1.年の瀬
『日の輪』から1年半ほど経っています。
◇
温かい。
そんな単純な感想があたしの脳裏を駆け廻った。
指先が濡れていないのが不思議なほど、とろけるような感触が生まれては逃れていく。
外はすっかり寒い季節だと言うのに、ここは恐ろしく温かい。ここは温室。この大地を治める女神の住まう城の一角にある温室。外と中を隔てる壁のお陰で、中に居る者は寒さを感じずに済む。
それでも、あたしに囚われ、仰向けで床に寝そべっている真っ白な肌の少女は、きっとあたしよりも寒さを感じていることだろう。
雪のような銀髪が波打ち、細められた赤い目の下で、その頬がいつもに増して紅潮している。そんな姿を見つめながら、あたしはそっと少女の衣服を脱がしていった。
身を寄せれば、甘い蜜の香りが漂ってくる。
この少女は人間ではない。
人間ではなく、花。甘い蜜を身体に秘めた、花。それも、人間が人間の為に血統を守り、改良を加えてきた人工花だ。
華。その単純な響きが彼女の名前。あたしにとって最も大切な人から贈られた、最も大切な宝物である。
その蜜は狂おしいほどに美味しい。
そんな味を独り占め出来る優越感もまた、あたしを酔いしれさせるものの一つだ。
「――蝶……」
華の口より言葉が漏れる。
それはあたしの単純な名前。
人間として生まれなかったあたしが持っている、決して多くない物の一つだ。
呼びかけに応じて、あたしは唇を華の胸元に当てた。直に唇が触れると、華は小さく呻き、逃れようともがく。その身体を抑え、あたしは蜜を吸った。
伝わってくる蜜の味よりももっと甘い吐息が、華の口から漏れだした。
満足に動く事も出来ず、蜜吸いというこの儀式に心から屈服している。それでも、あたしは冷静さを保った。この味に狂わされることは、悲劇を生む。
これは食事。あたしにとってはただの食事。
胡蝶という名の虫けらであるあたしにとって、華の生みだす蜜は貴重な栄養源。毎日一回か二回はこうして華から蜜を貰わなくては生きていけない。
息を切らしながら、華は潤んだ目であたしを見上げた。
「蝶、もっと……」
去年よりも、一昨年よりも、華は色気を増した。
「もっと、身体を寄せて……」
それもそうだろう。彼女は今年十五歳になった。迫りくる来年には十六歳となる。花の年齢と人間の年齢が同じとはいえないけれど、大人に限りなく近づいているのは確かなのだ。
その証拠に、最近のあたしは華との蜜吸いだけでも満腹さを感じるようになっていた。以前は違った。加減を誤れば枯らしてしまうという危険に緊張しながら、華の身体を労わりつつ吸わねばならなかった。
この先、華は何処まで成長するのだろうか。
それが、少しだけ楽しみでもあった。
こうやって二人して蜜吸いに酔いしれていられるのは、ここが室内だからだ。
もしも外でこんな事をしていれば、あたし達は二人揃って危険な目に遭うだろう。
森にはあたし以外にも沢山の虫が存在し、皆が皆、あたしのように華の都合を考えるような価値観を持っているわけではない。中には花が枯れ果てるまで蜜を吸い上げてしまう野蛮な輩もいる。
そして、あたしはあたしで気が抜けないものだった。
森に居るのは蜜を欲しがる虫ばかりではなく、あたしのような胡蝶を食べて生きているような者たちもいるからだ。
多くは肉食虫だが、時折、花にもそんな者がいる。
この城の女神に拾われ、妾として大事にされるようになってもうしばらく経つけれど、そんな状況でも、危険は消えてくれない。
でも、城の中は安全だ。
特に今年は、去年までと比べて何事も無く穏やかなものだった。
これは、あたし達の女神様――月と、彼女を見守る太陽神のお陰だ。そのお陰で、あたしは華と共にこうして蜜吸いという悦楽に浸ることが出来る。
半裸で仰向けになる華に覆いかぶさり、あたしはその唇を奪った。
彼女をあたしにくれた大切な人とは、月のことだ。蜜を集めては危険な目に遭うあたしを守るために、この花を贈ってくれた。
