2.花狩り
◇
応接間の斜め向かい。
余り使われていない客間の扉はしっかりと閉め切られていた。その前に立ったまま、私はそっと中を窺った。
立ち聞きなんて節操がないだろう。
それでも、中の雰囲気は何処か暗く、迂闊に声をかけられないようなものだった。そしてこの部屋の隅の窓際に、予想通りの人物はいた。
――月だ。
窓はほんの少しだけ開けられていて、外からの風が中へと入りこんでいる。その微風によって美しい月の長髪がひらりと舞い踊った。その目はまっすぐ窓の外にいるのであろう人物――蚕へと向いている。
「とりあえず、絡新婦の忠告は分かった」
月が静かにそう告げる声は辛うじてあたしの耳にも届いた。
蚕があたしを介してではなく、直接月に話している。珍しいことではない。特に絡新婦からの直々の伝言ならば、そうするのが当り前ではあろう。けれど、あたしは何となく不安だった。月に伝えなければならないからそうしているのではなく、もっと別の嫌な予感がしてきたからだ。
それはどうやら月も同じだったらしい。
「だから、そろそろ教えてくれ。何があったんだ?」
何故、そんな問いを蚕に向けたのだろう。
私のいる場所からは蚕の姿がよく分からなかった。けれど、間近で見ている月には分かるのだろう。彼の様子は尋常ではない。その証拠に、殺した声すらも動揺で上ずり、廊下からそっと覗くあたしの耳にまで届いたくらいなのだから。
「やられました。花狩りの混乱に乗じて――」
焦った声。耳にきんと響き、嫌な予感だけが増幅していく。
花狩り。その名の通り、花を狩る人間たちのことだ。
花売りと違うのは、繁殖して自分で育てるわけではなく、野に生きる自立した花たちを無理矢理捕えるところ。人間たちのルールに則った上に活動する者ばかりではない。自分たちの利益の為ならば、手を出してはいけないとされている花たちを捕えたり、邪魔する者を殺したりする野蛮な者も沢山いる。
「誰がやられたんだ? まさか絡新婦か?」
「いいえ、違います」
蚕の恐れに満ちた顔が見えそうなくらいだった。
その様子を前に、月が覚悟を決める。きっと、彼女には分かっていたのだろう。何故、蚕が焦っているのか。絡新婦のことではないとすれば、答えは絞られていくばかり。
「食虫花にしてやられました。無節操な人間の花狩りを金で操り、白い花の者たちを乱獲させています。その一派にあの野生花の少年が追い詰められているようです。そして、彼の危機を蝙蝠に知らされた華が、誘き出されてしまって――」
――華が……。
嫌な予感はこれだったのだろうか。誘き出された。食虫花のもとだろうか。それとも、その無節操な花狩りのもとだろうか。
どちらにせよ、危険なことには変わりない。危険どころか絶望的だ。
花狩りに少年と二人まとめて囚われてしまったらどうなるだろう。年頃の白い花だ。特に、華の価値を見抜けない花狩りなんていないだろう。囚われればきっと、月の大地とも太陽の大地とも遠い場所に連れて行かれてしまうだろう。
食虫花に囚われたとしたら、論ずるまでもない。
「そんな……華が……」
月の声が震えている。
「申し訳ありません、私が気付いた時にはもう遅かったのです」
力無き花の少年少女が野蛮な類の花狩りに敵うはずもない。ましてや、蝙蝠や食虫花の影がちらついているというのに。
「今のところ、絡新婦様が二人の救出を試みております。月様はどうか城の中でお待ちください。私と私の同胞が足となりますので」
昨年、太陽は日精という花の少女の身柄と引き換えに、あたしと華に力を与えた。その力を疑っているわけではない。太陽の女神としての力は自分よりもずっと上なのだと月が言っていたのだから、それを疑うつもりは毛頭ない。
――けれど、食虫花は……。
食虫花。太陽の魔力すら掻い潜った美しき魔女。その背景に何がいるのか、自分を含めた他の魔女たちにはまだ分かってはいないのだと絡新婦は言っていた。
「場所は何処だ……」
急に押し殺した声で月が問いただした。
