3.罪
◇
森は危険なところだ。
思えばこれまで、わたしは少年の案内なしに森を歩いたことが滅多になかった。あったとすれば、それはわたしが月に買われるより前。花売りの青年に手を繋がれて歩いた時くらいのことだろう。もしくは、蚕と初めて会った時に誘惑されて以来。
今はどうだろう。
わたしが後を追っているのは、あの時の蚕以上に危険な人物である。そうだと分かっているし、そうであるならばこのまま後をつけていいわけがないのに、わたしの足は止まらず、そして頭の片隅では絶えず少年の安否を気遣う自分の声が響いていた。
蝙蝠は無言でわたしを招く。
その足取りに迷いはなく、躊躇いもなく、余裕ある態度で先へ先へと進んでいく。その先で待っているのは本当に少年だろうか。もしかしたら、わたしを待っているのは食虫花なのではないだろうか。むしろ、その可能性の方が高いのではないだろうか。
あらゆる恐怖が浮かんでは消えていく。
それにも関わらず、わたしの足は止まりそうになかった。
蝙蝠の後に続いてしばらく。月の森のざわめきが前とは違うということには、すぐに気付けた。ここしばらくは月の城の塀を越えずに過ごしていたものの、森をとりまく何処となくおどろおどろしい様子は、世間知らずのわたしの肌にもぴりぴりと伝わってきた。
「もうすぐだよ、華。さあ、彼の為に頑張りなさい」
獣へと姿を変えた蝙蝠に上空から励まされながら、わたしは道なき道を慣れない足取りで歩み続けた。
わたしが無心に頼りにしているもの。
それは、蝙蝠だけだった。
「見えてきた。ほら――」
そんな彼に促され、わたしはふと立ち止まった。
大木の裏で身を隠し、息を切らしている人物。
目に焼きつく真っ白な色。森の中ではやや目立つが、何も珍しいわけではない。わたしのように白い花の始祖を持つ花は沢山いる。だから、少年によく似た外見をもつ者もまた珍しくはないだろう。
――それでも、ああ、それでも。
わたしにはすぐに分かった。
そこにいたのは間違いなく、偽りなく、わたしの待ち焦がれた少年だった。
「……華?」
最初、彼の薄紅色の目はわたしが此処に居る事に混乱したらしい。
けれど、すぐにこれが現実だと知ると、今度は驚きを顕わにして大声を出そうとした。その寸でのところで自分の口を塞ぎ、出来るだけ声を殺して彼は言った。
「――どうして此処に君が?」
そして、すぐにわたしの上空に飛ぶ黒い蝙蝠の姿を見つけた。
「お前の仕業か……」
敵意の籠った声だった。
同じ花とは思えない勇ましい目が、わたしの上空で飛ぶ蝙蝠を睨みつけている。だが、蝙蝠は少しも恐れる様子を見せなかった。
「名もなき花の少年。無事なようで何よりですよ」
笑いながら言う蝙蝠に対して、少年は睨みを利かせたまま答えた。
「ふざけた事を。あいつらはお前の御主人様に買われたんだろう?」
「どういうこと?」
思わず訊ねたその時、遠くで人の声が聞こえた。
花でもなければ虫でもない。恐らくは森に住まう獣の化身でもないだろう。人間たちの会話だ。人間の声は何となく分かる。声に特徴的な活力を感じるからだ。
それにしても、この声はわたしの知っている人間の誰とも違う。
花売りの青年とも、月の城に仕える人間たちとも違う、もっともっと荒々しくて獣らしい声をしている。
『奴らは危険だ』
ふいに口を介さない言葉が頭に響いた。
花だけが使える声だ。少年がわたしを見つめ、音を立てずに立ち上がっている。慎重にわたしの傍へと歩み寄ると、警戒心顕わに周囲を窺い始めた。
『奴らは何なの?』
訊ねてみれば、少年はわたしの手をそっと握ってから答えた。
『月様の許可もなく白い花を狩り尽くそうとしているんだ』
『どうしてそんなことを?』
『お金の為さ。僕らを遠くの大地に売り払って大金を得るんだ。それも、ただの蛮人ではなさそうだ』
『どういうこと?』
『――背後に食虫花がいる。強力な魔女の保護のもとで、月様の象徴である白い花たちを狩り尽くそうとしているんだ』
