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花狩り  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第一部
4/15

4.死の花


 月の城はすぐそこだ。

 あたしの帰りを待って、門は解放されている。

 あとは庭に飛び込んで、そのまま玄関へと向かうだけ。

 それなのに、あたしは恐怖に負けて振り返ってしまったが為に、立ち尽くしたまま動くことが出来なくなってしまった。


 赤、白、緑、そして眩い黄金。

 始めにあたしの目に入りこんだのは色だった。しばらくして、その色が何を意味しているのか、嫌でも頭に沁み込んできた時、更なる悲鳴は生まれた。

 あたしの正面でこちらを向いているのは花蟷螂。

 だが、その腹部からは、緑の鋭い蔓がうねうねと蠢いている。震える花蟷螂の白い身体から血は流れおち、足元を穢していた。

 背後から貫かれているのだ。

 やっと、そう気付けた時、花蟷螂の腹部を別の手が這っていった。きめ細やかな美しい手。花蟷螂の血で穢れることを喜ぶように指を躍らせ、その動きに獲物が苦しんでいる様を見つめ、愉しんでいる。


 食虫花。

 彼女は背後から花蟷螂を抱きしめ、その肩越しにあたしを見つめていた。


「蝶。よかったわね」


 静かな調子で彼女は言う。


「お前はこんな目には遭わない。だって、御日様の加護があるもの。どんなに花蟷螂を憐れんでも、お前がこの痛みを被る事なんて出来ないもの」

「その人を……放して」


 無駄と分かっていても、訴えずにはいられなかった。

 花蟷螂は懸命に痛みを堪え、薄れいく意識を保とうとしている。あたしがまだ月の城に逃げ込めていないからだろう。霞んでいるだろうその目をあたしだけに向け、訴えかけるように唇を動かしている。

 けれど、その唇から漏れだす声は、もはや呻き声ばかりだった。

 そんな花蟷螂をしっかりと捕まえたまま、食虫花は指についた血をぺろりと舐めとってから答えた。


「いやに決まっているでしょう? こう見えてこの人はね、この私に手間を取らせてくれた大物の魔女なの。この身体にどれだけの魔力が込められていると思っているの?」

「やめて……その人を――」

「お願い……早く……月様の元へ……」


 朦朧とした花蟷螂の声が再び聞こえてきた。

 こんな状況にいながら、まだ花蟷螂の思考はあたしを逃がすことしかない。自分が助かるなんて、諦めてしまっているのだろうか。


「まだお喋り出来る余裕があるのね。じゃあ、これはどう?」


 食虫花が微笑んだ途端、花蟷螂の腹部を抉った蔓が動きだし、直後、花蟷螂の身体が大きく反った。悲鳴は掠れて殆ど聞こえない。だが、見えているだけでこちらまで竦んでしまうくらいの痛みが、彼女を襲っているのだということだけは伝わってきた。


「痛い? そうよね。なんせ、毒だもの」


 愉しそうに食虫花が花蟷螂に対して言う。


「もうこれで、貴女は何処にも逃げられない。あとは全部貴女次第。どんな形で私のものになってくれるのか、ゆっくりお話しして決めましょうね」


 言い終えると、花蟷螂の身体から力が抜けた。

 ついに気を失ってしまったのだ。鋭利な蔓は抜かれずにそのまま。力を失う花蟷螂の身体を支えたまま、食虫花の視線はゆっくりとこちらを向いた。


「さて、蝶」


 食虫花がにこりと笑みを浮かべる。

 その口元には先程舐めた花蟷螂の血が微かについている。


「お前ともお話しなきゃならないわね」


 風向きが変わり、甘い香りがこちらに向いた。

 恐ろしい蜜の臭い。命の危険を避けられないと何度も思い知らされてきた臭い。大嫌いだし、忌まわしい臭い。そうであるはずなのに、どうして……どうしてこんなにも美味しそうな香りに感じてしまうのだろう。


