5.宝
◇
月の城の壁を絡新婦は越えられない。絡新婦ほどの魔女であると、太陽の残した日の輪に弾かれてしまう為だ。だから、わたし達を城の中まで送り届けたのは、蚕だった。
わたしが城を抜けだしてしまったこと、少年が窮地に追いやられたこと、そして、蚕が教えてくれたように蝶が食虫花に捕まってしまったことの全ては、月の城の全ての者に伝わっていた。
月にそれを知らせたのは蚕と同じく絡新婦の隷属となっている胡蝶であるらしい。彼女もまた月を守るべく、わたしや少年を見守ってくれているのだと。
だが、そんなことはどうでもよかった。
蝶が捕まってしまったなんて。
嘘だと思いたかった。そう言われ、城の皆が慌てていても、今も月の城の何処かに隠れているだけだと思いたかった。
執事も女中頭も、わたし達には何も言わなかった。
ただ、少年と蚕からわたしを引き離し、一言だけ、月は自室にいるとだけ。
その言葉だけを抱えて、わたしは一人とぼとぼと階段をあがり、月の元へと向かった。付き添いはなく、二階に上がるまで少年が見送ってくれただけ。
月はどうしているだろう。
知らないなんてことはない。絡新婦の隷属である胡蝶の娘は、間違いなく月本人に蝶に起こった悲劇を教えたのだと言うのだから。
閉ざされた部屋の扉の前に辿り着いても、それを開けるのには躊躇いが生まれた。
――わたしの所為だ。
蚕と名も知らぬ胡蝶の娘は教えてくれたらしい。わたしが危険だと聞いた蝶が、森に飛び出してしまったのだと。そこで絡新婦の仲間に保護され、戻って来る途中で悲劇に見舞われたと。
それならば、そもそも、わたしが此処でじっとしていれば、こんな事にはならなかったということではないだろうか。
どうしたらいい。どうしたらこの罪は滅ぼせる。
どうしたら蝶を助けられるの。
身代りになれるものなら、身代りになりたい。
「……誰かいるのか?」
不意に部屋の中で声がして、覚悟を決める暇もなく扉は開いた。
途端に月の深みのある目がわたしを見つけ、ややその瞳が開いたのが分かった。わたしの方はその神秘的な姿に圧倒され、言葉すら放てないまま佇んだ。
「華……?」
謝らなくては、謝らなくては。
それでも、声は出てこない。
しかし、そうしている内に、わたしの身体は月の香りに包まれた。思っても見なかった抱擁に不意をつかれて茫然とするわたしの耳に、微かだが月の嗚咽が聞こえた気がした。
「よかった……」
「月……あの……」
「絡新婦に任せるしかなかった私をどうか恨まないで欲しい」
「月を恨むなんてそんな……だって、わたしの……わたしの所為で……」
わたしの言葉に我に返ったのか、月がふとわたしと目を合わせた。
本来の主人は蝶ではなくて月の方。その主人に真っ直ぐ見つめられると、状況が状況なだけに、妙な緊張が生まれてしまう。
「蝶の事を聞いたんだね」
月に言われ、わたしは黙って頷いてから口を開いた。
「わたしが城の外に出なければ、蝶も出ずに済んだの。御免なさい、月。わたしの所為よ。わたしの所為で、蝶が……」
泣き出しそうになるわたしを、月は優しく撫でてくれた。
「華の所為じゃない。奴の狙いは私だ。今回もそのつもりだろう。今はせめて、太陽の残した力が効いてくれていると信じよう」
「どうしたらいいの……? どうしたら……」
再び捕まってしまうなんて。
三年前の惨状が頭を過ぎる。蝶の身体に残って消えない傷。その心からも沢山の血を流す羽目になった出来事。
太陽の加護なんて目に見えない。それがきちんと食虫花から蝶を守ってくれるかなんて分からない。分からない以上、安心なんかちっとも出来なかった。
堪え切れずにぼろぼろと涙を流してしまったわたしを抱きしめ、月はごく小さな声で唸るように言った。
