1.蕾
◇
蜜吸い。
その言葉が日に日に重みを増していく気がした。
一日に二回。朝と夕に蝶と肌を重ねるその秘め事は、蝶にとっては大切な食事であるだけかもしれないけれど、わたしにとっては大事な交流でもあった。
目に見えない蜜はわたしの身体の中で絶えず生みだされ、蝶がどんなに吸い取っていっても、すぐにまた溢れだしそうなくらい溜まり、身体の疼きを産む。
昔は蝶を相当我慢させないといけないくらいに体力もなくて弱かったけれど、今では蝶を満足させられるほどに蜜を与えられるようになった。
今は丁度いい。
でも、この先はどうだろう。
蜜の生まれる速度は留まる事をしらない。いつか、わたしの方が不満を抱くほどになってしまうのではないかと思うと、怖い気もした。
わたしは未だに蝶以外の虫に身体を許していない。
胡蝶の青年蚕が気紛れに誘うことはあったけれど、それに簡単に乗ってしまうなんてことはなかった。
蚕と蜜吸いなんてしたら、実を結んでしまうかもしれない。
そうなれば、蝶を悲しませるし、自分も悲しかった。
まだわたしは実を結ぶ年齢ではないのだ。それを決めるのは月だと信じていたし、その時は蝶を介して欲しい。
今はただ溜まりにたまった蜜を、蝶の為だけに捧げるだけでいい。
そうして、平穏だった一年半以上の日々を共に過ごしながら、わたしは少しずつ蝶の身体の回復を実感してきた。
今もまた、そんな一日。
それは、あと数日で年が変わるという朝だった。
「……苦しくない?」
柔らかな唇がわたしの手に触れ、そんな言葉がそっと漏れだす。
愛らしい眼差しに見つめられ、わたしは静かに首を横に振った。
苦しくなんてない。むしろ、恐ろしいほどに心地よかった。
蝶にこうして身体を預けるようになって三年は経っている。大人に近づけば近づくほど、わたしは蝶がどれだけ気遣ってくれていたのかを気付かされた。
胡蝶が生きていくためには、沢山の蜜が必要だ。
森で暮らす胡蝶ならば特に、花を見つけて蜜を吸う事は、そのまま生きることに直結している。そんな状況下で、せっかく見つけた花に拒否なんてされた日には、参ってしまうだろう。だから、胡蝶は蜜に対して貪欲になり、理性を飛ばして花の心を操ってしまう。子を欲しがっていなくても、体調が万全でなくても、胡蝶に誘われれば断りきれなくなり、逃げる事すら出来ず、最悪の場合、枯れてしまうまで吸い尽くされるのだ。
それは、胡蝶が生きるために授けられた本能のようなもの。
蝶だって胡蝶の一人。例にもれず、彼女もまた蜜に貪欲であるらしい。
信じられないけれど、蝶はかつて花を枯らしたことがあると言っていた。蜜に貪欲になってしまったが為に、花の懇願すら耳に入らないまま蜜を吸い尽くしてしまった為だ。
同じ事をわたしにもやってしまいそうで怖いと。
けれど、わたしは怖くなかった。枯れてしまった花は可哀そうだけれど、わたし自身は蝶によって枯れてしまうのならば、それでもいいくらいだった。
そのくらい、蝶が好きだからだ。
「大丈夫……もっとあげる」
躊躇い気味な蝶の身体に抱きついて、わたしは存分に蜜を流しこんだ。この術を覚えたのは、およそ二年前。それまで無抵抗に吸われることしか出来なかったわたしが、ようやく成功した攻めの術。
蜜を流しこむのは好きだ。流し込めば流し込んだだけ、楽になれるからだ。吸われるのとは少し違った感触が、愛おしい。
与えたい分だけ与えるという力は、きっと花特有の生きる術なのだろう。
肌と肌を重ね、蜜の行き来をじっと感じていると、蝶が小さく呻きながらぎゅっとわたしの身体にしがみ付いてきた。
流しこまれた蜜の味に酔いしれているのだ。
「華……」
わたしの名を呼び、蝶は唇を重ねてきた。
甘い香りは何だろう。きっとわたしの蜜の香りだろうけれど、わたしにはどうしても、蝶自身の香りに思えて仕方なかった。