 ――駄目。惑わされちゃ、いけない。


 自分に言い聞かせても、視線は食虫花から逸らす事が出来なくなっていた。

 あたしが美味しそうな花の子を捕まえる時と同じ。食虫花はあたしだけを見つめたまま、そっと花蟷螂の身体を手放し、蔓の支えに任せ身軽になった。

 近づいて来る。

 その事実が事実としてだけ頭に残る。


 ――逃げなくては。


 そんな当り前の本能すら、思考に留まり、空回りした。


「月が自分の為に買ってくれた人工花を心配するがゆえに、あの安全な虫籠を飛び出してしまったのよね」


 ――逃げなくては。


 でも、足は動かない。震えは増大していき、とうとう食虫花が目の前に来てしまった時、膝から下の感覚は崩れ落ち、その場に座り込んでしまった。

 目を逸らせないまま、伸びてくる食虫花の手さえも避けられない。


「それとも、独占かしら。あの可愛らしい花の子を自分以外の誰かが愛でるなんて許せない? あの高級品に対してお前が異常なほど独占欲を募らせていたとしても、不思議じゃないものね」


 ――華……。


 華に会いたい。月に会いたい。

 こんな気持ちになったのは久しぶりだった。

 食虫花に触れられたのは一年以上前のこと。あの時よりもずっと絶望は深い。蜜の香りで朦朧とするあたしを助けてくれるような者はもういない。この光景がどれだけの者に見えるのかも分からないのだから。


「気持ちは分かるわ。愛する月に貰った宝物だもの。そして、お前自身は――」


 頬を撫でながら、その手があたしの背中に廻る。

 昔は、この行為がどれだけ危険なものかさえ知らなかった。けれど、今は違う。自分がどれだけ絶望的な状況にいるのか、この美しい花の笑みがどれだけ残酷なものなのか、嫌というほど分かっている。

 長生きするということは、それだけ世の中の恐ろしさを知る事なのだと思い知らされた瞬間だった。


「今や月の宝物」


 食虫花の囁く声と共に、何処からともなく現れた蔓があたしの手足に巻きつく。


「そうなるべくしてお前が生まれたのなら、そのお前を先に私が拾った事にもきっと意味があるのでしょうね」


 甘い蜜が蔓から流れ込んできた。

 脳を溶かすかのような美味と、全ての波を狂わせるかのような快感。段々と平常心すら保てなくなり、恐怖も、思考も、感覚も、全てが溶かされていくようだった。抗うことも出来ないまま、食虫花に差し出された指を口に含むと、より一層、心より浸りたくなる味が舌の上で踊りだした。

 久しぶりの味。華には出せない毒の味。

 狂ってしまいそうなその味を、いつの間にかあたしは呑み込んでしまっていた。


「やっぱり、御日様は無力ね」


 食虫花の声が何処か遠くで響いているように聞こえた。

 気が遠ざかるような感覚は蜜のもたらしたものだ。そうだと分かっているはずなのに、どうしても口を離す事が出来ないのは何故だろう。


「お前の命を奪えなくても、お前を隠す事は出来る。月は捜しに来るでしょうね。自らのこのこと私の前に現れるでしょうね。御日様の絶対性を信じて、その力を受けた自分の力を信じて、そして私を討伐出来ると信じているのでしょうね」


 このままではいけないと、頭では分かっているはずなのに。


「でも、太陽って本当に絶対的なものなの? 太陽よりも強い存在はこの世界の何処にもいないのかしら? お前はどう思う、蝶?」


 頭で分かっているだけでは、動くことが出来ない。

 食虫花の話の半分も頭に入らないまま、あたしは蜜の味に酔いしれたままだった。

 美しくて残酷な花の魔女。濃過ぎて嫌悪していたはずの蜜の臭いすら、今では欲しくて堪らないものに感じられた。吸えば吸うほど喉は渇き、身動きは取れなくなっていく。胡蝶であるならば、一度落ちればもう二度と這いあがれなくなる落とし穴。


