紅をつけるとか聞こえていたけれど……。僕はてっきり、赤いおちょぼ口みたいなのを想像して、ある意味で楽しみだったのだが、ナチュラルに唇が潤っているような感じだった。
「へ、変じゃない……?」
廻璃は僕から視線を逸らし、こめかみ辺りから垂らした髪を、ひたすら指に巻き付けている。
「お、おおおお………」
スッ ベチッ
弄っていたスマホをポケットにしまおうとしたが、動揺の余りそれはポケットに入らず床に落ちてしまった。
「あらあらあら♪」
何となく照れくさい雰囲気の僕達だったが、そんな声とともに階段を下りてくる人物に気付くと、いつも通りの表情を取り繕う。
廻璃の背後からにんまりとした笑みをのぞかせたのは、母親だった。
「どう? この娘の着付け、なかなかでしょ」
「あ、ああ。ま、流石、着物の教室を開くだけのことはあるな」
落ちたスマホを拾いながら、僕は調子に乗り始めた母に皮肉を言った。
「お母さんね、すごいんだよ~? 色を言っただけで、これが一番似合うっていうのを大量の着物の中から選んじゃうし、それを完璧に着付けちゃうし」
「当然よ~、私の着付けだもの。でもそれだけではなくてよ? 私の着付けでこんなに映えるのはね、まだまだ綺麗になる娘の証なんだから。そんなに謙遜してないで、もっと堂々としていてもいいと思うわ」
廻璃の言葉を受けて、母はさらに鼻を高くしたようだった。調子に乗った母の言葉は、廻璃自身に何倍にもなって返ってきた。
「どう? セツくん。ほら、『おおおお』じゃなくて、ちゃんと感想を言ってあげないと」
廻璃は耳と頬を真っ赤にして俯いてしまう。
「い……いぃ、いやほら、行くぞ」
「あ、うん………」
母は「あらあらあら」と顔をだらしなく緩めながら僕達を見送っていた。僕は玄関で靴を履きながら、母のにこやかな表情に「チッ」と小さく舌打ちをする。
「ほーら、もっと嬉しそうな顔をしなきゃダメじゃない」
「母さんは得意げにし過ぎだっつの」
「あらあら、すっかり照れちゃって。『あんたの着付けなんかなくたってこいつは元々可愛いんだよ!』ってことかしらね~」
母は僕に意地悪な笑みを向けた後、廻璃の方を見てとんでもないことを言い出した。
「~~~~っ!」
「そこまで言ってねえだろ‼」
ていうかさっきの、僕の口調を真似したつもりか? 似てないよ。全然。
「はいはい、おアツいおアツい。いいから外でその熱を発散しておいで。―――あ、でも日付が変わらないうちには帰って来なさいね」
横目でちらりと隣を見遣れば、廻璃は俯いて顔を紅潮させ、黙ったままだった。
まいった。
「いってらっしゃい♪」
「いってきます………」
「チッ」
母がウザい。僕はもう一度舌打ちをすると、無言のまま玄関のドアを閉める。
「――りちゃんは、行かなく―――いの?」
閉じかけたドアの隙間から、廊下に立つ母ともう一人の姿が見えた。少女の名前は瑠璃。廻璃の双子の姉。小さい頃の瑠璃は明るく社交的な、まさに天真爛漫といった風だったので、今のおとなしい雰囲気とは対照的だけれど。
人って変わるよなぁ。
そんな感慨とともに僕はドアに近づいた。
(この前も誘った筈だけれど………まぁ、誘うだけ誘ってみるか)
もう一度ドアに手をかける。この突然の行動に驚いた様子の廻璃に構わず、僕は一度閉じてしまった玄関のドアを開けた。
「うーんと、一緒に来るか? 今から用意するっていうなら全然待つけど」
瑠璃と一緒に来ることになっても、美織との待ち合わせ時間など延ばせばいいだけなのだ。
「………っ」
瑠璃は一瞬こちらを見た。しかし……。
「……っ、………っ」
「―――え」
瑠璃はその両目に涙を溜めて、零れそうなほどに潤んだ瞳で僕を見つめていた。震える口角を上げ、眉の端を下げていたから笑顔を作ろうとしていたのだろうが、とても悲しそうな微笑だった。普段笑う時にそうするように目を細めていたら、涙があの頬を伝っていたかもしれない。
「お、おい、どうし―――」
僕が動揺して呼びかけた瞬間に、瑠璃は奥の部屋に駆け込んでしまった。戸が閉まると同時に家の中が静寂に包まれる。
「何だ? え、何?」
わけがわからないまま立ち往生していると、僕以上に母がうろたえているようだった。
「あ あ あ あ、ど、どうしよ、え、まさか、そうだったの⁉」
母がこちらを見た。
「?」
わけがわからないまま僕がその表情を見返すと、母は呆れたように顔を手で覆った。
「そうだったのね、そういうことだったのね……。私としたことが………」
「何かあったのか?」
「とんでもない勘違いを―――。まさか、二人ともだったなんて………」
「勘違い?」
僕がもう一度訊き返すと、母は少し考え込むようにしてから言った。
「ま、約束してたようだし今日は仕方ないわ。ほら、二人とも行きなさい」
会話のキャッチボールが成り立つ気がしない。まるで解説を乞うように廻璃を振り返ると、どこか申し訳なさそうに、気まずそうに家の庭の方へ顔を背けていた。
「………どうした?」
「えっ、あっ、ううん、何でもない。行こっ」
廻璃が歩き出したので、僕も閉じていくドアに背を向け歩き出した。
花火大会だけあって、駅は利用客で賑わっていた。そんな中で、僕達は人ごみを見つめながら二〇分ほど待っていたのだが、美織が来る気配はなく、約束の七時からもう一五分が過ぎようとしている。
「来ないね」
「おかしいな………」
美織は何があろうと時間だけは守るやつだ。守れないなら事前に連絡が入る筈だし、いや、それ以前に美織自身が決めた待ち合わせ時間なのだから、遅れるわけが―――。
「………あっ」
おかしいなと思っていると、スマホを見ていた廻璃が声を上げた。
「どうした」
「メールが来てた。みおちゃんから………」
チャーン
どちらかと言えば僕の方に来る筈のメールではと思ったところで、ちょうど僕のスマホにも美織からメールが来たようだ。
「お、僕のところにも来た」
メールボックスが開かれているスマホの画面には、やはり美織から送られてきたと思われるメールが映し出されていた。
From:橘 美織
To:雪衣くん
件名:ごめんね
本文:本当にごめん、突然だけど、急に彼氏からの誘いがあって行けなくなっちゃった
本当、ごめん……
「来れなくなっちゃったみたいだね」
「ああ。三度も謝ってるな………」
僕は本文をざっと読んだ。来れなくなった理由もきちんとあり、それが僕達に優先すべきことであろうというのもわかる。別に、おかしいことはない筈だった。
しかし、自分のスマホから視線を逸らして「仕方ないか」と伸びをした時に、ちょっとした違和感を感じた。
(あれ?)