もう三、四年前の事だ。
舌で華の口を侵すと、途端に濃厚な蜜の甘みが広がった。あたしが吸うまでも無く、華の方が流しこんできている。もうすっかり、華はその術を身に付けていた。
誰から教えてもらったわけでもなく、本能的に出来るのだろう。
その感覚に脱力しそうになるのを堪えながら、あたしはふと思案を巡らせた。
前に、こうやって華以外の花の女に蜜を流しこまれ、恐怖を味わわされた事がある。
相手の名前は食虫花。その名が示す通りの存在に捕まり、あたしは死にかけた。獲物を楽にさせてさっさと糧にするような女ではなく、声が枯れるまで悲鳴を上げさせ、自我が狂うまで苦痛と快楽を交互に与え、そうしてやっと喰い殺す様な魔女だった。
あの女の事を思い出すだけで、息苦しくなる。
彼女は今も何処かでこの城を見つめている。
逃した獲物であるあたしの血肉を欲しているだけではない。彼女の真の狙いは、あたしを守ってくれる月の方。その脅威を思い出せば思い出すだけ焦りは生まれる。
「――蝶?」
ぼんやりとしていると、華の声があがった。
いつの間にか、あたしの口づけを逃れていた華が、寝そべったまま、あたしの頬に手を伸ばしていた。
「どうしたの?」
「なんでもない」
「考え事していたの?」
「うん、そうだね」
華の手から伝わる熱に惚けてしまう。
すっかり火照っているのは、蜜吸いのせいだろう。手をつけないまま、華のその白い身体を眺めてみれば、あまりに美しくてうっとりしてしまう。
これでもまだ十分に成長しているとは言えない。
この先がとても楽しみだった。
◇
月の治める大地には冬が訪れている。
もう少し日が経てば、年が明けて新しい一年が始まる。それは少しだけ楽しみなことであったけれど、残りの大半は恐ろしい事でもあった。
年が変わると言う事は、生きとし生ける者がまた一つ年を取るという事だ。
華の成長は楽しみな事だけれど、華が大人に近づくということは、あたしを含めた他の者たちも年を取っていくということ。
このまま時が止まってしまえばいいのにと感じる事は多々あった。
今もそんな瞬間を味わっている。蜜吸いの儀式も終わり、華としばしの別れを告げて月の部屋へと戻っていった後の事だ。
しばしの休息にいつものように窓の外を見つめる月の横顔は年々神々しくなっていく。月は今年二十八歳になった。来年で二十九歳になる。そして再来年になれば、月の大地に住まう誰もが注目する時が訪れる事になっている。
月の女神は多くの場合、三十年で代が替わる。
どんなに優れていても、どんなに慕われていても、多くの場合は三十歳になった年に娘を生み、そしてその娘に女神の座を譲ってしまう。
理由は、死んでしまうから。
どんなに素晴らしい女神でも、死んでしまってはどうにもならない。
月は生き神なのだ。寿命もあるし、死も付きまとう。
「蝶、おかえり」
窓辺から月が此方を振り返り、その美しさに惚けてしまった。
月の美しさは初めて会った時から変わらない。ただ、ここしばらく、その神々しさがやけに際立ってきたことを思い知らされることが度々あった。
もうじきだからだとこの城の人間達は言う。
次の女神が生まれ、月が死ぬ日が近づいて来ている。
多くの者にとっては初めてのことだが、二度目となる者もいる。中には三度目となる者もいるらしいが、あまり話を聞く気にはなれなかった。
月が死んでしまう日が来て欲しいわけがない。
それなのにこの大地の者たちは、その日を神聖な日と言うのだ。神聖で尊くて、素晴らしい日となると。
そんなわけがない。このままではあたしにとって、悲しい日となってしまうだろう。けれど、そんな思いを抱えつつもいつも、あたしは心の片隅にそっとしまいこんでいた。
月とは出来るだけいい思い出を重ねたい。
段々と減っていく時間を静かに共有して、後悔のない日を過ごしていきたい。
そんなささやかなあたし達の願いすらも、ここ最近はずっと、ある脅威によって揺るがされている。