恐ろしさに震えた。
先程少年の言った意味がようやく分かった。
こうなったのも、全てあの蝙蝠の主人の仕業だったのだ。じゃあ、そんな状況でわたしがあの城から誘き出されたのは何の為だろうか。
「内緒話はそこまでだ」
上空から蝙蝠が目を光らせる。
「残念ながら君たちには遠い場所に行って貰うことになる。それが嫌ならば、二人ともまとめて食虫花様の配下に下れ」
「馬鹿を言うな。どっちも御断りだ……」
押し殺した声で少年は反論する。
その間にも、人間たちの声はどんどん迫ってきているようだった。このままでは見つかるのも時間の問題だ。
そんな窮地を、蝙蝠は更に狭めた。
「そうですか。ならば、仕方がない」
直後、蝙蝠が大きく羽ばたき、耳障りな高音が辺りに響いた。その音波に周辺の木々が共鳴し、大きな物音を生みだしていく。
やがて、その音から解放された時、今度は人間たちの物騒な掛け声と足音がすぐ近くで聞こえた。
「来る……!」
少年がわたしの手を引っ張った。
「逃げよう、華!」
それが、恐怖の始まりだった。
◇
花狩人と呼ばれる者の存在を、わたしはよく知らない。
だが、思い返してみれば、花売りの青年はよく野生花を捉える生業の者をあまり好ましく思っていないようなことを話していたのを覚えている。
いわく、彼らは野蛮な人間たちなのだと。
彼らから花を購入するのは、自分たちの欲望に恐ろしく忠実な輩。その為には、社会の決めたルールなどどうだっていいような危ない人物。
花狩人の全てがそうであるわけではないと教えてくれたけれど、今、わたしと少年を追っている者たちは、間違いなく青年の軽蔑する類の者たちだろう。
奴らに捕まればどうなるのか、青年はわたしたちを怖がらせる為に何度も教えてくれた。そうすることで安全な檻の中から抜け出さないようにしていたのだろう。
悪質な花狩人は花売りを営む一家から花の子を盗むことがあるらしい。
実際に、わたしの母は少女時代に一度盗まれかけたことがあったらしい。その時の心身への後遺症もあって、母は売り物にならずに家に留まることが決まった。母は立派なお屋敷に売られていく兄弟姉妹を羨んだという。けれど、青年が言うには、まだ取り返せただけ幸せであるらしい。
日精はかつて盗人の被害に遭ったせいで森を放浪する羽目になった。
その時の恐怖を日精は気まぐれに教えてくれた。だが、どうも、わたし達が察する以上に彼女の心に傷を負わせているらしいことしか分からなかった。
日精はさぞ怖かっただろう。
住み慣れた家から無理矢理連れ出され、乱暴に扱われて、さぞ辛かったことだろう。
その恐怖の片鱗がさきほどからちらほらと見える。少年も、わたしも、彼らの存在を感じる度に、震えを覚えていた。
『華……御免よ……』
逃げる最中、何故だか少年はわたしに謝った。
『僕がもっとしっかりしていれば、君がこんな場所に連れだされることもなかったのに』
『それは、貴方のせいじゃない。わたしも悪いの。蝙蝠にあっさりと連れ出されてしまったのだもの……』
きっと彼一人の方がまだ逃げやすかっただろう。
少年が無事だと分かったのはいいものの、わたしはただただ後悔していた。
『そうでもないよ、華』
けれど、少年は言った。
『僕も怖かったんだ。一人だったら諦めていたかもしれない。でも、君がいるなら、しっかりしなきゃと思える。だから、そんな風に自分を責めないで』
その優しさに心を討たれた。
勿論、甘えてばかりはいられない。蝙蝠からさっさと逃げられなかった自分を責めるべきだという考えは揺るがない。それでも、少年の優しさは身に沁みた。その優しさが、責めてばかりの自分がきちんとその責任に向き合える支えとなった。
優しくて、逞しい少年。
やがては青年となる彼が、この上なく頼もしい。
『有難う』
わたしは静かに礼を言った。
『貴方もどうか、謝らないで』