美織に彼氏などいただろうか? 前に本人がいないと言っていたような………。
(それに、あのスマホ―――)
伸びをした時にちらりと見えてしまった、廻璃のスマホの画面。
廻璃のケータイなのだろうから、その宛名に廻璃の名前があるのは普通のこと、当たり前の筈なのだけれど―――。
(ブラインドカーボンコピー………は、関係ないか)
僕は余計な思考を振り払う。
「おにいちゃん」
「そうだな。こうなったら二人だけで楽しもっか」
「うん!」
気付いたのはほんの些細なことで、違和感だって別に―――。
(ま、いいか)
とりあえず花火大会は楽しもうと思い直し、僕達は駅の改札を抜けた。
四
僕達が来ているこの花火大会は毎年、約一万発の花火を見に訪れる多くの見物客で賑わう。屋台が並ぶ川沿いの主会場は川の土手を上がったところにあり、野球場と同等の広さをもっている。しかし客が多いものだから、近くにある駐車場も含め、主会場は非常に混雑していた。そして主会場から少し距離を置いた場所にまた別の空き地があるのだが、花火はそこで打ち上げられることになっている。僕達は打ち上げる場所と反対方向に歩き出し、毎年恒例の観覧場所へ向かう。
花火を見るための穴場スポットがあるのだ。
「あ~、そこだと花火があの木に隠れちゃうよ。去年はもっとこっちだった気がする」
「そうか?」
僕達は屋台を楽しんだ後、毎年のように来ている穴場でビニールシートを広げた。ここは住宅地と雑木林との境目のような場所で、小高い丘となっている場所だった。林の木々があと少し低ければ見晴らしは最高だっただろうし、ベンチでもあれば僕達でなくてもこの場所を観覧席にする人がいたことだろう。
「おにいちゃん、そっち座れる? 大丈夫?」
「ああ、多分」
「もっとこっちに来ていいよ」
「大丈夫だって」
シートの上に座る。今にあっては古めかしい、風流な蚊取線香セットまで用意して、もう既に準備万端だ。花火が始まるまでしばらく待とうと言いながら、廻璃は手にしていたビニール袋から、まだ冷めきってはいないたこ焼きのパックを取り出し、蓋を開ける。
「もごっ、うまっ、たこ焼きうまっ。ちょっ、おにいちゃん、このたこ焼き屋さんアタリだよっ」
「もうちょっと落ち着いて食べような………」
廻璃はたこ焼きを口に入れた途端飲み込んだように見えた。凄まじい咀嚼スピード。熱くないのかとも思ったが、どこかを火傷した様子はないようだ。廻璃はすぐに別のたこ焼きを櫛の先に引っかけると、僕の口元に持ってきた。
「あ~ん♪」
「………っ」
一瞬何をされるかと思ったが、そういうことだった。ただ僕は突然のことに驚いたので、驚きと照れ隠しとでそっけない反応をしてしまう。
「じっ、自分で食えるっての」
僕は廻璃の手から櫛をひったくると、櫛から落ちそうになっていたたこ焼きをギリギリのところで自分の口に運んだ。
頬の内側は熱くないが、頬の全体が熱い。火傷しそうなほどに。
「はぁ~、やっぱりダメかぁ~。おにいちゃんはどうしてそう素直じゃないかな~」
僕がたこ焼きを飲み込むのを微笑みながら見つめていた廻璃は、溜め息混じりに肩を落とした。
「誰がツンデレだ」
「そんな言い方してないし。ていうか自覚あるんじゃん………」
しまった。口が勝手に。
「気持ちはツーカーな筈なんだけどな~」
「………」
これだから廻璃は。僕が照れているだけなのを知っているくせに、直截的な感情表現が苦手なのを知っているくせに、そういうことを平気で言う。しかも正面から、それがわかって当然とばかりに僕の心を見透かしてくる。僕の日常生活において、精神生活において、プライバシーの垣根を越えてくる。
毎回そんな風に僕を辱めて、一体何が楽しいというんだ。とんだ羞恥プレイだよ、まったく。
「気持ちが通じてるとか、そういう恥ずかしいことがよくもまぁ簡単に言えるもんだ。じゃ、何か? 僕が素直になったところで、お前もそれに応える用意はあるのかよ?」
口を拭き終えた僕がずいっ、と顔を近づけると、廻璃が驚きの表情を見せる。
「きゃっ、な、なに⁉」
「動くなよ」
そのまま僕はわざとらしく廻璃の頬に左手を添え、右手の親指で廻璃の唇をなぞった。
「~~~~~っ」
できるだけ、それっぽく、そういうことがあることを期待させるような態度で。
「顔、真っ赤だな。ちょっと熱っぽいか?」
そう言いながら、額に手を添えてやる気などさらさらなかった。
廻璃は今まで見たことないぐらいに顔を紅潮させていた。それが恥ずかしさ故のものであることは、誰が見てもよくわかるほどだろう。廻璃はその震える右手を僕の左手に重ねた。
「……っ、待って………っ」
すると廻璃は真っ赤な顔のまま俯いて、僕の胸に左手でそっと触れた。押しのけようとしているのだとしたら、力が全く足りていない。右手を下ろした僕がその様子を観察していると、廻璃は―――
「め……目は閉じて、い、息もしないで………あたしの、たこ焼き、だから………」
と言った。
(~~~~~~~‼)
僕の方もわけがわからなくなるほど気分が高揚してしまい、空気を掴んでいた右手の所在がわからなくなる。
廻璃は目を閉じて頬を染め、肩と手を震わせる。何かを恥じらい、何かに怯え、そして何かを期待しているのだろう。廻璃がそのようにしていると、触れている僕が廻璃をいいようにしているような画ができあがってしまう。
(~~~~! ~~~~~っ‼ 落ち着け、落ち着けっ、僕っ!)
顔を近づけようとする。顔を遠ざけようとする。
興奮しながら、強力な何かと強力な何かが僕の中でせめぎ合う。
「………っ、……っ、……―――」
「…………」
「―――っ………」
「…………」
目を閉じた廻璃を前に、僕の何かは何かを抑え込んだ。
もっとも、抑えるのだって苦しかったが。
「……………ふぅ」
「………?」
妙に長い間を不思議がり、それでも目を閉じたままの廻璃を前に、僕は一息つく。
結局は、理性の勝利だった。
確かに、とても魅力的な状況だ。それはわかる。しかしどうも、廻璃をからかってやろうという悪戯心が込み上げてきてしまって、しかしそれとは裏腹に―――。
いや、こんなのは言い訳だ。
要するに、僕は骨なしのチキンだったということだ。
「――んっ………」
僕がさっきと同じように右手の親指で廻璃の唇を撫でると、廻璃が力の抜けたような声を出した。
「? どうしたんだ、急に」
「………へっ?」
パチッ、と驚きに目を見開いた廻璃。僕は種明かしをする。
「いや、口元に青のりが付いてたからさ………」
「………あっ」
ようやく事情を理解したのだろうか。廻璃は瞬きをしながら呟くような声を漏らすと、急いでポケットティッシュを取り出し、恥ずかしそうに口元を拭った。
僕はたこ焼きのパックの横に置いてあった小さな袋を見る。暗闇では一見それとはわからないが、粉末のような青のりが入った小袋だ。それは最近のたこ焼き屋にちらほら見られる工夫、人により好みがあるからと青のりだけ別添にした、冴えたアイデア。青のりだけが仲間はずれというのは心が痛まなくもないが、それにより女性が躊躇せずたこ焼きを食べられるわけである。好みでふりかければいいという考えだろうから、あの屋台では、次は鰹節がこうなる番だろう。
―――で、青のりの袋は未開封だった。
「お・に・い・ちゃ・ん~~~~~~‼」
廻璃は口元を拭き終えると、両頬にたこ焼きを作って怒り出した。
「僕をからかうからだぞ?」
「もうっ、ばかっ!」
「いたっ、いたいって、ははははっ」
無邪気な風で僕にぽかぽかと抗議する廻璃が、その小袋の存在に気付いているかはわからない。廻璃がどこまで理解してしまっているかはわからない。だからとりあえず僕は楽しそうに笑ってみせるが、どうしても人との適切な距離を測れない自分に嫌悪感を抱いてしまう。そして、こんな自分に付き合ってくれている廻璃に、感謝をしながら申し訳ないとも思っていた。
ドン ドドン ドドン
しばらく待っていると、花火打ち上げ開始の合図が上がった。
「始まるね~。今年は一万発くらいだっけ」
「どのタイミングかはわからないけど、途中でハート形とフラワー形とキャット形の花火が登場するらしい」
「そお? ふうん、今年はそうなんだね。なーんだ、おにいちゃんも楽しみにしてたんじゃん♪」
「このくらい、テレビの特集でも雑誌でも言ってることだろ」
「そうだっけ?」
あれ。そんなに興味ないのかな。
「だって、毎年やってるし~」
「あ、そう、だ、だよな~」
自分でもわかるくらい、声のトーンが落ちてしまった。