見れば、月の睨むような鋭い視線が窓の外へと向いていた。返答はなく沈黙と緊張ばかりがぴりぴりと伝わってくる。不安を煽られるようなそわそわとした空気によって何処となく落ち着かない気持ちにさせられる中、ややあってようやく蚕の返答は聞こえてきた。
「言えません……」
かなり言葉を選んだ控えめな声色だった。
彼にも分かったのだろう。月は助けに行きたがっている。けれど、これは罠だ。月の性格を十分に知っている食虫花の思うつぼだろう。
――ああ、でも、華……。
太陽の加護は飽く迄も手を出させないだけ。不届き者に捕まって、遠くの大地に売りさばかれるような事態までも防げたりはしないだろう。
「頼む、教えてくれ、蚕……」
「出来ません。絡新婦様の言いつけです。今はただ絡新婦様を信じて――」
「相手は人間だけじゃない。裏にいるのは食虫花なんだ」
「だからこそ……だからこそ、月様はここにいてください」
絡新婦は一度、食虫花に負けている。
かといって、全面的に不利なのかと言えばそうではない。
一度負けて、その命を奪われそうになって以来、絡新婦は今まで以上に慎重になった。そう簡単にやられるような人物ではないはずだ。それだけじゃない。絡新婦も自覚しているのだ。華や少年、そして自分の命よりもずっと月の命の方が重たいと言う事を。
考えれば考えるほど、震えが止まらなくなっていく。
月への信仰心のない存在ほど恐ろしいものはない。そして、その存在同士が手を組んだ時ほど厄介なものはない。
――絡新婦……一体何処にいるの……。
「蝶御嬢様、そこで何をなさっているのです?」
その時、目が覚めるような声が響いた。執事の声だ。
廊下の向こうで不思議そうにこちらを見ているその姿と、客間の中で月がこちらを振り返るのがほぼ同時に見えた。月にも立ち聞きを気付かれてしまった。焦りが生まれ、慌てて扉を離れると、居ても立っても居られずその場を逃げ出した。
「蝶御嬢様?」
驚く執事の脇を無視する形で走り去った直後、背後から扉が開く音と共に呼びとめる声が聞こえた。
「蝶、待ちなさい」
月のその命令染みた声にも、従えなかった。
走り出した足も、気持ちも、何もかも止まらないまま、気付けばあたしは城の正面玄関へと向かっていた。
「止めて! 誰か!」
月の焦ったような声が響いたけれど、振り返る気にもなれなかった。
華が危ない目に遭っている。それも、太陽の加護の及ばない相手によって。そんな思いばかりがあたしの足を動かしていた。
重たい扉は開かれたまま。眩い外の光へと飛び込むように外へと出たあたしは、そのまま開きっぱなしの城門へと駆けだした。
「蝶、待つんだ!」
そんなあたしの行く手を阻んだのは、蚕だった。
先回りしていたのだろう。城門の真ん前で立ち尽くし、あたしを待ちかまえていた。けれど、相手をするつもりなんてない。
そのまま横を素通りしようとするあたしの腕を、蚕は掴みにかかる。けれど、その手は結局あたしを捕まえられなかった。
「蝶!」
どうして冷静になれないのだろう。
絡新婦の力を信じ切れないわけではないのに。でも、あたしは華の無事をこの目で確認したかった。どうしても、華を迎えに行きたかった。その思いばかりが激しく暴走してしまっていた。
華のいる場所なんて噂を聞けばいい。森に住まう木々の声を聞けば、胡蝶だったらすぐに駆けつけられるはずだ。絡新婦が向かっているのならば、辿り着けるはず。
すべてが曖昧な状況のまま、あたしは森へと足を踏み入れてしまった。
月の願いをすっかり忘れて。
◇
月の森は殺伐としている。
あたしが子供の頃からそれは変わらない。けれど、昔はもっと穏やかな場所だったのだと主張する者もいる。全てがおかしくなったのは、月が初めて命を狙われた時なのだと長く生きる者たちは言うらしい。
昔は月の大地に住まう動植物の全ては、大地の心臓でもある月の女神を崇拝し、守り守られていたはずだった。それが当たり前だったのだ。
しかし、今は違う。食虫花がその常識を変えてしまった。
