4.略奪
◇
再び大紫が訪れたとの報せを聞いた時、何故だか胸騒ぎがした。
華はまだ帰ってきていない。
先程の話の様子ではもうとっくに帰ってきてもいい頃合いだったのに、その目立つ色合いの姿は門の向こうをどんなに見渡しても見えてこなかった。
そんな最中、大紫は再び現れたのだ。まさか、華たちに何かあったのではないか。初めはそんな不安と共に、私は応接間に連れられて行った。
応接間まで付き添う女中頭は何も言わない。
私の心情を一応は察してくれているのだろう。それに甘んじる事として、私は自分の気持ちを落ち着かせることに専念した。
そして、大紫の待つ応接間の扉を開けた時、こちらを見つめるその幼さの残る胡蝶の顔立ちを目にし、胸騒ぎはただの杞憂ではなくなった。
「月様……」
私の姿を見るや、大紫は嘆くような声をあげ、慌てて跪いた。
傍に居る女中頭に見つめられての事だろう。じっと俯く大紫を見つめながら、私はそっと女中頭に頼んだ。
「また、二人きりにしてくれるか」
すると、女中頭は特に何も言わずに引き下がった。
扉を閉めると、大紫はすぐに立ち上がり、私の傍まで迫るように来た。酷く取り乱しているらしい。あまりに焦りが強く、気が気でないのだろう。
「どうした……今度は何があった……?」
あまり聞きたくない事だったが、そんなことを言っている場合ではない。思い切って訊ねる私をその宝石のような目で見つめながら、大紫は震えながら口を開いた。
「月様……ああ、どうか、落ち着いて聞いてくださいませ……」
そう言う大紫の方が落ち着いた様子を見せない。
だが、そこには触れず、私は黙って頷き、促した。
すると、大紫はいったん呼吸を置いてから、私から視線を外してそれを告げた。
「蝶御嬢様が……」
――蝶……。
華たちのことではなかった。予想が外れただけではなく、そこから漂うよからぬ臭いに目眩がした。次なる可能性が浮かびあがり、すぐにかき消したくなった。
――蝶が……あの子がどうしたというのだろう。
思わず、その先を聞くことから逃れそうになって、必死に堪えた。そんな微細な私の様子に気が付いたのだろう。大紫は呼吸を置いてから、やや声を潜めて気まずそうに続けた。
「蝶御嬢様が、食虫花の手に落ちました……」
分からないふりをするのは難しかった。
それは蝶の名前を出された瞬間、ある程度は予想可能な事態だった。しかし、震えが止まらなくなった。だって、蝶は追われているのではない。すでに手中に落ちてしまったのだ。きっと、食虫花は始めからこれを狙っていたのだろう。華を餌に蝶を誘き出し、その手に収めて人質とする。
しかし、分かっていても、信じたくなかった。
――嘘だ……。
夢なら覚めてほしかった。
「そんな……蝶……そんな……」
言葉も見つからずうろたえる私の姿に、大紫もまた狼狽した。
何と声をかけていいのか分からないのだろう。だが、そのままでよかった。無駄に声をかけられたくない。安い言葉で慰められたところで、蝶が戻って来ないのならば一緒だ。
彼女はどうなってしまうのだろう。
食虫花は蝶をどうするつもりなのだろう。
私を誘き出すための罠ならば、手を出さないでくれるかもしれない。
ああ、そうだ。蝶には太陽の加護が付いている。こういう事態の時の為に、日精の身柄と引き換えに手に入れた力が備わっている。
その力が本当に食虫花を上回っているのか、あまり考えたくなかった。
上回っているに決まっている。私を誘き出すために、手を出さずに屋敷の何処かに捕えているだろう。そう信じなければ、心が壊れてしまいそうだった。
「月様……どうかお気を確かに……。御免なさい、私たちが間に合わなかった為に……。今、蚕が絡新婦様に伝えに向かっているところです。多分、今頃、伝わっているでしょう。華御嬢様たちをこの城に届けてから、今後、どうやって蝶御嬢様を取り戻すかを話し合って助けに向かいます」
