3.大紫
◇
また独りになってしまった。
自室で一人佇み、私はその虚しさを味わわされていた。
手紙のまとめられた机の前を横目に、私はぼんやりと壁にかけられて眠ったままの聖剣を眺めて、その鞘に何度も触れた。
前にはない力を感じ取れる。語りかけてくるような陽だまりの感触。私の手に馴染むように溶け込み、それでいて、まだきちんと向き合えていないような歪な感触。
これは悪しき魔女を倒すために貰ったはずのものだ。危険から身を守るために、そして、私の宝物である存在を守りきるために授けられたはずのもの。
それなのに、この様は何だろう。
廊下に続く扉は閉め切られたままびくともしない。
閉じ込められてしまったのだ。
執事の忠告に従ったにも関わらず、この場所に閉じ込められた。執事も女中頭も抜け目がないものだ。長らく使われていなかった外鍵を何処からか持ち出して、内側から開けられないようにしてしまった。
隣接した寝室からの扉も同様だ。一応は確認したけれど、かけ忘れるなんて失態を女中頭がするわけなかった。開け放たれているのは窓だけ。そこも高過ぎて飛び降りることはとても出来ない。
そんな中、私はずっと聖剣を睨みつけていた。
この情けない姿を太陽は自分の城から眺めているだろうか。自分よりも力が弱く、庇護しなければ消えてしまうかもしれないくせに、決して小さくはない規模の大地の命を握ってしまっているこの私の姿を、見つめているのだろうか。
もしも私が人間たちを失望させたら何を思うだろう。
これまで授けたモノを奪い、これまで以上に不自由にさせるつもりだろうか。
「太陽、今も見ているのか?」
聖剣に向かって話しかけつつ、私はその柄に再び触れた。
これで扉を壊す事なんて出来ないだろうか。斬りつけて、扉を壊し、城を抜けだす事なんて出来ないだろうか。
閉じ込められている間に、時計の針はどんどん動き、その規則的な音が私の思考を狂わせようとしてくる。
「どうすればいい。衝動に任せて人間を不安に陥れるべきなのか……?」
きっと太陽は違うというだろう。しかし、私の守護神はあまり当てに出来ない。何故なら、太陽の責任は自分と月の名を持つ大地を枯らさないことにのみあるからだ。
必要ならば、彼女は蝶も華も見捨ててしまうだろう。力に余裕があるからこそ守ってくれているだけ。それは太陽の善意でもある。だが、その善意が不滅のものだと思ってはいけない。過度の期待をするには、あまりに絶望的な状況だった。
――私を信じなさい。
太陽の言葉がふと甦る。
授けられた力を信じ、蝶と華が悪意から身を守られることを願いながらこの場所に留まるのが私の務めなのだろうか。
ならば、何のために私は力を授けられたというのだ。
太陽の力を信じていないのは、寧ろ、人間たちの方ではないか。
「どうすればいい……どうすれば、彼らに分かってもらえる……?」
結局、聖剣を手に取る事はせずに、私は開きっぱなしの窓辺へと向かった。
此処から外を眺める時、様々な感情と状況に取り巻かれてきたものだ。憂鬱であったり、少々くたびれていたりという時が多いけれど、それは所詮、窓より見える広々とした大地を眺めているだけで解消されるものだった。
でも、今は全く違う。
蝶も、華も、あの森の何処かにいるのだと思うと、気持ちが急いて仕方なかった。
「誰か……誰か!」
堪えられなくなって、閉め切られたままの扉に叫んでみるも、誰かが駆けつけてくれるような気配は全くしなかった。
今のこの状況下、私は城主であるはずだけれど、支配権は完全に執事と女中頭が握っていた。
――どうか、哀れな我々の為にも。
執事の言葉が頭を過ぎり、苦痛が広がる。
彼らはどうするつもりなのだろう。
自分たちの居場所を確実に失わないためにも、蝶や華を諦めさせるつもりだろうか。全てを花狩人や絡新婦たちに任せて、時を待つつもりなのだろうか。
彼らに任せ、彼らが駄目だったら諦めようとしているのだろうか。
「そんなのは嫌だ……」
だが、嘆いたところで誰も助けにきてはくれなかった。
◇
ようやく誰かが来たのは、一時間以上経ってからの事だった。
