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花狩り  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第一部
5/15

5.弱き者


 色の乏しい荒れた部屋の中。

 鍵のかかった部屋は内側からだと開けられない。

 時折、壁越しに聞こえてくるのは、悲鳴のようだ。誰の悲鳴なのか。考えたくもないけれど、自ずと答えは浮かび上がる。

 この館に来たのは初めてではない。

 羽化した後の胡蝶ならば誰だって、この場所に連れこまれて生きて出られる事はないと聞いたことがあるだろう。それでも、ここに連れこまれるまでは、自分がそんな目に遭うだなんて思いもしない。


 あたしもそうだった。

 三年前のあたしは、この場所に入りこむまでも、まさか自分がこの死の館に連れこまれているのだなんて思いもしなかった。

 分かったのは何もかも手遅れとなった後。

 寝台の上で、意識すら定まらないくらい蜜を浴びせられた後になってからだ。

 それでも、あたしは逃げ出せた。どうやって逃げたかなんて覚えていない。その時の記憶すらすでに曖昧だ。壮絶な痛みと苦しみが我が身を襲ったのは分かる。その直後、記憶が飛んで一時戻らなくなってしまうくらい追い詰められたのだから。


 思い出せたのは、再び食虫花の手に落ちてしまった時。

 あの時、助けてくれた月もまた、あと少しで食虫花の魔の手に陥るところだった。

 恐ろしいこの館に足を踏み入れたのは、三度目。

 どうやら本当に、食虫花はあたしに手を出せないらしい。

 蜜だけ存分に吸わせただけで、傷一つ付けずにこの部屋に閉じ込めて何処かへ行ってしまったのだから確かだろう。それとも、あたしのようなただの虫けらに構っているよりも、もっとやりたいことがあったからなのだろうか。


 そして、悲鳴は聞こえ始めた。同じく連れこまれた花蟷螂は別室にいる。それだけで、あの悲鳴の意味は分かってしまう。

 これまでも、食虫花は沢山の魔女を狩ってきた。

 絡新婦も狙われ、そして、あの花蟷螂も狙われてきた。

 森中の魔女を襲って手に入れるのは、かつて月にやられた聖剣の傷を癒すためだと言われていた。そのくらい、聖剣には強い神通力が込められていたのだろう。

 しかし、その傷はもうとっくに癒えているはずだ。

 それどころか、太陽の力を破るほどの力を身につけるまでとなっていた。

 何故だろう。魔女を食らい続けていたからだろうか。それとも、もっと別の理由があるためだろうか。


 あたしは考え続けた。絶えず聞こえてくる花蟷螂の悲鳴に耐えるには、考え事を止めないでおくしかなかった。

 悲鳴が止まるのはもっと怖い。月の城まで送り届けてくれた美しいあの姿が脳裏をちらつき、消えそうになかった。

 食虫花は花蟷螂を物としてしか見ていない。

 あのまま食べ物となるか、道具となるか、そのどちらかしか選択肢を与えていないのだろう。そして、花蟷螂がどちらを選択するのか。

 嫌な予感しかしなかった。


 ――もうやめて……お願い……もう……。


 心が折れそうな中、あたしは必死に祈った。

 しかし、その祈りの最中で、花蟷螂の悲鳴はぱたりと途絶えた。



 ――この館主の狙いは何なのだろう。


 辺りは静寂に包まれたまま。頑丈な格子窓の向こうに見える空は何処までも暗い。窓の外を覗いても、此処から月の城がどの方角にあるのかも分からなかった。

 この部屋に放り投げられて、もう数時間は経っている。

 太陽が授けてくれた加護があるせいか、今のところは食虫花に直接危害を加えられたりはしていない。

 それでも、怖かった。

 随分前にぱたりと止んだ悲鳴。その主たる花蟷螂はどうなってしまったのだろう。唯一聞こえる物音が、あの悲鳴と窓の外の風の()だった。その一つが消え去った今、あたしの不安は膨らんでいくばかりだ。


 けれど、そんな時間も終わりを迎える時が来た。

 それに気付いたのは、足音が段々とこの部屋に近づいて来ているのが聞こえだしたからだ。食虫花だったらどうしよう。今はまだ、彼女を直接見たくなかった。

 そんなあたしの気持ちなんて推し量るはずもなく、扉の鍵は開けられた。

 ゆっくりと開く扉を部屋の隅で震えながら見つめた。現れるのは、食虫花か、はたまた、蝙蝠なのか。


 ――どちらも嫌だ。嫌に決まっている。


 しかし、その姿がはっきりと視界に入った瞬間、あたしはこの状況も忘れ、思わず茫然としてしまった。

 部屋の隅で震えるあたしを見つけ、丁寧に頭を下げる娘。

 華奢な身体付きは、枯れた小枝のよう。もともとはもっと健康的な姿だったに違いないけれど、今はただ冬枯れの木々にしか見えなかった。

 それでも、その目は美しかった。花を虜にする力はまだ失っていないだろう。そしてくるくると肩まで降りた巻き毛もまた愛らしい。その美しさを際立たせるかのように、その娘は人間の娘が着るような丁寧な作りの服を与えられている。


