5.決意
◇
温室で花同士の会話をしたらしい。
記録や証言によれば、花同士は口を介さずに意思疎通が出来るそうだ。その真意を確かめる術など無いが、実際に伝わっているらしい状況を見れば、信じる事は簡単だ。この能力、なかなか厄介なもので、厚い壁なども簡単に通してしまうらしい。
華に泣きつかれたのか、少年が勝手に動いているのか。
どちらにせよ、華を閉じ込めていることを知られたのは面倒だ。
「出してやりたいのは山々だ。でも、外に出せば蝶を助けに行こうとするだろう。出すわけにはいかないんだ」
「でも、華は壁に囲まれた中で蝶を心配して落ち込んでしまっているのです。あれでは心が折れてしまいます。僕たちは栄養と光さえあれば咲き続けられるというわけではないのですよ。心が折れてしまうなんて、枯れるよりも残酷なことなんです」
「けれど――」
言い返そうとする私に代わって、女中頭が近づいてきた。
「なりません。華御嬢様はあのままでいいのです。貴方とは違って繊細な御方。貴方はこれ以上、あの子を危険な目に遭わせるつもりですか!」
華に近づくこの野生花の少年の事を女中頭や執事があまり良く思っていない事は知っていた。きっと彼も自覚していたことだろう。しかし、ここまで面と向かって敵意を示されたのは初めてだったかもしれない。
そのため少年は一瞬だけ怯んだ。
でも、だからと言って諦める様子は見せなかった。
彼は彼で華の為だと信じているからこそのことだろう。
「月様だって蝶を助けたいのでしょう……」
少年は言った。
「でも、この人達に閉じ込められてしまって、自由を奪われて、だからずっと言い争っているんだ。それなのに、華は閉じ込めてしまうの? 華を自分と同じ目に遭わせて、それでいいの……!」
それは心に突き刺さる言葉でもあった。
分かっている。自分がしている事と、執事や女中頭が私にしている事は変わらないのだろう。私が華をどうしても出してあげたくないような気持ちで、この二人も頑なに私を閉じ込めようとしている。
同じだ。同じかもしれない。でも、違う。私と二人は違う。二人は城に仕える者として私を出したくないだけ。私は華を失いたくないから出したくないだけ。同じようで違う。
――……本当に、違うのだろうか。
「悪いが、少し待っていてくれ」
私は少年にそう告げて、女中頭と執事に目配せをした。
◇
大紫と少年。二人の客人は廊下に待たせてしまっている。
だが、そのままにして、私は執事と女中頭という城に仕える者の双頭を前に言葉を選んでいた。二人はただ黙って話を待ち、扉を塞ぐように立っている。どうあっても私を行かさない気でいるのだろう。それでも、別によかった。
私は少し話したかったのだ。
「教えてくれ、二人とも」
沈黙を断ち切るように、私は口を開いた。
「私はそれほどまでに弱い神なのか」
真っ直ぐ見つめると、執事と女中頭の表情がやや変わった。
だが、構わずに私は続ける。
「それほどまでに先代の――母の方が立派だったというのか。私はそんなに二人にとって信用ならない女神なのだろうか」
「月様……私共は――」
困惑する執事を無視して、私は更に吐きだした。
「お前たちは私のことが嫌いなのか? 私が次代の女神を産むまで生きていればそれでいいと思っているのか? お前たちにとって私はただの――」
「御止め下さい、月様!」
張り裂けんばかりの大声に今度は私が驚かされた。
叫んだのは女中頭だった。
震えながら私を見つめ、そして、力なく頭を垂れる。
「そんな事ありえません。貴女様の誕生からどれだけ長い間お仕えしてきたと思っているのですか! 私共は……私共は……!」
取り乱し、涙を浮かべるその姿に驚いた。
動揺するのは私の方だ。こんな女中頭なんて見たことがない。そう、昔、母が亡くなった時、そして、母の愛した人工花が枯らされてしまった時に、そうだったと長年務める使用人に聞かされたくらいだ。
執事がやや女中頭を窺い、慰めるように小声で何か囁く。
それに頷き、女中頭はハンカチで目頭を覆い、呟くように言った。
「失礼しました……。しかし、月様、どうかお分かりください。私共は、決して、貴女様を蔑ろにしたいわけではありません」
それは、彼らなりの不器用な愛でもあったのだろう。