無言のまま鍵を開ける音が響き、一瞬だけ誰かが哀れに思って開けてくれたのかと期待したが、現れたのは女中頭だった。
彼女は入るや否や黙礼をすると、すぐさま扉を閉めてそのまま出口を塞ぐ形で立った。その警戒心のあらわな顔を見つめ、私は窓際の長椅子に座ったまま彼女に向かって訊ねた。
「何の用だ」
いつにも増して反抗的な私の口調に、女中頭の眉が上がる。しかし、小言などは口にせず、仏頂面のまま彼女は答えた。
「月様に御客様が見えております」
「客?」
こんな時に誰だろう。
今日のところは花狩人の連絡しか寄こされていない。
旅人か、流れ者か、森に住まう者の緊急事態か。どちらにせよ、月として冷静に向き合える可能性は低かったが、会いたくないからと返せるような勝手な態度も取れない。
仕方なしに立ち上がる私に対して、女中頭はさらに付け加えた。
「一応申しておきますと、人間の御方では御座いません」
「人間じゃない……?」
ならば、森に住まう獣か何かだろうか。それとも、蚕か。しかし、蚕ならば女中頭もこんな回りくどい言い方なんてしないだろう。
そんな疑問が顕わになっていた為なのだろう、女中頭もまた慎重に言葉を選ぶような様子で、さらに教えてくれた。
「森に住まう胡蝶の娘で御座います」
胡蝶の娘。その単語を耳にした瞬間、息が詰まりそうになった。
蝶を追いかけられずに嘆いている私の元に、蝶ではない胡蝶の娘が訪れてくるとは。しかも、私に直接面会を申し出、執事や女中頭がそれを許したとなれば、何らかの事情があるのだろう。
だが、事情が何であれ、ますます私は自信を失った。
はたして冷静に応対する事が出来るのか。
「御客様は応接間に待たせてあります。どうも、大切な情報を手にしているとかで」
「大切な情報……って何だ?」
「私には分かりません。何しろ、月様に直接お話したいとのことで、あまり情報を寄こしてくれないのです」
「身元もはっきりしない奴を通したのか?」
「……はい、何しろ、蚕様や絡新婦様のお名前を出されたもので」
――蚕や絡新婦の?
その途端、一気にその胡蝶の身元が絞られた。
胡蝶の娘。大切な情報を私にだけ伝えるべく城に訪問してきた。そして、蚕や絡新婦を知っているとなれば、その正体に思い当たる可能性は一つしかない。
「分かった、すぐに行こう」
歩み出す私に、女中頭は再び頭を下げた。
◇
名も名乗らずに私を訪ねた客人。
応接間にて行儀よく立って私を待っていたその娘の姿は、一目見ただけで目が覚めるように晴れやかな印象を持っていた。
胡蝶の娘。
蝶以外の胡蝶を間近で見る機会なんて殆どない。見たとしても、気ままに庭に侵入し、横切っていくところだけ。それも、部屋の窓からだからかなり遠目だ。
そんな私の元に突然現れたこの娘。
蝶とは似ているけれど違う。美しいのは変わらないが、あまり蝶には似ていない。そこが少々、ほっとするところで、そして無性に蝶が恋しくなる所でもあった。
「突然の訪問をお許しください」
丁寧な口調で彼女は言った。
「蚕に言われた場所に向かったものの、貴女様は閉じ込められてしまっていた。なので、無理を承知で人間たちに申し出てみたのです」
「蚕の代わりか?」
短く訊ねてみれば、胡蝶の娘は宝石のような目をこちらに素早く向け、その場に跪いて深々と礼をした。
「申し遅れました。私の名前は大紫。蚕と同じく、絡新婦様に仕える妾で御座います」
妾。つまり、隷属だ。
蝶によれば絡新婦は今も胡蝶を捕え、隷属にならないかと誘っているらしい。そうやって隷属になる道を選んだということだろう。
しかし、蚕以外に見たのは初めてだった。蚕以外はすべて時期を逃して喰い殺されているものだと思っていた。
「大紫か。覚えておこう。だが、蚕以外に隷属がいるのは初耳だ」
「……ええ、そうでしょうとも。絡新婦様のもとには長らく蚕しかいなかったのです。皆、蜘蛛というものを恐れていて、その僕妾となる道を死よりも忌避すべきものと考えるもので、屈服する機会を失ってしまうのです」
「しかし、貴女は絡新婦に従う道を選んだ……」
確認するように私は大紫と名乗る娘の目を見つめた。