 ――胡蝶……。


「初めまして、月の城の御嬢様」


 震えた声でその胡蝶の娘は言った。


「わたくしはこの館に仕える妾の一人で御座います。御嬢様の身の回りのお世話を任されました。どうか、(あげは)とお呼びください」


 あたしよりも幼い。

 きっと、羽化して一年も経っていないだろう。


「鳳……」


 その名を呼ぶと、鳳は小さく返事をする。

 その姿は今まで見てきたどの同胞よりも儚げに見えた。館に仕える妾と言っただろうか。つまり、食虫花を主人とする胡蝶。それがどういうことなのか、あまりに衝撃的過ぎて、すぐに頭に入って来なかった。


「どうして、貴女は此処に……?」


 その質問が意外だったのか、鳳は一瞬、驚いたようにあたしを見つめたが、すぐに目を逸らして瞼を閉じた。

 ずっと怯えているように見えるのは、食虫花が怖いからなのだろうか。


「ねえ、鳳。貴女もあの女に捕まってしまったの……?」

「わたくしは食虫花様の妾なのです。鳳という名前もあの方から頂きました。だから、わたくしに取り入ろうとしても、無駄ですよ」


 きっぱりと言われ、力が抜けた。

 名前すら貰った妾。きっと、本当は喰われるはずだったのだろう。食虫花がこんな手頃な獲物を逃がすはずがない。けれど、恐怖と痛みに耐えきれなくなって、隷属に下ってしまったのだろう。

 この館にはそんな者たちが沢山潜んでいるのだと聞いたことがある。

 行方知れずになった犠牲者の中には、今もなお生きていて、城の何処かで潜んでいるのかもしれないと。

 けれど、この鳳という娘。

 どう見ても、本心から仕えているように見えて仕方ない。これが隷属に下るということだ。絡新婦に囚われて、脅されても、隷属になるようにという誘いに頷けなかったのはこの為。況してや食虫花の隷属になるなんて考えただけで恐ろしい。


「可哀そうな人」


 純粋に敵意を向けられ、あたしは正直に感想を口にした。


「捕まってしまったのは同情するわ。でも、貴女が食虫花の隷属になった事を後悔していないのなら、貴女もまたあたしの敵。月を害する者の一味よ」

「――別にそれで構いません」


 鳳は静かに答えた。


「今のわたくしを養い、守って下さるのは食虫花様だけ。貴女の崇拝する御主人様は、わたくしの危機を救ってくださらなかったもの」


 その言葉に殴られたような気分になった。


 この大地の者にとって、月は遠過ぎる存在。かつてのあたしだってそうだった。月は近くて遠い場所でひっそりと過ごしている神様。あたしたちが目に出来るのは、夜空より地上を眺めるその化身だけ。

 月への信仰心は当り前に持っているもの。

 それでも、もしも危機に瀕したならば、その当り前も崩壊してしまうことはあるだろう。そうであったとしても、不思議はない。


 ――それでも。


 それでも、この幼さの残る胡蝶を憐れんでばかりはいられない。


「……食虫花はあたしをどうするつもりなの?」


 冷たい視線から目を逸らして、あたしはそっと鳳に訊ねた。

 不気味なあの魔女は、どの程度の力を持っているのだろう。どうであれ、あたしを利用して月を誘き出そうとするのは間違いない。

 それに喰いついてはいけない。

 せめて、執事と女中頭が月を閉じ込めてしまえばいい。それか、太陽が訪れて、説得してくれればいい。

 それは、あたし自身の未来を閉じるということ。確かに怖いし、悲しいし、苦しいことだ。しかし、何故だろう。三年前に捕まったあたしは、心の何処かで月に助けてもらいたくてしかたなかったというのに、今はただ、月があたしを助けに来ないようにと本心から願っている。

 諦め、だろうか。きっと諦めもあるだろう。


「それは……」


 ふと、鳳が言葉を選びながら答えた。


「わたくしには到底分からない事です。わたくしが言いつけられたのは、ただ、御嬢様のお世話をしなさいということだけ。この部屋で大人しくしている限り、食虫花様は御嬢様に危害を加えたりなさいません」

「大人しくしなかったら、危害を加えるというの? 果たして、あの人にそんな事が出来るかしら。あたしにかけられた守護の力を破ることが出来るというの?」


 自暴自棄な言葉だと自覚していた。

 食虫花は月を狙うだなんて普通の生き物ならば思いもしないような事を目論んでいる魔女。それも、他の魔女を数え切れないほど喰い殺し、更には太陽が月の為にかけていた魔女避けの術までも破ってしまった。