「―――ぷっ」
楽しみだったのは僕だけだったのかと、かなりのショックを受けてしまった僕の反応を、廻璃は笑い飛ばしてしまう。
「ふふっ、ごめんね、軽くショックだった? うそに決まってるでしょ。普通に楽しみだったってば。だって毎年、『当日は晴れますよーに』ってお祈りしてるくらいなんだから」
ほっ………と安心。そして、ああ、なるほど………と納得。
毎年この時期、うちの縁側に大量に発生する、首を吊られたのっぺらぼうの幽霊ってそいういうことだったのか。
「でも、てるてる坊主なんて、ちょっと古風過ぎたかな?」
「いや古風とかじゃなく、古今東西、てるてる坊主には顔ぐらいはあってだな―――」
家族が怖がるから顔ぐらい描いてくれ。頼む。
「でも、そうか……楽しみだったのなら、まぁ、いいんだけど………」
僕がひとりで盛り上がっていただけだったら、すごく恥ずかしいところだった。
「因みに今年の花火は、ハートとお花と、猫とあとは土星の形」
「ん、土星も? 目玉は四つ? あれ、そうだっけ?」
「おにいちゃん、予習不足ぅ~」
廻璃はくすくすと笑った。
ヒュ~~~~ ド―――ン――――
花火。空高くうねりながら這い上がっていく蛇のような閃光。蛇の頭が笛の音で鳴いていたかと思いきや、それは夜空いっぱいに美しく力強い花を咲かせ、鼓膜を叩くような轟音とともに消えてしまう。それは一瞬のことであり、それが儚いものだと思うことすら忘れて見惚れているうちに、次の蛇がまた花を咲かせる―――。
「ふふっ。ねー」
色々な花が咲いては消えるのをしばらく見ていると、廻璃が嬉しそうに声を漏らす。
「ああ。何とも言えない………」
あの、美しくて、それでいて儚さと力強さの両方を持ち合わせているもの。夜空の星に取って代ろうとでも言わんばかりの光の粒の広がり―――。
なんて、ここで言ったら笑われそうだな。
「え、何とも言えないって………。それだけ?」
僕のとりあえずの感想はソレだったのだが、台詞に続きを予期していた廻璃は不満そうだった。でも、だって、仕方ないだろう。僕が詩人の真似事とか、お粗末な出来に惨めになるだけだし。
「感想はそれだけなの?」
「その………なんつーか、あの爆発音、結構うるさいな」
「えー。せっかく見に来てるんだから、それはないよ~」
「ほら。まるで廻璃が遠くから呼びかけてるみたいに聞こえる」
「隣にいるのに? って、そういうことを聞きたいんじゃないもん。どう? 感想は」
廻璃の意図を何となく理解しながら、僕は仕方がないなと思う。
そんな、バカップルみたいなこと。
「そうだな。なんていうか僕って、単純にこういうのが―――」
ヒュ~~~~~~
「―――好きだな」
ド――――ン―――――
空には一際大きな花が咲いた。
「知ってる」
「何だよそれー」
僕と廻璃は暗闇で顔を見合わせると、微笑みを交わしてすぐにまた空を見遣る。
花火はまるで、ずっと咲き続けてくれるもののように思えた。
五
帰りの電車は比較的混雑していた。祭りから帰る客で溢れているが、疲れてウトウトとしている人から興奮冷めやらぬ雰囲気といった人まで様々だった。
『三渡船町~、三渡船町~』
駅に着いて、列車のアナウンスとともに扉が開くと、人々が駅の構内へガヤガヤと流れていった。混雑した電車から解放されることで軽く溜め息を吐きながらも、僕達は気持ち軽い足取りで、夜道をゆっくり歩く。
「つっはぁ~。首、痛くないか」
「ちょっと。花火、綺麗だったもんね」
「あぁ」
「………」
「………」
わずかな沈黙、そして。
「なーんか、楽しいことってすぐ終わっちゃうな~」
廻璃がそう呟いた。その通りだと、僕は首肯する。
「そうだな。これで今年は振袖も見納めかと思うと寂しいよ」
「えー、花火よりそっち? ま、仕方ないか。おにいちゃんは和服好きだもんね~」
「そうだっけ」
「またぁ~」
歩きながら、廻璃は僕の一歩前に躍り出た。こちらを振り返る様子が楽しそうだったので、その微笑ましさに視界が細くなりかける。
「わかりやすいんだから。こういう格好、好きでしょ」
「綺麗だとは思うよ」
「……素直じゃないなあ。好き嫌いを言ってくれるだけでいいのに」
「僕は外見だけで好き嫌いを判断しないから。そんな、浮ついた布なんかで―――」
本当に、布が浮いていた。廻璃は少し暑いとばかりに、胸元をつまんで風を起こしていたのだ。
振袖の胸元が少しだけ開く度に、その中から廻璃の柔肌がちらちらとのぞく。
「……その好きか嫌いかを、外見だけで判断してほしいって言ってるんだけど」
「うんうん。そうかそうか」
まだまだ谷間ができるほどではない、が、ほどよいふくらみがそのうち顔を出すのではないか………いや、それだけじゃない。問題なのは、その仕草。そう、その行為そのものがもう魅惑的なのだ。
……これでも、見ないように頑張った方だと思う。
「オニイサンモスキネ~。和服とか? 振袖とか?」
「………ソンナコトナイヨ」
さっきから思うんだけど。なぜお前がそれを知ってるんだよ。
「やっぱりそうかぁ~。年々、あたしの晴れ着を見る目が変になってきたのはそういうことだったんだ~」
「いや―――え、変だった?」
「変だった。両目がもうエロの結晶みたいだったよ」
うそだ。そんな筈はなかった………と思う。
「いや、別にエロいなって見てたわけじゃないよ。確かに、振袖が似合うな~とは思ってたけど」
「ほら~!」
「ち、違うっ、これは純粋な憧れで………」
「ほんとに~?」
「本当だ。振袖―――そう、和服の魅力を堪能したいがための………」
「その言い方がエロいって言ってるんだけど………。あ、エロっていうよりヘンタ―――」
「やめてっ‼」
叫んだ。
「それ以上は! これは立派な趣味・嗜好だから!」
僕、脆っ。 好きなものに対する姿勢を批評されただけで………。
「あはは、ごめんね。そんなに自分のセイヘキに苦悩してたなんて………。和服フェチ、っていうの? こういうのが好きなんだよね?」
「ま、まぁ、確かにそういうのは好きだけど………」
「でも、和服のどこがいいかっていうのは訊いてみたいかも」
「………」
これは安堵の沈黙。どうやら、廻璃は僕の部屋のある場所に隠されたモノを見つけていないらしかった。そこには和服の魅力がこれでもかというほどに表現されている。
隠す時は簡単なんだけど、取り出す時はいったん引き出しごと外さないと―――なんて。
「答えるまで黙るから。おにいちゃん、ただでさえ昔から自分のこととか全然話さないんだもん」
「………」
これは当惑の沈黙。僕は特に秘密主義めいた人間というわけでもない筈だ。
当然だ。誰が好き好んで自分のセイヘ……趣味を暴露するものか。そんな露悪趣味はない。あ、いや、別に『悪』ではないけれど………。
「こういう時くらい、いいじゃん~。ねーってば~」
しかし尚も食い下がる廻璃。僕は答えを渋ってから、意を決して口を開いた。
「む、むね、とか……?」
まるで許しを乞うかのような疑問形だった。
「………(どうだ……?)」
「………」
まだか。わかったよ! 言うよ!
「だからさ、昔の人は下着を付けてなかったって言うだろ? 現代の人は昔と全く同じ着方をしているわけではないだろうし、ひょっとしたらただの先入観なのかもしれないけど、でもやっぱりどこか色っぽい。考えてもみてくれよ、歴史的にも多くの女性がその格好をしてきたんだぞ? なんかもう、それが女性の象徴みたいな部分があるじゃん。その、い、いや、だから僕が惹かれているのはその歴史的文化的象徴的価値であって、断じて決して俗っぽいアレじゃなくて、否でも応でも想像力を掻き立てられるというか―――」
「へー、やっぱりそういうものなのかな。ま、流石にブラは付けてるけど」
「し、知ってるわ‼」
わざわざ言わなくてもいいじゃんか。すごく惨めに感じる………。
「『ブラは』ね」
「………えっ⁉」
(あ……! し、しまったっ!)
廻璃の言葉に反応した瞬間に、ハッとした。
「ふふっ、やだ~。表情では余りわからないけど、やっぱりおにいちゃんって意外とぉ」
「うぅうるさいわ‼ 誰がムッツリスケベだ‼ 僕はただ、お前がそういう非常識なやつでないことを……」
「はいはい♪」
「……ぐっ」
(くそぉ~。随分と楽しそうだな………)
廻璃は、それがまるで夏の思い出作りとばかりに、大袈裟に僕をイジっている。
いつものやり取りよりも、何というか、少しだけエロい話題だった。
(何だ? あ、ひょっとして誘ってるのか?)
楽観的過ぎるだろうか?
