3.花蟷螂
◇
食虫花は一人きりでそこにいた。
目立った武器も持たず、仲間も連れていないというのに、あの余裕そうな笑みは一体なんなのだろう。
対する花蟷螂は、緊張気味に彼女の様子を見つめていた。握る手には汗が滲んでいる。それだけで力関係が嫌でも分かってしまうくらいだった。
にこりと笑いながら食虫花は言った。
「美味しそうな魔力に惹かれて来てみれば、思わぬおまけがついていたみたいね」
その目に見つめられると、背筋が凍りそうになった。
おまけはあたし、ということは、端から彼女は花蟷螂を捕えに来た。それがどういうことなのか、分かれば分かるほど恐ろしい。
「この子はおまけにはならないわ」
花蟷螂が言った。
「どうせ、貴女にはこの加護を打ち破れないでしょう?」
「ええ、多分ね」
素直に食虫花は答える。
「なんて言ったって、あの御日様の加護だもの。でも、それと、貴女と、何の関係があるの? ねえ、花蟷螂。貴女、その子の身代りにでもなるつもり?」
「悪いけれど、身代りにもならないわ。月様の為にも、貴女には滅んで貰う」
先手を取ったのは花蟷螂だった。
もともと罠でも仕掛けていたのだろうか。花蟷螂が手を振り払うと同時に、食虫花の周囲を糸が伸びてきた。絡新婦が使う糸によく似ている。その糸に食虫花が気を取られている間に、花蟷螂が再び何かを唱えると、無数の花弁が現れ、食虫花めがけて飛んでいった。
幻想、或いは、幻惑の力。
ただの幻術だとしても、それで斬られれば本当に死んでしまう。幻であっても、精神が囚われてしまえば、肉体すら滅んでしまうのだ。
その力を、食虫花はもろに食らった。
圧倒的な力と加減などあり得ない体勢。花蟷螂も名のある魔女なのだろう。絡新婦のように、普段は隷属を連れているのかもしれない。
だが、一見有利に見えるこの状況下にあっても、あたしは少しも気が休まらなかった。何故なら、食虫花が一向に焦る気配を見せないからだ。
「相変わらず、素敵な力」
食虫花はうっとりとした声でそう言うと、ようやく動いた。
蔓を操って美しい花弁の幻惑を弾き飛ばし、糸を引き千切ったのだ。その目はじっと花蟷螂を見つめたまま。
「でも、幻惑は幻惑。私には通用しないわ。大人しく降伏なさい」
そう言って踏み出そうとした食虫花に、花蟷螂は再び花弁の嵐を向けた。そして、その力が食虫花にぶつかるかぶつからないかで、あたしの手を引っ張った。
「おいで。城まで一緒に逃げるのよ」
焦りを隠せないその声に頷くほかなかった。
◇
花蟷螂。
彼女は絡新婦と旧知の仲であるらしい。だが絡新婦とは違って、胡蝶は好みではなく、飛蝗の若者を食べるらしい。それに、生まれてこの方ずっと月への信仰心が厚く、月の城に害を与える食虫花のことを常に監視していたとか。
そんな花蟷螂を食虫花が知らないはずもなく、もうずっと前から彼女は食虫花に狙われてきたのだという。
あの食虫花はおかしい。
もともと月の森にはいなかった種族であると聞くが、花蟷螂や絡新婦、他にも森をよく知る者たちによれば、その血を継ぐ者は既に存在しているらしい。それらの全てが食虫花の血を継いだ子供であるかは分からないが、そうだとしても、今、あたしたちを諦めずに追いかけてきている食虫花ほど異常な者はいないのだという。
魔女から見ても驚くほどの底なしの魔力を持っている。
それだけではなく、その精神面でも、大地の命である女神を害するという異常さ、本来は受け付けないはずの獣や人間を襲って食べてしまうという異常さがある。それは、この森に住まう他の食虫花にはない特徴であるという。その特徴がどうして、何を原因として、現れているのかなんて分からなかった。
花蟷螂に連れられて逃げていても、一向に光は見えてこない。
食虫花。彼女ならば、もしかして、太陽から授けられた加護すらも破ってしまえるのではないだろうか。そんな根拠のない不安が押し寄せてきて、とても怖かった。
「あと少しでお城よ。戻ったら、月様の近くにいなさい。後は、絡新婦や私を信じて待っているのよ」