 ぼんやりとした視界の中、あたしはどうにか意識だけを保ちながら食虫花を見つめた。

 そんなあたしの顔を覗きこむ食虫花の後ろで、同じく蔓に捕まっている花蟷螂が微かに目を開けたのが見えた。少しだけ意識が戻ったらしい。けれど、彼女もまた動く事は出来ない。出血が酷く、痛みも酷いのだろう。汗と涙がぽろりと落ちているのが見えるばかりだった。

 震えている。

 もう、どうしようもないと諦めている姿。

 そんな花蟷螂の姿はかつての自分のようで、そして、未来の自分のようで、とても恐ろしいものだった。


「さあ、そろそろ行きましょうか。蜜ならあとで沢山あげる」


 頭の中が真っ白になった。

 汗ばかり溢れる身体が異様に冷たくて、食虫花にどんなに温められても凍えてしまいそうだ。抱きしめられれば抱きしめられるほど、震えは強くなり、混乱は増大する。


 ――御免なさい。


 頭に浮かぶのは、城を飛び出す前に耳に届いた月の悲鳴。

 あたしを止めようと城の者に命じるその必死な声。


 ――御免なさい、月。


 もう、助けてくれなくていい。あたしの為に危険を冒す必要はない。

 どうか、太陽の加護が月をこの魔女から守ってくれますよう。

 食虫花の甘い香りに包まれながら一人祈りを捧げていると、遠くで別の者の声が響いた。


「食虫花!」


 男の声。青年の声。

 聞き覚えのある、勇ましい声。


「悪しき魔女よ、蝶を放せ!」


 ――蚕。


 はっと意識が定まった。

 声がしたのは城とは逆方向の木々の間。そこで槍を構えながら、蚕は鋭い眼光で食虫花を睨みつけていた。

 あたしを追って森を彷徨っていたのだろうか。


「此処は既に月様の御膝下。その神聖な場所を荒らすのは許さない」


 荒々しい猛り声と共に、蚕は槍を構えたままこちらに歩み寄ってきた。

 それを見て、食虫花は優雅に笑った。


「どう許さないのかしら、胡蝶のお兄さん? もしよろしかったら、もっともっと近寄って、私に教えて下さらない?」


 その言葉に、血の気が引いた。


「駄目……蚕……」


 思っていた以上に情けない声が出た。

 でも、構ってはいられない。

 食虫花は蚕を舐めているわけではない。何か勝算があるからこそ、蚕を誘っているのだろう。このままでは、あたしだけではなく蚕までその手に落ちてしまう。


「逃げ――」


 言いかけたその口を、食虫花の手が塞ぐ。

 途端に、濃厚な蜜の味が口の中を襲いはじめ、一気に混沌と眠気が押し寄せてきた。でも、寝てはいけない。出来る限り起きて、蚕を逃がさなくては。


「別に逃げてもいいのよ。この事を女神様に知らせてもいいし、なんなら、貴方の御主人様に知らせてもいい。――ああ、そうだ。貴方の御主人様にとっても、この子は宝物だったわね。罪を犯してまで横取りしようとしたくらいだもの。それなら、貴方の御主人様も怒って私を倒しに来るのかしら?」


 含み笑いが耳障りだった。

 蚕の視線がふと蔓に囚われたまま動けずにいる花蟷螂へと向いた。

 彼の頭に浮かぶのは、己の主のことだろう。かつて、絡新婦が食虫花の手に落ちかけた時、食虫花は彼を煽ったのだという。

 一度隷属に落ちぶれた者は、何があっても主人を見捨てられない。逆に、一度隷属を手に入れた者も、何があってもその僕を切り離すことが出来ない。

 この主従関係を理解しているからこそ、食虫花は彼を煽るのだろう。


「そう焦らなくたって、貴方の御主人様もちゃんと頂くつもりよ。そうね、花蟷螂が完全に私のものになってから、かしら」


 ――逃げて。


 明らかな煽り。此処で倒さねば、あたしだけではなく、自分の主人も危なくなるだろうとわざと思わせている。

 通常ならば、蚕はもっと冷静な判断が出来るはずだ。こんな煽りにも惑わされず、いい策を見つけ出す事が出来るだろう。

 しかし、相手は食虫花であり、ここは既に食虫花の術中にある場所だ。


「この――」


 勇ましく、逞しく、槍を扱うことも出来る蚕。それでも彼は、あたしと同じ胡蝶でしかない。元々、絡新婦に捕まり、命を繋ぐために身を捧げた過去を持つ、儚い存在でしかないのだ。