でも、真夏の一大イベントも終わりだし。
花火大会。毎年のことだが、しかし年に一度のイベントであり、毎回が特別なものだ。
そして、たとえ毎年行っているとしても、高校生ならばその一回一回が一生の思い出になり得るわけだ。古臭い言い回しにある、青春の一ページというところ。それは若人の持つ特権だ。
「………」
「? おにいちゃん?」
僕は、その機会をモノにできるかを試されているのではないだろうか。
ならばここは一つ、反撃しておかなければ。
廻璃を目で威嚇する。
「なぁに~? そのいやらし~い目線は?」
廻璃は勝気に笑うと、流し目でこちらを見る。
(いいだろう。廻璃がここまで誘ってくるんだ。これに応えなければ―――ていうか、いっちゃうか? いいよな? 今しかないよな?)
すぅ、と息を吸い込んで言ってみる。
「ええと、今日は一段と綺麗だったよ。はじめ見た時はびっくりしたくらいだ」
「綺麗? あぁ確かに。花火、綺麗だったよね~」
「………ま、それもあるけど―――」
(あぁ~っ、このタイミングでとぼけやがった! ま、いいや、続けちまえ!)
廻璃が僕を見る。少し驚いたような目をしているが、しっかりと僕から目を逸らさずにいてくれる。
(―――今度は。今度こそは………!)
今度は、茶化さない。
(言葉だけでもいい。今度こそちゃんと、聞いてもらう)
だから、反撃だ。
「今までまともに言ったことないけど………僕は、本当は―――」
僕の台詞に合わせ、廻璃は何かを飲み込むようにして顎を引き、上目遣いになった。
―――ところが。
「あ」
その台詞の続きは、他でもない僕自身の呟きによって台無しになった。
途中、まるで軽い瞬きを繰り返すように点滅する街灯を過ぎたあたり。五秒ほどの間隔でチリチリと明滅する街灯の明かりの下で、僕が告白しようとした決意は、他でもない僕自身の驚きでどこかに失くしてしまった。
「お前……?」
暗闇の中から現れたのは、廻璃よりいくらか主張の強い模様の赤い振袖に身を包んだ少女。まともな明かりがなくともそれとわかるような、見知った、整った容貌。ポニーテールとかだったらもっと早くにその名前を呼んでいたところだろう。長い髪を側頭部で結い、そこに蝶結びでないリボンのような装飾が施されていた。いわゆるサイドポニーというやつだろうか。
彼女を視認した僕に続いて、廻璃も背後を振り返る。
「みおちゃん⁉」
「花火大会の帰りか……?」
前方のT字路の右手、暗闇の中から美織が現れた。花火大会帰りの僕と廻璃を確認すると、美織は一瞬だけ躊躇ったように顎を引き、上目遣いのまま言葉を発した。
「雪衣くん……」
(こんなところで待っていたのか……? 誰を?)
偶然出会ったというには少し違和感がある。美織の方は驚いた様子もなく、まるで用意していたかのように台詞を続けた。
「花火大会……一緒に行けなくてごめんね」
「なんだ、そんなことか。というか、誰かと行くなら、別にこっちに気を遣わなくていいのに。いや、こっちこそ気を遣うべきだったよな。ちゃんと断らないと、彼氏とかにも悪いだろうし………。その、ごめん………」
花火大会へ誘ってきたのは美織の方だったような気もするが、やはり僕が察し損ねた事情でもあるのだろう。
「あ、メールのこと? 私、彼氏なんか………それに、あれは―――」
「みおちゃん、来てたんだ~?」
美織が何かを言おうとした時、それまで固唾を呑むように成り行きを見守っていた廻璃が口を挟んだ。
「こんなところで、偶然だね。みおちゃんも花火大会の帰り?」
「これは………その………」
(この歯切れの悪さ………)
何となく『何かあったな』と直感するが、何があったのかまではわからない。
「どうしたの? 何かあったの?」
「べつに、何もない、けど」
「今は? 一人なのか?」
「あ………そうなんだけど」
「じゃあ―――」
じゃあ、もう大分暗いし、送ろっか? そんな感じのことを言おうとした時。
「………私、一人で帰れるから………」
そう言うと、美織はさっき出てきた方とは反対側の方へ―――自身の家の方へ歩いて行ってしまった。
あいつにしては感情の起伏に乏しくないか。大袈裟かもしれないが、あんな美織を見たのは初めてだった。
「……? どうしたんだろ」
ていうか、何してたんだ?
美織の態度に疑問を覚えつつ多少混乱していた僕の隣で、廻璃が小さく呟いた。
「さあ? 失恋でもしたのかも」
「―――ああ、なるほど」
なるほど、そういうことか。ずけずけとした物言いだが、それだけにわかりやすい。僕の疑問は早々に氷解してしまった。
………やっぱり、さっきの僕の態度は配慮が足りなかったかもしれない。
「彼氏と別れてすぐにおにいちゃんを誘うなんて、ちょっと図々しいかも」
廻璃が今度は大きな呟きを発した。
まぁ、図々しいかどうかはともかくとして、花火大会に行く前に僕を誘ったということは………もともと彼氏と行く予定がなかったというならばそういうことに………失恋したということに―――
(―――って、ん? あれ? でもメールでは彼氏が理由のキャンセルだったわけで)
僕は余計に混乱した。
「おにいちゃん?」
廻璃と夜道を歩きながら、僕はつい色々考え込んでしまう。
(彼氏と別れたのがいつだったかで、これは色々と違ってくるんじゃ………いや―――)
僕なんかでは推し量れない、込み入った事情があるのかもしれない。そっとしておいた方がよかっただろうか。
(それとも、瑠璃と何かあったのか?)
「おにいちゃん」
さっきの美織と廻璃のやりとりを思い出す。前にも似たような話があった。これは廻璃から聞いた話だが、瑠璃と美織の仲は良くない………というか悪いらしい。中学の時はそんなこともなかった筈だが、僕はそれがただの諍いであることを願わずにはいられない。
「ねぇっ、おにいちゃんってば」
「はいはい、聞こえてるよ」
僕の正面に回り込んだ廻璃が、ずいっ、と僕を覗き込む。
「あの子の傷心に付け込もうとか、誘いに乗ったりとか、ダメだからね」
「は?」
「ダメだからね」
二ダメ。
「そんなこと………」
「絶対ダメ」
三ダメ。
「………」
僕ってそんなに女癖が悪いイメージだったのだろうか?
気が付けば、廻璃の方は『ダメ』と言って聞かせるのに必死なようで、僕から目を逸らそうとしない。可愛らしい表情に眉を寄せ、普段よりも心配の色が濃く滲んでいる様子がはっきりと………というか、近い。近い近い。
「ち、近い近い」
僕は廻璃の肩を持って押した。冷静にならないと。ここで間違うと後が怖いので、一挙一動を慎重に運ぶ必要がある。
「アイツとはどうやってもそんな関係にはならないよ」
「本当に?」
「ああ、本当だ」
「でも………。ねぇ、正直に言って。放っておいたらそんな関係になっちゃうでしょ?」
「ならない」
「なる」
「ならない」
「なる!」
「あのなぁ」
「証拠は?」
「何?」
「証拠」
「はぁ? だから、何が―――」
何をどうすればよいのか。
「はい」
廻璃が目を閉じた。
「はい、って………」
どどどうすれば? どうしよう、え、これから僕は何をするの?
混乱しかけた僕は、すぐにあることに思い当たる。
(さっき何もしなかったから………?)