そのくらい、蜜に酔いしれる蝶は美しかった。危なっかしいほどに、美しかった。
唾液と共に蜜を吸われ、全身から力が抜けていくわたしを支えたまま、蝶は少しずつ衣服をずらしていく。綺麗だけれど傷跡の残る手がわたしの肌に直に触れ、じわじわと蜜をかき乱していった。
身体が溶けてしまいそうなほどの感覚に打ちひしがれながら、後は全て、蝶に任せて力を抜いた。
蝶にとって、大切な栄養源。疎かにすれば、蝶を失ってしまいかねない。
そう思うと、いくら蜜をあげても安心出来ないままだった。
◇
朝の蜜吸いが終わり、気だるさのなかでぼんやりとしている内に、蝶はわたしを置いて立ち去ってしまった。
きっと月の元に帰るのだろう。
そう思いながら、わたしはその背中をそっと見送った。
蝶は毎晩月と共に寝ている。
買い取られたばかりの頃は緊張もあってそこまで気にしてはいなかったように思うけれど、ここ最近はその事実を意識する度に切ない気持が生まれる。
わたしも二人の傍に居たい。もっともっと一緒の時間を増やしたい。
けれど、それは叶わぬ夢でもあると既に知っていた。
わたしは花売りが守ってきた血を継ぐ人工花の子。その血はとても脆く、ちょっとした変化で体調を崩しかねない。その為、わたしのような花が育つのに適したこの温室にいなくてはならないと決められているのだ。
この城の主である月は先代――つまり、彼女の母が残した記録と書物で、わたしの体調をしっかりと管理してくれている。そのお陰か、滅多なことがない限り、わたしは健康という恩恵を当り前と思えるほどに保つことが出来た。
とても有難いことだと分かっている。
でも、やっぱり寂しかった。
わたしも蝶と出来るだけ一緒にいたいし、月の傍に出来る限りいたい。
だって、月はあと数年もしない内に――。
「華御嬢様、お水とお召替えをお持ちしましたよ」
考えに耽りかけたわたしの耳に、その声は聞こえてきた。
女中頭。月が生まれるより前からこの城に仕えている人間の女性だ。同じく長く仕えている執事と共に、この城で働く人間たちを取り仕切っている者だ。
雑用は女中に任せるような事も多いけれど、こうしてわたしの顔を一度見る為に着替えや水を運んで来ることも多い。
わたしが返答するより一歩早く、女中頭は扉を開けた。
その双眸がじっとわたしを見つめると、少しだけ和らいだ。
「御変りはありませんか?」
「うん、大丈夫」
「今日は本当にいいお天気ですよ。お水を飲んでから、日光浴をなさってはいかがです?」
女中頭が閉め切られていたカーテンを開けると、彼女の言う通り、眩い日光が押し寄せてきた。その言葉通り、本当にいい天気だ。日光浴はわたしにとって蜜吸いと同じくらい大切な行為である。
でも、その前に、わたしはどうしても月に会いたかった。
「……月は御部屋に居る?」
訊ねてみれば、女中頭は素早くこちらを振り返った。
困ったような、しかし、さほど咎めるわけでもないような顔つき。
女中頭も執事も、月に対しては恐ろしいくらいに口うるさくなるけれど、わたしや蝶に対しては不思議なくらいに優しい。それが何故なのか、あまり深く考えた事はないけれど、どんな理由があるにせよ、二人に叱られる度に月が困惑している姿は見ていて不安なものであるのには違いない。
「いらっしゃいます。でも、お仕事の邪魔をしてはいけませんよ」
「勿論よ」
元気よく答えて、わたしはすぐに着替えて水を飲んだ。
月の仕事は大抵、手紙整理や来客との面会である。
様々な理由で町や他所から月を訪ねてくる者はいるし、早急に返事を要請する手紙も来るものだ。月の大地で行われる様々な事に対して、月はその許可を下さなければならないらしい。
という話を、何気なく訊ねたわたしに執事がしてくれたことがある。でも、その話の半分以上はよく分からないままだった。