「太陽は言っていたんだ。こういう時の為に、大切な人を守る力を授けたって。その力がある限り、私は負けたりしない」
それは、恐ろしく意志の固い声だった。
執事や女中頭が耳にしたならば、絶対に何か言って来るだろう。
「蝶を助けに行くの?」
三年前のように、そして、二年前のように。
しかし、今回の月は違う。その闘志、殺気、怒りもまた違う。これ以上、食虫花の勝手にさせないつもりだろう。その目には今まで感じてきた月とは何処か違う荒々しさがあって、月の花であるはずのわたしでさえも少しだけ怯えてしまうほどだった。
「助けに行くだけじゃない」
月は強い口調で言った。
「食虫花と蹴りをつける。もう二度と、私の宝に手を出せないように、太陽からもらったこの力を武器に戦うつもりだ」
太陽が一年以上前に残していった力。
それは、本来の月の魔力ではない。日精の身柄を引き換えに新たに授けられた力であって、元々月に備わっていたものではない。
本当にその得体の知れない力で食虫花を倒せるのだろうか。
月は出来ると心から思っているのかもしれない。けれど、もしくは、そう思いこまざるを得ない状況にあるのかもしれない。
「華は此処で待っていて。温室の中から出ては――」
「わたしも行きたい」
「華?」
「足手まといなんかにならないわ。花には花の出来ることがあるはずだもの」
我ながら滑稽だった。
足手まといかどうか、決めるのは月だろう。聖剣だけが頼りの月。わたしがもしもついて行けば、守らなくてはと無理をしてしまう場合もある。邪魔になるとすれば、この上なく迷惑な訴えかもしれない。
「駄目だ。連れていけない」
だから、断られるのは想定内のことだった。
それでも、わたしは引き下がれなかった。
「取り残されるなんて嫌なの。月も、蝶も、帰って来るかどうか分からないまま残されるなんて、嫌なの」
わがままだと思われてもいい。
見捨てられたっていい。
とにかく今は、月と離れるのが怖かった。
けれど、月の眼差しは何処までも複雑なもので、わたしの願う通りに向けられて来るものなんて何もなかった。
「すまない、華」
わたしの髪をすくようにその手を滑らせ、憐れむような視線を向けてくる。
「連れていく事は、出来ない」
優しげで、それでいて、諭すような声だった。
◇
その夜、女中頭と執事の怒鳴り声が響いた。
月と言い争っているのだということは察する事が出来たが、具体的に何を話しているのかは分からない。きっと、蝶を助け出す事に関してなのだろう。そう察する事は出来ても、声は遠過ぎて何を言っているかまでは聞こえない。
わたしは温室に居た。
月の命令で、温室に閉じ込められてしまった。
こんな事はなかった。あったとしても、それは買われてすぐの頃。わたしの体調を心配して、蝶と鉢合わせにならないようにと月が配慮した結果だった。
今は違う。
月はわたしが逃げ出さないように、外鍵をかけてしまったのだ。鍵を持っているのは月。開けてもらえなければ、出ることが出来ない。
そして、全てが終わるまで、そうなることはないだろう。
悲しかったし、悔しかった。
けれど、月を恨む気にはなれなかった。
月は恐れているのだ。蝶だけではなく、わたしまでを失ってしまうことを恐れ、こんなことをしたのだろう。
恨むべきは月ではなく、弱い自分だった。
少年は何処に居るだろう。月に会った後、彼の姿は見当たらなかった。庭にいるのだと女中の誰かが言っていたが、詳しくは聞けず仕舞いだった。
彼は今何処で何をして過ごしているのか。
そして、蝶はどうなってしまっているのだろう。
月は助けに行くとわたしに約束した。蝶を助けるから、それまで此処に居て欲しいと何度も詫びながら、わたしを温室に入れてしまった。きっと、わたしが不安と不満を顕わに月に縋りついたからだろう。それでも、月は自分の決断を揺るがさなかった。