無言で傍に寄るあたしを、月は静かに撫でてくれた。
彼女の優しさが堪らなく好きだった。傷ついて此処に保護されてから、あたしはいつだってこの優しさのすぐ傍にいる事を許されてきた。それは、信じられないくらい贅沢なことでもある。
「今日は町の人間達が訪問して来るそうだ」
ふと月は言った。
「町の人間?」
「華が生まれ育った場所だよ。広大な森を抜けた向こう。この城にて働く人間達の故郷でもある。蝶は行ったことない?」
問われて、首を横に振る。
あたしが知っているのはこの城の中と、この城を覆う森だけだ。
「町の人間達がどうして訪問するの?」
「大事な言伝があるそうだ。……食虫花に関する事だよ」
その名を出された瞬間、この場の空気が一気に冷たくなった気がした。
心なしか、密着する月の身体が震えている気がする。気のせいかもしれないけれど、月はそのくらい食虫花という女に恐怖を抱いていても仕方がない。
彼女の狙いは月。
月が死ねばこの大地は枯れてしまうと言うのに、気のおかしいあの魔女は執拗に月の略奪を狙ってこの城の周りを窺っている。
ふと甦るのは肩を掴む感触。
一年と数ヶ月前、私はその女に連れ去られそうになった。月を苦しめる為に、誘き出す為に、その為だけに、攫われて、殺されるところだった。
それまで強力な力を持つ魔女はこの城の敷地に入れないはずだった。
しかし、あの女はその守りを破ってこの城に侵入してしまった。恐ろしいことに、月を守るべき存在である絶対的女神太陽の前で、そうして見せたのだ。
明らかに異常な個体。
あれ以降、食虫花は度々月への接近を試みている。月はますます外に出られなくなった。私と華も同じだ。庭よりもずっと安全な太陽の守りに満ち溢れた城の中のみが私たちに認められた居場所。外の様子を伝えてくれるのは、ごく少数の人物だけだ。
全ては食虫花の所為。
城に仕える人間達も何処かぴりぴりとしている。
「食虫花は森で迷った人間も手下に襲わせて捕えているらしい。ここ数年、森で行方不明になった者たちの遺留品が、怪しげな花の魔女の屋敷付近で見つかっていると聞いた」
「食虫花が……人間を」
あたしにとっては、あまり不思議な事ではない。
彼女ならば、あたしのような虫だけではなく人の肉も食らうだろう。あたしだって人間によく似た姿をしているし、彼女だって人間によく似た姿をしている。それなのに、その顔に自己嫌悪や憐れみ一つ浮かべることなく、あたしの身体を責め続けたのだから。
そっと月があたしの頭を撫でた。
その優しさに素直に甘えつつ、あたしは月の温もりを求めた。温かな身体。柔らかな肌。華がもたらす蜜なんて一切含まれていないけれど、月には独特の力が備わっている。ただの胡蝶が得るには勿体ないくらいのものが、月の中には存在するのだ。
これを食虫花は狙っている。
「蝶」
囁くように月はあたしに言った。
「今日も出来るだけ城の中に居て欲しい。森に蜜吸いに行くとしても、城の周りだけに留め、出来るだけ誰かと一緒にいなさい」
「分かった」
心配されずとも、ここ一年ほどはその通りにしている。
年頃となった華からは、今までよりずっと蜜を貰えているから、足りなくなる事はあまりなくなってきた。それに、食虫花の影はいつだって怖い。どんな守護がついていたとしても、彼女ならば破れてしまうのではないかという不安がいつだってあった。
きっと月も同じ不安の中にいるのだろう。
◇
太陽という女神が此処へ来たのは去年の事だ。
七日間滞在し、月の城とあたしたちに対して強大な力を与えてくれた。その引き換えに、此処で行き場なく過ごしていた一人の花が貰われていった。
彼女の名は日精。
手紙によればそのまま太陽の守護の下で花開いているらしい。
愛らしい笑みと輝かしい金髪。明るくて活発な性格は、あたしにも華にもないものだったから、彼女がいなくなってとても寂しかった。