さっきから、逃しっぱなしだったからだろうか。
「言わないとわかんない?」
僕は今、状況に整理がついたばかりだが、廻璃はこれでもかと催促を続けてくる。
そうか。そういうことだったのか。
「…………」
まったく。何から何まで、廻璃には頭が上がらない。
薄弱な意志となけなしの勇気をかき集めて、僕は廻璃の肩に手を添える。
「あたしの……初めてを………」
廻璃が何かに酔ったように呟いたそれは、僕をも酔わせてくれようとしていたのだろう。
「初めて………ね」
(嘘つけ。これが初めてだなんて………)
ただ、僕はその言葉が真実でないことを何となく知っていたけれど。今、それが確信に変わろうとしている。
初めてだなんて。廻璃の嘘は、わかりやすい。
しかし、却って僕はとある強い衝動に突き動かされてしまう。結局は廻璃の誘導に乗ってしまった形になるのだろう。
(まったく。そこまでの全てが計算ずくだとしたら、小悪魔どころの話じゃないぞ)
僕は観念したように、廻璃と唇を重ねた。
「………んっ、む……ん………」
しばらく口内の空間を一つにしていると、廻璃は途中で息継ぎを求めて声を漏らした。それを合図に、僕達は吐息を外に逃がしながら、互いを探すように舌を絡ませ始めた。
(やはり初めてじゃないな―――これは)
そう。初めてなどではない。
だからもう、躊躇うことなく貪った。
僕の知らないところでいつも―――されていたように。
この時、僕は物陰からこちらを見る人影に気付いておらず。
この日、僕の周りが決定的に変わったのだ。
3 退行
一
「夏―――か」
アルバムをめくりながら、今となっては懐かしいことを思い出していた。
「夏……。うん、夏………」
僕の部屋。僕の隣に座り込んでいる美織は、テーブルの上に広げられたアルバムに見入っていた。振袖を着て両手を広げ、まるで妖精のように写真に写っている廻璃。ワンピースを着て同じポーズをとり、まるでどこかのお姫様のように写真に写る瑠璃。そして中学の頃の写真が納まっているあたりに遡ると、僕と美織の姿が写った写真もあった。しかし美織は自身の写真には目もくれず、ひたすらに瑠璃と廻璃とを見比べていた。
「双子だもんねぇ。似てて当然だよね」
「そうか? 実はそんなに似てないんだけどな。写真じゃわからないかもしれないけど」
僕達は写真の中の廻璃と瑠璃とを見比べて話す。
(美織、どうしたんだろ。いつもはただおどおどしてただけって感じだったのに、今日は普通に元気ないな)
今日は珍しく―――いや、最近は他の日と比べられるほど会ってはいなかった。だから強いて言うなら、懐かしい、だろうか。見た目が。写真にある通り、以前のような―――おとなしい性格に変わってしまう前の美織のような、豊かな黒髪を後ろで結んだポニーテールだった。見た目の懐かしさそのままに、今の美織に以前の姿を重ねてしまった。
しかし同じなのは、懐かしいのは、そのポニーテールだけだ。伸ばした前髪が表情に影を落としている。この外見に本来伴っている筈の、以前のような元気はまるでない。話している時の口調にも、どことなく活力が欠けている。
「あのさ」
「何?」
美織はアルバムをめくる手を止めるが、僕と目を合わせようとしない。
「一つ、質問をしてもいいか?」
「………内容による、かな」
アルバムに落ちている美織の視線は、写真と写真の間に何かを探しているようだった。
「何か……隠していることがあるだろ」
「どうして?」
「どうしてって……。いや、困ってることがあるなら言ってくれ。力になりたい。それだけだよ」
「………」
「瑠璃と何があったのか、教えてくれないか?」
「………」
美織が尚も黙った様子を見て、僕はもう肩を竦めるくらいしかできることがなかった。
(内容による、か………)
仕方がないのかもと思うが。けれども僕の周囲で起こっていることであるだけに、踏み込まずにはいられなかった。
「なぁ、美織―――」
「……なるほど。未だに何も知らないんだね~」
「………え?」
顔を上げた美織がぽつりと呟く。その目は遠くを見ながら、口調は淡々としている。
そこには、びくびくしたり思いつめた表情をしたりする美織はいなかった。
「真実ってやつ? ほんと、それじゃあ何にもならないじゃん。止まった時が流れているだけで」
「何だそれ? ていうか、流れていないから、時が止まってるって表現をするんじゃないのか……?」
「ハァ~………」
彼女はパタン、とアルバムを閉じると立ち上がり、自分のポケットから棒状のものを取り出す。
「呆れを通り越して、なんか、もう………」
シャキンッ
いや、棒などではない。それは一瞬で二本に増えたかと思いきや、美織の手の上で踊るように変形し、一本の刃となった。
目の前にかざされたので、それが何なのかよくわかる。
「ううん。やっぱりいいや。どうでも」
バタフライナイフ。黒い柄から鈍く光る刃がのびている。
「ちょっと。一緒に外、歩かない?」
二
僕は美織に誘われるかたちで外へ出た。美織は持っていたナイフをいつの間にかポケットにしまい、そのポケットに手をつっこんでいる。美織の左側に並んで歩く僕からは、美織の右半身の様子はそのくらいしかわからなかった。そしてさっき家を出る時に気付いた、彼女の格好。美織の着ている黒いダッフルコートは先刻も玄関で見たが、クリーニングがきちんとされているのか、それはまるで新品のようだ。彼女のコートは中学時代からこれである気もするが―――手入れが良いのか着付けが良いのかはわからないが、僕はいつも彼女の身じまいに感心させられる。
「あ~、これ? 昨日買ってきてもらったの。おニューだよ~」
ダッフルコートはただの新品だった。
(――おっと。今はそんなことより)
僕は放棄していた思考を復活させる。
「悪い、何か約束ってしてたっけ?」
美織がどこかに向かっている様子に見えたので、ひょっとしたら僕の方が、美織との約束を忘れているのではないかと思ったのだ。
「ううん」
「? どこかに用事が?」
「違うよ。別にあてがあるわけでもないし。ちょっと一緒に歩いてみたくなっただけ」
何その破局前みたいな動機。物語中で後々まで残るような………えっ、これがひょっとして………何、その………何? 何だっけ?
(落ち着け、何を混乱することがある………)
僕は少し混乱していた。どことなく見覚えのあるような場所を歩かされているような気がして。
道路、住宅街の路地、道路、路地、公園―――。
最近のニュースで見た、例の現場などではない。ただ、過去に同じようなことがあった場所だ。
(いやいや。関係ない、関係ない―――)
相変わらず彼女の右半身ではポケットに右手が隠れていたようだったが、もう僕はそんなことを気にしないようにした。
「ここは―――」
やってきたのは、僕の家からだと一番近い公園である銀魚公園。ギンギョ、というのは確かヒレにトゲのある魚だったと思うが、詳しいことは知らない。公園のそんな名前の由来は謎だ。公園の入り口から左手の広場には、原形のわからない石造りのオブジェが据えてある。『子供達』というおよそ自然現象らしからぬ自然現象によって風化したのだろう。
公園の入り口から入ってさらにオブジェを過ぎたところで、美織がベンチに座った。
「公園? どうした、ここで遊ぶのか?」
「いいから隣、座りなよ」
どうやら公園で休憩を挟むらしい。……いや、どうやら公園で何か飲み物をおごれということらしい。
僕はベンチに座る前に近くの自販機で温かい飲み物を買った。
「ほら」
美織の愛飲するブラックコーヒーを手渡す。僕の分はレモンティーだった。
「ありがと~」
「ゆあうぇるかむ」
レモンティーの封を開けると甘い香りが広がる。舌触りの柔らかさに頬が緩むのを感じた頃、隣を見れば美織もコーヒーに口をつけ、冷ましながら飲んでいた。
柑橘類由来の甘酸っぱい香りと、煎り豆由来の香ばしく奥深い香りが、僕の鼻を交互にくすぐる。
「私、やっぱり、ブラックが一番美味しいと思うな~」
「僕はコーヒーは飲まないなぁ。カフェオレの方が美味しいと思うんだけど」
「甘党だもんねぇ」
本当は、だらしのない味が好きなのだ。甘味料でなく普通に砂糖を使った、そんな甘さが。不幸なことに、自販機で見つけた理想の飲み物はHOTではなかった。
ミルクセーキ、飲みたかったな。
時期が時期だし、普通はHOTだと思うんだけど。
「………静かだね~」
「………ああ」