私はそれに気付けなかった。ずっとずっと、彼らは母を敬愛し、私には何も期待していないのだと思い込んでいた。
しかし、どうだろう。
女中頭の涙が、そして執事の動揺した姿が、私の心までも揺さ振ってくる。
「変な事を言いだして、悪かった……」
ようやく、私はそう言えた。
「月様――」
何かを言いかけ、そのまま口を淀ませる執事を見つめ、私は続けた。
「お前たちを不満にさせている事は申し訳なく思っている。だが、信じて欲しい。太陽によれば、私は母の生まれ変わりなのだろう? そして、全ての月の生まれ変わり。昔の月はいかなる悪人にも怯えずに立ち向かえたのだとこの城に記録がある。それならば、私だって……太陽から力を授けられた私だって、食虫花を倒せるはずだ」
普段ならば、この言葉にもがみがみと噛みついてきたことだろう。
けれど、今の二人は違った。黙ったまま溢れだす涙を抑える女中頭と、何かを言いたげだが言葉を探したまま唇を結んだ執事。
だが、やがて、執事の方に反応があった。
「私共は先代様に頼まれたのです」
溜め息混じりのその声は、実に渋みの含まれたものだった。
「自分がこれまでの多くの城主と同じ運命を辿るのならば、遺された生まれ変わりをどうか守ってほしい、と……。貴女様が御小さかった頃は幸せでした。先代様が亡くなられた悲しみを埋めるかのように、貴女様は無邪気で、愛らしくて……」
思い出しながら執事もまた目を伏せる。
それは、私の知らない平穏な月の城の思い出だった。母が命をかけて遺した幼い私の成長を見守る日々。太陽は、母がしっかりと埋葬されると、そのまま嬰児の私を人間たちに預けて去ってしまったのだと聞いた。
そう、身重の母を守ってきたのは太陽であったけれど、何もかもに弱い私を庇護してくれたのは、執事と女中頭以下の人間たちであったのだ。
「奴がいなければ……食虫花がいなければ、私共もきっと月様にそんな思いをさせずに済んだでしょうに。そして、先代様が遺されたあの子を奪われなかったならば、貴女様が孤独を感じることもなかったでしょうに。あの時……あの時、私共がもっとちゃんとあの子の事を見ていれば……」
執事は其処まで言うと、ついに両手で顔を覆った。
――あの子。
それが誰の事か、聞くまでもなかった。
食虫花から私を守り、そして腹いせに蝙蝠に殺された人工花の娘。殺された時は二十歳前後だったと聞くが、此処に来た時はまだ十歳そこそこだったと聞く。月の城を彩る花としてどんなに愛されてきたか、肖像画を見れば察しはつく。
その死を誰もが悲しみ、そして未だに引きずっている。華がその人工花の幼い頃によく似ていることが恐ろしいと女中頭はたまに零していたらしい。
「お前たちの所為じゃない。食虫花の所為だ。だが、このままではその時と同じじゃないか。蝶はお前たちにとって、母の遺した花や、華よりも価値のない存在なのか?」
「違いますとも……! 違いますとも……」
必死に否定したのは女中頭だった。
これは答えを分かっている上での質問だった。執事も女中頭も、小言は私にぶつけるだけであり、二人揃って華や蝶に非常に甘い。蝶を外に行かせていた時に反対したのだって、私の為だけではなく蝶と別れるのが嫌だからこそ、心配していただけだ。
蝶に時折与える蜜飴だって、よりよいものを捜さなくてはと一番張り切っていたのは執事だった。蝶の着る服を考えて私に提案するのは、いつだって女中頭だった。
二人は二人なりに、蝶を愛しているのだ。
けれど、その立場と複雑な感情が入り混じっているからこそ、私が助けに向かうことを恐れていた。
「蝶御嬢様は大丈夫です……大丈夫なはずです……だって、太陽様が授けてくださった守護の力がついているのですもの……」
女中頭が震えながら言う。
それは、まるで自分に言い聞かせているような姿だった。
執事が心配そうに彼女を見つめる中、私は二人に向かって言った。
「蝶にかけられた太陽の力を信じるなら、私が授けられた力も信じて欲しい」
「しかし、月様――」
言いかける執事を制して、私は続けた。
「どうか信じてくれ。私だってわざわざ殺されに行くのではない。平穏だった過去を取り戻すために行かなければいけないんだ! 蝶を取り戻し、混乱の元凶を制せずに、どうしてこの大地の女神と言える?」
強く言うと、そのまま執事は押し黙った。