「蝶……どうか無事でいて」
女中頭も執事も、月を外に出さないように必死であるらしい。
太陽から力を受け継いでいるといくら月が言ったところで、二人は納得しない。二人だけではなく、この城に仕える人間たちの殆どは、月が城を去って食虫花の討伐に向かう事を好ましく思っていない。
誰もが人間の花狩人に任せろといい、月を閉じ込めようとする。
「――わたしはどうしたらいいの」
安全すぎる温室の中、一人で蹲っていると、それだけで萎れてしまいそうだった。
そんな孤独に打ちひしがれている、その時。
『……華』
耳に直接声が伝わり、わたしははっと顔を上げた。
ガラス張りの壁の向こう。こちらを覗いているのは、少年。眩い白髪が月の光を浴びて、輝いている。
『華、大丈夫かい?』
優しげに訊ねてくる少年の眼差し。その淡い紅色に見つめられると、悔しさと悲しさ、それに自分自身への怒りが満ちて、泣き出してしまいそうだった。
『閉じ込められちゃった……わたしも蝶を助けに行きたいのに……』
『鍵は開けられないの?』
『外側の鍵をかけられてしまったの。内側からはどうしても開かないの』
『……鍵を持っているのは月様?』
問われ、わたしは静かに頷いた。
そんなわたしをしばし見つめ、少年は何かを考え始めた。何度か瞬きをして、白い睫毛がぱたぱたと揺れ動く。そうして考えをまとめてから、彼は言った。
『僕、月様にお願いしてみる』
『月は今、執事や女中頭と一緒にいるの。会うのは難しいと思うわ』
『どうにかして会うさ。人間だけじゃ、食虫花は倒せない。絡新婦が力を貸しにいったけれど、それでも、月様のお力がないと駄目だ。この城の人間たちが月様を閉じ込める気なら、その全てを敵に回してでも連れ出してみせるよ』
『そんなことが出来るの?』
強気な少年に対し、疑問を直接ぶつけてみた。
すると、少年は少しだけ目を細めて答えた。
『出来るかどうか、やってみないと分からないじゃないか』
どうやって試すのか。疑問は膨らむばかりだ。
それでも、考えるだけで何もしないよりも、少年の言う通り、やってみなければ物事は進まないのかもしれない。
『そうね……』
何にせよ、閉じ込められてしまった以上、彼を信じて頼るしかない。
『分かった。お願い』
縋る思いで願いを託すと、少年は笑みを消さずにそのまま立ち去っていった。
◇
あのまま、どうなったのだろう。
空の月はとっくに見えなくなり、空の端々には日の光が微かに見えてきている。
朝が訪れようとしているのに、わたしの蜜を貰いに来る者はいないのだという悲壮感が、呑気な鳥の声で一層際立っている。
夜も更けた辺りから女中頭や執事の怒鳴り声は聞こえなくなっていたけれど、それと共に何もかもが聞こえなかった。
月は如何しているのだろう。少年は彼女に会えたのだろうか。
全てはまだ何も分からないという状況の中、わたしはうたた寝に見舞われながら、ちょっとした物音で何度も飛び起きた。
施錠された扉が開けられるのかと期待する度に、それを裏切られる。
けれど、それも直だ。さすがにずっとずっと閉じ込められるということはないだろう。わたしが枯れてしまわぬよう、女中辺りが着替えと水等を持ってやってくるはず。その時になったら、抜けだせる機会が生まれる。
そう信じて、わたしは扉を見つめ続けた。
そして、日も更に昇り、夜の名残が世界から消え失せていった頃、ようやくその時は訪れた。
こちらに近づく足音が聞こえ、わたしもまた忍び足で扉の傍へと寄る。
何者かの足音はそのまま扉の前で止まり、鍵をいじる音が響く。此処を開けて貰える。そう分かっただけでも、心臓が跳ね上がりそうだった。
後は、開けられた瞬間に抜けだすだけ。
「華御嬢様」
女中頭の声だ。
扉が開くのが見えたと同時に、わたしは廊下へと飛び出した。