公園に人はいない。休日だというのに閑散とした公園の在り様は、冬の空と相まって寂しそうだった。雪はしばらく降っていないためか、公園には汚い氷塊すら見当たらない。
遊具はピンクや黄緑、黄色や水色などのペンキで塗られているから、青い空でありさえすれば景色としては映えるかもしれない。しかし空は灰色。地面は砂場がこちらまで浸食してきたような砂色。そんな、どこまでも淡い色彩の風景を、僕と美織はぼーっと見ていた。
「変わったよな」
「何が~?」
特に意味のある呟きではなかったが、よく考えればその通りだとも思えてきた。後付けの理由でも、探せばいくらでも見つかるものだった。
「いやほら、この近くの………あの改築中の建物。スーパーもできたし、廃工場の跡地も駐車場になったろ?」
「本当だね、変わっちゃった」
とりとめのない世間話。
僕も美織も、何となくしみじみとした口調になってしまうのは、多分景色のせいだ。
「言うほど変わってないけど、やっぱり変わっちゃったんだね~」
遠い景色を見ながら、僕と美織は言葉を交わす。
こんな場所だからか、以前のように会話が弾むことはなかったけれど。
「突然なんだけど」
「何?」
「『私はあなたの生き別れのキョウダイです』って言ったらさ、信じる? 驚く?」
会話が弾まなさ過ぎて、美織が妄言を吐き出した。
「何を馬鹿なこと言ってんの。そんなことあるわけないだろ」
「わからないよ~? 私じゃなくても、いるかもしれないじゃん。生き別れの妹が、お兄ちゃんが大好きなブラコンの妹が、身体が弱い薄幸の美少女が、意外と近くに」
「その病弱設定は何だよ。ていうか年頃の男子の恥ずかしい妄想みたいなの、よく平気で言えるよな。で、何、それは押しかけ女房みたいなやつだったりするんだろ?」
「だから、病弱だって言ったじゃん。押しかけても、奥さんみたいになんてなれないよ。……じゃなくて、いいから答えてよ。いたらどうする?」
「だから、ないよ」
「だから、もしもの話だってば。美少女で、身体が弱くて、どこかの病院の五○三号室から度々脱け出して、愛しの兄の様子を見に来てるかもしれないよ。薄幸の美少女妹が」
「妙に拘るな、その設定。でもそうか、身近に、ねぇ………」
答えるまでに、少しだけ考える間を置いた。
「……もしそんなのが身近にいたとしても、これ以上は何も変わらないだろうな」
「アハハハ、だよね~」
「別に面白くないし」
「ほんとにね~。………ちなみに、どうして?」
「理由なんて………。第一、僕には今、一緒に暮らす妹がいるから。それに、生き別れのキョウダイ、っていうの? そいつと一緒に暮らすとかいうのも今更だしな。理由があるとすればそんなところか」
「アハハハ」
「だから面白い話じゃないって」
体裁の良い、面白いジョークなど、僕達の会話には存在しないのだろうなと思った。きっと、どちらも教養が足りなくて感性がアホ過ぎてユーモア貧困なのだ。
「―――さて」
二人とも飲み物が空になったところで、僕はベンチから立ち上がり伸びをした。
「どうする。ベンチにずっと座ってるわけにもいかないだろ?」
行くあてがないなら提案の一つや二つはするつもりでいた。しかしそれは杞憂だったようだ。
「あ、実は行きたいところがあって~」
「いいよ。行こう」
僕は快諾すると、美織とともに駅に向かい、電車に乗った。
キャーー キャーー
響く絶叫。それは恐怖ゆえのものではなく、多数の歓声だった。その声とともに聞こえる、何かがゴトゴトと滑る音。ジェットコースターは、休日の客を乗せて騒がしく頭上高くを過ぎて行った。
「これはまた………」
最終的に辿りついたのは遊園地だった。
「遊園地、だな」
「遊ぶ気でした」
「やっぱりそうか」
チナップトピア。そんな奇妙な名前の遊園地だが、規模は大きく、国内で三番目の高さだとかいうジェットコースターを筆頭に、実はすごいアトラクションも豊富。僕達の地元では知らない人がいない、隣町にある、言わずと知れたテーマパークだった。
「デートしようよ」
「ここまで来てからそれを言うのか?」
目的地も目的そのものも伏せられたままだった。『デート』だって、本当にそれが目的かどうかは怪しいけれど。
チケットの代わりに入場料を支払ってテーマパーク入口のアーチを抜け、入園。そこはもう閑散とした公園の景色が頭の片隅にも残らないくらいの物量だった。歩けば、視界の端を人やアトラクションが悲鳴や奇声を上げながら流れていく。しかし、ちらりと見えた土産物屋は、休日とはいえ今日がただの週末だったからだろうか、静かなものだった。田舎だからとは言わない。
「やっぱりデートじゃイヤだったかな?」
「イヤがってほしいのか?」
「イヤなの?」
「イヤじゃないけど」
「じゃあデートでいいんじゃない?」
「いいのかなぁ」
「………はぁ」
軽口にもいまいち乗り切れていない僕に、美織は笑顔のまま肩を落とした。
「―――やっぱり、瑠璃ちゃんは大きいな~」
メリーゴーラウンドを過ぎたあたりで美織は立ち止まり、ジェットコースターの高架レールを見上げながらそう言った。
「はぁ?」
美織には、瑠璃がアレにでも見えているのだろうか。
「小さいぞ、あいつ」
僕は高架レールを挟んで向こう側、土産物屋の外壁に掛けられた壁時計を見つめていた。
「小さいって、どこが?」
「どこがって、いろい―――背が。あれ、背丈のことじゃないのか?」
「………ふーん。イロイセが小さいんだ~」
不必要なことまで危うく喋りそうになった僕を、美織は横目で見る。
「は、ははは………。背丈が、だよ」
「あ、そう。でもそんなことじゃなくてね。やっぱり敵わないな~ってことだよ」
美織は微笑んだ。
(敵わない? そんなことは―――)
僕の視線は、再び空を仰いだ美織の身体に注がれた。
(いや、確かに差はそれほどないかもしれないけど、背丈は美織の方が高いし―――)
「やっぱり大きかったよ、瑠璃ちゃんは。あーあ、偶の機会、せっかく頑張って遠出して来てるのに、こんな気持ちで終わっちゃうのかなぁ………」
歩き始めた美織は空を仰いだまま。遊園地に来てからの美織のテンションは、今奇声を上げている、国内で三番目に高いジェットコースターのように、急な上昇と下降とを繰り返していた。
……でも、本当に三番目の高さがあるかどうかは怪しいぞ、アレ。
「――っと、せっかく遊園地に来たからには遊ばない手はないって。ほら、何に乗る? あ、もうお昼だな、まずはお昼にしよう、それがいい」
時刻は一二時二一分が二二分に変わったところだ。僕が盛大に話題の転換を図ると、美織は「そうだね」と言って、投げやりに同意したのだった。
三
「やっばぁ………」
自宅前。
ヤバい。やばぁ。
思わずそんな言葉が漏れるほど、心に余裕がなかった。
時刻は六時を過ぎている。時期が時期なので、外はもう既に暗い。
やばぁ。
この時間に帰宅することの何がヤバいって、まずいって、それにはちゃんと理由がある。
遊園地で遊んでいた、遊園地を後にしてからも遊んでいた、もう遊びほうけていた僕は、帰宅するにあたってふとポケットを探っていた。「あれ、おかしいな~」と探っていた。
ない。なかったのだ。
スマホが。
ただでさえ瑠璃に連絡するのを忘れていたというのに、連絡していないことを思い出した段になってようやくスマホを忘れていたことに気付く。もちろん、家に書置きなど残していない。
その事実に気付く前までは、流されるままに美織とぶらぶらと歩いていた。
特に理由があったわけではない。遊園地でその閉園時間まで遊んでいたわけでもなく、ただ隣町をぶらつき尽くした後に、空のポケットを弄ったことでこの時間の帰宅となったのだった。
ヤバかったのだ。
最悪だった。
カチャ………
「おぉ………開いた」
玄関のドアが静かに開く。鍵はかかっていなかった。
僕が締め出されるようなことはなく、というか今までも締め出されることだけはなかったから、どこかに安心感があったことは否定できないが、しかしやはり緊張した。
(僕にとってはありがたいけど不用心だぞ~)
「お、お邪魔しまぁ~~す」
自宅で、しかも誰にも聞こえないように言う台詞ではないだろうに。リビングのドアは閉まっているが、ドアの中央を縦断するように嵌った曇りガラスからは明かりが見えている。テレビの音はしないから、これでは瑠璃がリビングにいるのかはわからない。廊下の明かりはついているが人の気配はないから、いるとすればリビングか二階ということになるだろう。
スッ スッ