月への信仰心から彼女を討伐しようとした魔女はいたのだと絡新婦は言っていた。けれど、そんな魔女は次々に命を奪われてしまった。食虫花を甘く見ていたわけでもないし、力不足だったはずもない。しかし、彼らは負けてしまった。負けた上に、その全てを奪われ、食虫花の力が更に増してしまう結果となった。
先程、花狩りの混乱、と蚕は言っていたのを思い出す。
年末のこの時期に花狩りなんてするだろうか。混乱に乗じてということは、華や少年たちが襲われたのは、想定外のことだったのかもしれない。ならば、花狩りは何故、今、行われているのだろう。
思い出すのは今朝の事。人間たちが食虫花に関して月に話があると申し出たという出来事。あれもまた花狩りのことだったのではないだろうか。食虫花を討伐すべしと考えているのは、森に住まう者たちだけではない。
ああでも、この森はなんて殺伐としているのだろう。
食虫花の得体の知れない力は不気味で、その力に一対一で向き合った者は、そのまま死んでしまうか、食虫花の僕として一生を棒に振るかの二択しか与えられない。多くの魔女はそうやって食虫花に殺されていき、魔力を存分に含んだ死肉を貪られてしまった。けれど、あたしのような弱者の半数は、死ぬ事を恐れて手先として食虫花の屋敷で飼われているのだと言われている。
あの場所は今も昔も胡蝶の墓場だ。でも、その墓下で今も死を恐れて頭を下げてしまった哀れな胡蝶が囚われているかもしれないのだ。そして、そんな者の中には、開き直って食虫花の手先として振る舞おうと決めてしまう者がいるかもしれない。
あの中年蝙蝠のように。
「華……」
震えた声であたしはその名を呼んでみた。
日光を存分に浴びた森は恐ろしいほどに綺麗な色をしていて、あらゆる花の蜜の香りを風が運んでいる。そのどれもが、いつもならば食欲を掻き立てられるほどの香りであるにも関わらず、今は唾一つ生まれやしない。それよりも、あたしはその香りの中に嗅ぎ慣れた華の蜜の香りがしないか確かめることで精一杯だった。
恐怖心を煽るようなざわめきと共に、あたしはとにかく前へと進んだ。向かうのは、胡蝶の墓場でもある食虫花の屋敷。食虫花が絡んでいる為だろうか、無意識にあたしはそちらへと向かっていた。
食虫花の蜜の臭いはしない。だが、華の蜜の香りもしない。一体、何処に居るのだろう。絡新婦は間に合っているのだろうか。
そんな時だった。
「――華?」
急にあたしの視界に飛び込んできたのは、緑の中で一際目立つ白色だった。白くて長い髪。白い花の一族ならば誰だって似たような外見をしているだろう。だが、その後ろ姿は遠目だと華によく似ていて、香りも確かめずにあたしは駆け寄った。
「華?」
急いた気持ちを抑えられず駆け寄るあたしを、その人物は振り返る。その途端、血の気がさっと引いていった。
華じゃない。それどころか、花でもなかったのだ。
長い髪の女性であり、白っぽい姿は華と変わらない。だが、年齢はあたしよりも上というくらい。その目は赤く、まるで白い花の血を引いているようにすら見える。だが、それが花ではないのだと、大昔に絡新婦に教えられたことがある。
「胡蝶……?」
その人物が呟くように言う。
はっとして逃げようとするあたしの腕を、彼女はしっかりと掴んだ。その瞬間、息が止まりそうになった。彼女は花じゃない。野生花でも人工花でもない。
――花蟷螂だ。
花のような見た目をして虫を騙す蟷螂。蜜の香りは塗っているだけのもの。囚われればあとはただ食されるのみ。
「放して……お……お願い……」
久しぶりに見ず知らずの肉食者と接触してしまった為だろうか。ここまで身体が言う事を聞かなくなるなんて思わなかった。
けれど、何故だろう。その花蟷螂の女は、手を掴んだまま一向に襲ってくる気配はなかった。落ち着いた様子で、花蟷螂はあたしをまじまじと見つめている。
「貴女、名前は?」
ごく小さな声で彼女は訊ねてきた。
敵意が無い。一瞬で伝わるその気配に不意をつかれた。森に住まう者ならば、敵意のないふりをして騙すような輩もいるだろうけれど、どちらにせよ、このままでは逃げられないのに変わりはない。
あたしは素直に答えた。
「……蝶。月の城の者よ」