「化け物め!」


 槍を構えて素早く動きだした蚕を見て、食虫花は片手をすっと上げた。

 直後、無数の蔓が蚕をめがけて襲い始め、彼の動きを阻んだ。だが、蚕は怯まずに先を目指す。その鋭利な蔓が何度も蚕の身体を狙っているのに、彼は少しも恐れない。

 逆に、あたしは怖くなった。

 あの蔓が花蟷螂を貫き捕え、毒まで与えてしまったのだ。そして花蟷螂はいまもなおその苦しみの中に囚われたまま。

 旧友がそんな目に遭うところは見たくない。


 ――蚕……。


 逃げてと言いたいのに、口を塞ぐ手を退かす事が出来ない。

 だが、仮に言えたとしても、蚕はあたしの言葉に耳を貸してくれるのだろうか。怒りと恐れ、そして魔術に囚われかけている彼が、いったん退くなどという選択をすることなんて出来るのだろうか。

 全部、あたしの所為だ。

 華が心配な余り、冷静な判断すら欠いて城を飛び出してしまった所為。

 その所為で、花蟷螂も、蚕も、危険な目に遭わせてしまった。


「そうね、お前のお陰ね」


 あたしの思考を読んだように、食虫花は囁いた。


「お前のお陰で、ちょっとだけ特別な胡蝶の肉を頂けそうだわ」


 その時、食虫花の蔓が蚕の槍を弾き飛ばした。その衝撃に一瞬だけ怯む蚕をめがけて、別の蔓が迫り、彼の身体を強く弾き飛ばした。

 地面に倒れ伏す蚕に向かって、更に食虫花は蔓を迫らせる。

 貫かれたら終わりだ。

 恐怖で身体が竦みそうになるなか、あたしはとっさに食虫花に心の中で訴えかけた。


 ――お願い、彼に手を出さないで。


 口はその片手で塞がれたまま。手足も蔓が邪魔して動かせない。けれど、心の声は確かに食虫花に伝わっているようで、彼女はちらりとこちらへと目を向けた。


 ――お願い……。


「――じゃあ、そのお願いを聞いてあげる代わりにお前は何をしてくれるのか教えてくれるかしら」


 赤みがかった目があたしの瞳を捉える。

 隠しているもの全てを引きだしてくるようなその目から逃れずに、あたしは静かに心を落ちつけた。

 食虫花がそっとあたしの口から手を退けた。

 解放されるのを感じつつ、あたしはしっかりとその意志を述べた。


「……貴女と一緒に行きます」

「蝶――」


 言いかける蚕の喉元に、蔓が突きつけられる。


「だから、お願い。もうやめて。せめて、蚕には手を出さないで」


 泣き出しそうなあたしを見つめ、食虫花はにこりと微笑んで、蚕を見つめた。


「聞こえた? 胡蝶のお兄さん? この子、私と一緒に来るんですって。貴方はどうしたい? この子の訴えを無視して、その蔓で喉を貫かれたい? それとも、黙って見過ごして、後で御主人様に慰められたい?」


 蚕の表情が歪む。

 だが、その身体はぴくりとも動かない。その喉元はまだ鋭利な蔓が突きつけられたままだ。蚕はそのまま、双眸をあたしへと向けた。


「蝶……」


 抑え気味の声で、彼は言う。


「待っていて……必ず迎えに行く」


 その顔に浮かんでいるのは、きっと悔しさだったのだろう。

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