できるだけ腰は低く。足音厳禁、衣擦れ注意。階段の軋む部分は絶対に避ける。自分の部屋に向かい、コートを脱ぎ、読みかけの文庫本を手に持った状態でダイニングキッチンに入る。そして瑠璃がいた場合には、冷蔵庫に向いていた視線を外し「瑠璃、帰っていたのか―――」と言う。
完璧だ。これが僕の描いた、この場をのりきるシナリオだった。
カチャ………
(おぉ………って、そりゃ開くか)
僕は玄関のドアにしたような力のかけ方で、静かにゆっくりと自室のドアを開ける。
階段を音も立てずに上るのには神経を大分擦り減らしたが、自室に入るまでは―――入ってからもコートを脱ぐまでは―――油断できなかった。
なにせ瑠璃の部屋は、僕の部屋の隣にあるから。
「なっ―――‼」
自室のドアを開け、すぐ近くにある部屋の明かりのスイッチをいれる。半歩踏み込んでいた僕は、そこで思わず絶句した。
(なっ―――にやってるんだ、瑠璃は……)
瑠璃が寝てる。僕のベッドで。暖房をつけて暖かくした部屋で。
「ん、ん~…………」
可愛らしい寝顔。掛け布団を抱きしめ、時折もじもじとその足を動かす。それは両腕と両足で布団にしがみついているかのような格好だった。
瑠璃の見た感じの姿勢はわかった。でも。
意味がわからない。
(何で僕の布団に瑠璃が? 布団に何の用事が――いや、そんなことより、ど、どうする? この場合、コートを見えないところに……この際、いつものクローゼットでなくどこか別の場所に隠して、いつの間にかリビングで本を読んでいる僕が、つまりいつの間にか帰ってきていた僕が、そのうち起きて下りてくるであろう瑠璃に『起きたか? いや、起こそうと思ったんだけど』って声をかけるとか―――)
シナリオを急ピッチで再構成し始めたが、それはその場限りのものでしかない。今立てたようなシナリオでは、結局は瑠璃に看破されてしまうことは明らかだ。それよりも、嘘を吐いたことを後々つつかれた方が始末に負えない。
(どうしよう……嘘は吐きたくないし………じゃあやっぱり、どうしようもないな)
焦ってはいても、自分で焦っていること自体には気付いていたから、どうしようもないと思って、だから―――
「降参!」
降参した。
「おーい、瑠璃。降参。負け。わかったから、そんなに布団を抱きしめないであげて。ていうかシめないであげて。羽毛が―――」
………チラッ
瑠璃が薄目を開ける。
「………はぁ」
(やっぱり起きてたよ……)
僕は溜め息を吐きながらコートを脱ぎ、机に放り投げると、瑠璃の傍まで行ってベッドに腰かけた。
つい先ほどまで狸寝入りを決め込んでいたばかりの瑠璃は、ベッドに寝たまま、布団を締め上げたまま僕を見つめる。
「ケータイ、忘れたでしょ」
「……ああ」
大きく広がるほどには長くない髪をベッドの上に広げ、目を潤ませている。布団にまわした腕の力を強めたり弱めたりしながら布団の感触を確かめているようだった。
小柄な瑠璃がそうしているとまるで抱き枕を抱きしめる子供のようで可愛らしくもある。しかし瑠璃は子供よりも大きいから、その可愛らしさは子供とは異なるもので出来上がっていた。瑠璃はまるで幼さをわざと残したかのような微笑を浮かべて僕を見つめるが、その整った表情はむしろ小悪魔的な、魔性の色気を帯びているような、完成した―――
(い、いやいや)
僕は瑠璃に引き寄せられる自分の視線を必死で戻す。
(そんな場合じゃないだろ。ケータイを忘れままでいたのに―――)
僕を現実に引き戻したのはきっと、スマホを家に置いていったことに対する罪悪感だろう。
僕は馬鹿だ。
何を勘違いしているんだ。
忘れたのか。
美織のことなんて―――その他の物事なんて、全て二の次だ。
大切なのは、家族なんだから。
(僕は……また………その場しのぎで―――)
いつでも万一の事態に対応できるようにしていなければならなかったのに、特に理由もなくその手段を放棄した。
本当、なんて馬鹿なんだ。
今の僕には、どうしようもないほどの自己嫌悪がこみ上げてきていた。
「わ、悪い」
「何が?」
「連絡もせずにいて」
「できなかったんでしょ?」
「…………」
できなかった………? 確かにスマホを置いていったから、スマホでは連絡できない。しかし公衆電話を使うなり他人の電話を借りるなりすれば何とかなるものだ。だから『できなかった』というのとは、厳密に言えば違うのだ。
「………もう」
瑠璃は溜め息を吐くと、身体を起こして訊いてきた。
「しなかったならしなかったでいいから、その理由を教えて」
ただ真実のみを期待している、そんな調子で瑠璃は言った。
僕を見つめるその両目には、部屋のシーリングライトが真っ白な点として映っていた。よくもまぁ、部屋の明かりだけで目がそんなに輝いて見えるものだ。僕にはその輝きは、純粋過ぎるように感じられた。
(僕って信頼されてるのか)
それが嬉しくもあり、照れくさくもある。同時に信頼に応えなければという気を起こさせる。だから羞恥と自己嫌悪を抑えながら、僕は言った。
「遊園地とか。ただ―――」
「一人じゃないでしょ………?」
「―――美織とだ。でも別に変なことはないぞ? アイツは、テスト勉強でピリピリしてる遊び友達の代わりってだけだからな?」
「それは知って………あ、そうか、え、でも、あれって―――」
瑠璃の表情から余裕がなくなっていくのがわかる。
その表情には、まるで背後から銃でも突き付けられたのではないかというほど、驚きと恐怖の感情が露わになっていた。
「瑠璃? お前、顔色が」
「美織ってみおじゃ―――まさか、『アイツ』ってみおりちゃん⁉」
「だから、最初からそう言ってるだろ―――」
姿勢が凍りついたと思ったら、瑠璃の様子は再び一転。
「みおりちゃんだけはダメだよ‼」
「―――は?」
「それはダメっ、本当に‼」
「瑠璃―――っ⁉」
ドサッ
そう言って瑠璃は、まるで組み伏せるかのように僕をベッドに押し倒す。
「落ち着けよ。何をそんなに興奮してるんだ?」
押し倒された僕は、あくまで落ち着いて瑠璃をなだめた。間近で見るその目は、虹彩を収縮させたり弛緩させたりしていた。なぜそれほどの激情を………?
「あ……! あぁぁ、ごめん……何でもない………」
とはいえ、こんな時でも僕の話に聞く耳をもつ正気は失わないのが瑠璃なのだ。瑠璃は我に返るとすぐに平静を装う。だが緊張の色までは拭えていない。
「あたしがクリーニングに行っている間に………油断も隙もない………ああもう! でも今の今まで勘違いしてたから、あたしもあたしだけど………」
ぶつぶつと発せられる独り言は要領を得ないが、ひとまず落ち着いたようだ。
「落ち着いたか。だから、アイツと一緒だったのは、話を聞くためなんだって」
僕は身を起こしながら釈明した。
「そ、そう。何か訊きたいことがあったの?」
「ああ」
真剣な表情のまま、事実を言った。
「なぜ、瑠璃と美織の二人は仲が悪いのか」
「………え?」
両目が見開かれ、瑠璃の表情から緊張の色が抜ける。
代わりに『何言ってんの?』みたいな空気が生まれた。
(………あれ?)
何か間違えたか。
瑠璃が僕に隠していること。おそらく瑠璃と美織との仲の悪さにこそ、そのヒントがあるのかもしれないと踏んだから、僕は美織にそれを尋ねたのだが。
「あ、あぁ、うん、そう。あたしとみおちゃんって、今は仲が悪くて。それで、何か訊いちゃったの?」
「ああ。でも、結局はぐらかされたよ」
「そう、それで………。思い出せないんだもんね。それでもいいんだけど………」
瑠璃は溜め息交じりにそんなことを言った。
思い出せない? は?
瑠璃の意図を汲み損ねたと思い、僕はその表情を覗き込む。すると瑠璃の方も僕の瞳を見つめ返した。視線は逸らされることなく、話は続く。
「ほんと、忘れるとなったらきれいさっぱりなんだもん」
美織が? 僕が? 何かを忘れている?
「なんて………?」
「なんでもない」
「いや、気になるだろ。教えてくれても………」
「ね、ほんとぉ~に思い出せないの?」
「………え?」
今度は僕が質問をされている。いや、これはもう詰問されていると言ってもいいかもしれない。訊き方も、問い方も、詰め寄るような仕方ではないけれど。
これは、促しているのだ。
僕が、早く行き詰まるように。
「思い………出せない………? って、何が?」
「そうだよね………。忘れちゃってるよね。忘れたいよね」
トクン ドクン
ドクン ドクン ドクンドクンドクン
何だ。
何が言いたい?