せめてもの抵抗に、あたしはその身元を明かした。
「月の城……蝶……」
反芻するように繰り返してから、花蟷螂は首を傾げた。
「もしかして、貴女、昔、絡新婦の元に居た子かしら? どうしてこんな場所に居るの?」
――絡新婦。
その名前を出された途端、今までの恐怖心が一気に吹き飛んだ。掴まれている手を逆に掴んで、あたしは彼女に縋りついた。
「絡新婦の知り合いなの? ねえ、あの人いま、何処に居るの?」
「静かに……。絡新婦は今、月様の為に戦っているわ。貴女はとにかく状況が落ち着くまで月様の下で待っていなさい」
「駄目なの。華を……花狩りに襲われている子たちを迎えに行かなきゃ……」
「……あの花の子たちはお友達なの? だとしても、貴女に出来る事はないわ。不安でもお城にいなさい。絡新婦ならあの子たちを月様の元に返せるはずよ」
「でも――」
泣き出しそうな思いで見つめるも、花蟷螂は静かに首を振った。
「この辺りで危険な魔女がうろついているの。彼女に見つかったら大変な事になるわ」
「食虫花の事?」
率直に訊ねてみると、花蟷螂は咎めるように眉を顰めた。
周囲を窺っている。警戒を強めているのだろう。今では逆にあたしに腕を掴まれたまま、花蟷螂は神経を尖らせつつ短く答えた。
「そうよ……」
その額に汗が滲んでいる。花蟷螂もまた、食虫花を恐れているのだろう。今やこの森の者の殆どがかの魔女を恐れている。傍に居るのだろうか。蜜の臭いは今のところしないけれど、不安は過ぎる。
「貴女の事は噂で聞いている。御日様の加護を受けているのでしょう? でもね、蝶、その守りには盲点があるの。貴女もそれを分かっているから、あの花の女の子を助けに来てしまったのでしょう?」
ああ、分かっている。
魔の手を弾くだけならば、危害を加えられないということだけならば、安心出来る訳ではない。殺されないというだけでは守られているわけではない。もしも華が悪い人物に攫われてしまったら、もしも酷い人間に囚われ、閉じ込められてしまったりすれば、華は不幸になってしまう。
――そんなのは嫌だ。
「貴女も同じよ、蝶。もしも貴女が月様への信仰心の薄い者に捕まったりしたら、月様がどれだけ悲しむことか。立場を弁えて、城に戻りなさい」
「でも……でも……」
悔しかった。それに、悲しかった。力がないというのはこれほどまでに残酷な事なのだろうか。愛する華が危ない目に遭っていると言うのに、あたしには助けだせる力がない。強い者を信じて願うことしか出来ないなんて。
泣き出しそうなあたしを、花蟷螂はそっと抱きしめた。その感触は、まるで絡新婦からかつて受け取った優しさにも似ていた。
「優しい子ね。ここは危ないわ。心配せずとも絡新婦は強い。人間たちに負けるなんてこと、あり得ないわ」
「――確かに絡新婦は強いわ。でも、もしも食虫花が絡新婦を襲ったら」
一度、負けてしまったのだ。
その時の事をあたしは殆ど覚えていないけれど、一瞬にして勝敗がついてしまうほどに食虫花の魔力は強かったのだと華は言っていた。
ここ二年ほど、絡新婦は身を潜めながら月に力を貸してきた。隷属にだけ使える強力な加護を蚕や他の隷属に与え、その源足る自分は注意深く糸に守られて食虫花の魔の手を避けてきた。
しかし、一度逃した獲物を食虫花は見逃したりしない。食虫花はそんな魔女だ。絡新婦の事も諦めたりしてはいないだろう。
「それは……大丈夫。あの魔女は絡新婦の近くにはいないわ……」
押し殺した声で、花蟷螂は言う。
妙に確信を持ったその声に顔を上げてみれば、花蟷螂は緊張した様子である一点を見つめていた。
――まさか。
「出てきなさい」
花蟷螂の怒鳴り声が響く。
「いるのは分かっているわ」
その声に反応して、蜃気楼のようにその人物の輪郭は浮き出てきた。
目が覚めるほどの金髪に、年を取っていないかのような外見。虫の思考を狂わせる蜜の香りが漂い、攻撃的な色合いの目はしっかりとこちらを向いている。
食虫花。
恐怖の権化のようなその人物は、あたしと花蟷螂を見つめてそっと笑みを浮かべた。