「……助けに」
「月様はどうか引き続きこの場所で私たちのことを見守ってください。絶対に、蝶御嬢様を取り戻します……」
素直に頷けなかった。
こういう時の為の聖剣なのではないのか。
しかし、全ては華が無事に戻ってきてからの話だ。この上、華にまで手を出されては叶わない。安全な場所に華を匿ってから行動しなければ。
「絡新婦は今何処に」
「あと少しでこの近くに到達するはずです。食虫花は屋敷に帰りましたので、絡新婦様に危害を加えられる者などいないでしょうから……」
食虫花は屋敷に。きっと、蝶を連れ帰るためだ。
――蝶……。
愛しい面影が脳裏を過ぎる。
当然のように傍に居て、当然のように隣で寝ていた彼女が、一気に遠くへ行ってしまった。三年前と同じだ。食虫花に囚われ、脅迫の材料にされた時と。あの時は私だけの守護では足りず、心身に重傷を負う羽目となった。
――やめてくれ……。
どうか、あの繊細な娘を傷つけるのは止めて欲しい。
蝶はただでさえ硝子細工のように壊れやすい心を持っているのだ。食虫花にまた何かされれば、粉々になってしまってもおかしくないだろう。
夜泣きをしていた頃を思い出す。
最近はようやく落ち着いてきた。夜中に抱きしめてやらなくても、ぐっすりと眠ってくれるようになった。保護したばかりの頃などは幼児退行に似た傾向も一時見られたほどだった。そのくらい追い詰められていたのだろう。
それらがやっと治まってきたというのに。
「月様……」
呼びかけられ、私ははっと我に返った。
大紫を見てみれば、その宝石のような双眸に不安と心配を浮かばせて私をじっと見つめている。よほど内心の混乱と衝撃が顔に出ていたのだろう
「すまない……。大紫、報せてくれて……感謝する」
目眩を堪えながら、私はやっとそう言えた。
◇
華たちが戻ってきたのはそれから数十分ほど経ってからだった。
ただでさえ白い肌をしているというのに、より真っ青な顔で私の部屋へと一人でやってきた。華たちの姿が先に見えたため、鍵は予め開けられていた。
何も知らずに戻って来られたら、そして、迎えることが出来たなら、どんなによかっただろう。
しかし、そうはいかなかった。
華はとっくに蝶のことを知っていた。絡新婦に保護された後、此処に戻って来る途中でその報せを耳にしてしまったのだろう。
華は自分を責めた。自分がいけなかったのだと。
そんな風に思わせてしまったのが辛かった。蝙蝠には恐らく魔力がある。食虫花や絡新婦よりは弱いものだろうけれど、華のような少女の心を弄ぶくらいのことは出来るはずだ。
何がいけなかったかと考えるならば、そんな危険な庭に一人きりでいることを許してしまった私の警戒心の薄さだろう。
――すまない、華……。
もう、失う訳にはいかない。
それは華が高価な代物だからなどではない。大事な我が娘として、不幸な目に見舞われる可能性の全てから遠ざけてしまいたかったのだ。
そんな身勝手な不安と願いが打ち勝って、私は華を温室に閉じ込めた。
買い取った頃と同じだ。
体調が思わしくなく、ちょっとしたことで枯れてしまう可能性が付きまとった頃と同じ。ひょっとしたらあの頃よりも酷い事をしているかもしれない。だって、華は言ったのだ。自分も蝶を助けたい、と。
――許してくれ、華。
その申し出を私は断ったのだ。連れていくことは出来ない、と。
――どうか、許してくれ……。
温室の鍵を閉める前に、華は私に縋りついた。独りだけ閉じ込められ、置いて行かれるのが不安だったのだろう。その光景と感触が何度も脳裏をちらつき、辛かった。
華はそれほどまでに蝶を慕っている。