瑠璃の言葉を受けて心臓が早鐘のように音を立てて悲鳴を上げる。
忘れている何かを指摘され、その何かを思い出そうとするのに、頭をもたげてこようとするその記憶を無意識に押さえつけてしまっているような。気にするべき筈の問題と向かい合わなければと急ぐのに、視界の外に追いやろうとするような。
―――僕は……思い出したくないのか?
「あたしはそれでも嬉しかった。過去はどうあれ、今は一緒にいられるから。ただ、あたしがあたしでいられないことが、ちょっとだけ寂しいな」
瑠璃は本当に寂しそうに微笑んで言葉を切る。まるで、僕が思い出すかは必ずしも大切なことではないとでも言うかのように。確かに、瑠璃は僕の記憶をそんな風に思っているのかもしれない。しかし僕自身はそれでは済まされないようだ。
「壊れちゃうかもしれないから」
「ぼ、僕が………?」
「………本当なら、普通なら、無理に思い出さなくてもいい筈なんだけど」
瑠璃は言う。
「ただ―――このままでも、おにいちゃんは帰って来なくなっちゃう。日々、自分で自分をどこかに忘れていっちゃう。このままだと、あたしはもう本当に、あたしじゃいられなくなっちゃうし、おにいちゃんは壊れるのを待つだけになっちゃうし」
「おにいちゃ………何? なっ―――」
何だ、その呼び方は。その響きはどこか懐かし―――
「無理に過去を思い出せってことじゃないよ。でもお願い、ちゃんと考えて。どうすればおにいちゃんが壊れずに済むのか。その答えだって、おにいちゃんの中にしかないんだから」
「ちゃんと………僕は………ちゃんとしてない………」
今ある日常に何の疑問も持たず。ただ当たり前だと、澄まし顔で日々を享受している。自分が、何をしたのか―――いや、何をしなかったのか。どういう日常を選び、どういう日常を選ばなかったのか。
ちゃんとしていない。
ちゃんと見ていない。
ちゃんと考えていない。
例えば、この家のこととか。
例えば、僕達の関係とか。
なぜ、こんな戸建ての家に高校生の男女二人だけが住んでいる? 親は? 僕の両親、瑠璃の両親は? お金はどうしている? 自分達の生活費を口座から引き落とすだけで、なぜ生活できている? なぜ、彼女は―――廻璃は、病院で眠り続けている?
実生活も、家計も、大人の不在も、僕達二人も―――考えてみれば、よく見てみれば、全てが、全部が、おかしいじゃないか。
あらゆるモノが思考を駆け抜けていく中、呆然としている僕に瑠璃は続ける。
「わかった?」
「………何が、だ?」
「―――あたしが誰か、とか」
それは、まるで賭けに出ようかとでもいうような、緊張した語調だったが、僕にはその理由がわからなかった。
「………?」
あれだけ落ち着きのなかった僕の心臓も、ここにきてその拍動がおとなしくなる。だって、わかりきったことなのだ。
「誰か―――って」
目の前の少女が誰かって?
そんなの簡単じゃないか。
「お前は………お前だろ。何言ってるんだよ」
目の前の少女は少しだけ悲しそうに微笑むと、仕方なさそうにして溜め息を吐いた。
四
瑠璃と長話をした後のことはよく憶えていない。明かりのついていたリビングとダイニングキッチン。どうやら夕飯を作っていてくれたようだから、一緒に食べた。いつも通り会話しながら食べた気もするし、終始無言だった気もする。
はっきりと意識が覚醒したのは、僕が風呂からあがって自分の部屋に入った時だった。
「――っておい………」
思わずツッコんでしまう。
「今日も、こっち。いい?」
えへへ、と瑠璃は笑った。
その天使なんだか小悪魔なんだかわからない少女は、また僕のベッドの上で寝転んでいる。さっきと同じ位置、さっきと同じ姿勢で。ただ服装だけが寝る時のパジャマだった。
(勘弁してくれ………)
明日は学校があるというのに、これで睡眠不足になったら授業には目を瞑って出席することになってしまう。
「勘弁してくれ、明日から学校―――」
言いかけた僕に、瑠璃はすかさず反論した。
「明日は休みだよ?」
「――え?」
「だから、高校の創立記念日。金曜日と、それから土曜日にも、先生が言ってた筈だよ」
そうだっけ。
「あぁ~、また話聞いてなかったのね」
「うちの先生からは何も」
「セツくんが話を聞いてなかっただけだよね?」
「………すみません、聞いてませんでした」
去年はどうだったかなんて憶えていない。机の上に置いてあったり壁に掛けてあったりするカレンダーには、学校の行事まで印刷されているわけではない。
僕が憶えていない理由としてはそれだけで足りてしまうわけだが、そんな僕の様子に瑠璃は呆れた素振りすら見せず、急にベッドの上を整え始めた。
瑠璃は寝そべったまま壁際まで寄り、空けたスペースにポンポンと手を弾ませる。
「来て」
たった一言。それだけだったが、それの意味するところはとても広い。大きい。
ただの『添い寝』という意味だろう―――おそらく。そう、きっとそうだ。だからそのくらいならば、二つ返事でご期待に沿うこともやぶさかではない。
「またかよ。昨日もじゃんか。ていうか最近多くないか? これ」
僕はそう言いながら部屋の電気を消すと、瑠璃の示したスペースに寝そべった。僕の左手と瑠璃の左手が同時に掛け布団を引っ張り、胸のあたりまで持ってくる。僕達は二人とも壁側とは逆の、右向きで寝た格好だ。
「むー、なーんか違う気がする。こっち向いてもいいよ? セツくん」
「…………」
「ねぇっ! 無視するの⁉ この距離で聞こえないとかナシだからね⁉」
(そういえば、今はまだ〇時なんだよな………)
普通なら、まだ寝る時間ではない。この時間帯―――午前〇時を過ぎたあたりでは、普段の僕なら本を読むかネットサーフィンに興じているかしている頃だが。
まぁ、夜更かしは美容に悪いとか言うし。それに気を付けているらしい瑠璃に合わせて就寝時刻を早めても、デメリットがあるわけでもない。僕は目を閉じる。
「あれ? もう寝ちゃうの?」
「んー?」
「まだ寝かせぬぞぉ、ぎゅっ」
擬態語を発する瑠璃。
僕の胸に瑠璃の左手が回されたと思った時には、瑠璃はその身体を僕に寄せてきていた。二人とも右半身を下にして寝ているわけなので、密着する姿勢としては当然と言えば当然なのだが。
「あっ、セツくん、今ドキドキしてる~」
「あのなぁ、僕で遊ぶなよ」
「ドキドキは否定しないんだ?」
ドキドキしているのは否定できない。当然だ。瑠璃は尚も必要以上に密着してこようとするし。
「……眠れないんだけど。頬ずり……ヤメテ」
婉曲的に言ってみる。背中に当たっている控えめながらも柔らかく優しい感触のことだ。
「………えっち」
「それはお前も―――」
「なぁに?」
「なっ、んでもないっ」
耳元で甘い声がした。背中に少し強めの圧力が加わった。
(~~~~っ! 何だこれ! 何だこれ‼)
落ち着け自分、と頼りない理性が頑張るものの。
(瑠璃はこんな声が出せるんだったな、瑠璃はこんなに柔らかいんだったな、決して大きくはない、全くないわけでもない、ただ小さめというだけで………。そういえば家族である以前に一人の少女―――)
―――と、興奮しながらも感動してしまった。
「…………」
(僕、真正の変態かもしれない………)
変態には変態の自覚がないことが多いらしいけれど、僕は違う。いや、自覚のある変態だと認めるという意味ではなくて、というか僕は変態じゃない。
そう信じたい。
(あ~、それでも、わかっていても、これはなかなか………って、あれ?)
ここでこの状況に酔ってしまえればさぞ気持ちの良いことだろうが、僕の胸に当てられた瑠璃の左手が震えていることに気が付いたから、そんな妄想も影をひそめた。
(瑠璃……?)
「………ぎゅっ」
「んっ」
僕は何となく擬態語を発して、瑠璃の左手に僕の左手を重ねる。そしてゆっくりと手の甲側から覆い被せるように指を絡ませた。
これでは手を握ってやったことにはならないだろうが、それに近い意味があるかもしれない。
僕の手に伝わっていた小さな震えはすぐに止んでしまったが、しばらくそのままにしていた。
「まだ寒いか?」
時間が経ったところで僕はそう訊いたけれど、瑠璃はもう眠ってしまったようだった。
『下』へ続く