2.人
◇
「人間?」
その言葉を繰り返し、わたしは静かに少年を見つめた。
場所は月の城の庭。その一角で、去年までは日精と三人で遊んでいた場所で、二人きりでぼんやりと過ごしていた。
「そう、人間だよ」
少年も答える。
人間といったら、真っ先に思い浮かぶのはやっぱり花売りの青年だった。
生まれて初めて接した人間。一家は他にもいたけれど、彼が一番わたしたちによく接したし、優しかった。
生みの母も信用している青年。狐の尻尾のような髪をふわふわと揺らして歩くのが面白かったのを覚えている。
もう長く会っていないけれど、あまり寂しくはない。ただ、ふと彼のいた場所を思い出して、辺りを見渡してしまうこともあるのは確かだった。
それでも、花売りの家に戻りたいことがあったかと問われれば、そうでもない。蝶と月と離れるなんて絶対に嫌だ。いまでは彼女たちの方が家族であるし、蝶の腕の中こそが、生みの母よりも安心出来る場所でもあった。
この感覚を共有できたのは、日精だった。
でも、少年には分からないらしい。当り前だ。彼は野生花。養育してくれる人間なんて存在せず、それどころかろくに親に養育してもらってもいない。ある程度独り立ち出来るようになってからは、ずっと勘で生き延びてきたのだと言うのだから危なっかしい。
こうして毎日会って話せるのも奇跡なのだと思うと、ふと、彼にも常に月の城に居て貰いたくなる瞬間がある。でもそれは、勝手な話だ。少年は野生花として月を慕っているだけ。わたしや、かつて此処に居た日精とは違うのだ。
だから、わたしはせめて少年との時間を大切にすることにした。
それは、もう先が短い月との触れあいの一つ一つを大切にするのと同じだった。
今も、そんな一瞬の一つだった。
話は、人間の目撃について。かつてわたしが暮らしていた町を出て、月の森へと入った集団を見つけたのだと、少年が言いだしたのだ。
「どうしてこの時期に? 年が変わる時は町で御祭りをするんじゃないの?」
薄っすらと覚えている程度だけれど、わたしが花売りの元に居た時はそうだった。
年末年始は御祭りがある。その御祭りに一般市民は参加するのだけれど、花売りの一家の大人たちは参加出来ない。青年はいつも子供の頃に楽しんだ御祭りの話を聞かせてくれたものだった。どれも不可思議なものではあったけれど、話に聞く限りではどこか不気味であまり参加したいと思えないものだったのを覚えている。
あれからまだ数年しか経っていない。
御祭りは毎年あるはずだし、特別にない年があるなんて聞いた事もない。
「御祭りの準備をしている人間たちもいるそうだよ。町と森を行き来する鳥たちがそう言っていた。でも、人間の一部が武器を持って森に入ってきたのは確かでね。……どうやら、食虫花と関係があるらしいよ?」
「――食虫花と?」
一気に不穏さが増した。
武器を持った人間。食虫花。
月の森が今まで以上に物騒な場所になるのかと思うと少しだけ怖かった。
「うん……。食虫花は人間たちにも手を出したからね。きっと討伐に行くのだろうと鳥達は言っていた」
「討伐……」
それなら、まだ頼もしい。
あんな恐ろしい魔女は早く退治して貰いたい。
けれど、人間たちに食虫花が倒せるのだろうか。束になってかかっても、あの不気味な魔女を打ち破るなんて出来ないように思えた。
だって彼女は、御日様のかけた魔法を破ったこともある魔女だもの。
「多分だけれど、このお城にも来訪するはずだよ。勝手に森を荒らすなんてことが、人間たちに出来るわけがないからね。その前に月様にお会いするはずさ」
月に来客が多いのは珍しいことではない。
この大地、とりわけ、この森で何か特別な事をしなくてはならない時は、月に認められなくてはならないという掟があるらしい。
特に、町に住む人間や他所の大地の神々などは、この森で生き物を狩るとなれば必ず月に会いに来る。それは慣習のようなものであって、月が何かを与えているわけでもないのだが、その決まりを破る者なんて殆どいないらしい。
また、万が一、月を害そうと目論む者がそれを装うとしても、太陽のかけた呪いがその者を弾く。月の城に踏み込めるということは、そうではない者ということなので、心配はないらしい。
長い間、この城は太陽の加護を前提に成り立ってきた。
その為だろう。大地の命だというのに、月を守護する兵力といったものは、町の人間の重鎮の持つそれと比べれば、余りにも頼りなさすぎる。
――それでも、食虫花さえいなくなれば。