その身を案じながらあの狭い部屋の中に一方的に閉じ込められて、心が壊れたりはしないだろうか。でも、仕方がない。あの子は人工花なのだ。人間の少女よりもずっと繊細で、同じ花の始祖を持つ野生花よりもずっと枯れやすい。
これはあの子を守るためでもある。
安全な壁の中に閉じ込めて、心が壊れたとしても命は守られるのならば――。
「これで、よかったのだろうか……」
言葉がふと私の口から零れ落ちた。
◇
「冗談じゃありません!」
そんな叫び声が応接間に響いた。
叫んだのは入り口に立ったままの執事。顔はすでに真っ赤になってしまっている。その隣で、女中頭もまた眉をひそめて私を睨みつけていた。
驚いた様子で長椅子の前で佇むのは大紫だった。
蚕の代わりに、私と絡新婦とを繋ぐ役目に徹するらしい。そんな彼女に持たせたい報せは勿論、私も聖剣を手に駆けつけるというものだ。それは、絡新婦も望んでいることであるらしい。
聖剣には食虫花を貫く太陽の力が宿っている。
出し惜しみしている場合などではない。
けれど、城の人間たちを納得しないわけには、この城から抜け出せそうにもない。ちょっとやそっとじゃ納得する様子のないこの二人をいかに説き伏せるべきか。
「頼む、分かってくれ」
私は素直に願った。
「奴は聖剣を恐れているんだ。此処で使わず何処で使う。それに、今、手を貸さずに花狩人の人間だけでなく絡新婦まで危険な目に遭わせてしまえば、この城はさらに絶望的な状況に立たされるかもしれないじゃないか」
「その御力は、そうなってから使えばいいのです」
執事に代わって今度は女中頭が口を出してきた。
飽く迄も二人とも意見は同じであるらしい。これがこの城に仕える使用人と女中の総意だとしても、私の気持ちだってちっとも変わらない。
蝶を諦めたくない。見捨てるような事なんてしたくない。
そして、こんなに大切な事を人任せにして泣き寝入りしたまま貴重な時間を潰すなんてことはしたくない。
もう私には時間がないのだ。ぼやぼやしている内に、時は満ち、たった一人の嬰児を遺して死んでしまう日が来る。避けられないだろうその運命を受け入れるのならば、せめて、悔いのない生き方をさせてほしい。
――私はただ次代の女神を産む為だけの繋ぎではない。
「お前達が何と言おうと、私の気持ちは変わらない。だから、諦めてくれ」
「いいえ、月様が何と仰せになっても、私共の意見も変わりません」
執事も譲らない。
もうこんなやり取りが数回繰り返されている。
納得させなければあちらも強硬手段に出るだろう。しかし、これ以上、無駄に話し合いを続けるくらいならば、聖剣を持ちだして勝手に抜けだしてしまった方が早い。こうしている間にも、蝶が何をされているか分かったものじゃないのだから。
しかし、私が暴走して城の人間たちと険悪になることもまた、食虫花の思惑通りなのかもしれない。そう思うと、どうしたらいいのか分からなくなってしまう。
「お願いします……人間の方々」
悩んでいると、突然、大紫が執事と女中頭に向かって頭を下げた。
「私共の力だけではきっと花の魔女には敵いません。奴は月様のお力を恐れているのです。月様の事は私共が絶対に御守り致します。だから、どうか、月様に自由を――」
「お黙りなさい、胡蝶の娘!」
女中頭が透かさず噛みついた。
「自分達だけで悪しき魔女を倒せない程度の貴女たちに、月様を守れるなんて信じられますか! 絶対に此処は譲りませんよ。月様、もう面会の時間は終わりです。すぐに部屋にお戻りください。でないと――」
言いかけて、女中頭が口籠る。
「……でないと、なんだ?」
「何でもありません」
女中頭は自分の口から出かかった言葉を慌てて潰してしまった。
何を言いだそうとしていたかは大体察しがついている。二人にとって、私の事等、華と同じなのだろう。危なっかしくて目も離せない。彼らにとって私は、幼い頃にふらふらと食虫花の手招きに誘われてしまった頃とあまり変わっていないのかもしれない。