花蟷螂は言った。
「絡新婦なら心配ないわ。あの人は私よりも強いから……」
「貴女は……?」
「私も負けるつもりなんてないわ。貴女を送り届けたら、出来るだけ遠くに奴を誘き出す。その隙に絡新婦に花の子たちを送り届けさせるから」
誘き出す。
そんな事が出来るのだろうか。出来たとして、花蟷螂は大丈夫なのだろうか。
食虫花は始めから花蟷螂を捕えようとしていた。勝算あってのことだろう。そして、明確な目的があるからこそ、花蟷螂に近づいてきたのだろう。力ある魔女。花蟷螂はそういう存在として食虫花に目をつけられている。そんな彼女がもしもあの悪魔のような女の手に堕ちればどうなるのか、花蟷螂が分かっていないわけはない。
「そんな顔しないで。万が一のことがあっても、月様にだけは御迷惑をかけない。貴女の愛する花の子たちの安全だけでも守って見せるわ」
万が一とはどんな時だろう。
迷惑をかけないとは具体的にどういうことだろう。
命に変えて月を守ろうとしているのは立派なことだろう。でも、それに縋ることしか、あたしには出来ないのだろうか。
――出来ないのだ。
あたしはただの胡蝶。胡蝶は強者なんかではない。仮に強者になれるとしたら、それは魔女や神様だけ。生憎、あたしはそのどちらでもない。たまたま食虫花に囚われ、たまたま逃げ出せて、たまたま月の元に辿りつけた、幸運に恵まれただけの胡蝶。
本当ならば、安全な城の中でじっとしているのが正解だったはずなのだ。
それなのに、華が心配なあまり飛び出してしまった。自分が無力であることを忘れて、この場所に足を踏み入れてしまった。
――本当に、あたしは無力なだけなのだろうか。
ふと、疑問が頭を過ぎった。
何の努力をしても、食虫花には敵わないのだろうか。太陽から受け取った加護だけを支えに震えていることしか出来ないというのだろうか。
「よくないわね」
花蟷螂があたしの手を引っ張りながら言う。
「あの女の魔力が充満している。どうしても貴女を逃がしたくないみたい」
彼女の言う通り、辺りには濃い蜜の香りが充満している。
何も知らない若い虫の男女を誘惑する時に使う技だ。あたしや花蟷螂にはさほど通用しないはずのこの力を敢えて使っているのは、あたしたちが焦った行動をおこすことを狙ってのことかもしれない。
食虫花。あの魔女は自分の魔力を惜しみなく使い捨てる。そんなことが出来るのは、無限といってもいいくらいの貯えがあるからなのだろう。ここ数年はとくに異様だ。かつて月につけられた聖剣の傷を癒すついでに他の魔女を狩ってきたからだろうか。魔力は膨れ上がり、ついには傷を負う以前よりも強力な存在になってしまうだろう。
このまま逃げ切れたとしても、逃げ切れなかったとしても、その不安は付きまとう。いつか食虫花が、太陽の授けてくれた全ての加護を打ち破り、城にまで侵入して月を追い詰めてしまう日が来るのではないかと。
「ねえ、花蟷螂……」
あたしはついに花蟷螂に訊ねた。
「魔法って、どうやって身につけるの?」
場違いな質問だった為だろう。
しばし、花蟷螂は答えず、食虫花の甘い蜜の臭いを探って周囲を窺ってから、ようやく静かに口を開いた。
「どうして知りたいの?」
密やかなその声は、食虫花に聞かれるのを嫌ってのことだろう。
だが、どうして。その質問にすぐには堪えられず、一瞬口籠ると、花蟷螂はやや手の力を抜いて言葉を続けた。
「まあ、いいわ。不都合はないし、教えてあげる」
何処かで何かが這う音が聞こえた気がした。
だが、花蟷螂は反応しない。一点のみを注意深く見つめたまま、慎重に呼吸を整えている。僅かにだが魔力を放っているらしいのは、肌で感じ取れた。食虫花を少しでも惑わす為だろうか。
「魔力は魔力を持つ者に授けられて開花するの。男は男から、そして女は女から、授けられて初めて魔法使いになれる。多くの魔女は記憶も残らない内に母親から授けられた者ばかりよ。私もそう」
女は女から。魔女は、魔女から。