宝石のような目は見れば見るほど美しい。その物珍しさは、多くの人間たちを虜にするだろう。けれど、似ていないとは言ったが、その目の雰囲気は蝶に何処となく似ているのに気付いてしまい、悲しさが生まれた。
あの時、蝶が立ち聞きしている事にどうして早く気付けなかったのか。
そして、どうして追いつけなかったのか。
後悔が一瞬だけ浮かび、大紫に悟られぬうちにそれを必死に振り払った。
「私を疑っていらっしゃるのでしょうか。それも仕方ありませんね。何しろ、この状況ですから。あらぬ誤解を生まないためにも明かしておきますと、私は蜘蛛というものを知る前に妾となりました」
「……なるほど、羽化したばかりの時か」
「――はい」
蝶と似ている。
彼女もまたそうだったと聞いた。羽化したばかりで蜘蛛という存在をよく知らなかった時に、親切さで騙されて捕まってしまったのだと。
しかし、この大紫という人物は少しだけ事情が違うらしい。
「蛹から外に出てみたら、そこは絡新婦様のお屋敷でした。およそ半年前のことです。恐ろしい魔女が蛹を二つ抱えていて、そのうちの一つを奪った。それが私だったのです」
「恐ろしい魔女?」
「食虫花、というのだと絡新婦様に聞きました。貴女様の命を狙い、森を荒らしている恐ろしい花の魔女です」
「食虫花……」
これで少しだけ分かった。
この大紫という娘は、恐らく嫌々絡新婦に従ったのではないのだろう。
蛹となっている間の記憶は曖昧なのだといつか蝶は言っていた。だが、蛹になる前の記憶は案外残っているもので、幼い頃のことは簡単に思い出せるらしい。
食虫花から奪えなかったもう一つの蛹。その中に居るのがこの大紫にとってどんな存在だったのか、私は一つの予想をした。
「そのまま放っておかれれば、今の私はありません。絡新婦様は私の名付け親であり、恩人です。それに、私は取り戻したいのです」
「もう一つの蛹の中の人物を、だね」
「――はい」
強い眼差しはその為なのだろう。
蝶と違うのは、志があった上で絡新婦に囚われているから。それはもはや囚われているのではなく、従っているに過ぎない。
「あれは私の妹なのです。幼い頃を共にしてきた大事な妹。噂によれば、花の魔女の屋敷で、羽化したばかりの名もなき胡蝶の娘が閉じ込められているのだと。きっとそれは私の妹です。大人になって自由に空を飛ぶ事を夢見ていた私の妹なのです……」
――妹か……。
大紫のそのひたむきな姿は直視するのが少しだけ辛かった。
果たしてその妹とやらは生きているのだろうか。そんな残酷な疑惑が頭の中いっぱいに広がってしまう。食虫花の屋敷は胡蝶の墓場だと聞いている。足を踏み入れれば恐ろしいほどの暴力が待ち受けているのだと。
蝶が初めて此処に来た時のことを思い出す。
今も消えぬあの傷痕。
思い出すに止め、私は思考を中断した。
「分かった。大紫、貴女を信じよう。此処に来た訳を話してくれるか」
そう言ってやると、やっと大紫の顔から緊張が薄れた。
◇
羽化してしばらく大紫は安全な絡新婦の傍だけに留まっていたらしい。
だが、隷属になって時間も経った上ので、つい先日、蚕と共に絡新婦の手足となることを志願したのだという。
その初仕事が今日。
「蚕はただ今一生懸命、蝶御嬢様を探しています。そして、華御嬢様とその御友達につきましては、先程、絡新婦様が無事に保護なさいました」
「……本当に?」
思わず身を乗り出してしまった。
「嘘なんかつきません。今、此方に向かっているところです。その報せを一足先に私が運ぶ途中で、蚕に蝶御嬢様の事を聞かされたのです」
華が帰って来る。無事に保護されて、帰って来る。
それだけでも少しは気が落ち着いた。
――あとは蝶だ。
「新しい動きがありましたら、またお伝えしに参ります。ですので、どうか、月様はこのまま安全なお城の中でお待ちください」
丁寧に礼をして、大紫は願ってくる。
身動きの取れない私に代わって、絡新婦たちが頑張ってくれているのだ。
全てはこの大地を守り、食虫花の好きにさせないため。
「分かった、大紫」
気持ちを抑えながら、私は答えた。
「大人しく報せを待とう。次に貴女や蚕が運んでくるのが、いい報せであると願っている」
しかし、その願いは届くことがなかった。