月という女神の殆どは、生まれた瞬間に母を亡くすもので、城主である月が幼い頃はその役目を執事がしていたことがあるらしい。月が生まれてから死ぬまでを絶えず見守り続ける太陽という女神が授けた紋章と筆によって、幼い月の代わりに許可を出せるようにしていたらしい。
その役目は月が十六歳になるまで続いたと聞いた。
執事がまだ執事ではなくてここに仕え始めたばかりの若い使用人だった頃、月の母である先代の女神もまだ幼く、やはり同じような役目をその時の執事がやっていたらしい。
いつの時代も、月というものは母を持たないため、執事や女中頭が話し合って、その代わりを務める期間があるそうだ。
「ねえ、聞きたいのだけれど」
さり気なく壁の埃を指で確認していた女中頭に向かって、わたしは訊ねた。
「月って、小さい頃、どんな子だったの?」
「そうですねえ……」
考え込んでから、女中頭はそっと微笑んだ。
いつもあんなに月に対して怒っているとは思えないくらい穏やかな微笑みだ。わたしが来た時よりも幾らか老いてはいるが、そうあまり変わってはいない。
「お人形のような見た目にそぐわず、御転婆な御方でしたよ。とにかく不真面目で、退屈な事が大嫌いで、あの方とは大違いでした」
あの方というのは、先代の月のことだ。
女中頭も、執事も、月の母親を恐ろしく神聖視し、未だに崇拝し続けている。
それもあって月は、いつも亡き母と比べられて落胆されてきたらしい。
着替えながら聞くわたしに向かって、女中頭は更に嘆く。
「御転婆なだけならよろしいのですが、よりによって月様が外に出たいと仰せになる頃になって野蛮な魔女が現れましたので、私どもは生きた心地もしない時を過ごさせられました」
その表情が暗くなったことに気付いた。
思い出しているのはきっと、その暗い時代の訪れを象徴する事件だろう。
月の母親の肖像画のかかっている部屋には、同じ画家の描いた別の人物の絵も飾られている。その絵を初めて見た時、わたしは驚いた。鏡に映る自分の姿によく似ていたからだ。
でも、わたしではないというのは分かった。
日付も違ったし、名前も違った。それに、よく見ればわたしとは違う別人の顔つきで、わたしが来た時よりも少しだけ幼く見えたからだ。
その絵の人物の事を、月はあまり覚えていない。でも、月が生まれた時には確実にこの城に居たらしい。そして、死んでしまった月の母に誓って、月を守るためにその成長を見守ってきたのだという。
しかし、それは五年で終わってしまった。
忘れ形見であったその人工花が、蝙蝠に誘き出されて枯らされてしまったからだ。
その時の光景を、女中頭と執事は忘れていない。その当時から此処に居るほかの女中や使用人も同様だ。
「華御嬢様、庭に出るのはよろしいですが、どうかお気を付け下さいませ」
力のない声で、女中頭は言った。
「蝙蝠のこと……?」
「――ええ。あの野蛮な男を見かけても、絶対に近づいてはなりませんよ」
「うん、分かった」
もう何百回と言われてきたことでもある。
――蝙蝠を見たら逃げなさい。月を悲しませたくなかったら、どんな誘いにも乗ってはいけませんよ。
怖いのだろう。わたしだって怖い。でも、それは想像に過ぎず、あまり実感は沸かない。殺されるのではないかという恐怖だけなら、かつて蚕や絡新婦によってもたらされたことはあったけれど、結局恐怖だけに留まった。
一方、女中頭と執事は違う。その目で見たかつての光景が、未だに心を荒ませているのだから恐ろしい。
それならば、せめて同じ思いをさせないように努めるのが世話をして貰えるわたしの責任でもあるだろう。そう思いながら、わたしはすっかり着替えてしまった。
「月に会ってくる」
そう言って、女中頭の返事もろくに待たずにわたしは温室を出た。
◇