一瞬だけ女中頭の姿が見え、その脇をすり抜けるように廊下を走り抜ける。そのまま玄関へと向かうつもりだったのだが、その思惑もあっさりと阻止された。
女中頭はわたしの不意打ちに面食らった。ついでに、傍に居た執事も同じだ。だが、逃げようとするわたしを抱きこむように、一人の人物はいとも簡単に捕えてしまったのだ。
「……華」
それは月だった。
余計に咎めるような言葉は放たれない。だが、その強い眼差しが恐くて、わたしはそのまま俯いてしまった。我に返り、その手を逃れようともがくも、月の手から離れる事は出来そうになかった。
「華、よく聞いて」
月が語りかけるようにわたしに言った。その落ち着いた声に、わたしはようやく力を抜いて、その顔を見上げることが出来た。憂いを帯びたその顔。女中頭も、執事も、疲れ切った顔で黙ったままわたしと月を見守っていた。
月に抱きしめられながら、わたしはようやくその腰に下げられたものに気付いた。鞘に収められた聖なる剣。月にしか扱えず、食虫花が唯一恐れていたらしき、代物。
その意味に気付いて、わたしは息を飲んだ。
「今から蝶を助けに向かう。少年も一緒だ。城の留守をこの二人が中心となって守ってくれると約束してくれた。……華はどうしたい?」
どうしたい。
つまりは、待つか、共に行くか。
思いがけない選択を与えられ、わたしは目を丸くしたまま月の美しい顔を見つめていた。
いざ、面と向かって問われれば、躊躇ってしまうのは何故だろう。思いつめた挙句、月に嫌われたとしても城を抜けだしてしまおうかとまで思ったくらいだったのに。
「わたしは……」
わたしは人工花。
どんなに寂しくても、適した場所でしか寝泊りさせて貰えない花の子。野生花とは比べ物にならないほど弱く、人間たちに庇護されなくては最悪枯れてしまうこともある花でしかない。
そんなわたしは、身の程を知った上で主人に全てを任せるべきなのだろう。
自由を与えられた途端に、幼い頃に散々植え付けられてきた花売りの青年の教えが頭に響き、返答を躊躇わせた。
わたしは人工花。
でもただの花ではない。
月に買われ、そして、蝶に愛されてきた人工花。
「行きたい」
けれど、わたしの心はどうしようもないほど、素直さから逃れられなかった。
蝶を助けたい。蝶を迎えに行きたい。月がそれを許してくれるのなら、許してくれる力があるのなら、わたしはそれに思い切り甘えたい。
「蝶を一緒に迎えに行きたい」
重ねて言うと、わたしの背後で執事と女中頭が耳には聞こえぬ溜め息を吐いた。
ずっと月と口論し、そして説き伏せられたのだろう。これまで、月を過剰なほどに庇護してきた彼らが、ついに説得されてしまったのだ。
月はそんな二人の様子を窺う事もなく、わたしを撫でた。
「分かった。じゃあ、一緒に行こう」
「いいの? わたしも一緒に行って、邪魔じゃないの?」
「邪魔じゃない。華に与えられた太陽の加護を信じよう。まずはそれを信じなければ、蝶に与えられた力も、私に与えられた力も無意味なものとなる」
そこでようやく深みのある色が、執事と女中頭を見つめた。
二人は何も言わず、黙って月に頭を垂れただけだった。
どうやら、議論の勝敗は完全に決まってしまっているらしい。ここまで二人が月に強く出てこないのは、初めて見るような気がした。
「いいね、二人とも」
月が二人に向かって言った。
「蝶を連れて戻って来るまで、この城を頼んだ」
強い口調はこれまでよりも圧倒する力を持っている。
その覇気をわたしはずっと信じてきたものだった。でも、執事や女中頭までも圧倒している所を見るのは、やはり初めてだろう。
その強い視線と口調に、何の意も唱えず、二人はただ頭を下げたまま、各々の言葉で、「かしこまりました」とだけ答えた。