今はとにかく、月の城に帰るべきだ。
きっと蚕が月に知らせていることだろう。それとも、知らされているのは絡新婦の方だろうか。どちらにも、という場合もあるし、寧ろ、蚕自身がこの状況をどうにかしようとしてくれているかもしれない。
いずれにせよ、わたし達に出来るのは逃げる事だけ。
『もう少しで城への道に出られるよ』
少年の言葉に光が見えた。
しかし、そんな矢先――。
「居たぞ。二人いる」
「若い番いだ。両方逃がすな」
癖のある口調とやや乱暴な響き。
わたし達の視界の端々で、人間の男たちの姿がついにはっきりと見えた。行く手もふさがれ、すぐさま少年と共に別の道を探したものの、あっという間に包囲され、逃げ場は完全に失われた。
見たこともないような風貌の男たち。
さすがにわたしも少年も震えが止まらなかった。
その手には縄。棍棒を構えている者もいる。全てが体格もよく、わたしと少年とは比べ物にならないほど逞しい身体をしていた。
「おや?」
男の内の一人が、ふとわたしに目を止めた。
「その雌花は人工花だな?」
「――人工花?」
聞き返す仲間の一人に、男は深く頷いた。
「町で売られている奴だ。うん、間違いない。真っ赤な目に真っ白な髪。病的なほど白い肌。そして、濃い蜜の香りがその証拠。今まで捕まえた奴とは全く違う」
仲間の言葉に少々男達が動揺を見せる。
それを見て、少年が口を開いた。
「この子は月様が特別に注文した花」
その一言に、男達の視線が一気に少年へと向く。だが、その荒々しさに怯むことなく、少年は続けた。
「この子に害を成すのは、月様を敵に回すのと同じだ。それでも、おじさん達はやるつもりなの?」
顔を見合わせる男達。
月の名前を出されて、動揺を深める者もいるようだ。このまま考え直してくれるのだろうか。しかし、そんな期待も一瞬だった。
「残念だったね」
男の一人がにやにやしながら言った。
「生憎、俺達は御月様なんざ崇拝してない。女神の怒りを買っちまう前に、さっさと遠い場所へとんずらしちまえばいいのさ」
駄目だった。
それもそうだろう。彼らは元々、食虫花の手引きでこんな蛮行に出ているのだから。けれど、絶望は大きかった。月を崇拝しない人間の存在は恐ろしい。
「さあ、御二人さん。そろそろ時間だ」
残酷な宣言は下された。
怯えるわたしを庇うように、少年が腰からナイフを抜いた。廻りを取り囲む男達すべてを見渡し、そのナイフをちらつかせる。
だが、花狩人の男たちはちっとも恐れたりしなかった。
「あまり抵抗しない方が身のためだぞ」
笑いを含ませて男の一人が少年をからかう。
「お前たちが聞き分けのいい賢い子供なら、俺達も紳士になれる。だが、もしもお前達が身の程知らずの馬鹿でしかないのなら、一瞬で立場を分からせてやらにゃならん」
棍棒を持つ男が一歩前へ出て、怪しく笑う。
「さて、君たちはどちらかな?」
いよいよだ。
頭の中が真っ白に染まり、先を考えることも難しくなっていく。力で敵う訳がない以上、わたしは少年の手をしっかりと掴んでいることしか出来なかった。
せめて、彼が乱暴な事をされるのは見たくない。
祈りに祈った、そんな時だった。
「身の程知らずの馬鹿はお前たちの方だよ」
突如、低い女の声が聞こえ、わたしも少年も呆気に取られた。
その間に、花狩人の男の一人が急に倒れ込んだ。何事かと驚く仲間たちもまた、次々に呻き、奇妙な体でその動きを止めてしまった。
驚くわたしの目に映ったのは、日光を反射する何か。
――糸だ。
細く目に見えづらい糸が、男たちの身体に巻きついていた。
蜘蛛の、糸。
「捜したよ、二人とも」
声の主が誰だか分かった瞬間、膝が砕けるかのように力が抜けた。かつて、彼女は恐ろしい存在だった。それでも、今のわたしには安心出来る存在。それは、少年にとっても同じことだった。
「絡新婦……」
その名の通りの人物が、木々の間からわたしと少年を見つめて、そっと笑みを浮かべた。