月を害そうとする者なんて、食虫花とそれに従う一派だけだ。彼女達の恐怖さえ消えてしまえば、もう誰も月の城を侵そうとしないだろう。
人間の討伐。
それが本当なら、せめてわたしの想像する以上の力になって欲しい。
◇
次の日、少年の話を裏付けるかのように、月の城には来客が訪れた。
わたしはというと、勿論、その来客と引き合わされることもなく、ただ静かに、そして、いつものように、月の城の庭の端っこで少年の訪れを待っていた。
ここ最近は、朝の蜜吸いを終えて数時間も経たない内に、元気な姿を見せてくれたものだったけれど、今日はまだ彼の姿を見ていない。
――遅いなぁ……。
別に約束をしているわけでもないし、此処に来るのだって少年の気分次第ではある。それでも、ここしばらく、彼が此処に来ないなんて日はなかった。あるとすればそれは、彼の身に何かが起こった時くらい。
そう言えばいつだったか、乱暴な胡蝶に惑わされて、命からがら此処に来た日があった。
その日はとうとう現れないのだろうと諦めていた時だったのだけれど、息を切らしながら月の城の庭へと飛び込んできたのだ。もう時刻も遅く、執事の目も光っていたので、詳しい話を聞いたのは次の日の事だった。さすがに少年も恐ろしくて、その日の夜は月の城の庭で寝泊りをしたらしい。
それなら、いっそのこと、ずっと此処に居たらいいのに。
庭に住みついている精霊が全くいないわけではない。無害な為に放置されることが多いけれど、他者を害さない花の精霊や虫の精霊の一部はこの庭に一時住み込み、いつの間にかいなくなってしまうものだった。
どうして皆、定住しないのだろう。
――だって、つまらないじゃないか。
いつか、少年はそう答えた。
「つまらないって言っても、命には代えられないじゃない……」
どうして遅いのだろう。
まさかあの日のように、危ない目に遭っているのだろうか。
「その通り、命には代えられないというのにねえ」
ふと、第三者の声が聞こえて、わたしは固まってしまった。
この城の者ではない中年の男の声。それは覚えのある声で、姿を見ずとも、誰の者だったか分かってしまった。
恐る恐る声のした方向を見つめてみれば、城壁を越えた場所で黒い衣服に身を包む男の姿がそこにあった。人間のようで、人間ではない。一目で分かるものだ。いとも簡単にその姿を本来の姿に変え、夜の空を飛びまわることが出来る魔術師。
――蝙蝠。
その名が頭に浮かんだ途端、震えが生まれた。
ただの蝙蝠ではない。彼には罪がある。かつてこの場所にいた、同じ花の血を受け継ぐ人を殺したという罪。
「……来ないで」
恐怖のあまり後退りするわたしを見て、蝙蝠はおかしそうに笑った。ただ、近づいてはこない。距離を保ったまま、彼は紳士的に手を胸に当て、敵意のない事を示した。
でも、騙されてはいけない。
この男は月を害する者。食虫花の手先なのだから。
「脅かしてしまったようで申し訳ない。華、どうか震えずに、私の話に耳を貸してはくれないだろうか」
聞けるわけがない。礼儀正しく見えるのは偽りの姿だ。彼は罪人。この場所で月を守ろうとした人工花の女性を残酷にも殺した食虫花の下僕。
だが、さらに後退し、そのまま城の中へと逃げ込もうと考えるわたしを見ても、蝙蝠はあまり慌てずに表情を濁らせる。
「無理もないでしょう。けれど、華、私の話を聞かないと、他でもなく貴女が後悔することになりますよ。華、君はあの野生花の少年を待っているのでしょう?」
静かに少年のことを口に出され、足が自然と止まった。
少年。いまだ顔を出さない彼。
「……彼がどうしたというの?」
「私は見ていたのです。目撃したのです。奴らがかの少年を見つけ、その自然の美しさに惚れこむ姿を。そして、疾しい心でその穢れに満ちた手を少年へと向ける姿を」
蝙蝠の淡々とした声が怖かった。
そして、何よりも、今、その口から放たれている言葉の意味が怖かった。
「彼は花狩人に追われています」
「花狩人……?」
「貴女がたを獲物として狩る人間たちのことですよ。もしもあのまま捕まればもう此処には居られない。生かされるにせよ、殺されるにせよ、何処か遠い場所へと売り飛ばされることでしょう。そして、二度と君の前には現れない」
「う……嘘よ……」
騙されてはいけない。口から出まかせに決まっている。
そう思うのに、どうしてか、蝙蝠の言葉が具体的なイメージとして、わたしの脳裏に浮かんでは消えていく。嘘に決まっている。そう自分に言い聞かせても、少年が必死に逃げている姿が想像できた。
――彼が捕まってしまう? もう二度と会えない?