二人は沈黙のまま何かを考えている。様々な想いが溢れ、込み上げ、簡単には決断させないようにと邪魔をしていることだろう。でも、私は怯まず、二人の返答を待った。
やがて、沈黙を破って、執事の方が口を開いた。
「分かりました……」
女中頭がハッと息を呑んで執事を見つめる。
しかし、老いた執事の顔は赤くなることもなく、その目を伏せたまま、こちらに深々と頭を下げてきた。
「月様の御言葉を信じましょう……」
そうしてようやく、話し合いは終わった。
◇
私室に掲げられた聖剣を手に取ると、私の意を感じ取ったかのようにその鞘が光り輝いた気がした。
以前にはなかったはずのじわじわとした感触はすぐに手のひらに馴染み、私の体内を駆け廻るように沁み渡っていく。
これこそ太陽が貸してくれた力。
悪しき者の魔の手を弾く力。
これさえあれば、蝶を取り返せる。そう信じる私の横で、執事と女中頭は静かに見守ってきていた。
これまでとは違う。
禁じる二人を無理矢理出し抜いて行くわけではなく、きちんと、面と向かって、約束をした上で行くのだ。
覚悟を決める私を見つめたまま、執事は静かに呟いた。
「立派になられましたね……」
哀愁漂う声色。
その顔をまじまじと見てしまえば、心が揺らいでしまう気がして、少しだけ怖かった。その怖さを誤魔化すように、私は二人に言った。
「後を頼む。皆を怖がらせないように」
「ええ……」
女中頭が力なく頷いた。
「ですからどうか、御言葉通り、全てが終わったら無事に帰って来てくださいませ」
切なる願いの籠った声だった。
頷き、歩きだす私を邪魔することなく、二人は静かについて来る。
次に向かうのは、温室だった。太陽の力を信じるのならば、一方的に決めてはいけないことが一つだけ残っていた。華はどうしたいのか。少年は大紫と共に先に庭で待っている。あとは、彼女に自分で決めさせるだけだった。
「月様……本当によろしいのですね?」
温室の鍵を開ける前、女中頭は小声で訊ねてきた。
答えはもう分かっているようなものだ。ずっと、ずっと、華はそうしたくてうずうずしているだろう。
その証拠に、女中頭が一声かけてから温室の扉を開けると、まるで脱兎のように華は温室から飛び出し、逃げようとしたのだ。
しかし、それも志半ばで終わる。
勢い余って私にぶつかってしまった為だ。
ふわりとした甘い香りが漂い、柔らかな華の感触が手のひらにじわりと滲む。怯えたその身体はすでに震え始めていた。
きっと、私が閉じ込めてしまったからだろう。
「……華」
詫びるような気持ちで声をかけてみても、華は俯いたまま目を合わせてはくれなかった。我に返り、もがこうとする力無き花を捕まえたまま、私は静かに彼女を諭した。
「華、よく聞いて」
極力、怖がらせないように意識して声をかけると、ようやく華は落ち着きを取り戻して私と、そして女中頭や執事をも見上げた。
そして、その目は私の腰に下がる聖剣へと向けられる。その意味を汲んでか、華が緊張を深めたのが分かった。
「今から蝶を助けに向かう。少年も一緒だ。城の留守をこの二人が中心となって守ってくれると約束してくれた。……華はどうしたい?」
突然の事で戸惑ったのだろう。
深紅の眼で私を見つめたまま、華は狼狽した。ただ、迷っているように見えるが、そうではない。答えは決まっている。
「わたしは……」
可憐な唇からか細い声が漏れだした。
力無き花。人々に愛でられるためだけに生まれ、様々な者にその身を弄ばれる存在。かといって、自由にさせ過ぎればその命は尽きてしまうだろう。それでも、私は選ばせてやりたかった。
太陽の力が本物ならば、華を害しようとする者の手は弾かれるはずだ。
「行きたい」
泣き出しそうな華の声は響いた。
「蝶を一緒に迎えに行きたい」
その素直な訴えは思っていた通りのものであり、また、思っていた以上に切実なものであり、私は思わず苦笑した。少年の言う通り、あのまま華を閉じ込めていればよくない事態となっていたかもしれない。
傍では執事も女中頭も心配を顕わにした様子でやり取りを見守っている。けれど、もう後に退くつもりはなかった。
華の頭を撫でながら、私は告げた。
「分かった。じゃあ、一緒に行こう」
途端に、華の深紅の目がまん丸になる。
「いいの? わたしも一緒に行って、邪魔じゃないの?」