「でも、中には赤の他人から授けられる者もいる。どちらかと言えば、男に多い状況ね。偉大な魔術師の元に弟子入りして、認められて、やっと授けられて魔法を使える。授ける者の力が強ければ強いほど、授けられる者の魔力も強いものになる。だから、誰だって強い者の弟子になりたがるわ」
「隷属とは……違うの?」
「隷属は弟子じゃない。中には弟子入りの条件に隷属になるようにと持ちかける魔女もいるけれど、本来、隷属と弟子は直接繋がりがないの。弟子は飽く迄も弟子。主の傍を離れられない隷属とは違って、独立した存在としていつでも師匠の元を離れられる。魔力だけ授けてすぐに別れるような場合だってある。その代わり、師匠から命をかけて守って貰える保証なんてないわ」
隷属ではない。独立した存在。魔力だけ授ける時だってある。
「魔女の弟子って、誰でもなれるの?」
「女であるならば」
「あたしも……なれる?」
花蟷螂はまたも口を噤んだ。
言葉を探しているだけなのか、その目が見つめる先で食虫花に動きがあったのかは、分からない。ただあたしの手を握ったまま、動きを止めてじっとしているのみだ。逃げないということは、まだ大丈夫ということなのだろう。
「なれるかどうか、ってだけで言うならば、なれるわ。でも、なったからと言って、すぐに魔法が使えるわけじゃない。見習い魔女の半数近くは一年も経たない内に命を落とす。魔力を好む者に喰い殺される為よ」
「それでも、なれるのね……?」
「……そうね」
渋々頷いて、花蟷螂は赤みがかった色の目をそっとあたしに向けた。
「――なってどうするの? 胡蝶が魔女になったところで、他の魔女から狙われることには変わりないわ。それに、万が一、強い魔女になってしまったら、日の輪に弾かれて、城には入れなくなってしまうのよ?」
「そうだとしても、無力なだけのあたしではなくなるかもしれない。あたしも、月を守りたいの。傍に居られなくなったとしても、月の力になりたいの」
真っ直ぐ花蟷螂の赤い目を見つめると、その瞳が僅かに揺らいでいるのが分かった。
肉食者の目。今まで多くの虫の悲鳴を生みだしてきただろう。そして、その死を見届けて来たのだろう。それでも、もはやあたしはちっとも怖くなかった。怖いと思うほどの余裕が残ってはいなかった為だ。
「私の魔力が欲しいの?」
目を逸らさずに、あたしは花蟷螂を見つめ続けた。
すると、花蟷螂の方はそっと視線を逸らし、今一度、食虫花の潜んでいるらしい方向を睨み始めた。
「……私の魔力は日の輪に弾かれるくせに、さほど強力なものではないからお勧めしないわ。それに、魔女になんて気楽にならないほうがいい。下手をすれば後悔しかない毎日を過ごす羽目になるのだから」
「でも、今までのあたしよりもずっとずっとマシよ。何も出来ないまま足を引っ張るだけなんて嫌なの」
心からの思いだった。
これまで何度、月に助けられてきただろうか。最初から月との出会いは助けられる者と助ける者の関係でしかなかった。お互いに支えあえたらと思っても、あたしにはその力が無いのだと何度も思い知らされてきた。
同じ胡蝶ならば、もしくはただの花ならばまだしも、月を狙うような食虫花なんて立ち向かえるわけがない。食虫花だってそう思っている。彼女には月を手に入れるための餌としか思われていないだろう。
それが、悔しかった。
けれど、花蟷螂の表情は硬いままだった。
「私の力は幻惑。貴女に授けたって、マシと呼べるほどのものにもならないでしょう。どうしても魔女になりたいのなら、絡新婦に頼んでみなさい」
言葉尻にやや緊張が含まれた。
その意味に気付くより先に、花蟷螂は再びあたしの手を引っ張って、足早に進み始めた。僅かな魔力は放たれたまま。そして、蜜の臭いは充満したまま。振り返りもせずに進む花蟷螂の表情の向こうに、何が見え、何が判断されているのかということですら、あたしには悲しいほどに捉えづらかった。
◇
花蟷螂に連れられて暫く。
段々とあたしにもよく分かる道がちらほらと現れ、木々の間からは厳かな月の城の姿が見え隠れし始めた。