そんなわけない。
「嘘ではありません。こんなつまらない嘘を言うためだけに、私にとって危険なこの場所に単身で乗り込んだりしませんよ」
不敵に笑みながら、蝙蝠はわたしに向かって言う。
「もしも、信じられないというのならいいでしょう。せいぜい、このまま待ち続けなさい。でもきっと、彼は辿りつけないでしょうけれどね」
そう言い捨てて、蝙蝠は背を向ける。このまま去る気だ。そう分かった途端、わたしはとうとうその黒い姿に声をかけていた。
「待って」
もっと話を聞きたかった。
「その話が本当だって、証拠はあるの?」
「証拠? 残念ながら特にありません。私はただこの目で見た事を何となく貴女に伝えたというだけ。所詮、貴女は女神様の花に過ぎない。駆けつけたところで、彼の力にはなれないでしょう。せいぜい、窮地に混乱している彼を落ち着かせることくらいしか出来ないでしょうね」
――落ち着かせることしか……。
その言葉が重石のように頭に落ちてきた。
あの少年が混乱している。その通りなのだろう。危ない目に遭っているのなら、城の庭へと逃げ込めばいいのだ。彼にとって難しい事ではないはずだし、冷静ならば道を間違えることも殆どないだろう。けれど、彼はそれすら出来ない。混乱して、逃げ惑っているからだろう。
落ち着かせることしかわたしには出来ない。
その想いが引き金となって、わたしは更に蝙蝠に訊ねた。
「ねえ、彼は今何処に――」
その時だった。
「華、いけない」
口を挟む者が、わたしの背後に現れた。
蚕。月の味方である魔女、絡新婦の僕である胡蝶の青年だ。彼はその美しい顔で真っ直ぐ蝙蝠を睨みつけていた。
「華、この男の話に耳を貸してはいけない」
それは、もっともな警告だっただろう。
「……ねえ、蚕」
けれど、わたしの頭は少年のことで一杯だった。
「彼が花狩人に追われているって、本当なの?」
「今はそれどころじゃない。とにかく、城の中へと逃げなさい。温室に閉じこもり、鍵をかけるんだ」
「ねえ……蚕、どうして答えてくれないの?」
違うなら、違うと言えばいいのに。
蚕は一瞬だけわたしを振り返り、すぐにまた蝙蝠へと視線を戻した。
彼は絡新婦の指示がない限り、嘘をつかない人物だ。どうやら気休めの嘘や誤魔化しを思いつくのが苦手であるらしい。
蜜を欲して花を呼びこむ力は蝶と同じくらい巧みなものなのに、それに関わらない状況での彼の姿は、驚くくらい素直なものだった。
「嘘じゃないから、ですよね?」
蝙蝠の声が届き、身が竦んだ。
彼はまだ先程と変わらぬ場所からわたし達を見つめている。その目を見ている内に、何故だか蚕よりもあの黒ずくめの男の方が信用できるような、そんな奇妙な気持ちに陥ってしまった。
「嘘じゃない……本当に、彼は――」
「華、よく聞くんだ。彼の事は絡新婦様が何とかして下さる。だから、君は城に戻りなさい。……華!」
背後から引き寄せるような蚕の声が響く。
振り返れば、振り返ったで、胡蝶の不可思議な魅惑がわたしを引き寄せようとしていた。途端に全身を駆け廻る蜜が踊り、単純に彼に従いたいという気持ちが生まれる。
狙った花を蜜吸いに誘う時に胡蝶が使う魔術のようなものだ。
多くの花はあれに抗えず、せめて自分を誘った胡蝶が心優しい人物であるようにと祈りながら身体の全てを預けることになる。
蚕よりも蝶の方がずっと好きなわたしでも、その魔術は平等に圧し掛かって来るものだ。いつもなら、蝶の事を頭に浮かべてどうにか抗うその魔術。
けれど、今はどうだろう。
蚕の引き寄せようとする力が、驚くくらいに頼りなく感じてしまった。
それよりも、わたしを引っ張っていくのは、微動だにせずにこちらを見つめる蝙蝠から放たれる雰囲気だった。
――彼を無視すれば、少年ともう会えなくなるかもしれない。
絡新婦に任せろという蚕の言葉が恐ろしく響かず、寧ろ、自分の足で少年のもとへと向かわなくてはならないといった得体の知れない使命感のようなものが、わたしの脳内で暴走していた。
「蚕……御免……」
「華、待つんだ!」
悲鳴のような蚕の声に従いたくても、わたし自身がどうすることも出来なかった。
何故だろう。蝙蝠に逆らおうにも、少年のことが心配で仕方なくて、まるで取り憑かれたように歩んでしまうのだ。
手繰り寄せるような蝙蝠の雰囲気。
――これは、魔術だ。
頭では分かっても、抗うことが出来ない。
「蚕……」
助けてという言葉が喉元で引っかかり、口から外に出る事はなかった。