「邪魔じゃない。華に与えられた太陽の加護を信じよう。まずはそれを信じなければ、蝶に与えられた力も、私に与えられた力も無意味なものとなる」
執事と女中頭を見つめれば、二人は揃って頭を下げた。もう、何も言う事はないのだろう。諦めなのか、それとも心が変わったのか。どちらにせよ、私が行くと決めた以上、それを阻止しようなどとはもう思っていないらしい。
「いいね、二人とも」
私は二人に向かって言った。
「蝶を連れて戻って来るまで、この城を頼んだ」
強く、念を押して、二人に権限を預ける。
きっとこの二人ならば、城をしっかりと守ってくれるだろう。
そう信じて、私は彼らの返事を待った。
そう時間も置かず、二人は頭を下げたまま、各々の言葉で、「かしこまりました」とだけ答えた。
◇
庭に出れば、すっかりそこは朝の訪れを迎えるところだった。
朝も早いと言うのに、日光を浴びながら、少年と大紫は信じきった様子で待っていた。夜明けにも関わらず、ざわざわとした風は夜の森以上に不穏なものだった。
だが、少年も大紫も怖がることなく、私たちの姿を迎え入れた。
「随分と待たせてしまった。絡新婦の所まで案内してくれ」
そう頼むと、大紫はしっかりと頷いた。
少年の方が華の姿をみて少しだけ安心したらしい。じっとしている華の手を放してやってみたものの、華は私の傍を離れずにじっと顔を見上げてきた。
「蝶は……大丈夫だよね……?」
窺うように、華は私の目を見つめる。
その額を撫でながら、私もまた華を見つめた。
「大丈夫。太陽の力が彼女を守ってくれる。そして私が受け取った力が、絶対に蝶を奪い返して見せる」
そう約束すると、華は何も言わずに私に抱きついてきた。
怖くて仕方がないのだろう。自分の身ではなく、蝶の身が。温室に閉じ込められたまま、ずっと自分を責めてきたのかもしれない。そして、蝶の方は、どうだろう。無事であるとしても、その心は追い詰められていることだろう。そんな状況に陥った自分を責めているかもしれない。
その姿を想像すると、早く取り返したかった。
「随分と説得に時間がかかりましたねぇ」
その時だった。耳障りな声が響き渡り、少年と大紫が警戒を顕わに私たちの元へと寄ってきた。華が怯えた様子で私に抱きつく。その背をしっかりと支えながら、私は声のした方向を睨みつけた。
現れたばかりの日光を避けるように木々の影に佇む者。蝙蝠。獣の姿で木の枝にぶら下がり、私たちをにやにや笑いながら見つめている。
「分からずやの人間共をどのように説き伏せたのか気になるところですが、今はそれどころじゃありませんね。月様」
「蝙蝠……」
聖剣の柄に手をかけると、蝙蝠は両手を広げた。
「おやおや、物騒なものを御持ちのよう。私に危害を加えますと、食虫花様の御言葉が聞けませんよ? 愛しい胡蝶の娘がどうしているのか、知りたくはないのですか?」
神経を逆なでされるような思いだったが、どうにか耐えて剣から手を離した。
それを見て、蝙蝠は更に笑みを漏らした。
「それでいいのです。月様」
そう言ってから、蝙蝠は告げた。
「『蝶は大事に預かっています。前のように酷い傷なんて負わせず、精巧な人形のように可愛がってさしあげましょう。蝶に会いたいのなら、どうぞいらっしゃい。取り返せると信じて、我が屋敷まで来るがいい。一人でなんて言わない。せいぜい仲間を沢山集めて、私を殺しに来なさいな』とのことです」
煽るような態度に心が乱されそうだ。
だが、それも耐えながら、私は黙って受け取った。
ここで蝙蝠に戦いを挑んだところで、蝙蝠はまともに取り合わずに逃げてしまうだろうし、状況は悪化するだけだと分かっていた。
「では、また会いましょう。どうぞ月様、お屋敷に無事に辿りつけますよう」
そう言って、蝙蝠は飛び去っていった。
その黒い翼が向かう先で、蝶は囚われている。
もう、今日明日で新たな年が来ると言う年の瀬にとんだ事態だ。だが、焦る事はない。あちらが迎え入れるつもりならば、こちらも堂々と招かれようじゃないか。
蝙蝠の姿が見えなくなってから、私は周囲を警戒し続けている少年と大紫、そして、私に抱きついたままの華に向かって、言った。
「行こう」
絡新婦の待つ元へ。そして、今まで逃げてきた可能性の扉へ。
それは、新たな進みでもあった。