あと少し。だけど、そのあと少しがとても長く感じる。花蟷螂が時折、焦るような様子を窺わせる度に、あたしもまた今の状況を招いた自分の浅はかさを呪った。
どうして、あたしは無力な胡蝶に生まれてしまったのだろう。あたしが強く出ることが出来るとすれば、それはもっと可憐な花たちが相手の時だけ。力加減を誤れば殺してしまうこともある。それなのに、そんな花たちを助けようと思えば、途方もないくらいの大きな壁が立ちはだかる。
せめて、あたしも魔法が使えたら、それか月や蚕のように武器が使えたら、違うかもしれない。そんな簡単なことすら真面目に考えてこなかった。守ってもらうのが当り前だと心の何処かで思っていたのだろうか。
でも、悲しいことに、こんな後悔はこの短時間の内に状況を変えられるようなものでもなかった。
「蝶」
囁かれて、あたしははっとした。
気付けば、そこは月の城の門へと続く道だった。月への来客が馬車を使って必ず通る道。もうかなり昔の事になるけれど、頻繁にここから遠出をしていた頃は、何度か此処を走って庭へと逃げ帰ったこともあった。
「ついたわ。早く行きなさい」
手を離され、あたしは少し不安になって花蟷螂を見つめた。
「貴女は……どうするの?」
食虫花のことが気になった。
彼女が狙っていたのは、あたしではない。あたしはただのおまけに過ぎず、本当に欲しがっていたのはこの花蟷螂の方。
けれど、花蟷螂は微かに笑んで、あたしの頭をそっと撫でた。
「私の事は気にしないで。貴女よりもこの森で長く過ごし、貴女よりも少しは長く生きているのよ」
本当に、大丈夫なのだろうか。
でも、一緒に残った所で何になるだろう。足を引っ張って、かえって花蟷螂を危険な目に遭わせることになるのは目に見えている。
「貴女の大事な花は絡新婦が絶対に取り戻してくれるわ。だから、貴女は月様の御傍にいなさい。貴女の支えは決して小さくないのよ」
背中を押され、あたしはようやく頷くことが出来た。
「分かった。花蟷螂、此処まで有難う」
短く礼を言うと、促されるままにあたしは月の城の門へと走った。
華のことは気がかりだ。正直、まだ戻りたくはない。けれど、絡新婦が助けてくれるのなら、そして、その絡新婦に勝てるような食虫花がこちらに来ているのなら、あたしの取るべき行動は全てを信じて戻る事だけ。
――貴女の支えは決して小さくない。
あたしは馬鹿だった。馬鹿で、とんだ恩知らずだった。可憐で弱い華ばかりを心配して、月の心までを心配してはいなかったのだから。
これまで月は強く、あたしにとっては遥か上空で輝いているような人だった。彼女の前ではあたしは常に弱い存在で、その傍で身を潜めていることしか出来ないとばかり思い込んでいた。
そして、何よりも、月はいつまでも同じように輝いているのだと信じ込んでいた。その満ち欠けなんて考えてもいなかった。
月は強い人ではないと、あんなに気付いてきたはずだったのに、どうしてあたしは月に心配ばかりかけてしまうのだろう。
――御免なさい、月。すぐに帰るわ。
まずは心の中で詫び、あたしは真っ直ぐ門へと歩いた。
そんな時だった。
「捕まえた」
奇妙な物音と、女の小さな呻きが背後から聞こえた気がした。その瞬間、身体が凍りついたように動かなくなり、恐ろしいほどに後ろが気になって、振り返りそうになった。
「駄目……」
花蟷螂の声がする。
先程と同じ調子。だが、それは偽りのもの。無理に何でもないふりをしているのだなんて、隠そうとしていてもすぐに分かってしまう。
「振り返らないで……」
その言葉に被さるように、今度は別の女の微かな笑い声が聞こえた。
「お願い、蝶。早く行って――」
悲鳴のような花蟷螂の声。
苦しそうなその声はずっと震えていて、見えずとも想像を掻き立てるような冷酷で気持ちの悪い音が響き渡る。そして、ついに耐えきれなくなった花蟷螂が悲鳴を上げた。
――ああ、間違いない。
もはや振り返らずには、いられなかった。