「とにかく、許す事は出来ません。胡蝶の娘、貴女は情報だけを持ち帰ればよろしい。月様に要らぬ選択をさせないで頂きたい」
執事の強い叱責に、大紫は困惑した様子で佇んだ。
魔女の隷属である彼女にとっては、主人である絡新婦の危機もまたこの世の終わりに等しいくらいに恐ろしいことであるだろう。
しかし、幾ら説得しても心を動かす様子もない執事と女中頭の姿を見ると、少しは諦めもついたらしく、大紫は渋々と一礼した。
「分かりました……。何かありましたら、すぐに御知らせいたします……」
そうして半ば強引に、大紫は帰らされてしまった。
◇
あれから大紫は数回に渡って城を訪れた。
絡新婦の様子と人間たちの様子、そして食虫花とその僕に少しでも動きがあったら逐一伝えに来たのだ。そうすることで、どうにか私を連れだせないかと狙っているのだろう。勿論、それは執事や女中頭も察しがついているものだから、どんなに遅くとも二人は面会を見張ってきた。
すっかり日も暮れ、夜は更けていく。
それでも、城の者たちは各々の仕事が終わっても寝ずにいた。食虫花の動きが気になって仕方なかったのだろう。もしも蝶を人質に私を誘き出すつもりならば、そろそろ脅迫が届くかもしれない。それを考えると眠るに眠れないのかもしれない。
大紫は何度も私の様子を窺ってきた。
状況はあまりよくないのだろう。
食虫花の魔術を打ち破る力が欲しいのだろう。
しかし、少しでも大紫が報せ以外の話をしようとすると、透かさず執事や女中頭が切りあげて、絡新婦の元へと帰るように促した。
そして今も大紫は執事に連れられて玄関へと向かっていた。
その背中を見つめながら、私は女中頭と共に廊下にいた。独りで行動することすら許されてはいない。何処からか城を抜けだすかもしれないと思っての事だろう。目を離すつもりなんて更々ないその様子に、私は心底自分の無力さを呪った。
太陽も抜け目がない。
私が人間の包囲を破れぬような力を持っていないのは、勝手な行動でこの身を危険に曝す事態を恐れてのことだろう。その言いつけを頑なに守るこの城に仕える人間たちは、月という存在を崇拝しているようで、実は熱心な太陽神の信者に違いない。
執事の持つ灯りが城の正面玄関辺りで止まる。
夜の森は危険だというのに、大紫を容赦なく外に出そうとしているのだろう。だがそんな事を言ったところで状況はあまり変わらない。
重苦しい音が響き、扉が開けられた。
そんな時だった。
「何です。こんな時間に――」
執事の声が響いたのだ。
何だろうと目を凝らすより先に、城内の静寂さを破るような大声が響き渡った。
「お願いです! いますぐ月様に会わせてください!」
野生花の少年の声だ。
すぐに外からの月光が彼の姿を浮かび上がらせる。
「落ち着きなさい、なんですかその態度は――」
叱責する執事と、驚いた様子の大紫が見えた。
それでも、少年は一歩も引かずに入ろうとしている。どうしたのか、何の用なのか非常に気になった。追い返されてはいけないとすぐさま歩み出すと、後ろから女中頭の咎めるような声が響いた。
「月様、お待ちを――」
従うものか。
女中頭の声に少年もこちらに気付いた。
執事の顔が険しくなっているのが灯りと月光で分かる。だが、いくら咎められようと、止まる気にはならなかった。
「どうした、私に用か?」
「月様!」
執事の脇をすり抜けて、少年がこちらに向かってきた。
暗闇に薄っすらと浮かぶその薄紅色の双眸には、すでに懇願の意が込められている。無理な願いを頼もうとしているのだろうと大体は察しが付いた。
「お願いがあります! 華を……華を出してやってください」
少年の言葉に一瞬だけ、しかめた顔になったのを自覚した。