 相手はそんな魔女。

 目に見えない太陽の加護程度では、恐ろしくて対等になんて渡り合えない。言われなくても、この部屋から逃げ出そうと考えるのにはまだまだ覚悟が足りなかった。

 だが、そんなあたしの自棄に気付いているのかいないのか、鳳は淡々とした様子できちんと応じてくれた。


「分かりません。わたくしはただの妾ですから」


 その姿はまるで、人形のようだった。



 夜になって久しい。

 こんな場所で空を見つめる事になるなんて、朝には思いもしなかった。

 月はどうしているだろう。華と少年はもう無事に城に戻れただろうか。蚕はどうなっただろう。絡新婦はもう、花蟷螂の悲劇を知っているのだろうか。

 様々な想いが巡っていき、そして弾けて涙となる。

 戻りたい。今すぐ戻りたい。温かな月の膝元に戻ってその温もりを感じたい。


 後悔なんて遅過ぎる。冷静な判断を欠いた時点で胡蝶の命は殆ど尽きてしまうものだ。捕える者を恨んだって仕方ない。恨んだところで何も変わらないのだから。

 それでも、戻りたいと思う気持ちだけはどうしようもなかった。

 月に助けて欲しいなんて思わない。危険を冒してまで此処に来てはいけない。太陽の力を貰ったからと言って、それを無駄に活用させることもない。

 しかし、心の何処かであたしは信じていた。


 月はきっとあたしを助けようとするだろう。執事や女中頭と口論になってでも、城を抜けだそうとするだろう。来てはいけないと願ってはいるけれど、その光景を想像することだけは、今のあたしの支えでもあった。

 あたしは月の妾。

 これからどう落ちぶれようと、その立場は絶対に変わらない。


「蝶……起きているわね?」


 不意に食虫花の声が聞こえ、びくりと身体が震えた。

 館の主人なのだから、現れないわけがない。それでも、此処に閉じ込められてから暫く、あたしを訪れたのは鳳だけだったので、その脅威は忘れかけていた。

 思い出されれば、こんなにも恐ろしかったのかと実感する。

 応えることも出来ないで部屋の隅で震えていると、扉は開けられ、思った通りの食虫花の姿が現れた。

 始めから、あたしが何処で蹲っているかを分かっている視線。

 この様を見つめ、微かに笑みを浮かべると、即座に扉を閉めて、出入り口を塞ぐ形で立ち尽くした。


「気分はどう?」


 まるで優しさでも持ち合わせているかのように、食虫花はあたしに向かって訊ねる。

 その絶対的強者の眼差しをどうにか見つめながら、あたしは恐る恐る一つのことを確認した。


「花蟷螂は……どうしたの……」


 真っ先に返ってきたのは微笑みだった。

 とても愉しいことを思い出すように、食虫花は笑い、そして気持ちを落ちつけてからきちんと言葉で答えた。


「安心しなさい。まだ生きているわ」

「本当に……?」

「勿論。せっかく捕まえた大物なのよ? さっさと殺してしまうなんてこと、出来るわけがないじゃない」


 じゃあ、気を失っているだけなのだろうか。

 花蟷螂は何処に囚われているのだろう。

 悲鳴はそう遠い場所ではなかった。むしろ、ここからとても近い場所だったように思う。それなら、どうにか此処から逃げ出して、会いに行く事は――。


「蝶?」


 名を呼ばれ、はっとした。

 気付けば食虫花は音もなく目の前まで来ていた。髪に触れられ、頬に触れられ、寒気が生じる。美しいこの女は、自分の隷属でもない胡蝶を食べ物としか思わない肉食者。どんなに会話を重ねても、どんなに肌を重ねても、深い部分に横たわる価値観は揺るがず、食べると決めればそれを躊躇ったりはしない。

 今のあたしの命を繋いでいるのは太陽の加護だけ。

 そう思うと、恐ろしくて仕方なかった。


「震えているわね。鳳から話も聞いているわ。可哀そうなのはお前の方よ。その加護を受け入れている限り、あの子のように楽な立場に流れる事は許されないのだから」

「余計な御世話よ……」


 震えを堪えてあたしは抗った。

 しかし、あたしの突っぱねに対しても、食虫花はただ笑うだけだった。


「可愛い子。そんなに月が大事なの。私からあの女神を守りたくて必死なのね。でも、お前には力がない。ただ月に守られているだけのお前には、助けを待つ以外に出来る事なんてない」


 泣いてしまいそうだった。

 涙を流す資格なんてないのに。

 どうして、あたしは魔力の一つも持っていないのだろう。せめて、誰かの力を受け継いでいたのなら、食虫花を煩わせる程度のことは出来たかもしれないのに。


「お前は本当に馬鹿な子ね」


 その言葉が耳に届いた時、肌にじわりと濃厚な蜜が滲みるのを感じた。

 途端に思考が狂わされる。甘くて濃厚で、渇いた喉と飢えた腹を思い出させ、理性を吹き飛ばすかのような強烈な薬。

 美味しくないと思いたいのに、やっぱりそれは好ましい味で、ろくな抵抗も出来なままあたしは受け入れてしまっていた。


「ただの胡蝶がそんなに強がらなくたっていいじゃない」


 食虫花が優しげに囁く。

 恐怖と歪んだ優しさのようなものが、あたしの全てを圧し潰してくるようにどっと襲いかかってきているのだと漠然と分かった。

 分かった所で、どうすることも出来なかった。

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