けれど、何よりも彼女自身が行くと決めてくれた上に、変わりに得られた力の有難さも増して、あまり公に寂しいだなんて言えなかった。
ともあれ、今のあたし達の安全は彼女のお陰でもある。力をくれたのは太陽だったかもしれないけれど、城だけでなくあたしや華にまで守護を与えてくれたのは、日精が太陽の元に行くと決めてくれたからなのだ。
この守護があれば食虫花に怯える必要もないのだと太陽は言っていた。月の意向に沿わぬ事。つまり、傷つけることが出来なくなるのだから。
だが、せっかく貰ったこの力を無駄に使う気にはなれなかった。
太陽に貰った力に頼るのは、飽く迄も、緊急の時に備えてのことだ。考えたくもないけれど、何らかの理由で食虫花がこの城の内部にまで到達できてしまった時に備えてのもの。
それに、あたしは食虫花という人物を恐れていた。
彼女はあたしや華を餌に月を捕えることを常に考えている。太陽の加護の一つ「日の輪」という結界を破ることまで出来た彼女には、この守護を破る術も持ち合わせているのではないだろうか、と。
だいたい食虫花に関しては不気味な噂ばかりなのだ。
時刻は昼過ぎ。廊下の窓辺より外を眺めながら、あたしは静かに月の森と呼ばれる場所を眺めていた。
先程、あの門の向こうへと人間たちを乗せた馬車が走り去っていった。月が言っていた人物たちだなんて考えなくとも分かる。
馬車が見えなくなってからも、月の森の美しさがあたしの目を捉え続けている。
あの場所に住む者は、よく月の城に森の噂や情報を運んでくる。
華の友人である名もなき野生花の少年と、あたしと同じ胡蝶である蚕という青年がそうだ。特に蚕からの噂や情報はあたしもたまに耳にすることがある。
あたしが森に行く時、蚕は見守ってくれていることがある。彼の自主的な行動などではなく、すべて彼を支配しているとある魔女の命令によるものだ。
絡新婦。
羽化したてで何も分からないあたしに読み書きを教え、自分が蜘蛛であることを隠して飼いならそうとした魔女。
一度は月からあたしを奪うために罠を仕掛けたこともあったが、それはもう昔の話だ。彼女もまた食虫花に殺されかけ、月に助けられた一人となった。それ以来、今までの事が嘘のように月に協力的な姿勢を見せるのだ。
森に向かう時、あたしは絡新婦に会っていた。もう危害を加えてこないと分かっていたからこそ、出来る事だった。
彼女があたしに求めたのは食糧ではなく隷属となる事。蚕のように永遠の僕としてかしずくことを求めてきたのだ。だが、今はもうそんな事も求めず、別の胡蝶を捕えては誘惑しているらしい。
今、絡新婦に仕えている胡蝶は蚕のほかにももう一人いると聞いている。
あたしはまだ会ったこともないのだけれど。
「何にせよ、今日は会いに行けないわね……」
蜜を吸う必要もあまりなくなったあたしにとって、森に行く理由は絡新婦より話を聞く為でもあった。
絡新婦は森で起こった様々な事を知っている。
だが、彼女は強力な魔力を持つ魔女であるため、月の城を守っている「日の輪」に弾かれてしまうのだ。せっかく絡新婦が食虫花に関する情報を得たとしても、それを直接月に伝える事は出来ず、蚕を通して伝えることしか出来ない。
それでは頼りない。
だから、あたしもまた絡新婦に知っている事を定期的に聞きだしに行っていた。
絡新婦が無事であることを確かめるのも目的の一つだった。彼女の魔力もまた食虫花に目をつけられているものの一つ。あたしのようなただの食材ではなく、力を得るための有益な代物として目をつけているのだ。
「今日も無事でいてね、絡新婦……」
ぼんやりと彼女の無事を願ったちょうどその時だった。
城の庭の一角で、蚕が誰かと立ち話をしているのが見えたのだ。その場所を一瞬考え、あたしは気付いた。応接間からさほど遠くない客間の窓辺だ。今は使われていないその部屋の窓辺で蚕が誰と会話をしているのか。
すぐにピンと来て、あたしはそっとその場所を目指した。