月は部屋に一人でいた。とても珍しいことだ。
いつもなら部屋の窓際に蝶がいて、窓を眺めたり、長椅子に座ったりしながら月と話しているのに、何処を見渡してもその姿は見つからなかった。
「華、おはよう」
先に声をかけられ、わたしは慌てて返答してから、訊ねてみた。
「ねえ、蝶は?」
「出掛けてしまった。森に行くそうだよ」
「森に……?」
少しだけ不安を覚えながら、わたしは窓際に立った。
月の城を取り囲む森はあまりにも広く、この小さな窓からは見渡しきれない。見た目は非常に美しいけれど、その端々で、今日も誰かの命が誰かの糧として消えていく。そう思うと、鮮やかな緑が毒々しいものにさえ感じてしまえる。
そんな森に蝶は今日も出掛けてしまったなんて。
長椅子に膝をつきながら、わたしは見えるはずもない蝶の姿を探した。
蜜はわたしが捧げたので足りている。それでも彼女が森に行くのには訳があった。
蝶は最近、森で絡新婦と会っているらしい。二人きりではなく、蚕も一緒だ。絡新婦の命令で、蝶の行き来を影ながら見守っているらしい。絡新婦から得ているのは情報だろうか。月を守りたい一心で、森で不審な動きが無いかを確認している。
わたしは蚊帳の外だ。
いくら訊ねても、蝶は教えてくれない。
ただ笑って、頭を撫でるだけ。
「蝶が心配なんだね」
机より訊ねられ、振り返って月の姿を見つめた。
日陰にいる月の姿はいつもよりやや控えめな印象を持っている。それでも、美しさは変わらず、優しげな輝きも変わらない。太陽とは全く違う心地よい静けさ。その静かな印象に抱かれながら、わたしはそっと頷いた。
すると、月は微笑みを浮かべてから言った。
「――大丈夫。絡新婦も目を光らせている以上、あの子に手を出せる者なんてあの女くらいのものだ」
あの女。それは食虫花のことだろう。
月をずっと狙い続けている花の魔女。同じ花であるけれど、わたしと彼女では何もかも違い過ぎる。噂によれば、食虫花は日々、別の魔女を捕えては、その魔力を増幅していっているらしい。
お陰で月の森は今まで以上に殺伐としているのだとか。
「月は心配じゃないの?」
「心配に決まっている。でも、だからといって、あの子を無理矢理閉じ込めるようなことは出来ない。あの子は本来自由でいるべき胡蝶だからね」
人工花とは違うから。
そんな言葉が見え隠れして、わたしは口を噤んだ。
月はそれに気付いているのかいないのか、ふと立ち上がり、わたしの隣へと歩み寄ってきた。窓の外の空を眺めつつ、わたしの白い髪をそっと撫でていった。その感触の心地よさに惚けていると、月は言った。
「今日はいい天気だ。華も日光を浴びておいで。もうそろそろ彼が来る頃だろう?」
はっと我に返り、わたしは窓の外を眺めた。
見つめる先は城の庭。何処を見渡しても、まだその姿はない。けれど、直に来るだろう。ほとんど毎日、彼はわたしを訪ねてくれるのだから。
野生花の少年。
初めて此処に買い取られた頃からわたしと遊んでくれる花の子だ。同じ白い花を始祖としているけれど、人工花と野生花という違いは大きい。時折、わたし達はお互いの違いに驚くことがあった。
けれど、わたしは彼が好きだし、彼もわたしを好いてくれた。
会えない日は殆どないけれど、少年が現れない日がたまにあると、とても不安なものだった。何処かで何かあったのではないか、よくない事に巻き込まれたのではないか。
彼が野生花だからこそ、その不安は付きまとう。
「来た」
その姿は開けっぱなしの門の傍に見えた。
真っ白な髪の美少年。わたしの目よりも薄い紅色をした目は、こちらからではそんなによく見えない。
今日も無事に城に来てくれた。
それだけで嬉しかった。
高揚した気分のわたしを、月は優しく撫でてくれた。
「行っておいで、華」
優しく促され、わたしはすぐに部屋を出た。